まど
「わかったよ、じゃあ別れよう」
乱暴にドアを閉めてから、やってしまったと思った。きっかけは、些細なことだったと思う。それからどんどんヒートアップして、陽菜の友人関係とか大学の単位とか余計なことまでたくさん言ってしまって、ついに付き合ってから一番の大喧嘩になって、陽菜の部屋を飛び出してきてしまった。ついさっきまで言い合いをしていたから、興奮がいまだに抜けきらない。スマホに表示される陽菜からの通知だけでうんざりする。確かに、別れようというのは言いすぎたかもしれないけど、今は互いに冷静じゃない。少し夜の街を歩いてこよう。エントランスへ降りるエレベーターの音がやけにいつもより響いて聞こえた。街灯が照らす静かな道に足を進めていても、陽菜との喧嘩が何回も頭の中で鳴り響く。やっぱり、別れようなんて言うべきじゃなかった。陽菜も今は1人になりたいだろうし、1時間くらいその辺を散歩して、互いに落ち着いた頃に戻ろう。そう思って、僕はひたすら足を進めた。
ふと、この間コンビニで、新作のアイスが出たらしいって陽菜が喜んでいたことを思い出した。せっかくだしちょっと高いけど買ってみようか。僕は、方向転換をしてコンビニに入った。アイスの新作ってこんなに種類あるのか、せっかくだからいくつか買っていこう。このチョコレート、前に好きだって聞いた気がする。このミルクティーは、いつも陽菜が飲んでいるやつだ。結局、僕は両手に袋を抱えてコンビニを出ることになった。ちょっとまぬけな感じもするけれど、これで陽菜が喜んでくれるなら全然構わない。僕は、さっき出てきた時よりも随分軽い足取りで、陽菜の家に向かった。雨上がりの道は、水溜まりと道路脇の側溝に街の光が反射して幻想的だ。こんなに綺麗なら、7月に入ってもまだ梅雨が終わらなくても少しだけ許せるかもしれない。僕は、陽菜の家へ続く最後の曲がり角に一歩を踏み出した。瞬間、眩しいライト、アスファルトを擦る鋭い音。視界が真っ白になる。気付いた時には、僕は、道に座り込んでいた。何が起こったのか分からなくてしばらく呆然とする。そうか、轢かれかけたのか。一瞬のことだったから、ついさっきの出来事なのに記憶が曖昧だ。思えば、さっきのライトは車のもので、甲高い音はブレーキを踏む音だったのかもしれない。不意に恐怖感に襲われる。まさに、九死に一生だったのかもしれない。コンビニの袋は、気がついたら持っていなかった。側溝に落としたのかもしれない。探してみたけれど、真っ暗な水の中には、もう何も見えなかった。最悪だ。けれど、もう一度コンビニに戻る元気はもう無かった。陽菜はまだ、怒っているだろうか。多分、誠意を込めて謝れば許してくれるはずだ。そうじゃないと困る。今度こそ気をつけながら角を曲がると、陽菜の部屋の窓が開いて、桃色のカーテンがひらひらと揺れていた。陽菜は、ちょっとでも怒るとすぐに窓を開ける癖があって、よく「空気と一緒に気持ちを入れ替えるの」なんて言っている。そろそろ気持ちが全部入れ替わった頃だろうか。僕は、落としてしまったアイスのこともすっかり忘れて、玄関の扉を叩いた。何度か叩くけど、返事がない。寝てしまったのだろうか。ドアノブを回すと、鍵は開いていた。
「ただいま」
返事がない。玄関には、いつも陽菜が履いているサンダルがなかった。どうやら、出かけてしまったらしい。陽菜も頭を冷やしに行ったのだろう。
「不用心だなあ」
陽菜に会った時の謝罪の言葉を何通りも反芻していた僕は、肩透かしをくらってしまい、どうにもしようがなくなってしまった。なので、陽菜のお気に入りのぬいぐるみを勝手に使って不貞寝することにする。鍵の締め忘れの危なさについては、後でお説教が必要だな。謝罪と説教って果たして両立できるのだろうか。僕は、面倒くさくなってうさぎに顔を埋めた。起きたらまた考えよう。
玄関の開く音で目が覚めた。随分と寝ていた気がするけれど、ようやく陽菜が帰ってきたみたいだ。寝ぼけた頭を振りながら立ち上がり、陽菜におかえりと言うと、まるで聞こえてないかのように陽菜はそのまま僕の横を通り過ぎて浴室に行ってしまった。まさかの無視である。もしかして、まだ怒ってるのだろうか。さすがに浴室まで着いて行くわけにも行かず、僕はただ困って立ち尽くすしかなかった。陽菜はすぐに髪を濡らしたまま戻って来た。そして、また僕を完全にスルーして椅子に座る。かなり疲れた様な表情の陽菜は、覇気のない表情で俯き、
なんだか声をかけてはいけないような雰囲気を纏っている。しかし、そうも言っていられない。2人だけの8畳間は重い沈黙が支配していて、はっきり言ってとても気まずい。僕は、勇気を振り絞って陽菜に遠慮がちに口を開いた。
「えっと…さっきは」
ごめん、と続けようとした言葉は、陽菜がついた大きなため息で完全にかき消されてしまった。どうしよう、めちゃめちゃ怒っている。ここまで怒っている陽菜を見るのは初めてかもしれない。覚悟を決めて、僕は、90°に頭を下げた。
「本当にごめんなさい!!」
バイト先でも見せたことのない完全なお辞儀だ。視界の端に、陽菜の綺麗に爪がピンクに塗られた足が見え、固唾を飲んで動きを見守った。陽菜はゆっくりと立ち上がり、僕に数歩近づき、そして止まる。なんて言われるだろうか。顔をあげると、陽菜は置いてあったペットボトルから水を飲んで、僕に一瞥すらくれずにベッドに入って電気を消してしまった。
とてつもなく華麗に無視された!僕は、もはや腹が立ってきた。あんなに怒るほどじゃなくないか?たしかに、捨て台詞をいったのは僕だけど、陽菜だって何度も僕にいろんなこといってきたのに、目も合わせないなんて。陽菜がこんなに頑固なんて、知らなかった。こうなったらとことん付き合ってやる。僕は、とりあえずきちんと鍵を閉めて窓を閉じて陽菜の部屋を出た。かくして、僕と陽菜の戦いの火蓋は切って落とされた。
あれから、僕は何度も陽菜に会いに行った。大学の学食、お気に入りの図書館、帰り道、バイト先。全部、失敗だった。陽菜はたいてい僕の話を聞こえないふりを決め込んでいた。時々、戸惑ったように目をあげることはあったけれど、僕がここぞとばかりに話しかけると、また深く俯いたかと思うと立ち上がってすっと横を過ぎて行ってしまう。このままでは陽菜に取り合ってもらうより先に周囲にストーカーとして訴えられてしまう。というか今まで通報されてないのが不思議なくらいだ。焦りを感じた僕は、話すだけでは駄目なのかと思い、読んでいる本の栞の位置を変えてみたり、クッションの位置を全部入れ替えてみたりと些細な悪戯を何回も試みたが、陽菜は眉ひとつ動かすこと無かった。表情筋まで頑固なのか。あっという間に、僕は万策が尽きてしまった。もう喧嘩から何日たったのかも分からないくらい、陽菜との攻防は続いている。そろそろ、精神的に限界が来そうだ。もはや陽菜の前で泣いてないのが不思議なくらいである。
ふと本棚に置いてある便箋が目に入った。会話で無視されるのなら、手紙を書けばいい。僕は、便箋を手に取ってポールペンを握った。手紙を書くなんて、小学生以来かもしれない。一体、何を書けばいいんだろうか。手汗でボールペンが滑る。しかし、手紙を書いてこの喧嘩を終わらせなければならないという使命が僕にはある。終わらせて、また陽菜の名前を呼んで、抱き寄せて、幸せな日々を過ごすのだ。そうだ、せっかく書くのなら、この際、普段恥ずかしくて言えないようなことも書いてしまおう。人生で初めてのラブレターだ。字が綺麗じゃないとか、無粋なことは言わないでほしい。
陽菜へ
手紙なんて書くのは、ものすごく久しぶりですが、急に思いたって書いてみることにしました。拝啓とか敬具とか、手紙のマナーは小学生の時に習った気がするけど、完全に忘れてしまいました。とにかく、書きたいことを書きます。適当なんだからって呆れている陽菜の顔が目に浮かびますが、細かいことには目をつぶって許してください。
僕は、陽菜のことが好きです。突然だけど、いま改めて伝えたくなりました。高校で初めて会った時から、受験に入って全く連絡をとらなかった時、大学の入学式でまた再会して、偶然家も近くて、驚いた時。それから、次第にお互いに部屋を行き来するようになって、告白して。本当に、陽菜と出会えてよかった。
せっかくなので、今から陽菜の好きな所を挙げます。
まず、陽菜の優しいところが好きです。確かに、陽菜はいつも頑固だしすぐ拗ねるけど、僕が言って欲しくないことは絶対に言わないし、友達のこともいつも気を使って、傷つかないように考えてる。そういうところが、好きです。
陽菜の、努力家なところが好きです。毎日夜遅くまでレポートやって、たくさんバイトもして。見た目も、高校の時から、見違えるほど綺麗になったと思う。メイクも上手くなって、服も大人っぽくなって。僕の知らないところで、たくさん努力したんだと思う。本当に綺麗でかわいい、僕の自慢の彼女です。
髪が好きです。僕が友達に何気なく短い髪が好きって言ったから、切ってくれたこと、実は知っています。今の髪型、とっても好きです。でも、正直陽菜なら髪が長くたって好きなんだよ。触るとさらさらして指から零れていくのがとても気持ちよくて、本当は毎日髪を乾かしてあげたい。
背の低いところも好きです。ハグした時に、旋毛しか見えなくなっちゃうの、すっごい可愛い。その代わり、いつも陽菜の口紅が僕のシャツに付くけど。
声が好きです。自分では可愛くないって言うけど、普段の落ち着いた声と、眠くなった時の可愛い声のギャップが好きです。焦った時だけ、声が高くなるのも可愛い。怒った時のちょっと低い声も、可愛い。
だから、そろそろ陽菜の声が聞きたいです。陽菜が僕を呼ぶ声が、聞きたいです。
本当にあの時はごめん。別れたいなんて、そんなこと思ってるわけないのに。
何度でも謝るから、もう無視しないで欲しい。
陽菜の部屋で待ってます。
陽菜は、手紙を読んでくれただろうか。直接渡すのはなんだか恥ずかしかったから、大学でいつも陽菜が座っている席に置いてきてしまった。僕は、陽菜の部屋で手持ち無沙汰になりながら陽菜のことを待った。真っ暗な窓の外には、冷たい雨が降っている。夏にしては珍しく、窓が薄く結露していた。そろそろ梅雨明けが待ち遠しい。陽菜はいつも、湿気で前髪が崩れるのを気にしていた。それにしても、いつまで待てばいいんだろうか。時間指定するのを忘れてしまった。そもそも、ここは陽菜の部屋だから待っていれば絶対に帰ってはくるのだけど。僕は、静かに秒針を鳴らす時計を眺めて、ため息をついた。もし、陽菜が手紙を読んでくれていなかったら、もし気づいていなかったら、気づいていたとしてもバイトだったら、僕はここでしばらく待ちぼうけをくらうことになる。とりあえず雨がやむまで待って、それでも帰って来なかったら帰ろう。そう決めて、伸びをした時、玄関の扉がものすごい勢いで開いた。
部屋に、びしょ濡れの陽菜が飛び込んでくる。息切れしながら、ただこちらを見つめる彼女に、僕は微笑んだ。
「陽菜」
僕は、そっと陽菜に歩み寄った。こんなに濡れてしまって、風邪ひいてないだろうか。そんなに急がなくてもよかったのに。ゆっくりと陽菜に腕を伸ばす。早く抱きしめたい。そして、僕の腕は陽菜に触れることはなく、通り抜けて空を切った。息がつまる。突然のことに、理解が追いつかず、僕はただ自分の腕を見つめるしかなかった。
「ゆうくん、そこにいるの」
陽菜は、皺がよるほど手紙を握りしめながら、そっと部屋の中央に向かって歩いた。違うよ、陽菜、僕はここだよ。声は届かず、陽菜は僕のいない場所をみて声を震わせる。
「手紙、かいてくれたの」
陽菜はそっと手紙に視線を移し、心を落ち着けるように息を吐いた。
「嬉しかった。こんな風に、思ってたんだね」
確かに、僕は普段から素直に気持ちを伝えられていなかったかもしれない。陽菜に、こうやって改まって手紙を書くのは初めてだ。もちろん、こんなラブレターを書くのも。
「ねえ、こんな手紙、どんな顔して書いたの」
「うーん、多分見せられない顔。いまも、まだちょっと恥ずかしい」
「私も、ゆうくんの声が好き。」
「そうだったの。まあ、僕も今まで言ってなかったんだけど。」
「ねえ、いますぐ抱きしめてほしい。いまはメイクしてないから、リップつかないよ」
「あ、あれ怒ってるわけじゃないんだよ!」
「キスもして」
「そんなこと陽菜から言ってくるなんて、珍しいね」
「仲直りも、したい」
「……陽菜」
陽菜の瞳は、もう完全に潤んでいて、目を伏せるのと同時に、電球に照らされた雫が、溢れた。
「ねえ、どうして死んじゃったの」
どうして。切ない声で何回も繰り返す陽菜に、やっぱりそうだったのかとぼんやりと思う。おかしかったのだ。ずっとあんなに無視してくることも、やけにいつもより無口なことも。いくら喧嘩したからといって、陽菜はあんな冷たい態度をとるような人間じゃなかった。ずっと気にかかっていた違和感が腑に落ちたのを感じる。そして、あの日コンビニの帰りに陽菜の家に向かう途中の道を思い出す。そうだった。あの時、衝撃と同時に襲ってくる熱さのような痛みに、だんだん頭が重くなって、寒くなって、そんな中思い浮かんだのは陽菜のことだった。会いたかった。顔を見て、抱きしめて、キスがしたかった。ごめんねっていって、また嬉しそうに笑う陽菜の顔が見たかった。誰かが大丈夫ですかとかしっかりしろって言っている声が聞こえた気がしたけれど、陽菜のことを考えたまま、僕の意識は暗転していった。ただ、陽菜への想いが捨てきれなくて、僕は、完全にここからいなくなることができなかった。
「あのね、ゆうくんがいなくなってからも、時々ゆうくんの気配を感じてたの。」
陽菜は、曇った窓ガラスに手を置く。集まった水滴が幾筋もガラスを流れ、滲む夜景に映る陽菜は綺麗だった。僕は今度こそ陽菜の視界の真ん中にくるように、窓際の反対側の端に立つ。陽菜の顔がよく見えて、視線が合うのは感じたけれど、その目は僕を通り抜けた後ろ側だけを映しているのが、どうしようもなくやるせなかった。
「大学で、ゆうくんの香りがした気がしたし、栞が動いてることも、クッションの位置が変わってたのもほんとはちょっと気づいてた。でも、勘違いだって、都合のいい妄想だって、ずっと信じられなかった。……ねえ、ほんとはずっと居てくれたの。仲直り、しようとしてくれたの」
なんだ、気づいてたのか。僕のやったこと、全部無駄だったのかと思ってた。
陽菜の髪がふわふわ揺れて、まっしろな手が顔を覆う。
「あんな喧嘩が最後になるなんて思ってなかったの」
僕もだよ。ひどいこといって、本当にごめん。あんなことなら、恥ずかしい告白でもなんでもいいから、陽菜に好きだって言いたかった。
「後悔ばっかりしてる。あの日から。私の家、来てくれようとしてたんでしょ。」
うん、両手いっぱいにコンビニの袋持ってね。貢いでるみたいでちょっと恥ずかしいけど。
「あの日、救急車に運ばれていくゆうくんの周りに散らばってたの、全部わたしの好きなお菓子だったんだもん。びっくりした。」
あはは、あれやっぱり好きだったんだね。新作アイスも、結局食べられた?
「ねえ、ほんとうは別れたくないんでしょ」
当たり前じゃないか、別れるなんて絶対いやだ。
「別れないって言って」
別れないよ。
「お願い、ゆうくん」
別れないってば。
「どうして返事してくれないの、ゆうくん」
……僕の声は、陽菜には届かない。もう目が溶けちゃうんじゃないかってくらいの涙を流しながら、どんどん声を詰まらせる陽菜を見ているだけで、僕まで泣いてしまいそうになる。ほんとうは、ここにいるのに。窓から、雨の音が静かに聞こえる。僕は、窓にそっと指を這わせた。
誰の声もない部屋で、わたしはゆうくんからの返事を待った。大好きなゆうくん、優しいゆうくん。ほんとうは、もう返事なんてこないってわかってるのに、どうしても諦めきれなかった。その時、窓が優しく振動して、曇ったガラスに、指でかいたような文字が浮かぶ。
『陽菜』
思わず、目を見開いて部屋を見渡す。見慣れた部屋には、誰の姿もない。
「……ゆうくんなの?」
『そうだよ』
「ほんとうにいた……」
立っていられなくて、床に座り込む。いまここに、ほんとうにゆうくんがいる。
『おばけだよ、こわい?』
ちょっと楽しそうに歪んでいる文字に、わたしは泣きながら笑う。
「こわいわけないじゃん、ゆうくんだよ。」
『ひどいこといってごめん』
「いいの、わたしもたくさん酷いこといっちゃったし」
『あんなの、全部嘘。ほんとうは、陽菜のことが大好きだ』
「知ってる。わたしも。」
窓を伝う水滴に、わたしはハッと顔を上げた。ゆうくんが書いた文字に水が滲んで、始めの方にかいた文字がもう消えかけている。
「ゆうくん。もう行っちゃうの」
『わかんないけど、もしかしたらそうかも』
「いっつもそうやって曖昧なんだから。」
『ごめんね、』
「行かないで」
『ごめん』
もう、その字も流れる水の跡にかき消されそうだった。
『別れるつもりはいっさいないから』
「うん」
『ずっと好きだよ』
「うん」
『忘れない』
「……うん」
もうゆうくんの文字の半分くらいしか見えない。
『陽菜、好きだよ』
最後に浮かんだその文字は、すぐに夜の街の灯を飲み込んだ雫となって消えた。
『わたしも』
わたしが窓に書いた文字は、微かに跡を残しながら消えていった。雨の音は、もうほとんど聞こえない。