善意の殺され屋
アール氏の生業は殺されることだ。彼の事務所を訪れた人は次のような説明書きが掲示されていることに気付くだろう。
〈こちらは、「善意の殺され屋」です。ストレスが溜まり、苛立ちを抑えられない方、心の底から憎んでいる人がいるのに、殺すほどの勇気がない方、なんでもいいからエキサイティングなことをしてみたいと思っている方、私、「善意の殺され屋」を殺してみませんか? 料金は殺害方法や時間帯によって変動しますので、ご了承ください。なお、この「殺され屋」の仕事柄、善意に基づく対応のみとなることにご留意ください〉
クリスマスを過ぎたある日、一人の女性がアール氏の事務所を訪ねてきた。なんとも派手な服装で、高級ブランドらしきバッグを肩から下げている。
「あの、すみません。アールさんを殺したいのですが……予約などは必要なのでしょうか?」
緊張しているのかこわごわと声を掛けた。
「どうされました? 職場の人間関係のトラブルですか?」
飲んでいたティーカップをデスクに置き、アール氏は女性のほうに向きなおった。デスクにはサングラスも置かれている。
「そうだとも言えますが、そうではないとも言えます。私、見ての通りキャバ嬢なんですが、最近よく来る客に、ハゲでデブのおっさんがいるんですが、ここ三日程、毎日誘われているんです。もうそれが気持ち悪くて気持ち悪くて、耐えられなくなってるんです。でも、店のためを思うと追い返すこともできなくて……」
「なるほど、なるほど。わかりました。それで貴女は私を殺したいんですね? その中年男の代わりに」
アール氏は訊いた。女性は頷き、こう言った。
「場所や日時などはそちらの都合で決めてもらって大丈夫なのですが、私が働いている店の客とかに見られたら困るので……」
「いやいや、そんな心配は御無用です。我々はプロの殺され屋ですから。絶対に目撃されることはありません」
アール氏は徐にサングラスをかけ、ゆっくりと、威厳を持って請け負った。
その後、アール氏は女性と日時や場所の相談をし、細かい段取りを詰めた。
「それでは、最後に、今回のご依頼が双方の善意に基づくものであることの確認をお願いします。この殺され屋という職業は、善意の上に成り立っているものですから……」
そう言うと、アール氏は引き出しから誓約書を取り出した。サインを書き終えた女性がふと尋ねた。
「あの、そういえば、一つだけお願いがあるのですが、できれば私が殺す際に、アールさんにはあのハゲの顔に似せたマスクを着けてもらいたいのですが……」
「もちろんですよ。そちらは無料のサービスの一つになります。よろしいですか?」
「大丈夫です! あとで写真を送ります」
女性は「やったー」と小声でつぶやくと晴れ晴れとした表情で事務所を後にした。女性が出ていくや否や奥の部屋から部下が顔をのぞかせた。大げさにため息をついて尋ねる。
「アールさん、あんな頼みを聞いてよかったんですか? マスクを作るのって結構金がかかりますよ。無料だなんて嘘をついて……」
「良いんだよ。なんてったってここは『善意の殺され屋』なんだから、善意が大切なのさ」
自分の発言に失笑しながらアール氏は答えた。
約束の日。アール氏は事前に決めておいた「殺害場所」に到着した。ここでサスペンスドラマの撮影をする、という名目で、周囲の人々を遠ざけてある。少し待つと、女性が姿を見せた。燃えるような紅のドレスを着ている。事務所を訪れた時の派手なメイクと同じはずなのに、その表情は復讐の念に燃えていた。
「こんなスリルも「殺され屋」の醍醐味だ」
アール氏は呟いた。
アール氏の部下が、代金と引き換えにナイフを渡す。女性はめった刺しを望んでいた。ナイフの滑らかさを試すように、女性は刃に沿って指先を走らせた。右手でナイフをきつく握りなおす。距離は三メートルほど。あたりには女性の殺気が立ち込め、アール氏には空気が極端に薄くなっているように感じられた。
「いつでも大丈夫ですよ」
アール氏は落ち着いて声を掛けた。
「わかっています」
女性の声は凛としていたが、端々から荒んだ気持ちが見え隠れしている。
深く息を吸い、女性はこちらに向かって走ってきた。右手に握られたナイフが、アール氏の心臓に引き寄せられてゆく。そのままナイフはアール氏の胸に突き刺さった。めった刺しにしやすいよう、アール氏は道路に倒れてやる。いつも通り、痛みは少しも感じなかった。即座に二発目がアール氏を襲う。今度は下腹部に刺さる。ナイフを引き抜いたその勢いを正反対に転換し、アール氏を見据える女性の目。三度目、正確にアール氏の首へ突き立てた。荒い呼吸を抑えながら、もう一度心臓のあたりを刺す。それから数分間、アール氏はナイフの雨にさらされ続けた。もちろん、着ているスーツは血まみれだが、アール氏にとっては、痛くもかゆくもなかった。
「ありがとうございました。お陰で、もうあのハゲに対するイライラは収まりました。なんか、無残な姿にしてしまってごめんなさい」
女性は、血にまみれたナイフをアール氏の部下に返し、お辞儀をした。そして、軽やかな足取りでその場を去った。付着しているはずの血潮は、紅のドレスに紛れてわからなくなっていた。空を見上げると、雪が降り始めていた。大雪になりそうな予感がする。積もった雪が解けるころには、血痕も消えているはずだ。
みるみるうちにアール氏の傷は治り始めた。部下が停めてあった車から水とタオルを運び出して、アール氏の血を拭う。すっかり元通りになったアール氏は服を着替えた。なぜ傷の回復が異常に早いのか、アール氏自身にも理由は分からなかったが、血友病の逆だ、と自分を納得させていた。
プルルルルッ、プルルルルッ。三が日が終わり、営業を再開したばかりのアール氏の事務所に、突如電話の着信音が鳴り響いた。設置してあるものの、番号は公表していないため、電話がかかってくることはめったになかった。不審に思いながらもアール氏は受話器を持ち上げた。
「はい、こちら『善意の殺され屋』です。ご依頼は、直接店舗での相談のみとなっております、申し訳ございません」
そう言って電話を切ろうとすると、相手は静かに口を開いた。慎重に言葉をつなげている。
「そう硬いことは言わず、ここは一つこちらの頼みを引き受けてはくれまいか? この話はお前にとっても損な話ではないはずだ」
好奇心に負け、アール氏は再び受話器に向かって話した。
「どういう頼みだ。その態度は人にものを頼む態度ではないと思うが?」
「まあ、それは気にするな。話というのはだな、端的に言うと……人質になってほしい、ってことだ」
「は?」アール氏は思わず聞き返した。
「人質になってほしいんだ。俺たちは、名前を明かすことはできないが、あるテロリスト集団だ。ここからはお前を信頼して言うが、俺たちはもうすぐ、大規模な施設を占拠する。その際に警察を怖気づかせるために人質がいるんだ。お前なら、こちらは何度でも殺せるんだ。服を変えて髪型を変えれば、定期的に見せしめとして殺せる。これは必ず警察の抑止力になるはずだ。まあ、それからのことはお前には教えられないが、これだけは確実だ。別に、お前の役目が終われば帰してやる。報酬は前払い。お前の希望通りの額を出してやろう」
アール氏は話を聞き終えるとすぐに言葉を返した。
「お断りだ」
「なぜ? これほどいい条件を出してやっているんだぞ」
「理由は簡単だ。私は善意でしか仕事をしたくない。いくら報酬を積まれようとそれは揺るがないぞ。私の体は善意でしか動かない。もちろん、人質になることに善意はひとかけらもないのだから。決して金儲けがしたくてこの仕事をしているのではない。さらに断る理由があるとすれば……」
「……なんだ?」
毅然としたアール氏の返答に、相手は狼狽えながらもなんとか言い返した。
「もう一度注意させてもらおう。お前の態度は人にものを頼む態度ではない。せめて、その見下した態度をやめることだな」
「なんだと……! おい、お前、ここまで俺たちの計画を知ったからには、命はないものと思え」
捨て台詞を吐いた相手は、勢いよく受話器をたたきつけたらしい。「ガチャッ」という音がやけに大きく聞こえた。
それを聞いたアール氏は大笑いをしていた。
「ワッハッハ、聞いたか? 命はないものと思え、だってよ。どうやって俺を殺すっていうんだ? 何度でも生き返るのはお前らも知ってるだろ。ワッハッハ、こりゃ傑作だ。何度でも殺せるって言ったのはどこのどいつだ。ワッハッハ」
そんなわけで、今でもアール氏の「善意の殺され屋」はどこかでひっそりと営業している。双方の善意が確認されれば、きっと喜んでアール氏は殺され屋になってくれるはずだ。
(了)