1.終りの始り
一つの魂が浮かんでいる。
虚空の空間、何も無いという空間を否定するように、それは存在した。
その魂に意識はなく、されるがままに空間を横断する。
別の世界から、別の世界へと。
決められたレールの上を走るように、その魂は向かうべき器へただ突き進む。
それももう終点。
意識は先に転生された器に到達した。
___そして、そこでぼくの意識は覚醒した。
目が開く。
そこは森だった。
何故かやけに視界がボヤけて見えづらい気がするが、きっと意識を失っていたからだろうか、まだ目が慣れていないのだろう。
そんな視界で、ぼくは目の前を見た。
木々の隙間から光が漏れていることから、おそらく日は沈んでいない。
ぼくは木にもたれ、両足をピンと伸ばして座っていた。
状況が分からず、とりあえずぼくは自分の身体を見た。
少し短い、まだ成長の余地のある少年の手足。
多分身長も別に高くはない。
何か持っていないかと着ている服のポケットに手を突っ込んで探してみるが、中には何も無い。
どうやら手ぶららしい。
いや、別にポケットに何も無いのはいい。
ひとつ、いやふたつ、重要なものが無い。
___ぼくは誰だ?
ひとつ目、記憶が無くなっていた。
記憶をたどっても、自分の名前、年齢、どこに住んでいたか、どういう生活を送ってきたか、あらゆる記憶を思い出そうとした途端に思考が黒い霧に阻まれる。
とりあえず、ここから歩いてみよう。
もしかしたら森から直ぐに出られるかもしれない。
ぼくは伸ばした足を畳み、その場を立ち上がった。
それにしても視界が悪い。
そろそろ目が慣れてきそうなところだが、初めて目を開けたときから視界の右方向がやけに暗いままだ。
_
__
___
まて、いやまさか。
察した。
これは目が慣れていないのではない。
ぼくは震える手で、恐る恐る右目を押さえた。
「…………!?」
ふたつ目、右目が無くなっていた。
ぽっかり穴が空いていて、眼球がない。
だが痛みも出血もなく、まるでぼくには最初から右目がなかったかのようだった。
「どうなってるんだ……?」
ぼくは目を覚ましてから初めて呟いた。
同時に、ぼくの耳にも発した声が届く。
どうやらこの中途半端に高く中途半端に低い、少なくとも強そうではない声がぼくの声らしい。
右目が気になって仕方がないが、いつまでもこんなところで突っ立っていても仕方がない。
適当に進んでみようとして、ぼくは足を動かした。
その瞬間、耳が反応した。
____。
ぼくは動き出した足を直ぐ様止めた。
聞こえるのは枝を折る音と葉を踏みつける音が混ざった、木々が生い茂る場所で歩けば自然と鳴る足音と、葉と葉が擦れあうカサカサ……という音。
間違いなく、何かがこっちに来ている。
今も段々とその音が大きくなってくるのが分かる。
人か?とも思ったが、ここは森だ。
足音が人間である可能性は低い気がする。
森で地面を歩く音が聞こえるような動物はクマくらいだろうか。
クマと会ったら目を合わせて後退りをしろ、背を向けて走っちゃいけないとはよく聞くが、実際にクマと会ったら一目散に逃げる自信がある。
「……よし」
一応気合を入れる。
ここで待って、ヤバかったら逃げる。
なんなら声を出して人間かどうか確かめてみよう。
もしここでクマか何かが出てきて逃げられずに殺されても、ぼくはきっと後悔しないだろう。
あるとすれば、自分が何者か知りたかったということくらい。
それくらい、生きることに価値を感じない。
何を楽しみに毎日を生きていた?ならば趣味は?生きる意味は?それがあれば、もう少しこの選択を長考していたはずだ。
今のぼくは中身のない、生きた人形みたいなものだから。
ぼくはもたれていた木の陰に隠れるように移動し、身体を隠しながらほんの少し顔を出して後方を見た。
「あれは……」
動いてるものが見え、目を凝らした。
足音の正体はこいつかと思ったが、それはあまりにも拍子抜けする生き物だった。
「犬……?」
キョロキョロと首を動かし、蛇行しながらこっちへ向かってくる犬が見えた。
まだ結構距離がある。
流石森、距離が離れていても足音が聞こえる辺り静寂を極めている。
大きさは大型犬くらいで、銀色と黒色のまだら色をした毛並みをしていて、犬とは思えない大きな尻尾を揺らしている。
見たことのない犬種。
雑種だろうか。
その犬はその場で立ち止まって、大きなあくびをした。
___違う。
ぼくはそのあくびを見て、すぐに頭の中の犬を否定した。
あれは犬ではない。
あの犬ではない犬を見る目が、耳に入る音が、あいつは犬ではないと告げている。
犬に、あんなライオンのような牙は存在しない。
___まずい。
直感がそう言っている。
ヤバかったら逃げると決めていたが、今の状況、走ったら逆に気付かれるに違いない。
とはいっても、ここにずっといるわけにもいかない。
「…………一か八か」
瞬間、ぼくは地面を蹴った。
意識がハッキリしたてで100パーセントの力を出せない身体に向かって、後ろは振り向くな、ただ前を向いて走れとしつこく心の中で念じた。
耳も冴えているようで、自分が走る足音に加えて、後ろから段々大きくなってくる別の音が耳に響く。
あの犬擬きもぼくに気付いたのだ。
終わりもなく、変わる景色もない森をただ真っ直ぐに、ただ懸命に走った。
「ハハ……これが……」
これが本能か。
死んでも後悔しないと言っていたが、どうやら身体は後悔すると言っているらしい。
こんなに必死になって走って、こんなにがむしゃらになって生きようとしている。
普段脳から身体に命令する人間が、このままじゃ後悔するぞと逆に身体から脳へと命令しているようだ。
だが、人間は何も持たなければ無力だ。
危機感を感じ、ぼくは後ろを少し振り向いた。
目の前に、ヤツがいたのだ。
___これで終わりか。
ぼくは、死を直感した。
「___よく逃げたわね、人間」
ぼくの身体が宙へ投げ出されるほど、地面が縦に揺れる。
何がなんだか分からなかった。
そして、地面に落ちる。
「いっ……たた……」
腰を強く打ち、ぼくは打った部分を手でさすった。
そして目の前にあるものに、ぼくは目を疑った。
目の前に、あの犬擬きがバラバラに切断されていた。
あまりのグロテスクさに言葉を失っていたが、そんなことお構いなしに一人の女性が現れ、ぼくに質問した。
「何でこんなところにいるの?」
少し可愛げが残る美人よりの顔に、周りの草木と同じか、少し暗い緑色の長髪、アンバランスな深いワインレッドの瞳。160センチ以上はある身長とそれに伴ったスタイルはより綺麗に見える。
そして何より彼女を非人間たらしめているのは、明らかに人間とは違うどこか柔らかい木のようなもので出来ている右手だった。
「いや……それがぼくにも分からなくて……というか、こ、こいつは……?」
「魔獣を知らないとは言わせないわよ。……まぁいいわ、とりあえずついてきなさい。街まで行けば、きっと誰かが何とかしてくれるだろうから」
そう言って彼女はぼくに背を向けて歩きだした。
ぼくの腰は中々のダメージを負ったみたいで、立つことすら厳しい。
彼女との距離はどんどん離れていく。
「置いていくわよ」
「あ、はい……」
厳しいな。
助けてもらったから口答えは出来ない。
ぼくは何とか立ち上がり、彼女の背中を追いかけようと足を動かした。
腰に手を当てながらゆっくりと歩くが、やはり彼女との距離はどんどん離れていく。
「…………」
すると、彼女がその場で止まった。
ぼくの歩く遅さに合わせてくれているのだろうか。
「この反応……後ろ!?」
ぎょっとした顔で、彼女が勢いよくぼくの方へ振り向いた。
視線はぼくに向けられているものではない。
後ろだ。
思わず、ぼくも後ろを振り向いた。
「っ…………!?」
絶句。
声を出す時間すらなかった。
___何故、魔獣がそこにいるんだ?
魔獣と目が合った。
ほぼゼロ距離、大きく開いた口から見える闘争心を剥き出しにした牙が、ぼくに向かって襲いかかろうとしていた。
『腕を出せ、救世主』
「……!?」
頭の中に響く声。
この場にいる言葉を紡ぐことのできる生物はぼくと彼女の二人だけだ。
この声はなんだ?
『食われたいのか。いいから腕を魔獣に向かって突き出せ』
もうどうにでもなれ。
ぼくは右腕を突きだした。
___鮮血、激痛。
ぼくはそのまま魔獣に押し倒されるように地面へ叩きつけられた。
だが、魔獣はそのまま右手を咥えたまま動かない。
右腕は一瞬にして咬み千切られ、ぼくの身体から消えてなくなった。
同時に、ぼくの意識も消えようとしていた。
「貴方……その魔術……」
彼女が近づいてくる。
そして魔獣に触れてこう言った。
「こちら12号機。緊急の報告。例の人間らしき人物を発見。…………人間の腕を食った魔獣が、死んだ」
「……え」
その言葉にぼく自身が驚いた。
死んだ?何故?咬まれたのはぼくなのに?
「……連れて帰れって、私が人間が嫌いなこと分かってるわよね?正直嫌なんだけど」
何かごちゃごちゃ言っているが、詳しく聞き取れなかった。
耳が限界を迎えている。
人間が嫌いっていう言葉だけ辛うじて聞き取れたくらい。
そういやぼくに対して結構冷たかったなと思い返した。
まぶたも重くなってきた。
「……分かった。この件は貸し、絶対に、後で、返して貰うから」
そこで、ぼくの意識は途切れた。
「こんなところで……救世主かもしれない人間に出会うなんて」
彼女はそう呟いた。
その声は、もうぼくには届かない。