序
「いつ見ても、切ない。」
今、家のリビングでTVを前に涙と鼻水を垂らしているのは僕は田中 正、近所の高校に通うごく普通の高校生だ。
僕が何に心を動かされ人には見せられない顔をしているのかというと、それはもちろん今やっているTV番組にである。時刻は金曜日の午後9時半、TVに映っているのはおそらく世代を問わず誰でも見たことがあるだろう有名なアニメの映画だ。10年以上経っても古臭くならない映像美とストーリーの普遍性。女子中学生が進路に悩み、そこでバイオリン職人を目指す男の子と出会うことで触発される。自己の内面をネコの形をとらせることで自然とファンタジー要素を取り込み視聴者を飽きさせない。そんな朽ちることのない名作だ。
だが、僕がむせび泣く理由はそこにはない。僕が注目しているのはただ一人の脇役の男子中学生、物語の序盤で主人公の女の子に告白する彼だ。
彼の心情を思うといつも胸が張り裂けそうになる。主人公の友人から告白されその答えを保留していることを自分の好きな子から責められる。勢いあまって告白するも振られてしまう。そうして、悶々としているであろう彼の横で主人公はイケメンに掻っ攫われるのだ。彼は確実に目撃しているだろう、主人公とイケメンが学校で噂になったり、イケメンが学校に押しかけてきたりした場面を。もしかしたら野球部の彼なら早朝に二人乗りの自転車で坂道を登っている主人公とイケメンの姿を見ているかもしれない。
そんな想像をするだけで僕の涙腺と鼻の粘膜は緩くなる。
「ん?何だこれ?」
唐突にTVの画面が切り替わった。CMにしては画面は無機質で何よりこんなものは見たことがない。画面には数字と文字だけが浮いている。
問い、あなたは寝取られが好きですか?
答え、1 はい、好きです。
2 いいえ、これから好きになります。
何だこれは。僕は気味が悪くなってチャンネルを変える。しかし、リモコンのどのボタンを押しても画面は変わらない。全ての画面がこの不気味な問いを映し出している。
「これって、電波ジャックだよな。」
小説で得た知識が現実に起こっている。恐怖よりも興奮が先に立った。インターネットでニュースになっていないかスマートフォンで調べてみるが、どこにもそんな情報は載っていない。近所に住む幼馴染にラインで聞いてみる。
『やばいって、TVがジャックされてる。』
『なにいってんだ、ワラ。それよりすずちゃんのすけブラ、撮ったんだけど見る?』
幼馴染の駿は当てにならない。しかし、正がひそかに思いを寄せるクラスメイトのベストショットはありがたく受け取っておく。うむ流石は駿、嗜好である太もも以外でも彼の才能はいかんなく発揮されている。
正はだんだんと怖くなってきた。もしかしたらこの電波ジャックはこの家を狙って行われているのかもしれない。
しかし、どんな理由があればごく平凡な中流家庭の一軒家が標的になるのだろうか。共働きの両親は今日も遅い。正はいつでも警察に連絡できるようスマートフォンを握り締めると気味の悪いTVを消して自分の部屋に閉じこもった。
******
休み明けの教室。変わり映えのしない面子に正は欠伸混じりの挨拶をしながら通り過ぎて行く。教室の窓際の最後列にある自分の席に座ると、坊主頭の同級生が近寄ってきた。
「お、寝不足か、あれで抜きすぎたんだろ。」
「ち、違うよ。」
幼馴染の駿の下ネタに、僕は慌てて否定する。寝不足の原因は金曜日の電波ジャックの一件が気になって色々と調べていたせいだ。駿が送ってきた画像を有効利用したかどうかはノーコメントで。
駿はニヤニヤしながら僕の返事を聞いている。僕は何とかやり返せないものかと思案していると教室の前方で女の子の話し声が盛り上がった。
「おはよー、今日ってさ、課題の提出日だっけ?」
えー、うそー、やってない。教室の前半分を牛耳る女の子のグループで一斉に悲鳴が上がる。
話題の中心にいるのはもちろん橘 鈴だ。駿が金曜日に送ってきた被写体、その人である。クラスの男子たちが思わず教室の前に視線を送るのはうるさいからではなく、鈴の登場に思わず顔をそちらに向けてしまうからだ。
正もそうしたかったが顔が赤らむのを感じてぎりぎりで我慢する。だがそんな様子を駿がニヤニヤとした目で見るとわざとらしい大きな声で言った。
「マジかよ正、課題やってきたのか。俺にも写させてくれよ。」
「なっ、おい、止めろ。」
僕は駿の口をふさごうと立ち上がる。駿の目的はわかっている。もちろんそれが悪意から出た行動ではないことも。
しかし、この世界にはありがた迷惑という言葉がある。駿にその言葉を教えなかった小学校時代の担任を呪いながら、僕は駿を羽交い絞めにした。そんな僕たちに声がかけられる。
「ねえねえ、お願い。私たちも課題、写させて?」
僕はとっさに返事ができず赤くなった顔を隠すために下を向いた。同年代からは垢抜けていて、かといって浮くほどには派手ではない。そんな手が届きそうで届かない花を思わせる笑顔がそこにはあった。
画像には映っていなかった鈴の顔を直視することができない僕の代わりに駿が返事をする。
「どーぞ、どーぞ。いくらでも写しちゃって、いいから。」
「お前が言うなよ。」
照れ隠しに僕は駿とのじゃれあいを再開するが、もちろん課題を貸し出すことを拒否したりはしない。
「わー、ありがと。絶対、今度お礼するから。」
無愛想な正とは対照的に鈴が笑顔でお礼を言う。彼女の周りには星がきらめいている。それが現実には存在しなくてもクラスの半分は間違いなくそう証言しただろう。
鈴の反応に課題を済ませていた一部の男子たちが机の上にわざとらしくプリントを出す。もちろん、課題の答えは2枚も要らないから、彼らの努力は無駄に終わるだろうが。僕も本来ならば彼らの1人になっていたはずだった。その運笑みを変えてくれたことを駿と小学校時代の担任に感謝する。
******
朝のHRを告げる鐘が鳴る。喧騒は静まり、皆が席について担任が来るのを待っていた。しかし、そんな静かないつもの朝の光景は突然の非日常によって破られた。
最初はそれが何の音かわからなかった。しかし、窓の外を見てた誰かの声でようやく気付く。
「あれ、ヘリだよな。」
ローターが回転し羽が風を切る独特な摩擦音が教室にまで響き渡った。クラスの全員が窓際に集まり、そのヘリが校庭に着陸する姿を目撃した。
たまに見かける報道ヘリとは違う。もっと大量の人員と機材を運ぶことに特化したその巨大なヘリは物々しい緊迫感を見るものに与える。普段なら突発的なイベントに騒ぎ出す高校生たちが固唾を呑んで様子を見守っている。その中で正は何故か金曜日に見たTVの画面を思い出していた。
『クラスの皆さんは席に座り、そのまま教室で待機してください。』
遅ればせながら校内放送で指示が出ると、皆席に着いて待つことにした。何を待っているのかわかっている生徒なんていない。しかし、そう指示されてあえて逆らえばその責は自分で負わなければ鳴らない。誰も同情はしてくれない。たったそれだけの理由で不確かな状況の中に生徒たちは留まった。
いくらも待たぬうちに、黒服の男たちが教室へと入ってくる。きびきびとした動きは乱暴ではないが威圧感を振りまき生徒たちはとっさに何もいえない。黒いスーツに黒いネクタイ、サングラスと髪型まで統一された彼らは思考まで統一されているかのように連携が取れたすばやい動きで正の前まで来る。
「いました。対象です。」
「これより確保します。」
「受け入れ状況、よし。」
首もとのマイクでどこかに連絡した彼らが動き出す。
「おい、正に何してんだ。」
正の両脇を抱え強引に立ち上がらせようとする黒服たちに駿が食って掛かる。どこかで女子生徒の悲鳴がする。それを皮切りに教室内は騒然とし、クラスでも体格の良い体育会系が黒服たちに数を頼みに反抗する。
しかし、数的にも地理的にも不利な状況で黒服たちに慌てた様子はない。落ち着きを払って胸元に手を伸ばす。
誰もが拳銃を予想した。学生に過ぎない彼らは一歩輪を広げて後ずさる。だが、黒服が取り出したのは一本の万年筆だった。あっけにとられて見ている学生たちに黒服は万年筆を高々と掲げて見せる。正はその光景を見て場違いながら他人事のように思い出した。
昔の映画でこんな場面、あったな。
万年筆が光り、視界が真っ白に染まる。そうして、状況が一切わからないまま正の意識は途絶えた。
******
「起きなさい、被験者1号。」
耳障りな機会音声に正は目を覚ます。正があたりを見回すとそこは見たこともないほど真っ白で清潔な部屋だった。それ以外のことはわからない。なぜなら正は椅子に座らされ手足を固定されているからだ。
唐突に目の前の壁にはめ込まれていたモニターの電源が入る。そこには既視感のある問いが表示されていた。
問い、あなたは寝取られが好きですか?
答え、1 はい、好きです。
2 いいえ、これから好きになります。
「知らないよ、寝取られなんて、気持ち悪い。」
正は精一杯の反抗心で言い切る。正にはもうわかっていた。これは金曜の夜に電波ジャックをしたのと同じ連中だと。
しかし、そんな正を無視して無機質な機械音声は続ける。
『あなたは、この画像を見て何を感じますか?』
映像が切り替わり、机の上に置かれた料理と食器が映される。何の変哲もないクリームパスタ、そして手前にはスプーンとフォークにナイフが置かれている。
「なんだよこれ、こんなのただの料理だろ、何にも感じないよ。」
しかし、言葉とは裏腹に正の鋭敏な感性が何かを捕らえる。
ナイフとフォークは僅かに油で汚れている。そして、画面の端には既に食事が終わっている皿が一枚見えていた。残されたソースと油が交じり合った跡からはそれが肉料理、ステーキの類であったことがわかる。
その事実が正の心の琴線に何かを訴える。
「寝取られなんて知らないよ、気持ち悪い。」
その危険な誘惑を追い払い正はもう一度言い切った。しかし、そんな正の反応などお見通しだとでも言うかのように機械の声は続ける。
「被験者1号、あたなには才能があります。」
その声は無機質でありながら、どこかこちらを嘲る感情が見えた。
きっとそれは正の被害妄想でしかないのだろう。しかし、正が抱いた不安は間違いではなかった。機械の声が続ける。
「被験者1号にはこれより寝取られに対する感受性を3000倍にする施術を行います。これは国民の義務として拒否することはできません。」
「は?何言ってるんだよ。」
「質問は許可されていません。これは被験者1号の幸福感を高めライフクオリティーに寄与するものであるため、被験者1号が拒否する可能性や疑問を挟む可能性は検討されていません。そのため、それらの反応に対応するプログラムは存在しません。被験者1号の了解が得られたため施術を開始します。」
「ちょっ、おい、待てよ。」
勝手なことを言う機会の声に正は暴れるが機械の腕で頭をがっちりとつかまれると、もはや動かす余地は無くなった。
正の見えないところでバリカンの音とドリルが回転する音が高く響いている。チクリと頭部に痛みを感じた後は、頭部からは気持ち悪いほど何も感じなくなった。しかし、音だけで何か取り返しのつかないことが起こっているのがわかる。
正は気付いてしまった。暗くなったモニターが薄く光を反射し自分の姿を映していることを。その画面に映るもう一人の自分は脳を露出し機械によって弄繰り回されていることを。気付かなければ良かった。その思考を最後に正は意識を失った。
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「起きなさい、被験者1号。」
デジャブのように正はまったく同じ言葉で起こされた。全て覚えている。夢でなかったことは拘束された手足の感触でわかる。
「おめでとうございます。被験者1号の施術は成功しました。頭頂部もこのように植毛により施術前を再現しています。」
わざわざ部屋の監視カメラの映像を使い正の頭髪をなめるように映す。正は怒りを覚えながらもどこかで安心していた。しかし、それを認めたくない反発心が正に挑発的な態度をとらせる。
「ふん、何が成功だ。僕は何も変わってないぞ。」
嘘ではない。この機械にも、その裏にいる連中に対する忠誠心や服従心といった改造による心境の変化は何一つ無い。
だが、気分を害した様子も無く機械の声は話を続けた。感情の無い機械なら当然のことなのに正にはそのことを意外に思う。
「それではこちらをご覧ください。」
また同じ映像だ。パスタの乗った皿にナイフとフォーク、そしてスプーン。間違い探しではない、まったく同じ映像だ。だが正の反応は施術前とはまったく違っていた。あの時はどこかに違和感を感じる程度だった感受性が3000倍になることでしっかりと反応している。3000倍に増幅した電気信号が脳を駆け巡っている。
ああ、なんてひどいんだ。あんなに一緒だったナイフとフォークが。あんなに仲良く一つのステーキを切り分けていた二人が。あんなに中睦まじく共同作業をしていたカップルが、今引き裂かれようとしている。肉料理が終わったことでナイフの出番は無くなってしまった。代りに出てきたのはパスタ。そう、これからはナイフの代わりにスプーンとフォークが共同作業を始める。それをナイフは何もできないまま見ている。フォークがパスタを巻き取り、汁がこぼれないようスプーンが添えられる。そのとき二つの金属がぶつかる僅かな音がする。カツンカツン、カツンカツン。二人が触れ合う音、ぶつかり合う音。ナイフはそれをどんな気持ちで聞いているのだろうか。自分との時と比較しているのだろうか。それでもフォークのことを信じているのだろうか。ああ、なんて切ないんだ。
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「やりましたよ博士。成功です。」
「うむ、被験者1号の幸福指数がうなぎ登りじゃ。」
「すごい才能だ。まさかただの食器でここまで。」
「うむ、さすがは選び抜かれた性癖。常人の理解を超えておる。」
「これなら、いけますね。」
「うむ、計画を第二段階へと進める。」
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正は気付くと教室へと戻されていた。転寝から目覚めたかのように、何事も無く授業が進むごく普通の教室の風景がそこにはあった。
周りに聞かずともわかる。おそらく覚えているのは自分だけだろう。正体はわからないが彼らにはそれぐらいの技術力があってもおかしくはなかった。
正は騒ぐことなく日常へと戻った。なぜなら、正は彼らに感謝していたからだ。正は幸福感に包まれていた。なぜなら、今まで気付かなかった幸せに気付いたからだ。なぜなら、今まで気付かない振りをしていた幸せを認めることができたからだ。なぜなら、今まで抑圧してきたものを解放することができたからだ。
今ならわかる。黒板とチョークのよって作られた愛の結晶が黒板消しによって無残に蹂躙されていく。生まれてからずっと一緒だったノートのページとページの間に硬い下敷きが割り込んでくる。あんなにきれいだったページの片方が黒鉛で汚されていく。その黒鉛でさえ、実は重なるように一緒にいたパートナーが今はそれぞれ引き剥がされている。
素晴らしい、この世界はなんて素晴らしいんだ。
正は空を見上げる。
太陽が燦々(さんさん)と輝いている。本来なら万有引力によって熱く触れ合えるはずの太陽と地球が遠心力によって引き剥がされている。なんということだろう。天体すら寝取られていたのだ。この宇宙は寝取られによって成り立っていたのだ。この宇宙は幸福で満ちていたのだ。
思わず正は立ち上がった。
「おい田中、授業中に立ち上がるな。」
国語の黒井が注意してくる。そんな不躾な教師を正は笑って許した。
「すいません。幸せすぎて。」
******
「正、なんか変わったよな。」
「そうかな、僕は変わっていないよ。ただ見方を変えただけさ。」
幼馴染の駿が気持ち悪そうに正の返事を聞いている。
放課後の教室はもう二人だけで他に会話を聞いているものはいない。なら本当のことを言ってしまおうか。正は一瞬思ったが、控えることにした。特に理由があるわけではない。なんとなくだ。
「空が赤いな。」
正は代りに夕日に染まる空を見ながらそう言った。
駿はそんな正を見ながら本当に別人のように変わったと思った。まず表情が明るくなった。常に何かいいことでもあるのか笑顔が絶えず、他人と話すときも自然と楽しい話題になる。正は気付いていないかもしれないが、そんな正の変化を噂する女子も多い。
駿はもう一度幼馴染の顔を確認する。何か楽しいことでもあったのか、幸せそうに夕日を見ている。正はただ単に空の色が青から赤に変わる太陽光のスペクトル拡散にミクロな世界の寝取られを感じていただけなのだが。
「ね、正くん。ちょっと話、いいかな。」
教室には正と駿しかいなかったはずだ。しかし、どうやら様子を見ていたもう1人がいたらしい。鈴が僅かに首をかしげると長い髪がさらりと流れる。CMにでもありそうな場面だがTVでは出せない香りと息遣いの分だけ、その辺の女優よりも今の鈴が魅力的だと言っていいだろう。
駿は自分が邪魔になっていることを自覚すると、名残惜しいが遠慮することにした。
「がんばれよ。」
「ん?ああ。」
わかっているのかいないのか。駿の言葉にあいまいな返事を正が返す。確かに正が告白される側だが、しかしこんなにもったいない幸運なのだ。どこかで一つ間違えればあっさりと覚めてしまうかもしれない。そういう意味で駿は励ましの言葉を投げた。後は二人の成り行きに任せよう。駿は一度、鈴と目を合わせるとそのまま教室を去っていった。
話は後でたっぷりと聞けばいい。
「あのね、私、最近、正くんのこといいなって思ってて、もし良かったら。私と付き合ってください。」
夕日のせいで赤くなった教室の中で二人の男女が向き合っている。ありきたりだが、しかし現実にはそう経験することは無い、そんな場面だった。
正はそんな特別な瞬間を特に感慨も無く、いつもの多幸感に酔った気分のまま受け止める。
「うん、いいよ。」
「ほんとに!やった。」
誰もが振り向く美少女に対して10人並の正が告白される。正は何の疑問も感激も感じていない。なぜなら、こんなことはよくあることだからだ。
寝取られものでは。
正はこれから起こるであろう幸せな毎日に胸を膨らませる。しかし、彼はまだ理解していなかった。NTR感度3000倍になった彼が、ありふれた光景を曲解して寝取られを感じる彼が、実際に彼女を寝取られて果たして無事で済むのかを。
3000倍の衝撃に彼の脳が耐えられるのかを。