6 特務襲来
ショウが目覚めたのは昨日同様、早朝のざわめきによってだった。まだ眠っているマルたちとともに、昨夜はコープマン食堂で最終時報となる20時の鐘が鳴り終わったあとも騒いでいた。そのおかげで寝床を確保できずに床で寝るハメとなったのだが、疲れは残っていなかった。ツァーレ・モッラに頼んだ回復魔法のおかげである。
アキトシとリーバも目をこすりながら起き上がり、アカリも「うるさいなぁ」とボヤきつつダルそうに上体を起こしていた。マルは自分のカバンを抱きしめてイビキをかいている。
アイリは二日目特権で板の間で寝ていた。手には縫いかけの服が握られている。ショウがケリーの倉庫からもらった物だった。
一度伸びをして、ショウは立ち上がる。アイリとマルを起こして依頼分配集会――とショウが勝手に名づけた――に出なくてはならない。
一日の開始を告げる6時の鐘が鳴る。異世界人管理局・一階エントランスホールには召喚労働者たちが集い、本日の依頼案内当番のベル・カーマン嬢がおっかなびっくり受付台に上がるのを見守っていた。ちなみに彼女の年齢はツァーレ・モッラとパーザ・ルーチンのちょうど間で、背の高さも二人の中間であった。受付としての能力は際立ってよくはないが、不足もない。ワーカーたちからの評価は『普通の人』である。ただ、その普通さが落ち着くという理由で隠れファンは少なくない。なお、恋人の有無については不明である。
「みなさん、おはようございます」
律儀に頭を下げるベル。つられてなぜかほとんどの人間が頭を下げている。なんとなく小学校の先生を思わせるのだ。
「今日はみなさんにとても大切なお話があります」
新人たちを除いて一同がザワめきだした。このはじまりを『知っている』のだ。
「特務が来ました」
やはり新人以外がざわめく。その顔は人によって異なり、不安を駆り立てる者、陽気に口笛を吹く者、何かに祈る者と、反応が違い過ぎてショウたちは困惑するしかなかった。
手の早いマルが、近くで頭を抱える先輩の肩をつかんだ。
「おい、特務ってなんだよ!?」
先輩は「すぐわかる」とため息を返した。
「はい、静かにしてくださいね。特務についてわからない新人さんもいらっしゃるので、改めて説明します」
ベルがゆったりとした声で話しはじめた。
特務とは特殊任務の略で、民間からの依頼ではなく、国や都市などの公的機関から持ち込まれる案件だった。仕事はさまざまあるが、主には魔物討伐や要人警護、かわったところでは偵察任務などもある。機密性が高く、受けた依頼については他言は禁じられている。もし破った場合は最悪、死刑もある。
「――と、いったように、とても大切なお仕事です。そのぶん報酬も高めに設定されていますので、みなさん、ご参加のほうよろしくお願いいたします」
ベルはお辞儀をした。
「へぇ、カッコいいじゃん。けど、オレたちみたいなペーペーには関係ないな」
マルの感想はショウも同意するところだった。
「では、肝心の特務内容ですが――」
ベルの次の一言を待つ間、周囲からは生唾を呑む音がいたるところで聞こえた。
「コードOBTです」
阿鼻叫喚に変わった。期待していた者も、不安を感じていた者も、祈りを捧げていた者も頭を抱え、嘆いた。もちろん、ホールにいる全員が理解しているわけではない。特務だけあってコードOBTの内容を知らない者のほうが多く、この騒ぎの異様さにヒいている。
ショウたち初心者もその仲間だ。
「な、なんだよ!? そのコード・おーびーてぃーって」
マルが膝をついて絶望する先輩召喚労働者の胸倉を掴んで迫る。
「言えない……。教えたいが言えないんだ……。言ったら、言ったら……」
「特務の掟ってやつか……」
ショウたち初心者チームは恐ろしさに震えた。
「今回の募集人数は三名、任務期間は本日8時から明日18時までとなります。報酬額は50銀貨です。では、参加者を募集いたします。我こそはと思う方、挙手をお願いします」
にこやかに促すベルに対し、集会場は静まり返っていた。それどころか彼女のほうを見もしない。
ショウたちも沈黙を保っている。そもそも初心者にできる仕事ではないのだから、蚊帳の外だと思っていた。
「……誰もいらっしゃらないようですね。では、特務規定により、強制選出を行います」
周囲で安堵の声が広がる。強制的に仕事をさせられる可能性があるのに、なぜか一様に「助かった」と胸を撫で下ろしていた。そしてその眼は、なぜかショウたちに注がれている。「気の毒に」というつぶやきもあった。
「なんだ、なんなんだよ?」
マルでさえ、異様な雰囲気に後ずさりする。
「では、レベル1の方で、この地に72時間以上滞在している方、挙手の上、前に出てきてください」
「は?」
ショウは耳を疑った。なぜ最下位レベルが呼ばれるのだろう。しかも滞在時間まで指定で。わけがわからないが、ショウ、マル、アキトシ、アカリ、リーバの五人が前に進み出た。アイリの心配そうな顔をショウは見た。
「ジャンケンをお願いします。負けた三名が特務班となります」
「負けたほうなの!? これ絶対、ヤバそうな仕事じゃない!」
アカリが危機感を増して声を上げる。諸先輩は「あ、気付いちゃった」みたいな顔をしている。
「あ~、神様、あたしに力を!」
アカリが天を仰ぐ。
「どの神様にお祈りでしょうか? 今でしたら光の神様があなたを歓迎いたします」
神官でもあるツァーレ・モッラが印を切りながら勧誘する。
「あたしを勝たせてくれたら考えてもいいわ」
アカリはため息をついた。
「では、ジャンケン――」
ベルの掛け声に合わせて、五人がかまえた。
「ポイ!」
「なんと勝敗は一発! 一発で決定しました!」
近くにいた男が実況する。他人事なら楽しい。
「ちぇー」とマル。
「ホントにぃ?」とアキトシ。
「しょうがないか」とショウ。
勝者のアカリとリーバは、ハイタッチをして喜んでいた。
「では、特務班のショウさん、マルさん、アキトシさんは、二階の第二会議室で出発の準備をしてお待ちください。他の方は、通常の依頼をご紹介しますので、そのままで」
会場が緊張から解放された。見知らぬもの同士でも肩を叩いて喜びを分かち合っていた。
「なんだよこれ、新人イビリじゃねーの?」
マルが不平を漏らす。今回ばかりはショウも同意せざるを得ない。
「ショウさん」
アイリが人波を掻き分けてやってきた。珍しく切羽詰った表情だった。
「よぉ、今日はいっしょにメシも食えそうにないな」
「……うん。それと、あのね……」
「おい、ショウ、上でパーザの姉さんが呼んでるぞ。急げって」
マルが階段から顔を出して叫んだ。
「わかったよ。……じゃ、また明日な。たっぷり報酬出るから、メシ、奢ってやるよ」
「あの……、あの、ありがとうっ」
「まだ気が早いって。明日の晩飯、楽しみにしてろ」
ショウは手を振って階段を上がって行った。アイリはその姿は消えるまで、じっと見送った。
第二会議室にショウたち三名が入ると、待っていた受付嬢のパーザ・ルーチンが一人ずつに書類を差し出した。
「確認のうえ、サインをしてください」
三人は手にとって日本語訳のついた文章を読んだ。守秘義務に関する同意書兼契約書だった。本日8時から翌18時まで生活管理局での作業に従じ、その内容については一切の他言を禁ずるとある。反故した場合の罰則についても記述があった。
三人は胡散臭く感じてもサインせざるを得ない。特務を放棄すればそれはそれで罰則が待っているからだ。
「……はい、手続きは終了しました。このまま裏口から出て、待機している馬車に乗ってください。現場まで送ります」
「贅沢だなぁ」
「特務だからな。それくらいの役得はないとな」
マルは喜び勇んで部屋を出て行った。
裏口で待っていたのは馬車だけではない。早々に仕事が決まった召喚労働者たちの姿もあった。
馬車に乗り込む三名にしきりに声をかけてくる。「がんばれ」「くじけるな」「宿命だ」「泣くなよ」と励ましの声を多い。
「……おい、なんか本気で心配になってきたぞ」
「うわぁ~、すっごいヤな予感がするよぉ!」
「今回はマジでヤバイのか?」
見送られる三名には不安しか募らなかった。
最後に振り返ったショウは、もう小さくなった群衆の中にアイリを見つけた。何か叫んでいたが聞こえない。大きく手を振る彼女が、どこか物憂げに見えた。
馬車が行き着いた場所は、外区でも外れにある大きな施設だった。そもそもショウたち三人は外区へ来たことがない。就労レベル1の異世界人は内区と外区には立ち入り禁止だからだ。これは異世界人にとっても、中で生活する者たちにとっても安全のためである。滞在五日以上、就労レベル2で受けられる第二講習は、内・外区移動に関するものだった。今回は特務なので例外であり、それでも自由行動は許されていないので馬車での移動となったのだ。
「……なんか、臭わないか?」
ショウが鼻を塞いだ。
「ああ、する。つか、マジ臭い」
マルも鼻をつまんで呼吸を抑えている。
御者は何も語らず、マスクをして敷地内に入った。
建物の扉前で馬をとめ、三名に降りるように促した。
下車すると、馬車は何も言わずに街のほうへ戻っていった。
「なんだ、ありゃ。どうしろってんだ?」
「扉があるんだから、入れってことだろ」
ショウは扉をノックした。中から「どうぞ」という声が返ってくる。
「失礼しまーす」
扉を開け、中に入る。異世界人管理局のエントランス・ホールほど広くはないが、充分なスペースに20脚ほどのデスクが並んでいた。そのうちの一つに、先ほどの声の主らしき小太りの中年男性が座っていた。なぜか全身白装束である。
「依頼した召喚労働者だね。キミたちを担当するサミュエンだ。よろしく」
「こちらこそよろしくお願いします」
ショウが代表して応え、三人は頭を下げた。
「とりあえず扉はすぐ閉めて。となりの部屋で説明するから」
サミュエンは立ち上がり、となりに続く扉の前で三人を待った。
ショウたちは案内されるまま、隣室に入った。
ロッカールームらしい。鍵つきの木製ロッカーがいくつも並んでいる。
「中の服に着替えて。下着も手袋も頭巾もあるからね。下は胴長を用意するからサイズを教えてくれるかい?」
「胴長?」
「靴も一体になっている胸まであるズボンだよ」
サミュエンはおそらく何度も繰り返されてきたであろう問いかけに、ほぼ反射的に答えていた。
よくわからないままに、それぞれがサイズを伝える。彼らが全身を白備えで固め終わる頃、サミュエンが胴長を持って戻ってきた。
初めて見る胴長は、ショウには靴つきのオーバーオールに思えた。材質は何かの皮のようだ。微妙に臭い。
「では、作業の説明をはじめる。わたしはナンタン生活管理局・衛生管理課・課長のサミュエンだ。キミたちにはこれから、衛生業務に携わってもらう」
「衛生業務……?」
「平たくいえばウンコの処理だ」
課長は今までの硬い表情を一変させ、破願一笑した。
「「ウンコ!?」」
当然ながら三人は叫んでいた。この驚く顔を見るのが課長の楽しみの一つであった。
「左様。ここでは街の汚物を一括処理している。下水路から流れてくる物はもちろん、各家庭の回収物もね」
「ウンコ……」
アキトシはまだショックが抜け切れていなかった。
「普段は外区の労働者を雇っているのだが、今日は人手が足りなくてね。そこでキミたちの出番となったわけだ」
サミュエンは大笑いした。
「ウンコ……」
「この仕事は街を保つために絶対必要な仕事なんだぞ? キミたちだって汚物にまみれた街に住みたいとは思わないだろ?」
「はい……」
「こういう裏方がいるからキミたちは綺麗な街を見ていられるんだ。その感謝を込めて作業に従事してもらいたい」
「なんかうまくまとめられてる気がするぞ」
マルが不平をこぼすが、課長はまったく気にしない。
「仕事は仕事だ。嘆いたって終りゃしないんだ。ともかくやろう」
ショウは開き直った。考えても嘆いても逃げられはしないのだから。
「うむうむ、偉いぞ。ま、どれだけ働こうが町が滅びるまで永遠に続く仕事だがね。それはともかく、ではまずは軽く堆肥工場へ行こうか」
課長はロッカールームからさらに奥の扉を潜って廊下へ出た。
道すがら、サミュエンは処理場についての熱い想いを語った。
「昔は穴を掘って埋めていたのだが、町が大きくなるにつれ、それだけでは間に合わなくなっていった。キミたち異世界人の先輩たちが召喚されるようになり、この町に集まりだした頃だ。不衛生な町の惨状に彼らは我慢ならず、処理場の建造を訴え、完成させた。汚物を効果的に堆肥へと変える技術もそのとき教わった。昔はそりゃ臭くて汚い街だったよ。それが下水道や汚水処理場ができて以降、町は少しずつ綺麗になっていった。汚さに慣れていた住人の意識も徐々に変わっていったよ。今でも異世界人を嫌う住人は大勢いるが、わたし個人はとても感謝しているよ」
サミュエンの心情は、その長い語りから伝わってくる。三人は誇らしかった。自分はまだ何も成してはいないが、先輩たちのように語り継がれる人物になりたいと思った。
だが、その決心も扉が開くまでだった。
「くっせー! くせーぞぉ!」
マルが叫ぶ。
「そりゃ、ウンコだからな」
マスクを深く装着して、課長がうなずいた。
処理の第一段階を行うA施設。下水道から流れてくる汚水と汚泥を、フィルターを通して分別している。その後、汚水は処理場Bルートへ、汚泥はCルートへと送られていく。
「ここに一人……キミ、任せるよ」
騒ぎ過ぎたのが眼についたのか、マルが指名された。
「はぁ!?」
「フィルター付近が詰まりやすいので、そこの櫂を使ってほぐしてくれ。30分後とに10分休憩していいからね」
「おいおいおい、ちょっと待ってくれよ!」
「よろしく頼むよ」
「おいー!」
課長は「ほっほっほ」と笑って次の施設へ向かった。ショウとアキトシは「気の毒に」とは思ったが、他人事ではない。この施設にいるかぎり、ウンコは避けようもないのだ。
「汚水ルートの人手は足りているが、せっかくなので見学をしていくかね?」
課長は処理施設Bの扉を開いた。
臭いは先ほどよりはマシだが、マシなだけだ。嗅いでいて心地よいものではない。
「ここでは汚水を浄化し、水として川に流す処理をしている」
サミュエンが職員らしき人物を指差した。彼は両手を広げ、何事かつぶやいている。
「水の精霊を使役し、浄化しているんだ」
「……精霊も災難だ」
ショウの感想にアキトシも心底から同意し、見たこともない水の精霊に同情した。
課長は扉を閉め、本来のCルートへと歩を進めた。
処理場Cの扉を開けた途端、熱気が襲ってきた。
「ここでは送られてきた汚泥の水分を蒸発させる作業をしている」
床は少し傾斜がかかっており、鉄板が敷き詰められていた。処理施設Aから運ばれてきた汚泥が高所から落とされ、火でなぶられ、鉄板で焦がされ、水分を抜かれていた。
「この作業には火の精霊ががんばってくれている」
「水に続いて火もか……」
「まさかウンコを焼くために使われるとは思ってもいなかっただろうね……」
アキトシはさらなる同情を禁じえない。
「ここもキミたちの出番はない。次で一名だ」
課長は扉を閉ざし、汚泥処理施設Dへ。
次の場所は、多少の熱さを感じるが、それ以上に風があって快適であった。臭いさえなければだが。
「熱された汚泥を風の精霊が冷やして乾燥させているんだ」
「精霊さん、いつも人間のためにありがとう」
ショウは天を仰いだ。
「ではキミ、この鍬を持ってくれ」
「え?」
アキトシは壁に立てかけてあったそれを渡された。
「乾燥がスムーズに行われるように、流れてくる汚物を部屋中に満遍なく均して広げるんだよ」
「……はい」
アキトシはあきらめて作業をはじめた。
「で、最後にキミだ」
課長が手招きする。最後の施設Eに入った。一面、土で覆われていた。
「乾燥した汚物がこの土壌に撒かれる。キミは鍬で混ぜ合わせ、馴染ませる作業をしてもらう。地の精霊が汚物を発酵、熟成させてくれるから、その手伝いだよ」
「ああ、精霊はこうして世界を浄化してくれているんだ……」
ショウはもう、祈るより拝みたい気持ちだった。ふと脳裏に、未来世界に生きる青い服の少女の姿が浮かんだ。
「では、よろしく。時間ごとにベルが鳴るから、休憩はきちんととるように」
課長は廊下につながる扉を出て行った。
「こんな経験、日本じゃ絶対しないよな。そう思えば……やっぱりイヤだぁ!」
ショウは叫び、ガックリとしたのち、作業を始めた。
昼休みになり、三人は廊下で顔を合わせた。全員が死にそうな面持ちである。
「ゼッテーこれ、新人イビリだよな……」
マルの怒気には力がなかった。精神的ダメージが大きすぎたようだ。
「みんなが行かなくてすんで喜んだ理由がわかったよ。言えない理由も特務だからじゃない。言わない方がおもしろいとか思っていたに違いない」
ショウの心も荒み、汚れていた。精神にかかる苦痛はウンコを浄化するようにはいかないようだ。
「はぁ~……」
アキトシにいたっては話す気力すらない。
そこへ課長が来た。
「あー、キミたち、お疲れさん。食事は支給されるから、消毒処理を受けて休憩所へ行きなさい」
案内された部屋で強制的にシャワーを浴びせられ、雑菌処理に熱せられ、風でなぶられ、大地と草の香りに心が癒される。
「精霊さん、本当にありがとう!」
ショウは涙がこぼれそうだった。
休憩所には職員と思しき人たちが大勢いた。この町の下水を一括で処理しているのだから、多くの人がいて当然だった。けれどこの人たちがしている作業をほとんどの住人は知らないだろう。いや、それだけではない。家を建てる人も、荷を運ぶ人も、畑を耕す人すら知らずに暮らしている。知らない人が、知らない仕事をして、世界は回っているのだ。ショウはふとそんな当たり前のことに気付いた。それは今まで知らなかったのではなく、意識しなかっただけだ。そして気付いた今、いろいろな人に感謝したかった。ウンコの粉を全身に浴びて、彼は少し成長した。
「いただきます」
その言葉は、自然と出ていた。
「いっただきー!」
マルは食事を前に、持ち前の元気が戻ってきていた。
「この作業、明日の夕方まで続くんだよね……」
アキトシは食欲がわかなかった。いい具合に焼けたウィンナーがアレに見えて、余計にゲンナリする。
「さすがに連続ってわけじゃないだろ。寝る時間くらいはなきゃ、暴動起こすぞ」
マルがアキトシの皿からウィンナーを強奪する。食べる気もないので文句も出なかった。
その声が聞こえたのか、食事を終えたサミュエン課長が三人のテーブルに近づいた。
「もちろん寝る時間はあるよ。昼の作業は16時までだ。それから仮眠をとってもらい、深夜22時から別作業を頼む」
「別作業?」
マルが露骨にイヤな顔をした。どのような仕事でも、汚物に関するものに変わりないのはわかりきっていた。
「それはまた、開始時に説明しよう。午後も頼むよ」
彼は笑って去っていった。
「あのオッサン、クソの運河に投げ込みてぇ……」
「それじゃオッサンじゃなくて汚塗惨になるぞ」
「ブフッ!」
ショウのつまらないジョークに、アキトシはなぜかハマって噴出した。
16時となり、昼の部の作業が終了した。
三人はクリーン・ルームで消毒されたのち、風呂に入った。お湯の出るシャワーと、大浴場も完備されていた。ストレスと臭いを落とすように長々と湯に浸かり、充分に体を洗う。だが、染み付いた臭いはしばらく消えそうになかった。
早めの夕食をいただき、仮眠室で横になる。はじめはおしゃべりをしていた三人も、気がつくと眠りに落ちていた。疲れは確実に体に残っている。
ベルが鳴った。22時の夜業開始を告げる悪夢の音だ。
三人は飛び起き、急ぎ着替えて集合場所へ駆け込んだ。すでにサミュエン課長と数名の職員が待っていた。
「遅いぞ。早速ミーティングを始める」
サミュエン課長は遅刻者を一睨みし、すぐに本題へと入った。
「今夜の集荷は外区三番街だ。換えとフタを忘れるな。今夜のみ、班構成を変更する。一班ショウ。二班マル。三班アキトシ。それ以外はいつものとおりだ。では、解散」
サミュエンとショウたちを残し、職員たちはすばやく散っていく。
「あのぉ……」
「慌てるな、説明するよ」
課長は不安がる少年たちに笑ってみせた。
深夜の作業は、各家庭で溜まった汚物の回収であった。一般家庭への下水道はまだ普及しておらず、内区や精霊式公衆トイレ、中区の一部にしかない。そのため、ほとんどの家屋から定期的に汚物を回収せねばならなかった。作業は景観や臭いの関係上、昼間は避けて行われている。
「最後にすげぇラスボスが待ってたな……」
「日本でも昔、バキューム・カーって汚物回収車があったとか聞いたけど、この世界じゃ現役か……」
「地元では今も走ってるんだけど……」
「「マジで!?」」
ショウとマルは、アキトシの発言に驚いた。
サミュエンが咳払いした。
「ン……。ともかく、キミたちは指定の馬車に乗り、御者の指示で動いてもらえばいい。途中、荷台や道に撒き散らかさないようにフタは固く嵌めること。換わりの桶を置き忘れないこと。以上、気をつけてくれ」
「わかりました……」
ため息混じりに返事をし、彼らは外へ出た。馬車三台が作業員を待っていた。
途中まで三台は同じ方向を進んでいたが、アキトシ号が分かれ、マルとも離れた。
それからすぐに馬車は止まった。
「まずはその家だ。その脇道を入ってすぐに小窓があるからわかるだろう。新しい桶とフタ、それと灯りを持っていけ」
「灯り?」
「そら、これだ。首から下げておけ」
御者が光を放つペンダントを投げてよこした。熱はなく、ただ光だけを淡く発している。魔法の灯りのようだ。
ショウはそれを首から下げ、荷台の空桶と木のフタを取った。
脇道に入る。話どおり、地面すれすれに小窓があった。臭いが漏れているので間違いはないだろう。
「そうか、あの窓ってこのためにあったのか」
昨日の昼間に飲食店で借りたトイレの謎がわかった。
「これ、キッツ……」
マスクをし、厚手の手袋をしているとはいえ、汚物が詰まった桶を引っ張り出すのは吐き気を覚える。軽くフタをして、息を止めて一気に引き出した。指示されたとおり、最後にフタを叩いて完全密封する。
真新しい桶を置いて、小窓を閉めて作業終了だ。
それをまた馬車まで持っていくのが、二度目の精神攻撃だった。
「みんなが寝ている間に、こんな大変な仕事をされているんですね」
ショウは荷台に肥入り桶を積みながら、御者に話しかけた。
「こんな仕事でも、ないよりはマシだからな」
「え?」
「異世界人にはわからんだろうよ。……次はそこだ。さっさと行って来い」
ショウは問いかけたかったが、許す雰囲気ではなかった。「はい」と応じ、新しい桶とフタを持ってまた走った。
四個所ほど回収したのち、次の地点に移る。そこでも四軒交換し、また移動。
結局、仕事以外の会話はなく、20数軒ぶんの回収をして処理場へ戻った。
「事務所への報告はこっちでしておく。おまえは着替えて寝ろ。7時にこの庭で朝礼があるから遅れるな」
御者の男は終始、少年を見なかった。
「あの、ありがとうございました。お疲れ様です」
「……ああ」
馬車は裏手に向かって消えた。
ショウは息を吐き、クリーン・ルームの扉を押し開けた。
着替えて仮眠室へ行くと、マルがすでにイビキをかいて寝ていた。アキトシはまだのようだ。
眠りは遅く、浅かった。
けたたましいベルで起こされ、三人はまたも走った。しかし、朝礼を行う庭には誰もいなかった。窓から中を見ると、休憩所に人が集まっている。時計を確認すると6時過ぎだった。どうやら先のベルは、起床時間を報せるものだったようだ。
「ンだよ、そういうのはちゃんと教えて欲しいよなぁ」
マルの今日一番のボヤきだ。
今朝はアキトシも食欲に溢れていた。夕飯をほとんど食べていなかったせいもあるだろう。三人はしっかりと食べ、あと半日を乗り切ろうと励ましあった。
朝礼のあと、午前中の仕事はきのうと同じ部署を指定された。感覚がすでに麻痺しているのか、ヤケになっているのか、昼までの時間は短く感じられた。
午後は完成した堆肥の袋詰め作業に回された。ショウがかき混ぜていた物を20キログラムは入るだろう大袋にスコップで入れ、封をする。三人で50袋ほど完成させ、パレット台に重ねると、残りの土は平らに均すように指示された。
「お疲れ様。これで作業は終了だ。風呂に入って帰る準備をするといい」
サミュエン課長の声に、マルとアキトシは大喜びだった。まだ16時を回ったばかりである。
「臭いを少しでも落としていかんとな。明日からの仕事に差し障るだろう?」
「なんだ、けっこう話わかるじゃん」
調子のいいセリフをマルが吐く。
が、ショウとしても申し出はありがたい。彼自身は臭いに麻痺しているが、異世界人管理局に戻ってアイリに避けられようものならショックだった。疲労回復の魔法をツァーレ・モッラに頼むのも気が引ける。
出発ギリギリまで風呂で過ごし、自前の服を着る。作業依頼書にサインをもらい、笑顔でサミュエンに別れの挨拶をした。終わってみればあっという間の出来事だった。
「帰ったらアイリにメシを奢らなきゃな」
「50銀貨だもんな。なに買おうかな」
「ボクは貯金しておこう……」
「ンだよ、ケチくせぇなぁ。ぱーっと使おうぜ、ぱーっと」
「そ、そうだね。たまには使おうかな、自分のご褒美に」
「たしかに今回は自分に褒美をあげたい気分だな」
そんな楽しい会話が帰りの馬車のなかで繰り広げられた。
18時25分、三人は異世界人管理局の裏口で馬車を降りた。出迎えたパーザ・ルーチンに従って二階の第二会議室で作業終了を報告し、報酬を受け取った。
その際、聞きなれないファンファーレと音声が流れた。
『マル ハ レベル ガ アガッタ!』
『アキトシ ハ レベル ガ アガッタ!』
『ショウ ハ レベル ガ アガッタ!』
三人はきょとんとして、それから「マジかぁー!」と叫んだ。
「おめでとうございます。全員、レベル2と認定されました」
パーザの声はいつもどおり事務的だった。
「三名は明日10時に研修室へお越しください。召喚労働者・第二講習を行います。なお、受講されませんとレベル2の作業には従事できませんのでご注意ください」
「了解っす!」マルは上機嫌で敬礼した。
「けどよ、なんでオレとおまえで同じ日にレベルが上がるんだよ? おかしくね?」
マルはショウのレベル・アップに不満そうだ。同レベルとはいえ、滞在期間を考えればショウはまだのはずである。
その疑問にはパーザが答えた。
「特務を完了したからでしょう。レベル・アップには、いくつかの要素があります。作業回数や顧客満足度などですね。特務は国政につながる任務ですから、成功させれば評価は通常よりも高まります。そもそもマルさんの場合、作業回数も少なかったですよ。召喚から14日間レベル1というのは、圧倒的ワースト1位です」
「へいへい」マルはふてくされて背中を見せた。説教はゴメンだといわんばかりだった。
「これ以上はメシがマズくなる。明日のことなんて明日でいいんだよっ」
「そうだな、今日は食って休もうか」
ショウも賛同した。
「おっし、行くぞぉー!」
マルが大はしゃぎで会議室を出て行く。アキトシも珍しく陽気にあとを追った。
「それじゃ、お疲れ様でした」
さらに続こうとショウも立ち上がる。と、パーザが彼に呼びかけた。
「もう一点、あなたにお話があります」
「オレだけですか?」
「はい。これを……」
そう言って、彼女は床に置いていた物をショウに差し出した。
「これ……」
見覚えがあった。少し汚れた白い肩掛けカバン。
「それと、これも預かっています」
一通の封筒だった。宛名にショウの名があった。予感ではなく、予測でもない。差出人はすぐにわかった。封筒を裏返すと、頭に浮かんでいた名前があった。
「アイリ……」
ショウはつぶやき、腰から砕けるように椅子に座った。
「アイリさんは――」
「帰ったんですね、日本に……」
「……はい」間をおいて、パーザは答えた。
「それをあなたに渡してくださいと頼んで、今日の正午、アイリさんは帰りました」
パーザはそれだけ告げ、会議室を出て扉を閉めた。
ショウは不思議と何も感じなかった。もとより、出会って数日の間柄だ。深い友情を築いたわけでも、ましてや愛情が芽生えていたわけでもない。ただ出会って、話して、仕事をして、ご飯を食べて、それだけだった。
手紙を開いた。少女らしい可愛い文字だった。
それにはショウへのお礼と、日本での彼女のことが書かれていた。ゲームのことにも触れており、そこだけは筆圧を強く感じた。
読み終わったとき、ショウの目に涙が浮かんだ。それは流れ落ちることはなく、ただ溢れてとまった。
無造作に彼女が使っていたカバンをとり、開けた。
一番上に彼が貸した水筒があった。その下には、彼女が繕ってくれた古着。
穴が大きすぎたのか青い端切れでパッチがしてあった。凝った意匠だったので、元からのデザインかと勘違いした。袖のほつれまで完璧に直してある。
そしてカバンの底にもう一つ、彼女がここにいた証がしまってあった。
「なんだよ、まさかと思ったらまだここにいやがったのかよ」
マルが乱暴に扉を開けて入ってきた。後ろにはアキトシと迷惑顔のリーバ、それと室内を眺め回しているアカリがいた。
「早くメシいこーぜー」
「お腹すいたよぉ」
「なんでまたオレまで……」
「あれ、ここにもアイリ来てないの?」
賑やかになる会議室で、ショウは少しだけ笑った。
「悪い。さきに行っててくれ。どうせコープマンだろ?」
「あー? そーだけどよー、なんかあんのか?」
「ちょっと片付けておきたいことがあってさ」
「なんだよ、待ってるか?」
「いいって。みんな好きなもの注文して待っててくれ。奢るからさ」
「マジ!? ちょっと金が入ったからって調子に乗ってんじゃん。遠慮はしねーからなっ」
マルは言い捨て、ダッシュした。
「アキトシとリーバさんも行っててください」
「そう? じゃ、おさきに」
「悪いな、オレまで」
二人はマルを追うように続いた。
「あたしはアイリを探してから行くわ。あの子、きのうも今日も仕事を休んだのよ? 体調悪いのかな。今朝は元気だったんだけど……」
アカリが心配そうに顔を曇らせた。
「そのアイリのことで話があるんだ」
「なに?」
ショウの重い声に、アカリは訝しげに彼を見た。その手にある白いカバンが映った。
「それ……」
アカリは大股で近づいた。カバンに向かってまっすぐに。
「……なに? 何があったの? アイリは大丈夫なの!?」
アカリは最悪の想像をして蒼白になった。
「大丈夫だよ。ちゃんと元気でいる」
「あ、そう? ならよかった……」
安堵はしたが、安心はできなかった。
ショウは自分宛の手紙をアカリに渡した。アイリは怒ったりしないだろう。彼女ならきっとアカリにも知ってもらいたいと望むはずだ。
アカリはむさぼるように読み、肩を震わせた。
「……なによこれ。こんな、勝手じゃない!」
感情のはけ口がわからず、アカリはショウに怒鳴った。
きのうも今朝も、アイリは何かをずっと考え込んでいた。それは頼りにしていた少年が一日とはいえ離れてしまったからだろうとアカリはニヤニヤしていた。実際、彼女に問いかけると「寂しい」と答えた。そして仕事まで休んで「やりたいことがあるから」と男物の古着を繕いだした。
「なに、仕事サボって直すの? こりゃ重症ね」
からかうアカリにアイリは照れもせずに言った。
「これが今、わたしがしたいことだから」
アカリのほうが赤面するセリフだったが、手紙を読んだ今ならわかる。彼女は残していきたかったのだ。どんな些細なことでも何かを成し遂げたという証を。やりきって、本当の世界でもやりきれるという自信を身につけて帰りたかったのだろう。たった72時間の大冒険を無駄にしないために。彼女にとって、この世界は奇跡だった。
「……あたしさ、両親が何をするにも口うるさくて、いいかげん頭にきてこんな世界イヤだって叫んだらこっちに来ちゃったの。すっごい清々した。でもさ、あの子は違うのね。帰りたいところがあって、自分で帰ろうって決めたのよね」
「そうだな。オレとも、おまえとも違う。まっすぐに現実を見ていたんだ」
「なんだろね、あの子。まだ中二だって言ってたくせに……」
アカリは打ちのめされた気分だった。友達というよりも、妹分のように感じていた自分が恥ずかしかった。
「マジか。オレが中二のときなんて野球ばっかやってたぞ」
「あたしなんて繁華街で遊んでたわ」
二人は笑った。
「……これ」
ショウはカバンに残った最後の品物を出した。
「なにこれ、くれるの? すごい綺麗じゃない。……あれ、なんかこれ、エルティナの普段着に似てない?」
一着のワンピースだった。肩や腰、裾の部分が本体と異なる生地でできていて、他にも各所、補強やおしゃれを気遣って縫製がされている。ケリーの倉庫からもらった二着の服を、一着に仕立て直したものだった。目立たないが、襟に小さく銀糸で『AKARI』と刺繍が施されていた。
「アイリから、おまえにだよ」
「……なんでよ、まったく……」
アカリは抱きしめ、涙をこぼした。馬鹿な妹分を笑ってやろうとして、うまくいかなかった。
「コスプレいっしょにしたかったんなら、言えっての……」
アカリは大声で泣いた。
二人は落ち着くと、仲間の待つコープマン食堂へ向かった。
アイリの服を着てやらないのかとショウは訊いたが、アカリは首を振った。
「あのサルにゼッタイ笑われる。それに、もらってすぐに汚したり破いたりしたら申し訳ないしね」
ショウはテーブルに揃った仲間に、アイリの帰還を告げた。
場が一瞬静まったが、マルがいつもの調子で空気を壊した。
「帰りたいヤツは帰ればいいんだよ。それがそいつの生き方なんだ。そんだけだろ」
「おまえ、ときどきいいこと言うよな」
黒髪の少年ほど割り切りのよくなかったショウは、素直に感心した。
「オレはいつでも本音トークしかしねーよ! オラ、乾杯しようぜ。72時間しかいなかったけど、いっしょにメシ食った仲だ。オレたちくらいは覚えておいてやんないとな」
「ホント、いいこと言う。スペシャル・スーパー・ウルトラ・レア・カード並みだけど」
「うっせーな、レベル1のくせに! オレたちゃレベル2だぞ! ひれ伏せ!」
「はっはーんっ。あたしも今日、レベル2に上がったわっ」
「オレも上がりました」リーバが小さく主張するが、誰も反応しない。
「なにぃ!? 他人に難癖ばっかつけてるババァが?」
「なによ、クソザル。……ん? ホントにクソみたいな臭いさせてるじゃない!」
アカリが鼻をつまんで席を離す。
「おまえ、コノヤロ。せっかく忘れかけてたのに……!」
「わぁ、マル、言っちゃダメだって!」
アキトシがマルの口を塞ぐ。
そんな光景を、ショウは笑って見ていた。
「笑ってんじゃねぇ。おら、おまえが音頭とれよ。あいつの初めての友達だろうが」
「わかった。それじゃ、アイリの帰還と未来に――」
「乾杯!」
正午の鐘が鳴る。
アイリはこの地に初めて降り立った場所にいた。異世界人管理局に隣接する召喚聖堂だ。
入国管理課で手続きをして、この場で待つように指示された。手荷物は何もない。すべてを一つのカバンに収め、置いてきた。ウエスト・ポーチは一足早くガラクタ置場に返した。またいつか必要とする人が現れるだろう。肩掛けカバンはどうするだろう。手紙に書き忘れてしまった。返しておいてくれるだろうか、それとも、自分のかわりに使ってくれるだろうか……
そんなことを考えていると体が軽くなった。この感覚は知っている。召喚されたときと同じものだ。
「帰還をお望みですか、アイリさん」
「はい」
目の前に立つ魔女アリアド・ネア・ドネに、はっきりと答えた。
「マルマの世界はお気に召しませんでしたか?」
「いえ、優しいところでした。もっといたかったです」
「ではなぜ?」
「日本でやらなければならないことがあるからです」
「今までやらなかったことですか?」
アリアドは召喚した者のほとんどすべてを知っている。いや、知らなければ召喚ができなかった。
「はい。それと、やりたかったことです」
「うまくいくとはかぎりませんよ? だからこそあきらめ、ここへ逃げてきたはずです」
「それは以前のわたしです。今のわたしは、変わりたい、変えたいと思っています」
彼女が理想とする『アイリ』が、そうであったように。
アリアドはしばしピンク髪の少女を見つめ、それからガックリと肩を落とした。
「はぁ~、せっかく召喚に成功したのに……。それにあなたには素養があったのよ? それだけの肉体変換の苦痛にも耐えられる精神力と意志の強さ、それに人を想いやる気持ち。それがあればいつか本物の勇者にだってなれるはず。ね、もっかい考え直さない?」
急にフランクになるアリアドに、アイリは苦笑いした。そしてこんな表情ができる自分に驚いた。
「……ありがとうございます。この数日はわたしの宝物です。本当に、素晴らしい時間でした」
彼女の笑顔に、アリアドはあきらめた。
「はいはい、わかりましたよーだ。じゃ、最後の質問。あなたはすべてを望む? それともすべてを捨てる?」
「え?」
「あなたはここで得たすべてを持ち帰ることができる。もしくは何も持ち帰らない。時間も、物質も、記憶も」
「それは、この体もってことですか?」
「体は無理。あなたの世界とは構成が違うから、また肉体変換をして元の体に戻すわ。だからそれ以外ってことになるかしら」
「でもそれでは、持ち帰らないメリットはないような……気がします」
「そうでもないわ。過ごした時間もなくなるなら、元の世界であなたがいなくなっていた時間すら存在しなかったことになる。なんでしたか……ウマシカダロウ?でしたか、海から地上に出たら時間が進んでいたというお話は」
「浦島太郎……」
「ああ、それ。すべてを持ち帰ればその状態よ。もっとも、いなくなっていたのは72時間なんだけどね。それに、人によってはいい記憶だけではない。降り立った瞬間、強盗に襲われ、目玉をえぐられた人もいたし。その彼は泣き叫びながらすぐに帰ったわ」
アイリは体を震わせ痛そうな顔をした。
「それらを踏まえて、あなたはどうしますか?」
アイリの心は決まっている。しかし、すぐには答えなかった。
「その前に三つ、質問してもいいですか?」
「……欲張りですね。なんでしょう」
アイリの問いに、アリアドはごまかさず答えた。それが本当なのかどうかはアイリにはわからない。けれど、彼女の心は晴れた。
「ありがとうございました。では、わたしの答えです」
アイリは笑顔で望みを伝えた。
ギザギ十九紀14年7月8日正午、アイリ、日本へ帰還――
日本、東京。八月の日曜日――
少女は自宅の階段を駆け上がった。バス停へ向かう途中、忘れ物に気付いて走って戻ってきたのだ。
フローリングの床をドタドタと走る娘に、母親が「うるさいわよっ」と台所から注意した。
父親は朝食後のコーヒーを飲みながら、肩をすくめるだけだ。
少女にも母の声は届いていたが、時間がない。部屋に飛び込み、机に置きっぱなしにしていた紙袋を取った。
再び慌しい音。
我慢ならず、母親は玄関で娘を待ち構えた。
「なんなの、うるさいわねっ」
「ごめんなさいっ。バス行っちゃうから、あとで」
「あとでなんて覚えてないでしょうがっ」
「もう一度、いってきまーす」
娘は手を振って走っていった。
「まったく」と呆れる母親に、父はコーヒーを飲みながら「いいじゃないか」とのん気に言った。
「元気になったんだから」
「なりすぎよ。一月前まであんなだったとは思えないわ。……ホントに、あの三日間で何があったのかしら」
「あいかわらず話さないのか?」
「ええ。怪我も事故もなかったからいいけど……」
「まさか、あの子が家出をするとはな」
当時の自分を含めた大騒動が懐かしく思えた。突然いなくなった娘を探して、警察や消防まで動いていた。学校側はイジメをようやく認め、対策を練るようになった。
その中で、娘は空っぽだったはずの部屋から突然現れた。
驚く二人に、娘はさらに爆弾を投げた。
『わたし、明日からちゃんと学校行く。今まで迷惑かけてごめんなさい。それと、ありがとう、わたしを大切に思ってくれて』
大きな声ではっきりと語り、深く頭を下げる娘に、親は何も言えなくなった。
「性格や世界観が変わるほどの大冒険でもしてきたのかしらね。あんな服を自分で作って見せびらかせに行くなんて」
「子供にはどんな些細なことも大冒険だよ」
父は冷めたコーヒーを飲み干し、テレビのリモコン・スイッチを入れた。
今日もどこかで起きた若者の行方不明事件が報道されていた。
少女は走りながら紙袋の中身を確認する。そこには薄ピンク色のウィッグが入っていた。肩から掛けた大き目のバッグには、きのう完成したばかりの真新しい神官着が収まっている。今日は彼女のコスプレ・イベント・デビューである。
「遅ーい、サチ。バス見えてるよー」
バス停から手を振る友達の姿があった。ここではない世界の友達の姿と一瞬ダブった。
少女は笑顔で彼女に手を振り返す。
「わたしはわたしのなりたい自分になるよ、ショウさん、アカリさん!」
少女はこの世界で、冒険を続けている。
※ ※ ※
『ショウさんへ。
この手紙を読むころには、わたしはもうここにはいません。
わたしはこの世界が好きでした。
来てすぐのときは怖かったけど、ショウさんに出会えてとても助かりました。
すこしずつ楽しくなって、このまま暮らしてもいいかなとも思いました。
でも、日本に帰ります。
日本でがんばろうと決めたからです。
興味はないと思いますが、わたしのことをすこしだけ書いておきます。
わたしは昔から人との会話が苦手でした。
自分でもわかるくらい、トロい子でした。
うまく他人となじめず、気がつくとコリツしていました。
遊ぶのはいつも一人です。だからか夢のあるゲームやアニメにのめりこみました。
とくに好きだったのはインフィニティ・ハーツというゲームです。
わたしはその中のアイリというキャラクターが好きでした。
仲間になったときはお荷物の見習い神官で、でもストーリーが進むごとにみんなにも頼られ、強くなっていって、最後には魔王と戦うまでに成長します。
アカリさんは初めから強くて勇ましい騎士のエルティナがかっこいいと言ってましたが、わたしは地味に成長していく彼女に共感しました。
それで格好だけでもとコスプレをはじめて、違う自分になれたみたいでワクワクしました。見せる相手は誰もいなかったですけど。
でも、わたしはアイリにはなれませんでした。
中学に上がっても、わたしは一人でした。
それどころかトロくてもどかしいわたしは、イジメの的になりました。
人が怖くなり、わたしは引きこもりました。
両親は初めのうちは理解をしてくれましたが、不登校が長く続くと世間ていを気にして、わたしを外に出そうとしました。
カウンセラーや学校の先生もやってきて、わたしは追いつめられた気持ちになりました。
こんな世界はイヤだって思いました。
インフィニみたいな世界に行きたいと願いました。
気がつくと、わたしはここにいました。
アリアドさんは言いました。
ここでならどんな自分にでもなれますよと。
わたしはアイリの姿を願いました。
今度こそ本当のアイリになれると思って。
でも、そうじゃなかったんです。
わたしは姿だけのニセモノでした。
本物のアイリは弱くて自信がなくても逃げたりはしなかった。
わたしはここでもただ、おびえているだけでした。
ショウさんと会わなかったら、わたしはどうなっていたかわかりません。
でも出会えました。
いろいろと教えてくれて、ちゃんと話を聞いてくれて、本当に嬉しかったです。
わたしの仕事をほめてくれた人もいました。
認めてもらえることがこんなに嬉しいなんて知りませんでした。
自分でお金をかせいでご飯を食べることのたいへんさもわかりました。
働くことで、両親がわたしの将来を心配してくれていたのもわかりました。
そして、わたしがやりたいこともわかりました。
だからわたしは帰ります。
仲間といってくれたみんなと別れるのはさびしいですが、がんばってみます。
アカリさんに何もいわずに帰ってしまいごめんなさいと伝えてください。
それと友達になってくれてありがとうと。
初めは怖かったけど、いっしょにご飯を食べて、お風呂に入って、たくさんおしゃべりしたことは忘れません。
みんなといつか、日本で会えればいいなと思います。
川見幸』