25 意外な結末
一夜明けたギザギ十九紀14年7月29日、ゴブリン掃討作戦からナンタンへ帰還した守備隊兵士トールは、報告書に結論を先に書き記した。
『西の森、ゴブリンの村に全部隊を持って進攻するも、敵軍の姿なし。数時間の監視後、撤退を決定した』
これにより、ショウたちは二日にわたる行軍を終え、ナンタンの町へ無事に帰着した。
29日早朝、ショウは日常のクセなのか、夜明けには目を覚ましていた。体が少々重く感じるが、痛みや熱、吐き気などはない。
周囲はまだ眠っている。魔物の潜む森で安眠していていいものか今さらながらに感じるが、結果として何もなかったのだからと納得した。
しかしながら周囲を観察すると、熟睡していたのは第1・第2中隊だけで、他の部隊は交代で歩哨に立っている。彼らのおかげでショウたちは敵の脅威に晒されることもなく眠りにつけたのである。
隣のシーナが寒そうに震えた。包まっていた外套がはだけている。ショウははだけを直し、自分の外套もかけてやった。
アカリは意外と寝相がよい。もしくは疲れすぎて動けないのかもしれない。
「おはよう」
囁くように声をかけられ、ショウは振り向いた。アリアン・セルベントの鎧を着たルカが屈んでいた。
「お、おはよ」
顔が近い。
「まだ寝ててもいいと思うけど?」
「起きちゃうのは日課だな。そっちは見張り?」
「これから巡回に出るとこ。暇ならいっしょにどうかな? 相棒のマルが起きそうになくてさ」
ルカが指差す先でマルが寝ていた。なぜか木の幹に抱きついている。幸せそうな顔だった。
ショウは軽く噴出して「ああ、いいよ」と立ち上がった。そして唐突に思い出して剣を抜いた。
「やっぱり! 寝る前にメンテしようと思ってたのに……」
ショウの剣には血のりが残っていた。鞘に戻す前に拭いはしたが、戦闘中のために念入りではなかった。取りきれなかったゴブリンの血がへばり付いている。
「お湯が欲しいけど、今ここで沸かすわけにもいかないしなぁ」
「なら、離れたところで沸かしてあげるよ」
「火を焚くわけにはいかないだろ」
「大丈夫、策があるから。水筒と金属カップを忘れないようにね。準備してくるよ」
ルカが自信をもって言う。
ショウはいぶかしみながらもルカを見送り、道具をそろえて彼を待った。ルカは背中に盾を、右手に弓、左手に槍を持って現れた。完全武装である。
「じゃ、いこうか」とうながされ、二人は巡回に出発した。
ゴブリンの森といっても小動物や虫の姿はある。鳥も飛んでいた。漫画であるような瘴気漂う森ではない。が、朝でも陽光の差し込みはよくなかった。鬱蒼という表現がよく似合う。それでも夜に比べれば格段にマシで、少なくとも照明石の力はいらなかった。
見るかぎりゴブリンの姿はない。ここに魔術師のピィがいれば、偵察や巡回は格段に楽になっただろうとショウは思った。
「この辺でいいかな」ルカが足をとめ、背中に背負っていた盾を外した。いや、そうではなかった。
「盾じゃない?」
「うん。大隊長が昨夜の宴会で使ってた魔法の板」
「宴会?」
「ショウたちは寝てたからね。あのバカ隊長、ゴブリンを撃退して大喜びでさ、宴会をはじめたんだよ」
「しょうがないな」
「浮かれるのもわかるけどね。で、そのとき見たんだ」
「これっていわゆるホットプレートだろ……て、そういうことか」
「うん。これなら火が出ないしね」
ルカはプレートを地面に置き、魔力を注ぐ。板が熱くなってきた。
ショウは鉄カップに水を注ぎ、プレートに載せる。
「ついでにお茶も持って来ればよかったね」
「ああ、それは考えなかった」
二人は笑った。
それから、お湯が沸くまでしばらく沈黙が続いた。
「……そろそろいいんじゃないかな」
「だな」
ショウは手袋をしてカップを取り、刀身にお湯を流した。タオルにもお湯を浸し、汚れを拭っていく。一拭きで目立たなくはなったが、完全ではない。残ったお湯をかけて、また拭いた。それから入念に乾拭きをする。
「目には見えないだけで、血って簡単には落ちないらしいよ」
「とりあえずでいいよ。また使うことになるし」
昼にはゴブリンの村で戦闘がはじまる。そして多くの血を浴びるのだ。剣だけではなく、拭った手足や顔以外には、昨夜の激闘の痕が体中に残っている。
ショウはついでに鎧も拭いた。鈍い金属光沢が蘇る。
「ルカのアイデアのおかげで助かったな」
「あ、ダメだよ」剣を鞘に戻そうとするショウをルカがとめた。
「鞘の中に血がついていたら、拭いた意味がなくなる」
「あ、そうだった。……この鞘、気に入ってたんだけどな。捨てるしかないか」
「フレームは金属だから洗えば済むんじゃない? 外側は革だから張替えがいるだろうけど」
「……なんか、装備のメンテ代だけで報酬が吹っ飛びそうだ」
ショウがウンザリした表情を浮かべる。ルカは遠慮なく笑った。
「それじゃ、巡回に戻ろうか」
プレートの熱を落とし、背中に担ぐ。ショウは剣を抜いたままルカと並んだ。
ショウはルカに質問があった。ハリー暗殺未遂のこと、カッセが話してくれた言動のこと、管理局専属召喚労働者になった理由……
しかし、いずれも訊けなかった。ルカとは友人であるが、親友というレベルではないという自覚もある。それはルカに対してだけではなく、マルやシーナにも当てはまる。そもそもの線引きがわからない。相手から話してくれるのなら受け止めるが、こちらから訊いていいものか、ショウにはわからなかった。
「静かだね、ショウ」
「ん? ああ、そうだな」
「いや、キミがだよ。もっといろいろ訊いてくると思った」
「え?」
ショウはドキリとした。胸中が見透かされた気がした。
「訓練所ではどんな講習があったとか、何をしたかとか、話をせがまれると思ってた」
「あー。うん、そうだな。すっかり忘れてた」
ルカが笑顔で言うものだから、ショウは安心した。
「カッセさんに聞いたけど、相当、優秀なんだって?」
「自覚はないんだけど、そうらしいよ。魔術の基礎教練は一週間で終わったし、戦士基礎教練もクリアした」
「魔術師の基礎って三週間くらいじゃなかったっけ?」
「五日目からは座学のテストでさ、受かれば実技。そっちも一発合格だったし」
「すげーじゃん! 魔法はどんなの覚えたんだ?」
「いや、それが――」
ルカが応えようとしたところ、前方で何かが動いた。
二人は敏感に反応し、その場に腰を落とした。
「なにかいる?」
「うん。一瞬だけど、人型に見えた」
「ゴブリンか?」
「そこまではわからなかったよ」と、ルカがそっと木の陰に移動し、様子をうかがう。
むこうも勘付いたのか、動くものはなかった。
二人は息を潜め、しばらく待った。が、動く気配がない。
「どこかに隠れたにしろ、そんなに遠くはないはず。大きく迂回して、正体を探ろう」
「わかった」
ルカの提案にのり、ショウは時計回りに進んだ。ルカは反対からだ。
その気配を感じたのか、対象のいる付近で音がした。確実にいる。ルカは潜むのをやめ、弓を構えた。
ショウは驚いて銀髪の少年を見た。彼が目で合図を送ってきた。この隙に隠れて接近しろというのだろう。万が一戦闘になっても、彼なら援護を任せられる。ショウは屈んだまま急いだ。
「出て来い。この言葉が通じるなら人間のはずだ。素直に出てくれば射たない。もし、少しでも怪しい動きがあれば確実にしとめる」
ルカが呼びかける。
数秒ほど沈黙と静寂が続き、それからゆっくりと人型が立ち上がった。灰色のローブを着た人間だった。背丈はショウよりも多少低く、鼻より上を隠すような白いマスクをしている。だが、ゴブリンではない。
「射つな。言葉はわかる」
男の声だ。洋画の吹き替えが似合いそうな渋い声だった。
ルカは弓を構えたまま距離をつめる。
「ショウ、出てもいいよ」
絶対に外さない距離まで近づき、ショウに呼びかけた。彼はすでに男の背後にまで迫っていた。
「逃げも抵抗もしない。物騒なものを下ろしてくれないか?」
「そのまえに名前と、ここで何をしていたのか聞かせてほしい」
ルカの矢は男の心臓を狙ったままだった。
男は一呼吸おき、小さく何かをつぶやいた。が、二人には聞こえなかった。そして安心したように脱力した。
「名はクラン・シアーズ。このあたりの探索をしていた」
「探索?」
「こちらは答えた。そちらも名乗るのが礼儀だろう? 射たないという約束を違えるのなら別だがな」
そう言われては、ショウもルカも応じないわけにはいかない。
「オレはショウ。ナンタンからゴブリン討伐に来た」
ショウはクランの背後から名乗った。剣はまだ下ろしていない。
「同じく。ボクはルカだ」
「ならば、少なくとも敵ではないな」
「どういう意味?」
ルカの腕に力がこもる。
「わたしはこの山に住む一族の者だ。もちろん、人間ではない。おまえたちが亜人と呼ぶ種だ」
「亜人……? エルフ?」
「エルフではない。希少種扱いされるような名も知られていない種族だよ」
そう言って、彼は仮面を取って見せた。肌の色は赤みがかった灰色をしていた。目が大きく、瞳は金色をしている。鷲鼻で顎は幅があり、受け口だった。髪はブロンドだ。人間でも通るが、醜悪とそしる者がいるかもしれない。
ルカはその顔を見てギョッとした。その反応には慣れているのか、彼はまた仮面をつけた。
「人間に遭遇したとき、怖がられないようにするための仮面だ。驚かせたな」
「いえ、こちらこそすみません」
ルカは弓を下ろした。ショウも戦闘態勢を解除し、正面にまわった。
「最近、わたしたちの領土にゴブリンが頻繁に現れるようになってな、その調査をしていた。しかし、人間がここまで来るとは、よほど大変な事態となっているようだな」
「はい。自分たちもはっきりとはわかっていないのですが、サイセイという町を襲撃したゴブリンがこちらにも流れてきているらしいんです。昨夜も集団に襲われました。どうにか撃退はしましたけど」
ショウは隠さずに話した。
「どのくらいの規模だったかね?」
「討伐数は136だったかな」
ルカは昨夜聞いた話を思い出しながら答える。これには合流途中で遭遇した数は含まれていない。合わせれば170は超えるだろう。
「通常のゴブリンの村レベルではないな。その町を襲った残党で間違いはなさそうだ」
クランは納得してうなずいた。
「あなたは、ここらへんでゴブリンの集団を見ましたか?」
「いや。足跡はたくさんあったが、すべて東へと向かっていた。それを追ってここまで来たのだ」
「ああ、たぶんその行き先がオレたちの部隊のいるところですよ」
「なるほど。君たちはよほどの大部隊で来たんだな。130ものゴブリンを斃すとは」
「ええ。200人以上ですからね」
「なかなかの数だ」クランは感心し、笑みを浮かべた。
「で、君たちはこれからどこへ? 引き上げるのか?」
「いえ、この先にあるというゴブリンの村へ行きます。そこに駐留しているらしいので」
「わたしはその村から来たが、もぬけの殻だったぞ」
「本当ですか!?」
「わたしもその村がもっとも怪しいと考え、行ってみた。そこがカラッポだったので、足跡を追ってここまできたのだ」
「そうですか。となると、きのうのアレがほとんど全部ってことかな?」
ショウがルカに相談する。彼は「かもね」と軽く答えた。
「だとすれば、もう戦わなくて済むな」
ショウは安堵して大きく息を吐いた。
「戦いは嫌いか? 兵士なのだろう?」
「違いますよ」クランの問いかけにショウは首を振った。
「人手不足に駆り出されただけです。町を守るためならまだしも、積極的に戦うのはやっぱイヤだ。それに、ゴブリンだからって必ずしも殺す必要はないでしょう」
「ゴブリンを殺したくない? 斃すべき敵ではないのか?」
クランは食いついた。彼にとって興味深い話だった。人間の凶暴的攻撃性や過剰な防衛反応、徹底的な異質排除に群集心理。彼にとって人間は、誰かを攻撃しなければいられない生物であった。
「襲ってくれば抵抗はしますよ。黙ってやられるつもりも、すべて受け入る度量もないですから。でも、たがいに干渉しないで無関係でいるなら、敵ってことはないでしょ? それに一種族すべてが悪いってあるんですかね。人間にだって善人も悪人もいる。ウチの大隊長からして悪人側ですから。だからゴブリンにも人間を襲う言い分はあるんじゃないですか。それが問答無用だから、戦うしかない」
「人間にしては変わった考えだな」
「そうかな? 異世界人だって、こっちの人間の思考と変わらないと思うけど」
「そうそう。ショウが変わり者ってだけだよ」
「ルカっ」
ショウが噛み付く。ルカは笑って「ごめん」とあやまった。
そのやりとりは無視して、クランが不明な単語の意味を求めた。
「イセカイジン?とは、なんだ?」
「この世界の人間じゃないってことです」
「この世界ではない? 俗にいう妖精郷とか神界のことか?」
「どっちも違います。別の人間が暮らす世界がここ以外にもあるんです。こことは違う文化で生活してて、でも基本的には人間だから、似たようなところもあって」
「面白い話だ」クランはその世界に興味を抱いた。そして一つの疑問が浮かんだ。
「……君たちのような若者に訊ねてわかるものか、20年前、サイセイの砦で戦争があっただろう?」
「そうらしいですね」
ショウがルカに眼を向けた。彼は「知ってる」と答えた。
「そのときにサイセイを救ったのが、召喚された異世界人の第1号だったはず」
「やはり……!」
クランの驚きように二人も驚いた。
「知ってるんですか?」
「有名だからな。ゴブリンの王がサイセイを陥落寸前まで追いつめたが、なぜか撤退を余儀なくされたという昔話は。そこに名もなき狂戦士の伝説があるのだが、それがよもやイセカイジンとは。そういうことか……」
「でもすごいですよね、そこまで強いなんて。話半分だとは思いますけど」
「そうでもない。事実、ゴブリン王は敗北しているわけだしな。……いや、とても興味深い話を聞かせてもらった。君たちのおかげでゴブリンもいなくなったようだし、村へのみやげ話にさせてもらおう」
クランは背を向けて歩き出した。
「気をつけて」とショウが手を振ると、クランも軽く振り返し、森へ消えた。
「……ショウ」
「なに?」
「今のアイツが、ゴブリン王ということはないかな」
「なに言ってんだよ、あるわけないだろ? 人語を話していたし、敵対的でもなかった」
「ロード種なら人語はわかるらしいよ。さらに頭がよければ、こちらを騙すくらいはするだろう」
「だとしたらもっとおかしいだろ? 相手はたった二人の人間の子供だぞ? 簡単に殺せるくらいの力はあるだろ」
「……そうかも。考え過ぎかな」
ルカは思案し、これ以上の問答は無駄と悟った。気のいい相棒は、けして自分の意見に賛同はしないだろう。それが彼のいいところであり、危険なところだった。それに、自分でも確信が持てないことで彼ともめたくはなかった。初めて出会った、あのときのように。今はあのときとは違い、ルカにとってショウは大切な人だった。つまらないことで失いたくはない。
「そうだよ。とにかく一旦戻って報告しようぜ。ゴブリン村にはもう敵はいないかもしれないって」
「だね。お腹もすいてきたし」
「ルカって燃費が悪すぎじゃないか?」
そういって笑うショウに、「育ち盛りだからね」とルカもいっしょになって笑った。
クランは二人から距離をとったことを確認し、彼女に呼びかけた。
「ディスティア」
「ここに」
彼の前に褐色肌のエルフが舞い降りた。
「移動を開始する。用意させておけ」
「では、戦闘準備を――」
「いや、撤退だ」
「なぜ!?」
ディスティアは飛び掛らんばかりに彼に迫った。
「人間の手勢は200ほど、こちらは昨夜の暴走――いや、威力偵察で150ほどに減った。数の上では勝ち目がない」
「わたしとあなたがいる! それだけで半数は殺せるっ」
「イセカイジンを侮るな」
「イセカイジン? あの者たちのこと? 見たところ、ただの人間だった」
「だが、20年前の屈辱的敗北は、イセカイジンによってもたらされた。底知れぬ力があると見たほうがよい」
「それであの子供も殺さなかったと?」
彼女の問いに、クランはうなずく。
「はじめに声をかけられたとき、違和感があった。わたしは人語も解するが、何かおかしかった。あの者たちの言葉には魔力が篭っていた」
「魔力……?」
彼女にはわからなかった。そもそもが、クランと人間の会話自体が理解できていなかった。人間たちは奇妙な言語を使っており、対してクランは人間の大陸東方語だった。それでも会話が成り立っていたように見えた。
「そうだ。おまえは感じなかったか? 言葉をやり取りしているのではなく、思考のやり取りのように感じたのだ。仮説としては、ヤツらイセカイジンはこの世界の者と言葉ではなく、思考を伝達して『会話』としているのではないだろうか。それはつまり、ナチュラルに魔法を使う素養があるということ。200名の魔術師を相手に勝てるなどと、わたしはそれほどうぬぼれてはいない」
「もし本当なら、たしかに恐ろしい敵となる」
ディスティアは冷や汗を流した。
「それに、あの銀髪の人間、何気ない態度であったが常に油断がなく危険であった。もう一人を守ろうと、わたしたちの距離を測り、いつでも殺せる準備を整えていた。まさに暗殺者の姿勢であった」
ディスティアはクランの観察眼を疑わない。だが、それが正しいとすれば疑問も浮かぶ。
「でも、そんな強い者がなぜもう一人を守ろうなどと。黒髪の方は変哲もない子供だった」
「いや」クランは表情を緩めた。
「あれはあれで面白い人間だった。だから今回は見逃すのだ。次に会ったとき、どう変節しているか楽しみだ。もし、変わらぬのなら――」
クランは自嘲し、首を振った。
「……夏がはじまる。ここらが潮時だろう」
「……残念だ」
「すまんな、ディスティア。次まで待ってくれ」
クランのたった一言の謝罪が、彼女の無念を払拭した。顔を上げ、仮面の男を見る。男はすでに彼女に一瞥すら与えていない。遠く空を見上げていた。
それでも――
「……はい、クラシアス様」
ディスティアは微笑んで受け入れた。彼女の寿命はまだまだ尽きない。焦る必要はなかった。それに、行くべき場所も、帰りたい家もない。唯一、この醜き小鬼の王だけが彼女を想ってくれる。それがたとえ同情からだとしても、居場所があるだけで彼女は幸福であった。
ショウとルカは野営地へ戻った。ルカの所属する第3中隊・隊長に報告すると、内容に驚いた中隊長は二人を連れて本営へと赴いた。参謀を務めるトールの判断が必要と感じたからだ。
「ゴブリンはすでに退治されただと?」
半信半疑で聞き返すトールに、ショウたちは先ほどのクランという亜人とのやり取りを話した。
「それが本当ならば戦わなくてすむが、確認は必要だ。情報の出所も信用できるものではない」
今や実質的に全隊を預かるトールとしては、都合のよい話に乗るわけはいかない。
それはショウにもわかっているので、報告が済むとすぐに下がった。
「信用してなかったな」
「当然だね。ボクでも怪しむよ」
そっと本営の食料庫に魔法のプレートを戻すルカ。できればこっそりと持って帰りたいくらいだった。戦いのドサクサで紛失したといえば通るのではないかと、なかば本気で考えている。
「仕方ないか。とりあえず義務は果たしたし、ご飯にしよう。……また携帯食だけど」
「飽きるよね、あれ。せめてお腹いっぱい食べたいよ」
「長靴いっぱいか?」
「なに、それ?」
「いや、いい」
ショウは完全に滑ったのを自覚して、逃げるようにシーナたちのところへ戻った。
彼女たちは起きていた。気持ちのいい朝という雰囲気はない。
「ゴブリンの血がベットリだよー。こんなの落ちるのー?」
シーナは鎧と剣が赤黒く染まっているのを嘆いていた。
「うぎぃ……。体が、動、かな、い……」
アカリは全身の筋肉痛に悩まされている。
「スゲー、だりぃ……。マナをぜんぜん感じねー」
マルは魔法を使おうとするが、煙一つ出てこない。
周囲も似たような惨状だった。
「これで戦えるのかよ?」
「無理そうだね。さっきの話が本当であって欲しいね」
「祈るしかないな」
ショウとルカは手を合わせて祈った。
大隊長ハリー・ガネシムは未だ就寝中のため、参謀長に任じられているトールが指示を出し、部隊の再編成が行われた。歩兵・五個中隊、弓兵・二個中隊、魔法攻撃・一個中隊、救護・一個中隊、本営直営・一個中隊の振り分けである。一部隊は中隊規模だが、正確に25人ずつではなく大雑把な人数である。特に本営直営部隊は大隊長の近衛兵的役割だが、実際には未訓練者で構成されている。この人数が意外と多く、43名にも及んでいた。つまり戦力と恃んだ管理局専属召喚労働者の1/5がまったくの戦力外だったのだ。
これにはトールも困り果て、どうしたものか悩んだ末の苦肉の策だった。
「元の第1・第2中隊が予想以上に戦えたものだから、全員がそうかと期待したのだがな。……いや、比率でいえばそれくらいにはなるか」
ため息をつくトールに、召喚労働者代表のレックスは真面目に答えた。
「セルベント制度自体がはじまったばかりでしたし、セルベント以外が訓練所に入ろうにもけっこうなお金がかかります。戦闘のプロになりたくてもなれないのが実情です。管理局のやり方が半端であったとしか言えないですね」
「君たちも苦労しているんだな」
肩を叩かれ、レックスは硬い笑みを浮かべるしかなかった。
各隊が順次進んでいく。歩兵の二個中隊が先行し、弓兵一個中隊、本営、救護隊、歩兵一個中隊、魔法攻撃隊、弓兵一個中隊と続き、歩兵二個中隊が殿である。
疲労度が高い旧第1・第2中隊のメンバーは、ほとんどが後衛側にいた。旧第3・第6も半数は後ろだ。
その後衛・弓兵隊に、ルカとアカリもいる。
アカリと、それに付き合うルカはショウたちのいる後衛・歩兵隊にまで追いつかれていた。アカリは一晩寝ても体力が戻らず、筋肉痛にも襲われ、ルカに借りた槍を杖代わりに歩いている。救護班に治癒魔法をかけてもらえば筋肉痛くらいならすぐに治るのだが、彼女よりも重傷者はいくらでもおり、筋肉痛で施しを受けるわけにはいかなかった。他にも同じような者は多く、後衛は徐々に遅れだしている。
「アカリ、荷物持とうか?」
見かねて、ショウは隊列から逸れてアカリに訊いた。小隊長はいい顔をしなかったが、昨夜の小さな英雄には多少の敬意を表している。ついでとばかりに「遅れている者を頼む」と少年に任せた。
「……頼んでいい?」
いつものアカリなら申し出に素直に応えないところだが、今はさすがに辛かった。むしろ、なぜショウたちが元気なのか納得いかない。
「いいよ」とショウが手を伸ばすと、彼女は背中のリュックと、弓まで渡した。
「悪いわね」
「がんばったからな。帰ったらゆっくり休もうぜ」
「もちろんよ。二、三日寝て過ごすわ」
アカリは力強く宣言した。
「そんなに辛いのかい?」
ルカがのほほんと訊く。赤毛の少女は憎しみさえ込めて睨んだ。
「見てわかんないわけ? しんどすぎて、この場に置いていって欲しいくらいよっ」
「しょうがないなぁ」
ルカはため息をついて、「ちょっと背中触るよ」とアカリに近づいた。
「な、なにする気よ!」
「変なことはしないよ。興味もないし」
「……なんかムカツクわね」
アカリは不満だらけだが大人しくした。抵抗するのもしんどいという面もある。
山道を歩きながら、ルカはアカリの背に右の掌を当てた。深く、浅く、呼吸を繰り返す。すると、掌から淡い緑の光が溢れ、アカリの体に浸透していった。
「……? ……ウソ!?」
「どうした、アカリ?」
「体が軽くなった。筋肉痛が治まってる……」
「マジかっ」
ショウが驚いてルカに説明を求めた。
「ただの【治癒】魔法だよ」
「ただのって……。おまえ、【治癒】魔法を覚えたのか」
「ううん。魔法は覚えなかったよ」
「現に今、使ったじゃないか」
ショウもアカリも意味がわからない。
「訓練所で『魔法を覚える』というのは、『スキル化』して習得するってことなんだよ。でもボクは『スキル』は習得していない」
「でも、使っただろ?」
「これは【治癒】魔法の原理に従って発動しただけ。大昔のやり方だね」
ルカの説明はショウたちには通じない。魔術の基礎を学ばないと理解できないからだ。
「困ったな、説明が難しい。……簡単に言うと、マルのように一言で魔法を発動できるようにするのが『魔法スキルを習得する』ってことなんだよ。ボクのように原理を理解して魔法を使うのはスキルじゃないんだ」
「うーん……。まぁ、いいや。ルカすげーってことで」
ショウは考えるのをやめた。となりでアカリが「あんたザックリしすぎ」と呆れている。
「とにかく助かったわ。ありがとう」
「アカリから素直に礼を言われると怖いな」
「なんですって?」
「ほら、怖い」
ルカはおどけて見せた。
「アカリ、元気になったなら荷物持てるな?」
「え、うん。大丈夫」
ショウから差し出された自分の荷物を彼女は受け取った。
「それじゃ、小隊長に頼まれてるから他の疲れてる人を手助けしてくる。またな」
ショウは後方で遅れている女の子に手を貸していた。
「やれやれ、世話焼きは変わらないね」
そんなショウを眺め、ルカは呆れるやら感心するやらだった。歩みの速度が違うので、ショウとは少しずつ離れていく。
「ま、あいつはあれでいいんじゃないの?」
「アカリもしばらく会わないうちにだいぶ丸くなったね。ショウの影響かい?」
アカリは一瞬で赤くなった。
「知らないわよ、そんなのっ。……それよりあんた、なんでセルベントなんかやってんのよ? チビマルは別にどうでもいいけど、あんたがなるとは思わなかったわ」
「意外?」
「そーよ。ずっとショウに張り付いて、冒険に出ると思ってたわ」
「それは今もあきらめてないよ。ただ、手っ取り早く強くなりたかったんだ。その目的が何かあった気がするんだけど、なんか、思い出せないんだよね」
「なにそれ? そんなんでセルベントになっちゃったの?」
「セルベントなんてどうでもいいじゃないか。旅に出ちゃえばあとは関係ないだろ?」
ルカは楽しそうにニヤリとした。
「あんた、はじめからそのつもりだったの……?」
「当たり前じゃないか。特務が発令されようがその場にいなきゃ受けようもないんだし。今回は間が悪かっただけさ。スキルを覚えたらサヨナラだよ」
アカリは開いた口が塞がらなかった。
「むぅ、ショウ成分が足りない……」
そうこぼすのは歩兵隊に配属されたシーナである。彼がアカリを心配して離れていってしまい、つまらない顔をしている。
「なんだそりゃ。おまえら付き合ってんのか?」
マルが訊いた。彼は本来、魔法攻撃隊に入るべきなのだが、魔力の枯渇により隊を外され、歩兵へと転属となっていた。これ以上、彼のために割く魔力回復薬はない。
「ううん、付き合ってないよ」
「へー。どーでもいいけどな」
「ならなんで訊くかな」
ちょっとピキッときた。
「ヒマだから」
マルは鼻をほじった。
「キミは変わらないねー」
「たりめーだろ。オレはオレらしくやるためにこうしてんだからな」
「ブレないってすごいわ」
シーナは一部感心した。
「後悔しなきゃなんでもいいさ」
鼻クソを飛ばしながら、マルが真面目なセリフを吐いた。
「なに、後悔って?」
「この世界じゃいつ死ぬかわかんねーかんな。オメーもきのう、死にかけたんだろ? 失ってわかるなんてドラマは、観るのも観せられるのも腹が立つからよ、オレの近くではやんなよ」
シーナは呆気にとられ、それから拍手した。
「マルってときどきいいこと言うよねー」
「オレはいつだって真面目だっ。……ま、そんとき泣くのはオレじゃねーからいいけどな」
「うん、わかった。参考にしとくよ」
シーナは笑いながら応えた。後日、彼女はこの会話を後悔を持って思い出す。
「そいや、マルって魔法覚えたんでしょ? やっぱり便利?」
「おう! リーチを気にせず戦えるのはありがてーよ。あんときこの力がありゃ、シャーマンに無様に負けなかったのによ」
初めてゴブリン・シャーマンと遭遇したときの話だ。彼は手も足も出ず、気絶させられた。目覚めたときにはすべてが終わっており、無力を痛感し、同時に魔法の凄さを知った。
「あれ、けっこう気にしてた?」
「……別にィ」
言葉は否定するが、ふてくされた態度が肯定している。
「ふーん……」
「なにニタニタしてんだよ?」
「いやぁ、けっこうカワイイとこあんだなーって」
「バカにしてんのか、コラァ!」
「してないしてない」
「してんじゃねーかっ」
その賑やかな声は中隊長にまで届いてしまい、二人は隊長の脇を歩くハメになった。
先頭集団がゴブリンの村を目視した。
後続が到着するまで森で待機となり、その間に偵察が出された。裏工術の基本技の一つ『気配隠し』と、周囲に同化する『潜伏』スキルを得意とするセルベントが一人おり、彼は技術を駆使して村に近づいた。
そこで彼は、無人となったゴブリン村を見ることとなる。
いぶかしみ、さらに奥まで潜入する。が、やはり誰もいない。焚き火の跡があるが、熱を感じない。消えてからだいぶ経過しているようだ。
彼は急ぎ部隊に戻り、前線を指揮するユーゴに伝えた。
ユーゴはにわかに信じられなかったが、トールから早朝巡回班がもたらした村の話は聴いていた。兄と同様、半信半疑であったが、どうやら事実であったようだ。
それでも迂闊な行動は控え、後続の到着を待って本営に報告した。
短い協議の末、全部隊は村に進軍した。
用心のため陣を敷き、急襲に備える。が、敵はついに現れなかった。
調査した結果、村の反対出口に外へ向かって続く大量の足跡が発見された。
報を受け、トールはゴブリンの殲滅は失敗したが、撃退には成功したと判断した。それをハリー大隊長に伝えると、彼は満足げに声を弾ませた。
「それなら任務完了だ。全滅にはできなかったが、とりあえずの脅威は去ったと言っていいだろ。無駄に戦わなくてすんでよかったじゃねーか」
ハリー・ガネシムがもっとも喜んだのは最後の言葉にある。死ぬような恐怖を味わうよりは、深追いせずに帰るほうがいいに決まっている。
「よし、凱旋だ! 急げば夜になる前に町へ帰れる。全軍に伝えろ。生きて帰れるとな」
「はい。皆、喜ぶでしょう」
トールは敬礼して陣幕を出た。
「兄貴、これでいいのか? 足跡を見るかぎり、まだけっこういるようだぜ」
外で待っていたユーゴの顔は曇っていた。残敵がいれば、いつまた町周辺で襲われるかわかったものではない。
「いや、今回はこのあたりが限界だろう。むしろこんな寄せ集めでよくも生き残ったものだ。運がよかったのか、敵にもミスがあったのか、どちらにしても生きて帰れるなら、それが一番だ。先のことは、また別で考えたほうがいい」
「たしかにそうかもな。そういう意味じゃ、大隊長の判断は正しいか」
「誰よりも生きて帰りたがってる人だからな。だが、それが普通の人というものだ」
「普通ねぇ……」
ユーゴは意味ありげな表情をしたが、さすがに続きは声にしなかった。上官が誰であれ、節度は必要だった。
トールの帰還指示を聴き、兵士も異世界人も歓声を上げた。中には安堵から腰砕けになる者や、抱き合って喜ぶ者、涙を流す者もいる。
「さぁ、帰ろう、我が家へ!」
「オーッ!」
この作戦中、一番の声がゴブリンの村に響き渡った。
強行軍ではあるが、無事に町へ帰れるとなれば疲れなど忘れられる。一刻も早くゴブリンの森を抜け、人間のいる場所へ戻りたいと誰もが願う。想いは体を通じ、帰路は予想よりも早く進んだ。
それでも一部に遅れは出る。主に前日の戦闘で怪我をした者や、体力を使い果たした者だ。傷は魔法で癒せても、癒すためには代謝が促進され、体力を消耗する。ろくな食事もとれず、休息も不十分とあれば、外傷よりも体内の異常が回避できない。
ゴブリン領を抜けたあたりで一時休憩をとり、あまりに疲れが大きい者には疲労回復の薬が渡された。そういった魔法もあるのだが、【治癒】が優先されたため、体力回復は後回しにされている。その裏で、戦いという共通の苦難を乗り越えたからか仲間意識が強くなっており、自然と弱っている者を助ける姿が目立つようになった。
そうして7月29日18時32分、ゴブリン掃討作戦の大隊長ハリー・ガネシムは、ナンタンの南門を先頭で潜った。
伝令兵を先に送ったためか、南門には兵士長エレファンをはじめとする守備隊の主だったメンバーが待っていた。
「よくやり遂げたな、ガネシム。お父上も誇りに思うだろう」
兵士長から労いを受けたハリーは、いつもの横柄さも、調子のよさも見せず、涙をこらえていた。
「成功はこいつら……いえ、部下のおかげです。労いは彼らにやってください」
ハリーはそう言い、胸を張って馬を進めた。
兵士長はハリーの意外な言葉に驚き、そして安堵した。どういう心境の変化かはわからないが、いい結果に転んだようだ。作戦が最良の形で終わったことがエレファンには嬉しい。
「トール、よくやってくれたな」
次に現れたもっとも信頼する部下に、エレファンは笑みを向けた。
「いえ、わたしどもは大した働きはしていません。すべては彼ら、異世界人の力があってこそでした。とくに大隊長がもっとも嫌った少年が、もっとも彼を変え、もっとも戦場に影響を与えました。彼は英雄です」
「おまえにそこまで言わせるか」
「ほんの小さなですよ。本物にはまだ遠いでしょう」
トールは笑みを浮かべ、兵の列に戻った。
200名超の兵士と召喚労働者が中区へと消えていく。
その一番最後に、トールが英雄と称した少年がいた。もう一人の少女戦士とともに、疲労の激しい女性に肩を貸して歩いてくる。門を潜ると同時に座り込み、三人は休んでいた。
「彼らに癒しを」
エレファンの命令で、待機していた医療班が駆け寄り、魔法で癒す。
二人に支えられていた女性が何度も彼らに礼を言い、戻った体力を使い果たすかのように走って中区へと向かった。それを少年と少女は微笑んで見送っている。
エレファンは出迎えに集めた兵を連れ、大通りを北上した。
「アリアドが認めた少年か。面白いな」
彼は少年にも負けぬ晴れやかな笑みを浮かべていた。
ルカのおかげで元気になったアカリは、町について早々、一軒の店に向かった。とっくに閉店の時間となっていたが、片付けに追われている店内からは灯りが漏れていた。
「ただいま」
と、小さな声で言ったのは、自分の家ではないからだ。だが、中の住人は彼女を家族と思っていた。
「おかえり、アカリちゃん。怪我はなかったかい?」
初老の婦人が手にしていた雑巾を投げ出して近寄った。
「はい、大丈夫です。ちょっと疲れましたけど」
はにかんで笑う。
「おう、おかえり。元気そうでよかった」
店の主人も顔を出す。明日の仕込をはじめていたのか、手が真っ白だった。
「アカリさぁん!」
泣きそうな声で走ってくるのはアキトシだった。
「よかった、よかったよぉ~っ」
「なに、情けない声だしてんのよ。あんた、しっかりあたしも分も働いたんでしょうね」
「うん……。うん、ちゃんとがんばったよ」
アキトシは目を潤ませながら訴えた。
アカリも何故か、目頭が熱くなってきた。
「そう。ならよかったわ。悪いけど疲れを抜くために明日も休むから、しっかりやんなさいよっ」
「うんっ。明日もがんばるよ。パンを焼いて持っていくからね。みんなも無事なんだよね? みんなの分も持っていくから」
「大丈夫、みんな生きてるわよ。……では、今日は帰還のあいさつだけなので、またあさってからよろしくお願いします」
アカリは頭を下げて店を出た。これ以上いると、本気で泣きそうだった。
「なんだよ、アカリ~。一人でどこ行くのかと思ったら、真っ先にここかよ」
「マル! ルカまで……!」
マルがいやらしい笑みを浮かべている。
「マル、からかうことじゃないだろ。帰還を報せたい人がいるのはいいと思うよ」
「けどよー、アカリだぜぇ? 似合わねーじゃんか」
「なんですって?」
「そうそう。おまえはそっちが正しい。……んじゃ、オレもアキトシに会ってくるか。久々に町に戻ったんだ、みんなでメシ食おうぜ」
マルはパン屋に突入した。そして、しばらくしてアキトシを連行して出てきた。
「マル、まだ仕事終わってないって……!」
「店長がいいっつったろうが。たまには付き合えよっ」
「いくらなんでも強引だよぉ」
「いいから行くぞ!」
アキトシの抵抗などマルは聴く耳を持たない。
「そういえば、ショウは?」
ルカが周囲を見回す。おたがいに弱った人たちを助けているうちにはぐれていた。
「さぁ? シーナといっしょなら荷物を置きに宿かも」
アカリが答えた。彼女も荷物を置き、まずは風呂に行きたかった。
「ああ、もう休憩所にはいられなくなったんだね。ボクたちは訓練所だから宿泊場所があるのは助かるけど、いずれ必要になるんだな」
「とりあえず、あたしも宿に荷物置きたいから行くけど、あんたらどうするの?」
「オレたち、先に風呂いくわ。このままメシってわけにもいかねーし。ショウを見つけたら、お前も来いと伝えてくれ」
「おっけ。あたしもお風呂寄ってからご飯だけど、どうせいつものコープマンよね?」
「いつものってカンジじゃねーなぁ。もう久しぶりだ」
「どっちでもいいわよ。じゃ、コープマン集合で」
アカリが三人と別れて宿へ行くと、ちょうどショウとシーナがカウンターで鍵を借りているところだった。三人は合流し、部屋に入る。一日半いなかっただけで、ずいぶんと冷えきった部屋になった気がした。
「あー、このまま布団に倒れたい!」
「自分の布団ならいいわよ。あたしはこんな汚れたままなんてゴメンだけどね」
「だよねー。お風呂いこー」
「そのつもりよ。そのあとコープマン集合だって。マルがアキトシまで連れ出してたわ」
「日常に帰るってカンジだな」
「あたしはとっとと帰りたいわ。冒険も戦闘も、まだ早かった」
アカリが冗談めかせて言ったが、ショウもシーナも実感していた。
「そうだな。もっと鍛えてからだ。今のままじゃ、まだ足りない」
「そういう決意も今度でいいわよ。今日はもうとにかくリラックスしましょ」
アカリの提案に、二人も大きく賛同した。
鎧を脱いで、血まみれ泥まみれの服をゴミ袋に入れる。アカリは近接戦闘をしなかったので洗濯コースだ。ショウとシーナは戦闘のたびに服を捨てていたら大損害だと文句を言いながら、町歩き用の平服に着替えた。身軽になって風呂へ行く。部屋がある利点を強く感じるのは、個人スペースがあることと、余計な荷物を持たないですむことだった。
ショウは風呂でマルたちと合流し、サウナを出たり入ったりを繰り返しながら男四人の談笑を楽しんだ。
そろってコープマンに着くころには、アカリとシーナの食事がはじまっていた。
と、同じテーブルにもう一人の知り合いがいた。
「全員、無事に戻ったようだね」
「リーバさん。今日はどうして?」
リーバは町のほぼ反対側に部屋を借りており、異世界人管理局に用でもなければこちらに来ることはない。
「討伐隊が戻ったと聞いてね、気になったから来てみたんだよ」
「それは、わざわざありがとうございます。無事、生還しましたよ」
「うん、よかったよ」
ショウに応え、リーバは目を細めた。それを見てショウは、彼もずいぶん変わったなと思う。出会ったころは他人との関わりを嫌がっていたのに、今はこうして仲間の身を案じるまでになっていた。人はやはり変われるのだとショウは感じた。
「テーブルもリーバが押さえててくれたのよ。……あたしらにはここ以外に行くところがないと思われてるのもシャクだけど」
ショウたちは笑ってリーバに礼を言った。見れば他のテーブルも帰還者たちで埋まっている。それもそうだろう。生きて帰れた喜びは、全員の共通認識である。喜びの行き着く先は、まずは酒や食べ物に決まっている。
適当に注文をし、飲み物がそろうと乾杯をした。7つのカップがぶつかり合い、音を鳴らす。
順当にマルの自慢話がはじまり、アカリの皮肉が炸裂し、言い争いが勃発、アキトシが仲裁する。ショウはルカとシーナの話をステレオで聴くハメになり、さすがにわけがわからなくなって二人の話を交互に聞きながら食欲を満たした。リーバはそんな彼らをただ眺め、自分流に場を楽しんでいた。
そんな騒ぎも開始から一時間が過ぎるころには落ち着き、彼らは現実的な話をはじめた。
「明日からはまた訓練所生活だな」
「だなー。もう一つの魔法もさっさと覚えて、戦士コースにいくぜ」
ルカの言葉に、マルは満面の笑顔を浮かべる。
「ルカは結局、何のスキルを覚えるんだ?」
ショウが訊ねた。ルカは魔法を覚えなかった。戦士系のスキルも覚えていないらしい。となると、何があるのだろうか。
「まだ思案中。明日からは裏匠・基礎教練を受けて、それから考えるよ」
「裏匠って、いわゆる盗賊だっけ?」
「そう。鍵開けとか、罠解除とか、暗殺技術とか」
「ゲームでは必須だけど、実際に使うのかな、そんなスキル」
「こういうのはいざって時のものだからね。日常的に使ってたら怖すぎだよ」
「たしかにそうだ」
ショウは笑って納得した。
「そのあとは生存術教練や、医術教練なんかもあるから受けておこうかと思ってるんだ」
「訓練所に住み着くつもりか?」
ショウは冗談めかすが、ルカは本心を爽やかに返す。
「しばらくはいたいかな。覚えてたい知識が多すぎてさ、なんでもいいから取り込みたいんだ」
「知識欲の権化だったか」
「知らないことを学ぶのは楽しいからね」
ルカの笑顔に、ショウは「そうか」としか答えられない。彼が幸せそうなのはいいが、まだしばらく離れるのはやはり寂しい。
「オレは戦士コースが終わったらそれでいいや。勉強やメンドクセーのは嫌いだし」
マルはルカと真逆で、戦闘特化で満足だった。それ以上に、訓練所に篭るのが飽きてきていた。さっさと外へ出て、実戦で活かしたい。今回の掃討作戦は、まさに渡りに船であった。
「そういうショウたちはいつ訓練所に入るんだよ?」
マルが訊き返す。
「入りたくても入れないんだよ。管理局専属召喚労働者が優先だからな。それこそ今回の作戦で未訓練があんなにいたのがわかったら、よけいだろう」
「だろうね。管理局が戦力増強を目指すなら、まずは底上げが必要だよ。最終的には数だからね」
ルカの意見は正しいとショウも思う。
「セルベントって約200人だよね? 一人が一月いるとしたら、むこう三ヶ月はいっぱいだね」
シーナの計算に、ショウはため息がこぼれた。
「その間にお金を貯めたとしても、戦士の基礎講習とスキルがせいぜいで、魔法は覚えられないだろうしなぁ」
「普通に考えたら無理だよね」
ショウといっしょにシーナもため息をつく。
「魔法を使うのに特別な許可証はいらないから、独学で覚えるとか」
あっさり言うルカに、「できるか!」とツッコむ。
「できねーと思ったらできねーんだぜ?」
ルカではなく、マルが肉にかぶりつきながら言った。
「……!」
ニンニンさんの貴重な体験談がショウの頭を横切った。
「マル、それはボクのセリフ」
「硬いこと言うなよ。オレ、おまえにマジで感謝してんだぜ? おまえが教えてくんなきゃ、一生魔法を使えないとこだった」
「なにその感動話」
アカリがニヤッとしてマルに詰め寄った。
「うるせー、陰湿女っ。これに関してはチャカされたくねーんだよっ」
「なに、そんなにマジな話なの?」
アカリはからかい口調をやめた。
「いやぁ、そうでもないよ。魔法の実習がうまくできなかったマルに、魔法を疑っていたらできないよと言っただけ」
「そりゃそうだろ」
ショウが即座にツッコむと、マルが反論した。
「そうはいうけどよ、実際におまえはどこまで信じられるんだ? 自分が魔法を使えるって。日本でだって、一度くらいは魔法を使いたいと願ったことあんだろ? で、使えたか?」
「……使えない」
「だろ? 使えないんだって、どっかで思ってんだよ。科学的じゃないから無理だって。それが世界の場所が変わっただけで使えるって信じられるかよ」
珍しくマルが正論で攻めてくる。ショウはいちいち考えさせられた。
「魔法を使うには意識改革が必要なんだよ。魔法はあるんだ。だから使えて当たり前だって。まずはそこからはじめないとね」
ルカが話を締める。一同は「ほー」と感心した。
「なんだったら、ボクの魔術教練の教科書あげるよ。ボクはもういらないし」
「え、マジで? 欲しいけど、お金も出さないでもらってもいいものなのかな」
魔術師コースの料金の高さは、魔術師協会へのロイヤリティではなかっただろうか。だとすれば、違法になるのではないのか。
「いいんじゃない? 譲渡不可とか言われてないし」
「そういう問題か?」
「ダメだったらそのとき謝ればいいんだよ。それに、基礎教本には実際の魔法は一つしか書かれていないしね。それができたからって世界がひっくり返るわけでもない」
「……じゃ、もらっておこうかな。でもいちおう、パーザさんに使っていいか訊いてみよう」
「真面目だね。ていうか、冒険心が足りないなぁ。少しくらい危険なほうが面白いじゃないか」
「犯罪を犯すのを冒険とはいわない」
ショウがムキになって言い返した。
ルカは「キミらしい」と肩をすくめた。
「それじゃ、許可が取れたら明日にでも訓練所に来てよ。受付で呼び出してもらえるから」
「そうする」
ショウがうなずくと、ルカは笑みを返した。
「けどさ、ショウ」シーナが一つの疑問を投げかけた。
「わたしたち、訓練所に行く必要ってあるのかな?」
「え、あるだろ? 戦闘技術を上げたいし」
「すでに実戦何戦目よ? 今さら訓練所で剣を習うって意味なくない?」
「う~ん……」
ショウはそこまで考えなかった。
「マルはまだ戦士コースに行ってないんだよね?」
「あー、まだ」
シーナの問いにマルが答える。しかたなくシーナはもう一人の訓練所通いに訊いた。
「実戦も訓練も経験してる側から見て、どうなの?」
「どうなの言われてもね……。ボクは訓練所の成果があったから戦えたわけだし、無駄じゃなかったよ」
「そりゃそうか」
シーナは役に立たないルカに見切りをつけた。
「でもさ、コーヘイさんたちは訓練所に通ったけど、また行きたいと話してたじゃないか。それって更なる向上が見込めるからだろ?」
「そういえば、言ってた……」
シーナも思い出し、自分の考えは浅いのだろうかと頭を抱える。
「訓練所でやってるのは、対人や集団戦がメインだよ。あとは武器のメンテナンス方法や、技術の練習。いろんな武器の使い方も学ぶかな」
ルカが教わった内容を簡単にまとめた。
「行って損はないような気はするけど……」
「行かなくてもいいかなとも思うよね」
ショウとシーナは「うーむ」と唸る。
「訓練所の利点は、ダメなところをプロが教えてくれるところだね。それに固有の戦闘技術は訓練所でないと学べない」
「スキルって必要だと思う?」
「戦闘の幅が広がるのはたしかだよ」
「でもルカは戦士系スキルを取らなかったんだろ?」
「うん、必要なかったからね。戦士系スキルは、基本技のちょっとした派生でしかないから。必中・必殺でもないしね」
「結局、役に立つのか立たないのか、どっちなわけ?」
シーナがうんざりした表情を浮かべる。
「短期間で強くなりたいなら必要かな。コツコツと自己鍛錬ができるなら別にいらないと思う」
ショウたちは考え込み、一つの結論を出す。
「お金が貯まってからもう一度考えよう」
「先立つものがあってこその悩みだしね」
「なんて無駄な会話なの」
アカリが呆れてツッコミを入れる。
「そういうアカリはどうするの?」
「あたし? ……とりあえずは行くと思うわ。あんたらほど実戦経験ないし、弓以外使えないし」
「その弓だけで充分、やっていける気もするけどな。意外と才能があったんじゃないか?」
「そんなわけないじゃない。矢が切れたらどうすればいいのよ? 他人事だと思って、いい加減なことを言わないでよ」
「褒めたつもりなんだけどなぁ」
ショウが頭をかいて苦笑いした。
「強くなった気でいても仕方ないのよ。あたしは自分が納得できる強さが欲しいの」
宣言するアカリに、一同が「ほー」と感心する。
「アカリ、かっこいいなー」
「チャカさないでよっ。あたしのことはもういいから、次、リーバ」
「オレ!?」
突然の名指しに彼は噴きかけた。
「なんか進展とか、展望とかないわけ?」
「最近までセルベントの衣装デザインやってたからな。次の企画は今のところないよ」
「え? この服、リーバ産かよ?」
マルが驚いて反問する。彼もルカも、自分が着ている服のルーツは知らなかった。リーバが肯定すると、二人は自分の服をじっくりと眺めた。
「動きやすいし、着心地もいい。この世界に来て、はじめていい服だと思ったよ」
ルカが感想を述べる。
「デザインもだけど、着心地も考えて作ったからね。気に入ってもらえてよかったよ」
「わたしたちのチーム・ユニフォームはまだぁ?」
「そんなすぐにはできない。いつか作ってやるから、それまでは生き延びていろ」
「はーい」
シーナは手を上げて返事をした。
「なんだよ、その面白そうな企画は?」
マルが首を突っ込む。
「管理局の駒には関係ない話よ。とくにサルにはまったく無関係」
「なんだと、クソ女っ」
マルとアカリが睨みあう。その横で、ショウがあっさりネタバレする。
「セルベントの制服が羨ましくてさ、リーバさんにオレたち専用のチーム衣装を頼んだんだよ」
「ボクの分も頼むね」
「オレも頼むぜー」
当然のように要求するルカの続いて、マルも便乗もする。
「わかったわかった。アキトシも含めて、六人分な。暇になったら採寸させてもらうよ」
「ボ、ボクも……?」
存在しないかのように食事をとっていた少年が、驚いて服飾デザイナーを見た。
「当然だろ?」
リーバが不思議そうに言うと、アキトシの顔が明るくなった。
「自分の分が抜けてんぞ」
「オレは――」
「もう一着増えても問題ねーよ。作るのはオレじゃねーし」
マルは悪びれもなく笑った。
リーバは「おまえなぁ」と言い、一度頭を振って「まぁ、いいか」と息を吐いた。
「さてと、あたしはもう疲れたから宿で休むわ」
アカリが体を伸ばした。せっかく全員がそろっているので眠気を抑えたいところだが、体はついていかないようだ。
「おう、行けいけ。オレたちはこれから盛り上がるからよ」
マルが追い払う仕草をする。アカリは意地で抵抗しようとしたが、やはり今回は難しそうだった。
「サルは元気でいいわね。あたしの代金はショウ、払っておいて。明日清算するわ。……じゃ、みんなお休み」
アカリはアクビをしながらコープマンの店を出ていった。
「なんだショウ、同じ宿にいんのか? わざわざ苦労を買うこともねーだろ」
彼女が去ると、サルと呼ばれた黒髪少年がショウをからかった。
ショウは話すのをためらった。言えばさらに突かれるのが容易に想像がつくからだ。
が、物事を深く考えないもう一人の同居人の口は滑らかだった。
「違うよ、いっしょの部屋に住んでるんだよ」
「「ブフーッ」」
顔を覆ってうつむくショウ以外が噴いた。
「マジか!」マルのツッコミ。
「どういうことかな?」ルカのこめかみがヒクついている。
「それって、あの……」アキトシはオロオロしていた。
「意外とやるね」リーバは感心していた。
「違うっ、宿代を安くするためのシェアだっ。四人部屋を借りてんだっ」
「もう一人はわたしねー」
シーナはのん気だった。
「……うわ、おまえ、最低だな」
「ショウ、じっくり話そうか」
「それはもう、あああ……」
「さらに上をいくか」
「ちょっと待てっ。マジでやましいことはないぞっ。四人目も随時募集中だっ」
「まだ女を増やすのかよ」
マルが軽蔑の眼差しを向ける。
「男女問わずだよっ。宿代を安くするためって言ってんだろっ」
「冗談だよ。……んじゃ、訓練所を出たらオレが入ってやるよ」
マルが名乗り出ると、ルカが反発する。
「そこはボクが入るべきだろ。マルはアカリに嫌われてるし」
「おまえは当分、出てこねーだろうが!」
「いや、たった今、もう訓練所はいいかなって気になった」
「フザケンナ、年単位で篭ってろ」
言い合う二人にシーナがニコやかに一言。
「わたし、ルカだけは認めないよー?」
「ほらな? おまえ、ダメじゃん!」
「マルもアカリに却下されるだろ。だいたいシーナにそれを決める権利はないっ」
「ならアカリにだって決定権はねーだろっ」
終わりが見えない二人に、リーバが別の提案をする。
「めんどくさいヤツらだな。男だけで宿を借りればいいだろ?」
「その手があったー!」
「いや、気付けよ……」
リーバは呆れ果てた。
「けど、それをやると、アカリとシーナがまた二人部屋になって料金がかさむだろ?」
ショウが一つの解決に対する、別の問題をあげる。
「知るかよ、そんなの。女は女だけで集まりゃいいじゃんか」
マルの暴言に、シーナはムッとした。
「そんなこと言うヤツのとこにショウは譲らないもんね。はじめから渡す気もないけど」
「おい、ショウ、おまえはどうしたいんだよ? ハーレムがいいのか?」
「ハーレム言うな!」ショウはまず、そこにツッコむ。
「……四人部屋に四人ていうのも、実際は狭くてキツイんだよな。今は三人で使ってるから空きベッドを物置にしててさ、けっこう便利なんだよ」
「うんうん、そうだよねー? 空きベッドがいいカンジで部屋として機能してくれてる」
シーナが同意する。
「つまり、このままがいいってことかよ?」
「だなぁ。もちろん、男だけで四人部屋でもいいけど、借りるなら三人でだな」
「じゃ、そうしようぜ」
「だから、そうするとアカリとシーナに迷惑かかるって話だろ」
話がまた戻っていく。
「よし、じゃ、家一軒借りようぜ。そうすりゃ個室も持てるかもしれねーだろ?」
「それも考えた。けど、家の値段を調べる暇がなくて頓挫したな。あとは訓練所に入るなら家は負担が重いだろってことで」
「オレたちが訓練所を出るまでにはまだ時間あんだから、それまでに調べとけよ。意外な拾い物があるかもしれねーぞ」
マルは無責任に言い放つ。が、ショウはそれも悪くはないと思った。マルたちが訓練所を出て家にいるなら、自分たちが訓練所に入っても無駄にはならない。
「都合よく手ごろな家が見つかればいいけどな」
提案としてはいいが、ショウは期待はしていない。あれば喜んで飛びつくだろうが、そのためにはまずはお金が必要になる。さらにそのためには稼げるようにならねばならず、稼ぐためには強くなるのが前提だ。そしてまた、訓練所の話に回帰する。
「……そうだな、まずは強くなろう」
ショウは強い決意を小さくつぶやいた。彼が机の下で拳を握っていたのを、隣のシーナは見逃さなかった。
ギザギ十九紀14年7月29日、少年たちの戦いはひとまず終わった。
トール記載ゴブリン掃討作戦・報告書より抜粋――
『最後に、私個人の見解を記しておく。
29日早朝の巡回に出た召喚労働者、ショウとルカの報告にあったクラン・シアーズなる亜人について。
その外見的特徴から、彼はゴブリン王クラシアスではないかと思われる。
その仮定で、7月29日の流れを考察する。
推測ではあるが、彼が二人と接触したのはこちらの情報を得るためであろう。相手が兵士だとしても、子供であり、彼にしてみれば相手にもならない存在であったのが、この際は二人にとって幸いであったといえる。彼にしても容易に情報を引き出せる相手であったのは幸運であっただろう。
そこで得たこちらの情報に、彼は戦闘をあきらめて山奥へと引き上げた。数的不利であったのか、昼間の戦闘に不安があったのかはわからないが、少なくとも彼には勝てる目算がなかったのだとわかる。
戦術的には彼の選択は正しい。が、戦略的にはどうであろうか。
そもそも、彼はなぜこの地へ来たのだろうか? サイセイを攻撃して失敗した直後にこちらへ移動したのは間違いない。日数的にも確かであろう。
サイセイほどの防御力がないのを狙ったのだとしたら、初めからサイセイを攻撃したりせず、直接ナンタンを狙うべきである。クラシアスはその計算ができないほど愚かではない。
また、その兵力も半端である。250名ほどの兵士を恐れて撤退するというのは、前夜の奇襲部隊と合わせても250ないし300程度の兵力しかなかったと考えられる。さらにはその全兵力を夜襲で使わずにいたことや、彼自身が陣頭に立たなかったのも不可解だ。結果的に、各個撃破の憂き目を見たのは彼らのほうである。
たとえ少ない兵力でも、ナンタン周辺の村や田畑を焼き尽くすことは充分に可能であり、戦い方によってはナンタンに大ダメージを与えることもできたはずである。
このように、いくつもの失態を重ねているのは、クラン・シアーズはクラシアスではない証左であろうか。それとも、私がゴブリン王を買い被っているのだろうか。もしくは、この策自体に大きな意味はなかったのだろうか。
いずれにしても、今後の彼の動向が予測しづらいものとなったのは確かであろう』
トールはそこまで書き上げ、悩んだ末にページから排除した。多分に私情が込められており、推測が多い。報告書に載せるには適さない文章だった。一兵士の考察など、作戦報告には必要ないのだ。それでもペンを走らせたのは、ゴブリンの動向があまりに不可解であったからだ。
トールはそのページを個人の日記に挟み、閉まった。いずれ役に立つ日が来るのではないかと思いながら。
「兄貴、そろそろ帰還祝いの時間だぜ」
弟のユーゴが扉越しに声をかけてきた。
トールは「わかった」と応え、席を立つ。先の不安はあるが、今日、今だけは喜んでもいいだろう。おそらく短い旅を共有した異世界人たちも生還と作戦成功を祝っているはずだ。彼らを知り得たのが今回、もっとも大きな収穫だった。いずれまた、共に戦う日が来るだろう。そのときは互いにもっと力をつけていたいものだ。
後のナンタン兵士長は、兵舎を出た。




