勉強する、ということ
物語を綴るうえで、世界を知る、ということは大変重要な意味を持っている。
例えば電車の乗り方を知らない者が、どんなに頭をひねって電車に乗るシーンを書こうとしても、必ず何か首をかしげるような描写が生まれてくる。誰かが言った言葉の中に「物語の登場人物は作者の頭の良さを超えられない」という言葉があったが、それは創作世界のすべてに言えることだろう。
一番簡単に描写を厚くするなら、それは経験を詰むことが最も適しているだろう。人間というのは感情を持っている者だから、その経験に付随する感情も知ることができる。例えば行列で待たされる人は、何が辛く、何にいら立つのか、自分が体験してみれば、少なくとも自分という一人の人間が抱く感情を把握することができるし、周囲の状況から察することもできるだろう。
しかし、世界というのはあまりにも広く、経験だけで把握することはどだい不可能である。だからこそ、勉強する、という行為は極めて重要になる。いわゆる基礎教養でさえ、先人が組み立ててきた何千年という理論体系をたかだか百ページ程度に濃縮した英知の集大成なのだ。歴史の教科書にしても、目の前の一冊で、数千年分の時の流れを追体験することができるのだ。
俺はこの道で食っていくから勉強は必要ない、というのは大変にもったいない考え方だ。勉強は、実は自分が世界で初めて考えたと思った事象は、実は何百年も前に先人がすでに解明していたただの歴史に過ぎないことを教えてくれる。
創作をするにせよ、起業するにせよ、先人の知恵をおろそかにすれば、恥ずべき結果が残されることになるだろう。