落ちこぼれ魔法使いの私が吸血種のお姫様に淫紋を刻まれて堕とされるまで
「……なるほど、そういう理屈かぁ」
授業の合間。
次の時間に授業がなく、午後の授業まで暇を持て余していた私は日当たりのいい中庭で魔導論文を読んでいた。
最近話題の、反属性融合魔法についての基礎研究。魔力の低い私には天地がひっくり返っても使えない魔法だけれど、その理論を知ること自体はとても面白い。
炎と氷の魔法を融合させることで消滅という概念を生む。
世の中の天才はすごいことを考えるものだ。
「うーん、でも炎と氷みたいに反属性の関係にある魔法は少ないわよね……光と闇とか……?」
「ああ、フィー。今日はここに居たんだ」
「っあ……エ、エルティアル、先生」
聞こえた声に反応して、ばっと立ち上がって背筋を伸ばす。
とても妖艶で、それでいて清楚で、心地よすぎる声。
艶やかな黄金の長髪、荒々しい紫電の如く煌めく瞳。
スラリと高い身長は同じ女として素直に羨ましくなるほどで、スレンダーな体型はその美貌をより引き立てている。
エルティアル・ロウド。
この学園で事実上のトップに立つ才媛にして、世界的に見ても数少ない上位種族、吸血種のお姫様。
つまるところが、学園の支配者の一人である。
「もう、ティアって呼んでいいって言ってるでしょ? わざと間違えてるなら……またお仕置きしちゃうよ?」
エルティアルはそう言って、ほんの少し眉を顰める。
失言だった。
まずい。傍目からはちょっと怒ってる程度に見えるかもしれないけれど、今の彼女は本当に不機嫌になっている。
「ご、ごめんなさいティア! そんなつもりはなくてっ……ど、どうしてもねっ? 立場の差とか、考えちゃって!」
「……ふふっ、冗談だよ。からかっただけ」
ふっと笑うエルティアルだけど、私にはわかる。
絶対に冗談なんかじゃなかった。
当たり前のように距離を詰められて、包み込むように抱きしめられる。少し冷たい肌の温度が、彼女と私が別種族であることを強く認識させてくれる。
ああ、逃げたい。でも、逃げられない。逃げたら何をされるかわからないし、そもそも腕力が違いすぎて一度捕まったら離れられないのだ。
「フィーは柔らかくてあったかいね。こうして近くにいるだけで心が落ち着くよ」
「そっ、そうかしら? ティアにそう言ってもらえると嬉しいわ」
エルティアルに比べれば、お世辞にも私の体型は整っているとは言い難い。
こう……うん、あまり運動しないせいで、少しばかりぷにっとした体型だからだ。
彼女がそれを気に入ってくれているのは何よりだけれど、褒められている気は全くしなかった。
どれくらい、そのままで居ただろうか。
不意に、彼女の鼓動が少しだけ早まった気がした。
これはだめだと、そう思った時にはもう遅く。
見上げたエルティアルの顔は、発情して薄赤く火照っていた。
「ね、フィー。……キスしよ?」
「ま、待ってティア、みんなが見てるしっ、恥ずかし……んむっ!?」
「んっ……れろ……」
強引に唇を奪われる。
ぐぐっと入り込んで来ようとするエルティアルの舌を、反射的に唇を閉じることで防ごうとしてしまう。
悪気はなかった。異物の侵入を防ぐ、生物としての反射的な行動だ。
けれど、それは大きな失敗で。
「ふふ、悪い子だね」
一時、唇を離してそう言うと。
カリッ、と。
苛立ち交じりの瞳を浮かべたエルティアルが、私の首筋を小さく引っ掻いた。
「あ……ぅっ」
ゾク、ゾクゾクゾクッ! と。
引っかかれた部分から、甘く蕩けるような疼きが生まれる。
目では見えないけれど、そこにはきっと黒い蝙蝠のような紋様が刻まれているはずだ。
これは吸血種の持つ固有能力、魅了の力を用いた紋章。
快楽によって思考を蕩かす、最低最悪の刻印。
下卑た言い方では俗称を淫紋ともいう、上位種族の持つ絶大な支配の力だった。
こうなればもう、抵抗などできやしない。
だって、ひとつ新しい淫紋を刻まれる度に、これまでに刻まれてきた淫紋が再び起動してしまうから。
まるで首輪のようにずらりと刻まれた、首筋の14の淫紋。
そして下腹部、言ってしまえば子宮を示す場所にねっとりと刻まれた、大きな大きな赤いハートマーク。
全部、たったひとりの吸血種に刻まれたもの。
エルティアルが私に刻んだ所有物の証。
絶対に逃がさないという、宣告だ。
首の淫紋はひとつ増える度に全身の性感度が2割増になると、エルティアルはそう言っていた。
それに加えて、お腹に刻まれた淫紋は特別に効果が高いのだとも。
今の私は小さなものを14個と大きなものを1個の、合計15個を刻まれている。彼女の言う通り、お腹のひとつは他の14個全部を足しても足りないくらいに身体を発情させる効果があった。
ここまでくると、一度起動してしまえばもう終わりだ。ただ息をして、エルティアルの薄くしっとりした甘い匂いを嗅いでいるだけで思考が惚けてしまう、そういうレベルの感度になる。
キス。
さっきは恥ずかしさと反射的なもので、拒絶してしまったけれど。
近づいてくるエルティアルの唇を、私はそっと迎え入れる。
にゅる、にゅると、口の中を這い回る彼女の舌が心地よい。
甘い。これまた媚薬のような効果がある甘い唾液が流し込まれて、全身の火照りが一層強くなる。
全身の力が抜けて、ただ快楽を貪っている。
今は授業の合間。そう長い時間では無いはずだけれど、エルティアルに食い荒らされる時間は、無限のようにさえ思えた。
不意に、彼女の熱が離れていく。
「ごちそうさま。美味しかったよ、フィー」
妖艶な笑み。
愉悦を感じる瞳。
零れた唾液をペロリと舐めとる仕草でさえ、私の内側を刺激する。
「や、あ……」
切ない。切ない。もっと、もっと気持ちよくして欲しい。
けれど、ダメだ。
求めすぎてはいけない。
エルティアルに与えられたものを貪る。
それで我慢しなきゃ、ダメなのだ。
私は玩具。エルティアル・ロウドの所有物。
そんな私の葛藤なんてきっと彼女にはお見通しで、もう一度そっと、唇が触れ合う程度のキスを落としてこう言った。
「授業があるから、また後で。お昼は裏庭で食べたいな」
「う、うんっ……」
「ちゃんと待っててね? 待っててくれないと……ね?」
「わ、わかってるわっ!」
「ん、いい子だね」
エルティアルは私の返事を聞いて満足気に頷くと、軽やかな足取りで去っていった。
私は思わずへたり込んで、エルティアルが去っていった方を、きっと潤んだ瞳で見つめていた。
☆
エルティアル・ロウド。
この、王立魔法学園で最も自由で、何者にも縛られない女。
理由は単純。彼女があまりにも強すぎるからだ。
エルティアルの機嫌を損ねれば、それこそ学園が数秒で消し飛ぶだろう。
学園が抱え込んだ最大の爆弾にして、抑止力。
一応、立場としては戦闘魔法の教員でもある。
そんなエルティアルと、控えめに言って魔法の才能のかけらもない私が、なぜ先刻のような関係になっているのかというと。
たまたま偶然、私が彼女の命を救ったのがきっかけだった。
元々エルティアルは、世に名高い英雄のひとりだ。
世界最強の一角とまで言われているほどで、この学園に来る前は世界中を飛び回って魔物を殺し回っていたらしい。
ついた二つ名が《殲滅の吸血姫》。正直な話、名前よりもこちらの二つ名の方が有名なくらいだろう。現に当時の私もこの二つ名こそ知っていたけれど、エルティアルの名前は知らなかった。
正直ダサいよな〜とは思うものの、前にそう言ったら無言で2個も淫紋を刻まれた上にベッドで一昼夜鳴かされたので、エルティアル自身は気に入っているみたいだった。
私がエルティアルと出会ったのは、学園の長期休みのこと。
私の生家の近くには大きな森があって、私は回復薬を作るための素材を集めに、毎日森に入り浸っていた。
そろそろ長期休みも後半に差しかかるかな、というある日。
私が森で採集に励んでいると、とんでもなく大きな地震が起こった。
私は転んで頭を打ち、気を失って、目が覚めると私の全身は真っ青な液体に染まっていた。
びっくりして飛び起きて、周囲をぐるぐると確認して、その液体がとんでもなく大きなドラゴンの死体から流れた血液だと分かった。
何かと戦っていたのだろう。私から人間ひとり分くらいの距離にあった木々は大地ごと抉り取られていて、それが戦闘の跡だと理解した時、本当に奇跡的に助かったんだなとほっとした。
ドラゴンの血は貴重だ。売ってもいいし、強力な回復薬の素材にもなる。
そう思って流れてきたドラゴンの血を採集しつつ、せっかくだからと死体に近寄ろうとしたところで、私は青い血の中でもなお輝く金色を見つけた。
あまりにもボロボロな、女性。
腰から下の体がなく、右腕は肩からちぎれ、胸に大きな穴がある。
だというのに、まだ生きている。死ねないままで呻いていた。
私はそこに倒れている生物が人間ではないと確信した。何らかの上位種族でもなければ生きてはいられないような、人間なら即死の怪我だったからだ。
「ねぇ! しっかりして! いま回復薬を使うから!」
当時は、そんな感じのことを言った記憶がある。
ともかく保険として持っていた、高級な回復薬を女性の体にぶっかけた。
上位種族の生命力は凄まじい。魔力さえあればほとんど不死身とまで称されるくらいだ。それでも死にかけているということは、魔力による再生を限界まで使うような激戦であったということだろう。
最低限の生命力を回復させれば助かるかもしれない。
そう思って大枚をはたいて買った回復薬を使ったけれど、値段の割にほとんど効果はなかった。
「ち……を」
「ち……血? わ、わかったわ!」
辛うじて聞き取れた、掠れた声。
その言葉を信じて、私は意を決してナイフを指先に突き立てて血を流した。
吸血系の上位種族なら、回復薬よりも人の血液の方が有効なこともあると聞いたことがあったからだ。
噛み付く気力はないだろうから、血の流れる指を女性の口の中にねじ込んだ。
こくり。たったひと口の血液で、状況は劇的に改善した。
傷は塞がり、欠損していた肉が盛り上がる。
30回ほど嚥下され、貧血で明確な目眩を感じるくらいになった頃、女性の傷は完全に癒えて、そしてそのまま力尽きるように意識を失った。
「……家まで、運ぼう」
貧血で苦しい体にムチを打って、ほとんど裸の女性に布を巻き付けて、一昼夜かけて家まで運んだ。
ドラゴンの死体。それもきっと数千年生きたような、エンシェントドラゴンなんて呼ばれるソレの死体という激レア素材を無視してでも。
この美しい吸血種の女性をそれでも助けたいと、そう思ってしまったからだ。
女性は、それから一週間も目を覚まさなかった。
時折苦しそうな表情を見せるから、外側は治っているように見えても、実際にはハリボテのようなものなのだろう。
上位の種族は肉体と精神体の二つの体を持っていて、肉体が傷ついていてもそれほど問題はないけれど、精神体のダメージは深刻な害を及ぼすと聞いたことがあった。きっとその精神体とやらがまだ治っていないのだ。
体を拭いたり、水を飲ませたり。
水に血を混ぜてみたり。
たまにドラゴンの死体を見に行って、その度に全く腐敗していないことに驚いたりして。
一週間後、看病の合間にウトウトしていた私は突然女性に首を絞められていた。
「あぐっ!?」
「……誰だ、ここで何をしている」
「お、落ち着いて? 私はこの家の家主よ」
エンシェントドラゴンを討伐するような怪物に、首を握られている。
私は死を覚悟しながら、慎重に、慎重にそう言った。
刺激したら死ぬ。それだけは嫌だから。
数秒待って、首から手が離れていくのがわかった。
寝起き、ましてや死にかけの状態だったのだ。
錯乱していても仕方がないことだと思った。
「……ごめん、混乱してた。君が、私を助けてくれたんだね」
「助けただなんて、そんな恩着せがましい話じゃないわ」
「いや、覚えてるよ。高い回復薬を使って、そして血まで分け与えてくれた。君がいなかったら、私は確実に死んでいただろうね」
ちょっとだけびっくりした。
ほとんど意識がない、と言うくらいの傷だったのに、覚えているなんて。
「ところで、貴方の名前は?」
「ああ、名乗ってなかったっけ。私はエルティアル。エルティアル・ロウドだよ」
「エルティアル……うーん、どこかで聞いたような」
「ふふ、そんなに珍しい名前じゃないからね」
なんて、エルティアルは言っていたけれど。
後々、なんでこの時思い出しておかなかったんだと、私は割と後悔することになる。
「……なるほど、フィーは魔法学園の生徒なんだね」
「うん。と言っても、底辺も底辺だけどね」
それから二週間くらい、私はエルティアルの看病をしながら、のんびりとした長期休みを過ごして。
お互いのことを「フィー」「ティア」と呼びあうくらいには、仲のいい関係になった。
一緒に森をお散歩したり、エルティアルの冒険譚を聞かせてもらったり、ちょっぴり魔法を教えて貰ったり、日当たりのいい丘でお昼寝をしたり、とにかく充実した日々を過ごせたと思う。
そして、彼女の精神体が完全に回復して、あのドラゴンの死体をとんでもなくデカい収納魔法で全て回収し終わった後のこと。
「ありがとう、フィー。君は私の一生の恩人だよ」
「いいのよ、ティア。私も長期休みを楽しく過ごせたから」
「また、会いに来てもいいかな?」
「もちろん! あ、でも長期休み以外は学園の方にいるから、会いに来るのは難しいかもしれないわ」
王立魔法学園は、生徒や関係者以外の立ち入りが基本的に禁じられている。
その事を思い出して忠告すると、エルティアルは何か考え込むような仕草をしてから、笑みを浮かべて頷いた。
「……そっか、わかったよ。じゃあまたね」
「うん、元気でね。もう死にかけちゃダメよ?」
「ふふっ、気をつけるよ」
最後にギュッとハグを交わして、エルティアルはふわりと浮かび上がって飛びさっていった。
飛行魔法、超がつくほどの高等魔法を難なく扱う姿を見て、やっぱり強い人だったんだなぁなんて思って。
「んっ……?」
首の後ろが、ちょっぴりムズムズする感じがした。
ハグの時、首に手を回してきたエルティアルの爪でも引っかかったんだろう。
その時は、そう思っていたけれど。
もう遅かった。何もかも、全部が。
それは見えないところに刻まれた傷跡。
後になって気づくのだ。
この時私はもう、籠の中の鳥になっていたんだなと。
☆
長期休みが終わる数日前に、私は再び学園へと戻ってきた。
魔法学園には庶子も貴族も通っているし、割と年齢的にも幅広い人々が通っている。
男子も女子も、そして種族も幅広い。とは言っても、メインとなる生徒層は12歳から17歳までの範囲に集中していて、そこから外れた者というのは基本的に研究職であることが多い。
私は16歳の5年生。魔法の才能はないけれど、進級できる程度には何とか課題をこなしてきたおかげで、卒業も十分に見えている。
まあ、新学期が始まるからといって特別に変わることはない。いつも通り授業に出て、授業の後は回復薬の研究に勤しむだけの日々が始まるだろう。
だから、学園に戻った私は思ってもみなかった再会に驚いた。
「フィー、待ってたよ」
「ティア!? なんで学園に?」
「うん、フィーがここに通ってるって言ってたでしょ? だから、先生として雇ってもらったんだ」
「雇ってもらったって……どうして?」
エルティアルが、学園の教師になる。
私がそれを聞いて思ったのは、納得と疑問。
先生になることはできるだろう。彼女ほどの実力者が教員として志願してくれるとなれば、大歓迎間違いなしだ。
でも、それは学園側にとっての利益の話。
彼女ほどの実力があれば、学園から貰える給金なんかの比じゃないくらい、莫大なお金を稼げるはず。
それこそ先日のドラゴンの死体を売り払えば、それだけで向こう何百年と遊んで暮らしていけるくらいの大金が手に入るはずなのだ。
何の気なしに投げかけた疑問。
けれどそれが、触れてはならない部分に触れた。
その時私は、やっと気がついたのだ。
私の、どうしてという疑問を聞いたエルティアルが。
ゾッとするほど暗い瞳で、私を見ていることに。
「どうして? ふふ、おかしなことを聞くんだね」
パチンと、エルティアルが小さく指を鳴らす。
その瞬間、首の後ろ側、ちょうどお別れの日に疼いていたあの場所が、再びムズムズとした違和感を発し始めた。
「フィーがここにいる。だから私はここに来た。当然のことだよ」
「待って、ティア、何を言ってるのか……んむ!?」
ぐっと抱き寄せられて、唇を塞がれた。
もちろん、エルティアルの唇でだ。
ファーストキスが、なんていちいち言うほどウブではないつもりだけれど。
彼女の突然の行動に理解が及ばず、混乱した頭のまま成されるがままになってしまう。
カリッ、カリッ、カリッ。
そんな音とともに、まるでマーキングでもするかのように、エルティアルは私の首を引っ掻いていく。
いや、文字通りのマーキングだったのだ。
これは私のモノだと、そう見せつけるための淫靡な刻印。
逃げたくても、空いた方の手で頭をしっかり抑えられていて逃げられない。
1分くらい経っただろうか。
ようやく唇を離してくれたエルティアルに文句を言う前に、私はその場にへたり込んだ。
「今ので伝わったかな? 私の気持ちは」
「ティ、ティア……私に、なにをしたの」
「キスをしただけだよ?」
「嘘……なにか、体が熱いのよっ。疼いて、疼いて仕方がないの」
全身が熱い。
燃えるように、熱い。
心臓の鼓動は早鐘のように頭の奥まで響いていて、今にも倒れ込んでしまいそうな程の熱が私を蝕んでいる。
キスをされて恥ずかしいなんてレベルの話じゃない。
明らかに外的な要因で、私の体はおかしくなっていた。
「いいよ、教えてあげる。でも、こんな場所じゃあちょっと味気ないかな」
エルティアルは機嫌良さそうにそう言うと、私を軽々と姫抱きにして、飛行魔法でふわりと浮かび上がる。
ふわりと漂うティアの匂いが、甘い香りが、脳髄をぐじゅりと犯していく。
やっぱり変だ。私の体は、何もかもがおかしくなっていた。
「私の部屋に行こう。そこで教えてあげる。私が君に何をしたのか。私が君に、何をしたいのか。全部、全部教えてあげる」
暗い。
光のかけらもない、闇のような瞳。
それでいて、愛おしいものを見る瞳。
ああ、そうだ。
私はこの日。
エルティアルという吸血種に、囚われてしまったのだ。
☆
火照り。
快楽。
温度。
一方的な、けれど心地よい交わりの後。
エルティアルは私のお腹、おへその下を指でなぞりながら言った。
「フィー。君のお腹に刻んだこの紋章はね、私が君を愛していることの証明なんだ」
「……愛、して?」
「そうだよ。フィーの全てを、心を、体を、血を、魂まで。何もかもを愛している証。これがある限り、フィーがどこにいて何をして何を思っているのか、私は全部を知ることができるんだ」
それはつまり。
これからの私の行動は全て、エルティアルの掌の上ということ。
何をしていても、どうしていてもだ。
「……プライバシーの、侵害よ」
「ふふっ、フィーはその憎まれ口も可愛いよね」
そう言いながら、エルティアルは指先に魔力を込める。
ズグ、ズグと、下腹部に熱が宿る。
彼女の魔力が刻まれているのがわかる。
ダメだ、と思っていても。
快楽によがり、堕とされた私の体は、エルティアルに逆らえなくて。
愛の証という名の首輪を、受け入れることしかできなくて。
たっぷり時間をかけて、ねっとりと刻み込まれた、一際大きなハート型の紋章。
それが絶え間なく送り込んでくる快感に、耐えるしかなかった。
「これで君は私のモノ。だからといって束縛するつもりはないよ。これまで通り、あの家で過ごしたように、そう接してくれていいからね」
「こんな、こと、されて……できるわけ、ないわ」
「できるよ。だってフィーは、とっても優しい人だから」
エルティアルはそう言って、優しい瞳を向けてくる。
私の体を貪った吸血姫とは思えないほど優しい瞳。
短い期間だったけれど、穏やかな時間を過ごした「ティア」と、同じ瞳で私を見る。
わからない。
わからない。
私には、彼女がわからない。
「ゆっくり、じっくりでいい。君の魂にまで、私の想いを刻んであげる」
啄むような、優しいキス。
貪るような、乱暴なキス。
逃げようと思わなかったわけじゃない。
逃げられなかった、というわけでもない。
きっと私が本気で嫌がれば、彼女は私を逃がしてくれた。
ただ、ただ。
エルティアルが、ティアが、私を傷つけないようにしてくれているのがわかったから。
ほんの少しだけ。
嬉しいと、そう思ってしまった。
だって私は生まれてから、一度だって……誰かに求められたことはなかったから。
☆
学園が始まるまでの数日間。
みっちりと体を貪られて、疲れ果てた体で迎えた始業の日。
私は初めて、エルティアル・ロウドという人物がどれほど有名な存在であるのかを知った。
この時までの私は、エルティアルがドラゴンを倒せるほど強い魔法使いであり、上位種族のひとつに数えられる吸血種であるという程度の認識だった。
けれど彼女は文字通り吸血種のお姫様で、世界でも五指に数えられるような最強の英雄のひとりだった。
名前に聞き覚えがあるはずだ。そういうことに興味のない私ですら、知らぬ間に名前を聞いたことがあるくらいに有名な人物だったのだから。
そして私は、自分が気安く看病をしていたヒトが高貴な身分であることを知って、心の底から震えた。
身分の差は、覆せない権力の差。国や種族の違いなど些細な事だ。高貴である事はそれだけで強大な力になる。
貴族に気安い口調で喋りかけただけで殺された平民が、どれだけの数いるだろう。
学園は貴族であるからと言って横暴ができる環境ではないけれど、それはそれとして身分の差は明確に存在する。そして今回の相手は他国のとはいえ王族である。
不敬罪。そんな言葉が頭をよぎった。
「本日から上級魔法戦闘の授業を担当する、エルティアル・ロウドです。1年ちょっとの短い期間になりますが、よろしくお願いしますね」
本来ならわざわざ長期休み明けに集会なんてしないけれど、エルティアルの紹介のために急遽開かれた全校集会で、彼女はそんなことを言っていた。
チラリと壇上に視線を向けてみれば、にこやかな笑みを向けてくれる。
でも。
何が気に食わないのか。
お腹に刻まれた刻印の疼きが、エルティアルの苛立ちを私に伝えてくれていた。
「フィー、私は怒ってる」
「ま、まってティ……エルティアル先生。なんのことかわからない……です」
「ソレだよ、フィー。私は言ったはずだよ? これまで通りに接して欲しいって。忘れちゃったかな?」
「で、でも……立場の差だけじゃなくて、身分の差もありますっ」
そう。
立場の差だけなら、私が白い目で見られる程度で済む。
けれど、身分の差は違う。
貴族への不敬というものは、たとえ本人が許していたのだとしても、周囲がそれを許さない。
理由は、序列関係にヒビが入りかねないから。貴族と平民はそう在らなければならないのだ。
それができなかったから、私の両親は死んだのだから。
「……はぁ、人間らしい考え方ってやつだね。とにかくフィー、私のことはティアって呼んで。身分の差も、立場の差も考えなくていいから」
「でも……」
「いいんだよ。だって君は私のモノなんだから」
グッと私を抱き寄せて、エルティアルはそう断言した。
そして、その暗い瞳で私を見下ろしながら言う。
「もし、これからもそんな他人行儀な話し方をするようなら……」
「わ、わかった、わかったわティア」
貴族やその周囲の人は怖いけれど、なによりまずエルティアルを不快にさせてしまう方が怖い。
だって彼女はきっと、この学園の全員を瞬きの間に殺すことだってできてしまうから。
「ん、いい子だ。私はこの後手続きがあるから、夜になったら私の部屋に来てね。もう少しちゃんと教えこまなきゃいけないみたいだから」
エルティアルはにっこりと笑ってそう言うと、パッと私を解放した。
「えっ、いや、あの」
「来ないようなら全部の淫紋を起動するからね」
「き、鬼畜……わかった、わかったからっ、こんなところで起動しないでっ」
キュンキュンと疼くお腹を抑えながら、悪戯が成功したような表情のエルティアルに懇願する。
なお、結局その日は夜まで淫紋が起動したままで、私は何をすることもできずに部屋で呻くしかなかった。
気づけば夜になっていて、部屋に来なかったからとぷんぷん怒るエルティアルに手酷く汚されて。
傍若無人とはこのことだと、密かに思ったりした。
☆
エルティアルがいる学園生活は、良くも悪くも大きく変わった。
彼女の授業はとても人気で、座学でも実技でもいつも沢山の人に囲まれている。
英雄だからとか、吸血種のお姫様だからとか、そういう色眼鏡を抜きにしても、エルティアルの授業は単純にレベルが高いのだ。
第一線で活躍し続けた戦士から実践的な魔法の使い方を教えて貰えるわけで、それは人気だろうなぁと傍目からでも納得してしまった。
とはいえ、私は彼女の授業を受けてはいない。
理由は簡単で、私は魔法の才能がないから。
この学園でも割と下の方の成績で、下級魔法戦闘の授業でも落ちこぼれるくらいの実力なのだ。
とてもじゃないが上級魔法戦闘の授業なんか受けられない。
「フィーはどうして私の授業に来ないの?」
なんてエルティアルは不満そうな顔をしていたけれど、流石の彼女も私の魔法の才能に関しては理解しているのか、無理に誘おうとはしなかった。
まあ、そうはいっても休憩時間はほとんど私のところに来るし、放課後もそれは同じ。
毎晩のように弄ばれ血を吸われ、快楽に負けている私が言うのもなんだけれど。
私は未だに、どうしてエルティアルが私に執着するのかがわからない。
死の淵で助けたのは事実だ。
私から見れば高級な回復薬を使ったのも、血を与えたのも事実だ。
でもやっぱり、エルティアルという英雄が私に執着する理由はわからない。
たまたまそこにいただけの命の恩人であれば、それこそ金銭でも与えてやればお互いにウィン・ウィンの関係になれるわけで。
かたや高貴なる吸血種のお姫様。
対する私は、辺境の村に生まれたタダの平民。
この関係を見て釣り合いが取れていないのは明らかなのだ。
私がエルティアルに特別視されている、なんてことはもうこの学園では周知の事実だ。
事ある毎に淫紋を浮かび上がらせ、場所を問わずキスをされ。バレない方が無理という話である。
かと言って、それによって私が嫌がらせを受けているなどということはない。
理由はふたつ。ひとつは、嫉妬によって私を傷つける以上に、エルティアルの怒りを買いたくないと誰もがそう思っていること。
ふたつ目は、エルティアルに刻まれた紋章のおかげで、そもそも私自身が物理的に守られているということだ。
淫紋がある限り、私はエルティアルの所有物である。彼女自身はそういう風に振舞って欲しくはないようだけれど、事実として私はもうそういう扱いのモノである。
ただ、その「エルティアルの所有物」であるという事実そのものが、強固な護りを生み出してくれる。
例えば私に危害が加えられそうになった時、超強力な結界が発生するとか。食物の毒を勝手に分解してくれるだとか。とにかく私に危害が加えられないように守ってくれる。
もちろん、一番横暴なエルティアルからは守ってくれないんだけどね。
吸血種の王族が、生涯唯一の存在に刻むことができるという、特別な隷属の紋章。
それが私の下腹部に刻まれた、あの紋章なのだという。
普通の淫紋にはそんな効果はないんだと、あとでエルティアルが教えてくれた。
傷つけられないのは嬉しいものの、相も変わらず理解はできない。
エルティアルの重たい愛を受け入れるのには徐々に慣れてきたけれど。
これを私なんかが受け取ってもいいのかと、いつもそう思ってしまう。
こんな思考もきっと、彼女に筒抜けなんだろうなぁなんて思いながら。
私は今日も、彼女との距離感を間違える。
エルティアルはいいと言ってくれるけれど、やっぱり生来染み付いた平民根性は簡単には直らない。
先生然としている彼女を見ていると、つい「エルティアル先生」と呼んでしまうし、不意に見せる王族としての風格を見ると、「エルティアル様」と呼びたくなってしまう。
わざとではない。
決してわざとではないのだ。
染み付いた癖が抜けるにはもう少し時間がかかりそうだけれど……それはそれとして、エルティアルのお仕置きは避けられないのが悲しいところだった。
☆
休み時間に、エルティアルに弄ばれてから、言いつけられた通りに裏庭に来るまで。
私は、エルティアルと出会ってからこれまでのことを、意味もなく思い出していた。
どうしてと聞かれれば、辛い疼きから目を背けたかったから。
一度起動させられた淫紋は、エルティアルが解除しない限り疼きを止めることはなく、しかもどれかひとつが起動すれば残り全部が起動してしまう。
そして、何よりも厄介なのは。
一度発情してしまった私の体は。
彼女に開発され尽くした、私の体は。
仮に淫紋が解除されたとしても、簡単に火照りを収めてはくれないということ。
授業はひとコマ2時間近くある。
歩いて5分程度のはずの裏庭に来るのに、ふらつきながら30分かかった。
助けてくれる人なんていない。エルティアルに庇護されている私に、積極的に関わろうという人間はいない。どこに彼女の逆鱗があるかわからない以上、関わることさえ怖いのだろう。
エルティアルが最速で来たとしても、1時間半近くこの火照った体のままで居なければいけない。
まあでも、そんなことはわかり切っていた。
彼女は私が乱れる姿を見ながらワインを飲むような人だから。
わかっている。
わかっている。
でも。
耐えられるとは、言ってない。
頭がぼうっとする。
全身が熱い。
けど。
足音が、近づいてくる。
「フィー、お待たせ」
「……てぃあ……?」
「うん、私だよ。ふふ、随分と乱れたみたいだね」
いつの間にか、1時間半は過ぎていたらしい。
現れたエルティアルは私を見下ろしながら、とても愛おしそうな表情を浮かべている。
「ほら、おいで。辛かったろう」
「う……ん」
ずりずりと這いつくばって、主人のところへ向かう。
あれ、私はいつの間にうつ伏せに寝転んでいたんだろう、なんて考える余裕もない。
今はただ、ティアのところに行って、いっぱいいっぱい慰めてもらうんだから。
「フィー、だいぶ理性が蕩けてきたね。素直に甘えてくれるようになってきた。嬉しいな」
「……てぃあ?」
「不安そうな顔をしなくていいよ。私はずっと君の傍にいる」
「え、へ、てぃあ、てぃあ」
「……そんな君も可愛いけれど、そろそろ一度覚めようか」
パチン、と何かが割れたような音が聞こえて、靄がかった意識が弾ける。
私はいつの間にかティアの懐で丸まっていて、甘えるような仕草を取っていた。
「ティ、ティア!? あれ、私寝ちゃってた!?」
「それはもうぐっすりと。ふふ、君のそんなところも愛おしいんだけどね」
残念そうに手を上げるティアに、私はほっとしたような、悲しいような……寂しいような気持ちになっていた。
「あ、そうだ、ランチにしましょ! 今日は手作りのお肉サンドよ!」
「フィーのお手製かぁ。楽しみだなぁ」
「ふふ、いいパンとお肉が手に入ったのよ」
用意してきたランチボックスからふたり分のお肉サンドを取り出して、それぞれの前に取り分ける。
美味しそうに食べてくれるティアを見て、私も思わず嬉しくなった。
体の火照りは、知らぬ間に治まっていた。
☆
そんな日々が一年以上続いて……迎えた私の卒業式。
そして、ティアがこの学校の先生を辞める日。
つつがなく式が終わったあと、私はひとり、彼女の部屋を訪れていた。
「ティア、来たわよ」
「待ってたよ、フィー」
ティアはいつになく扇情的な格好のまま、扉を開けてくれた。下着の上に一枚半透明のネグリジェを纏っただけ。他の人が見たらきっとあまりの魅力で倒れてしまうに違いない。
普段は結構しっかりした格好をしているだけに意外な装いではあったけれど、お互い何度も裸を見せ合った仲である以上、それだけで興奮するようなことはない。
「そういうのも似合っちゃうのね」
「ふふ、なんたってお姫様だからね」
「そういうとこよ、ほんと」
ティアが先生になったり、吸血種のお姫様だってわかったりして、勝手に空回ってギクシャクした関係になったこともあったけれど、今となってはいい思い出だ。
もう、呼び間違えることもない。
ティア。私の愛しいご主人様。
彼女を見ているだけで、体の芯がキュンと疼く。
幸せを感じる事ができる。
甘く疼く心を見透かすように、言葉もなくティアに抱き止められる。
そっと差し出した舌同士がキスをして。
絡み合って、そのまま口づけになって。
啄みあって、睦みあって、互いの体液を交換して。
最後にはいつも、私がされるがままになっている。
ティアはとっても上手いから、仕方ないことだけれど。
でも、いつか彼女を満足させてあげたいなって。
そう思いながら、唇を離した。
「フィー、おいで」
「うんっ」
ティアに呼ばれて、頭を後ろに傾ける。
うなじの辺りから、ひとつずつ。刻まれた淫紋の数は、29個。それはもはや、ある種の首輪のように私を捕らえて離さない。
けれど、一箇所だけ。
男の人なら喉仏がある場所だけは、まだ刻印がされていなかった。
「さあ、最後の刻印をしよう。首を囲む30個目の紋章。これが刻まれたら、フィーはもう人ではなくなる。それでもいいんだね?」
「ええ。だってそうしたら、ずっとティアのモノでいられるんでしょう?」
「もちろん。でも、君はもう人間には戻れないかもしれない。永劫を、日陰の国で生きることになるかもしれないよ?」
吸血種だけが生きる国。
そこは陽の当たることのない日陰の国。
ティアの生まれた、故郷に当たる場所。
娯楽もない、つまらない場所だとティアは言う。
構わない。
それでいい。
だって私には、戻る場所なんて最初からないんだから。
「いいの。私の主はティア。私はティアのモノであることが、何よりも幸せだから」
「フィー。愛しい私のフィー。君の覚悟は受け取ったよ」
カリッ、と。
ここ最近は淫紋を刻まれていなかったせいか懐かしい感覚と共に、刻印の為のキズが付けられる。
いつもよりキズが深いのか、トロリと流れた血。
濃厚で芳醇な血の香り。
ティアはそれを爪に染み込ませて、私の喉に最後の紋章を刻み込んでいく。
痛みはない。
最初に付けた傷を中心に、他の29個よりちょっぴり大きくして。
クチュ、クチュッと、血の滴る音を立てて。
これまでに刻まれた29個の紋章は、あくまでも魔力で刻まれた擬似的なもの。
しかし今刻み込まれた最後の所有物の証によって、淫紋は完全な形を成した。
正真正銘。私は今、ティアのモノにされたのだ。
声のひとつも要らない。
ティアが望めばそれだけで、何もかもを受け入れる道具になった。
「終わったよ、フィー」
「意外とあっさりしてるのね」
「変わってないように思える?」
「うん。もっとこう、羽根とかが生えたりするのかと思ってた」
「ふふ、それはそのうち生えてくるよ。元々フィーの体は紋章によって少しずつ造り変えられていたから、大きな変化を感じないだけ。たとえば……」
「ティア……? んぁっ!?」
つぅっと。
耳をそっと撫でられただけで、突き刺すような快感が走る。
開発され尽くした性感帯を触られたわけじゃないのに。
あまりの快感で倒れそうになってしまうのを抱き止められて……今度は不思議と、温かさだけを感じた。
「これまでは紋章の力で発情させなければ上げられなかった感度も、ピンポイントで高めることができる。今のはフィーのいちばん気持ちいい場所と同じくらい、耳の感度を高めてみた。……もちろん、全身をそうすることもできるよ」
吐息が。
敏感になった耳を撫でる度に、快感で体が跳ねる。
もし、今。
こうして抱きしめられている、今。
全身の感度を上げられてしまったら。
そんな想像をして、ゾクッとして。
下腹部に、ドロドロとした重く甘い熱が点った。
「耳が真っ赤だ。えっちな想像しちゃったんだ?」
「……うん」
「いつもより素直だね」
耳に届く声ですら、甘美な快楽を私に与えてくれる。
見つめられるだけで身体が火照る。
目の前に差し出された指ですら、むしゃぶりつきたくなるくらいに魅力的に見えた。
「フィー、おいで」
優しい声で告げられた許しのまま、ティアの指を咥える。パクリと咥えて、舌で舐る。
甘いのか、しょっぱいのか。そんなのはわからないけれど、これがティアの指だと思うと、それだけで幸せだった。
「んんっ!?」
突然、ティアが指先で私の舌を引っ掻いた。
それがどうしようもなく気持ちよくて、思わず喘いでしまう。
さっき耳の感度を上げられたのと同じことをされたのだと、そう気づいた時には指は抜き取られていて、それが少し悲しかった。
「そんなに不満そうな顔をしないで」
「ふぇ……あっ、ごめんなさい」
そう言って苦笑するティアの言葉で気がついた。
私は無意識のうちにむぅと不満げな顔を浮かべていたらしい。ハッとして表情を戻した。
「フィーを可愛がってあげたいのは山々だけど……私もそろそろお腹が減っていてね」
ティアはそう言って大きく口を開ける。その中で、唾液で艶めかしくコーティングされた彼女の犬歯が光っている。人の肉を裂いて、血を啜るための歯が。
確か、前に血をあげてから一週間くらい経っていたっけ。
上位種族である吸血種は強いけれど、強いからこそ無差別な吸血を禁じられている。これは人を含む雑種の法ではなく、吸血種自体の法で決まっている事だ。
力あるものの責任とか、隣人を愛せよとか、聞こえのいい言い方なんていくらでもあるけれど、これは要するに「餌」を保護するための決まり事。
私達は見下されている。ティアに愛玩され、血袋としての役割も担っている私にはそれがよくわかっている。
けど、それでいいんだ。それでも私はティアに血を吸って貰えるってわかって、途方もなく嬉しいと思ってしまうから。
「じゃあ、指をだし……フィー?」
「……首で、いいわよ」
私の言葉を聞いて、ティアの身体が大きく揺れた。
そう。
最初の時、指に傷を付けて血をあげて以来、ティアはずっと吸血の時は私の指から血を吸っていた。
強くて綺麗で高貴なティアが私の指を咥えている姿に、私の前で頭を下げている姿に、興奮しなかったといえば嘘になる。
あの瞬間だけは、私がティアを支配しているような気になれたから。もちろん、そんな思考は彼女に筒抜けで、私が優越感を抱く度に手酷く虐められてきたんだけどね。
吸血種が生物の「首」から血を吸うということは、その存在の全てを吸い尽くす事と同義だという。
だから、基本的に彼らは相手を吸い殺す時にしか首からの吸血は行わないのだという。ただ殺すのではなく血を吸い殺すという事は吸血種にとっては神聖な行為であって、相手への最大の敬意の表れだから。
そんな吸血種に対して、それも愛する人に対して自分から首を差し出すとどうなるか。
その答えは、ギラギラと揺らめくティアの瞳が雄弁に語ってくれていた。
たっぷり30秒ほど見つめられて、思いっきり抱き寄せられる。
吐息が首を撫でて、敏感になった体が反応してしまう。
「フィー」
「う、うんっ」
「もう、我慢はできないよ?」
「か、覚悟の上よ……」
初めて聞くかもしれない、余裕のないティアの声。
ティアが我慢していた時なんてあったっけ? 私、いっつも理不尽に犯されてない?
なんて不届きな事を考えていたからか、お腹の淫紋から燃えるような熱が湧いてきた。
お腹に刻まれた紋章の効果は首のソレとは桁が違う。全ての淫紋が刻まれてしまった今、抗う術なんて残っていなかった。
熱は全身に伝播して、元々火照っていた身体が灼熱のような快感に包まれて、思考が蕩けさせられる。
「あぅ……てぃあ……?」
「フィーは本当に、余計なことを考えるのが好きだね。思考は筒抜けだっていつも言ってるのに。考えなしと言うか無謀というか……まぁ、そんなところが可愛いんだけどね」
麻酔代わりにはちょうどいいか、なんてティアが呟いた後。
ぼんやりとした意識の中で、ブツッと何かがちぎれるような、破けるような音が聞こえた。
ティアの歯が私の首の肉を貫いて、血管を食い破った音だとわかったのは、全部が終わった後のこと。
その時の私は、痛みや苦しさなんかは感じていなくて。
(あ…………きもち、いい……)
何かに身体を食い破られた時点で、私は途方もない快楽で意識を飛ばしかけていた。
身体がふわふわする。どうしようもなく心地いい。
力も、心も、熱も、私の全部が身体から抜けていくみたい。魂が抜けるようだ。ティアと混ざり合ってるみたいだ。
気持ち、いい。とても、気持ちいい。
どこまでも快楽で蕩けてしまった私は、なけなしの力でティアに抱きつこうとして、そこで意識を失った。
☆
抱き締めていたフィーの体から完全に力が抜けるのを確認して、私は吸血を止めた。
首元から口を離せば、出血は勝手に止まっていた。傷口を守るように、赤い膜がフィーを守っている。
それでも吸血中に溢れた分の血がフィーの体を汚していて、ほのかに香る血の匂いは私の理性を揺さぶるほどに甘かった。
「……っ、流石に、飲みすぎたか」
意図せず全身から魔力が溢れ出る。
眠りについたフィーに悪影響がないように抑え込むものの、未だかつてないほど大量の吸血のせいで力の制御が難しい。
もう数百年も前の話だ。かつて世界には《血の一族》と呼ばれる吸血種の家畜がいた。
他種族、特に知性のある人型の種族から血を奪って魔力を生成する吸血種は、その勢力を維持するために大量の血液が必要だった。
そんな中、人間を改良して造り出したのが血の一族。特殊な魔法を埋め込むことで尽きない血液と長い寿命を持つだけの、吸血種の血袋としての価値しかない人間の一族である。
その末裔であるフィーの身体は特別性で、魔力が続く限り血液を生成し続ける魔法を遺伝している。
だから、滅多なことではフィーが出血で死に至ることはない。フィーの身体はその魔法を使うために最適化されているからこそ、他の魔法の才能を殺しているのだから。
「だからと言って、あの量は10人は吸い殺してただろうな……」
普段の吸血なら、多くてもふた口がいいところだ。それは小さな指の傷からでは流れ出る血の量が少ないせいでもあるし、血を飲み過ぎて自分が興奮状態に陥ることを避けるためでもあった。
けれど首の動脈を裂いた時に流れ出る血の量は、想像の何十倍も多かった。その全てを余さず飲み干そうと努力した結果、あまりの多幸感に吸血が止まらなくなってしまった。
なんといっても血の一族は吸血種が造り出した血袋の役割を持つ人間。尽きない血という特性だけでなく「味」も格別に美味しくなるよう造られている。
一度味わえば忘れられない、甘露のような血と言ってもいい。
だからこそ血の一族は争いの火種になって、最期は滅びてしまったと言われていたのだけれど……その末裔があんな山奥で、ぽつんとひとりで暮らしているなんて誰が思うだろう。
「刻印も刻んだばかりだったし、あの量の吸血は今のフィーには負担が大きかったかな。……ゆっくりおやすみ。起きたら帰ろう、私たちの家に」
「……んにゅ……」
眠りにつくフィーの髪に指で櫛を通してやると、気持ちよさそうに身動ぎする。
この無防備な寝姿は初めて会った時から全く変わらないなぁなんて、思わず苦笑してしまった。
ああそうだ、ベッドがひとつしかないからなんて言って、夜に怪我人の私を寝かせているベッドに潜り込んで来たのも懐かしい思い出だ。あの時もこんな嬉しそうな顔をして眠っていた。
あの時にはもう私はフィーの血の味を知っていたというのに。
極上の獲物が自分から据え膳になりに来たようで、あまりにも無防備すぎて逆に襲えなかったよ。
見ず知らずの上位種族を助けて、自分の家に引き込んで、寝る間も惜しんで看病する献身的な在り方。
ちょっと優しくしてあげれば、すぐに懐いて警戒を解いてしまう、チョロ可愛い玩具のような子。
臆病なのに無防備で、弱い癖に妙に反抗的なところがあって、優しくするより強引に迫った方が従順に甘えてくる。
それでいてどんなに弄んだ後でも、少し経てばケロッとした態度で接してくるのだ。何度調教してやっても憎まれ口を叩くのを止めない、妙な図太さもある。
そんなところがどうしようもなく魅力的だから、私はフィーを手放せない。一生に一度しか刻めない伴侶の紋章をフィーのお腹に刻んでしまうほどに、深く深く執着してしまっている。
世の中には、王子様が身分の低い少女に恋をするラブロマンスが掃いて捨てるほど存在する。
そういう本を読む度に「身分の差を気にせずに接してくれるのがたまらなく嬉しかった」みたいな王子様のセリフを鼻で笑っていたものだ。
でも。
いざ、自分のことを知らない弱く純朴で天然な子に懐かれてみると、自分でもびっくりするくらい王子様の気持ちがよくわかった。
フィーが傍に居るだけで心地よかった。血の一族であるかどうかなんて関係なく「欲しい」と思ってしまう程に。
だからこそ、私のことを知った後、距離感に悩むフィーを元に戻すのにはとても苦労したのだ。
「本当に、フィーは吸血種を狂わせる麻薬だね。……最初に見つけたのが私でよかった」
「……えへぇ……てぃあ……すきよ……」
「私もだよ、フィー」
どんな夢を見ているのか、睦言を漏らすぷっくりとした唇に触れるようなキスを落とす。
柔らかな感触と、ほのかに暖かい肌の温度が心地いい。
自然と起きるまでの数時間、私は恋人の寝顔を堪能するのだった。
この後、吸血種の国に連れていかれて、フィーはティアと退廃的な日常を過ごすことになったとさ。