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召喚労働者はじめました  作者: 広科雲
11/59

11 勉強会

 朝から夕刻までの家具搬入作業を終えたショウは、異世界人管理局への帰路についていた。

 現在地はナンタン中区11番街――北北西エリア――で、異世界人管理局は中区6番街――南エリア――にある。

 町の中心地である内区を通れるのならばショートカットができるのだが、許可証がないショウは第一防壁沿いを歩くしかない。そのため、管理局に着くころには17時を回っていた。行きが東回りで帰りが西回りだったので、町を一周してきたことになる。もっとも、どちらも目的地に着くのが優先であったため、ロクに街並みを覚えていない。

 作業終了報告を済ませ、水場がすいているうちに洗濯と水浴びをする。そこでふと思い出した。文字の勉強である。

「でも、今日はもう疲れたしなぁ……」

 そう言い訳をこぼした瞬間、先ほどまで共に汗を流していた召喚労働者サモン・ワーカーの先輩ニンニンの声が蘇る。

『高校のときどうしても欲しいフィギュアがあって――』

 あの続きを聞いていなかった。

「――じゃなくて!」

 自分にツッコむ。ショウは体を拭き、着替え終えると、また受付の列に並んだ。

 15分ほど待ち、ショウの番が回ってくる。ちょうどよくベル・カーマンが窓口担当となった。ニンニンからの情報では、彼女がギザギ国語の講師であった。

「えーと、この世界の文字を勉強したいんですけど」

「あ、はい。語学講習のご予約ですね? いつにしましょう」

「今日はできるんですか?」

「はい、夜の部は18時から一時間となっています」

「じゃ、今日でお願いします」

「初めての受講ですよね? ではこちらにお名前をお願いします」

 紙とペンが渡される。タイトルに日本語と現地語で『カクカ東部共通語講座入会申込用紙』とあった。氏名記入欄があり、ショウはカタカナで名前を書いた。下部には切り取り線と、入会金・テキスト料込2銀貨シグル、受講料1銀貨シグルの領収書まで付いていた。

「はい、承りました。18時に2階、第一会議室までお越しください。そのさい、筆記具をご持参ください」

「わかりました」

 ショウは清算水晶球の電子音を聞きながら応えた。

 となれば、あと12分で食事を済ませなければならない。いつものコープマン食堂へ行く余裕はないので、久々に近所のパン屋へ向かった。

 パン屋はまだ営業していた。窓越しに覗き見ると、商品は少なく、閉店間際なのがわかる。

 扉を開けると連動して小さなベルが鳴る。高すぎず、低すぎず、いい音だった。

「いらっしゃいませー!」

 ハキハキとした来店の挨拶。店の主人も連れ合いらしい女性店員も高齢で、こんなハリのある高い声はしていなかった。しかもなぜか聞き覚えがある。ショウは驚いて声の主を探した。

「あれ?」

「て、なんだ、あんたか」

「何してんだ、アカリ」

 エプロン姿のアカリがカウンターにいた。

「なにって、今日からここが職場よ」

 他にお客がいないとはいえ、彼女は露骨に面倒くさげな顔をした。

「定番作業て、ここなのか?」

「まぁね。他が掃除とか、害虫駆除だからね。消去法?」

「おまえ、すげぇ失礼だな」

「あ、ウソウソっ。飲食系はちょっと興味あったのよ」

 手を振って弁明する。

「まぁ、いいけどさ。アキトシはどこへいったんだ?」

「ン……」

 親指を立て、後ろを指す。

「まさか、あいつも?」

「あいつは調理側。あたしはどっちもなんだけど、あいつ、人見知りだから裏方がいいって篭ったわ」

「アキトシらしいな」

「でも、作るほうはあいつのが向いてるみたいね。今もマスターが教えてるわ」

「そうか。がんばれよ」

「あんたに言われなくてもがんばるわよ。で、買いにきたの? 冷やかしにきたの?」

「そうだよ、これから勉強会に出なきゃいけなくて急いでたんだ」

 ショウは目についた適当なパンを三つ取り、カウンターのアカリに渡した。

「勉強? なんの?」

「この世界の文字。カクカ東部共通語?というらしい」

「え、そんな勉強会あるの?」

 パンを袋詰めする手がとまった。

「オレも今日、先輩に聞いて知ったばっかだよ。文字は覚えておいて損はないからな」

「あたしも出たい! さすがに文字覚えないと、この仕事もヤバイし……」

 客は異世界人だけではない。一般住人のほうが圧倒的に多いのだ。店のメニューも現地語だけであり、今日一日だけでも読めないと不便なときが何度かあった。

「けど18時開始だぜ? 何時まで仕事だよ?」

「片付けとかあって19時……」

 アカリは清算水晶球のテンキーをたどたどしく叩く。まだパンの値段を覚え切れておらず、メニューの絵と見比べながらの入力だった。

「終わってるよ。昼の部もあるらしいけど、仕事中だよな?」

「マージーでー? どうにかならないかなぁ……」

「じゃ、聞いといてやるよ。本気でやる気があるなら」

「あるわよ! じゃないと仕事になんないわよっ」

「わかった。とりあえず急ぐから、続きは戻ったらな」

 清算水晶球の音色とともに、ショウはパンを引っつかんで走った。

「よろしくねー。まいどどうもー」

 その声の終わりは、少年には聞こえていなかった。

 ショウはパンにかじりつきながら足早に管理局へと戻る。エントランス・ホールにいた報酬待ちの召喚労働者サモン・ワーカーの数はだいぶ減っており、さきほどまで受付に座っていたベル・カーマンの姿もなくなっていた。おそらく講義の準備に入ったのだろう。

 まだパンは一つ残っていたが、カバンに押し込み、かわりに筆記具を出す。

「おう、何してんだ?」

 出入口の扉を開けて入ってきたマルが、慌てているショウに気付いて声をかけた。うしろにはルカがいる。家具工場の作業が終了し、報酬をもらいに戻ったところだった。

「これから講義を受けるんで、その準備。時間ないから行くな」

 ゆっくり話す余裕はなかった。カバンを担ぎ、階段へ向かう。

 その様子を、マルは「講義~?」とあからさまな嫌悪を顔に出し、ルカは逆に興味を持ちショウのあとを追った。

「ねぇ、なんの講義だい?」

「この世界の言語」

「ああ、それは面白そうだね。ボクも行く」

「いや、予約制だから」

「そうなの? じゃ、直接いってダメならあきらめるよ」

 まったくあきらめるつもりのない顔だった。

 ショウはそれ以上いわず、ため息をついて階段を上がった。

 ちょうどベル・カーマンが第一会議室へ入るところだった。

「よろしくお願いします」

 ショウが礼儀正しく頭を下げると、ベルは柔和な笑顔で「はい、よろしくお願いします」と応えた。以前も感じたが、小学校低学年の先生を思い出させる。

「ボクも講義を受けたいんだけど、飛び入りはダメかな?」

 ルカが馴れ馴れしく訊ねる。ショウは少しイラッとした。目上に対する礼儀が基本として体に染み付いているからだ。

 しかし、当のベル・カーマンは気にした様子もない。

「いいえ、学びたい方は大歓迎です。もう一部、テキスト持ってきますので、中で待っていてください」

「はーい」

 ルカは調子よく応え、楽しそうに会議室に入っていった。

 室内には誰もいない。今日の生徒は二人だけのようだ。

「講義代、大丈夫なのか? テキストと合わせて3銀貨シグルだぞ?」

 ショウは黒板の正面に座った。となりにルカが腰かける。

「んー? 明日の食事代くらいなら残るよ」

「初給料なんだから、まずは買わなきゃいけない物があるだろうに」

「気にしない、気にしない。金は天下の回り物だよ」

「……マルの悪影響だな」

「そうかもね。彼とはけっこう気が合うよ。小難しいこと考えないし気楽でいい。キミは少し、慎重すぎるんじゃないかな」

「オレって慎重か……?」

 いわれて、なんとなく思い当たる。ゲームでも町の周辺でレベルが上がるまで冒険に出ないし、エリクサーはクリア後もまだ残っている。セーブはこまめだし、メモもよく書く。ああ、そうかも、と、ちょっと落ち込んだ。

「でもそれがキミのいいところなんだよ。一人くらいはそういう人間がいないとね。ボクが暴走したら、止めるのがキミの役目になりそうだ」

 ルカは笑い、ショウは「お気楽だな」とまたため息をついた。

「お待たせしました」

 ベルが腕に書類束を抱えて入ってきた。彼女はそこから二冊の薄い本をショウとルカに渡す。ルカにはさらに一枚の書類も追加された。入会申込書だった。

「この書類にサインをして、あとで受付で清算してくださいね」

 「了解っ」と、気持ちよくルカは受け取り、「あ」と漏らした。

「ショウ、悪いんだけど、ペン、貸してくれないかな」

「……ちゃんと返せよ?」

 念を押して予備の鉛筆を渡す。が、「サインはペンでお願いします」とベルに注意され、羽ペンと小さなインクビンを貸した。管理局で売られている筆記具セットに入っていたが、持ち主のショウも使ったことがない。まっさらなペンだったのでインクのノリが悪く、何度か馴染ませてからルカはサインした。

「はい、けっこうです。では、東方語講座をはじめます。講師はわたし、ベル・カーマンが行います。質問があればなんでも聞いてください」

「よろしくお願いします」

 ショウが頭を下げた。ルカもそれに倣う。

「では、テキストを開いてください。異世界の方にもわかりやすく、文字の対応表がついています」

 見開きで日本語の平仮名50音表が書かれていた。その隣に、記号のようなものがある。これがカクカ大陸で使われている文字だった。一文字につき一音で、濁点や半濁点を表す記号もあった。

 形としては単純である。ほぼ直線で構成され、もっとも単純化すれば7×7マスで表現できそうであった。たとえば平仮名の『あ』であれば――


 ●●●●●●●

 ○○○●○●○

 ○○○●●○○

 ●●●●●●●

 ●○●●○○●

 ●●○●○○●

 ●○○●○○● ※横書きでご覧ください


 ――といった形だ。

 次ページには筆記体があり、こちらはブロック体にそのまま丸みをつけたような形をしていた。さらに次のページから4ページにわたって書き順が記されている。

「使われる文字は基本が52種、これに濁音・半濁音による表記が加わり、また、拗音ようおんを表す捨て仮名(すてがな)などもあります」

「ヨーオン? ステガナ?」

「日本語でいうところの『きゃ』『きゅ』『きょ』などで、この表記に使う小さい文字が捨て仮名です」

「へー」

 二人の日本人が同時に感心する。

「一覧表を見ていただいてわかるとおり、発音するのは難しくないと思います。ですが当然、日本語と東方語では意味がまったく違いますから、単語を覚えないとなりません。たとえば、日本語の『パン』は、こちらでは『ナプ』と呼びます。文字は対応表で当たっていただければわかると思います」

 ショウは表を見ながら二文字をメモし、横に『パン』と書いた。たしかにこの文字の並びは、先ほどのパン屋でも見ている。

「では、それらを踏まえてテキストの9ページを開いてください」

 ショウたちはページをめくった。一行に平仮名とカタカナ、さらに【】(カッコ)が並んでいる。一行目は『こんにちは』、二行目が『おはよう』といった具合に、日常会話で使われそうな挨拶や固有名詞があった。カタカナのほうは日本語の意味を持たない文字列だった。

「日本語の単語を、東方語の発音にしたものがカタカナの列です。そのカタカナをカッコ内に東方語で書いてください。もちろん、対応表を見てかまいません。9ページと10ページが終わりましたら声をかけてください」

 そう言って彼女は自分の席を確保し、持っていた書類を決裁しはじめた。彼女には管理局広報課職員としての仕事もあるのだ。

 二人はおよそ30分かけて2ページ分の単語を埋めた。集中していたのか、終わったときに深い息を吐いた。

 ベルがテキストを受け取り、赤ペンで採点をしていく。ショウはいくつか間違え、ルカは満点だった。右上にハナマルが添えられる。

「なんか悔しい……」

「なんとなく平仮名に似てるから、覚えるのはそんなに難しくないと思うけど」

 ルカはあっさりと言う。ショウが「どこが似てるんだ」とツッコむと、「だからなんとなく?」といい加減な答えを口にした。

「単語の練習につきましてはまだ数ページあるのですが、それは宿題としておきます。テキストを進めまして、次は文章を作ってみましょう」

「いきなり難易度が上がってるんですが……」

「大丈夫ですよ。はじめは主語と述語だけです。例文として日本語の『わたしは歩く』という文を――」

「ねぇ、そのまえに質問いいかな?」

 黒板に例題を書こうとしたベルに、ルカが挙手して発言した。

「はい、なんでしょうか?」

「文字が大切なのはわかるんだけど、だったらなんで初めから文字を読めるようにしてくれなかったのかな?」

 ルカの質問は、ごく当然のものだった。言葉は通じるのに文字は読めないというのは作意を感じる。けれどショウはそのあたりを深く考えてはいなかったので、ルカの問いかけは新鮮だった。

 ベルは過去にも何度となく同じ質問を受けていた。誰もが持つ疑問である。

「異世界召喚庁長官のアリアド様がおっしゃるには、あなたがたの体には言葉が自動的に【伝心】系魔術に変換される仕掛けがなされているそうです。つまり、言葉をやりとりしているのではなく、意思を相互伝達しているのです」

「それって、黙っていても念じれば伝わるってこと?」

「いえ、あくまで音として発せられた言葉だけです。水中などでは伝わりません。また、その音を『言葉』だと認識している必要があるそうです」

「でもそれは読めない理由にはならないんだけど? 同じような術ってあるんじゃないの?」

「わたしは魔法には明るくありませんが、未知の言語を読む【読解】の術はあるそうです。ですが、文字か文字ではないのか判別をするのは難しいのです。たとえば――」

 ベルは黒板に大きく直線を何本も引き、「なんて書いてあるかわかりますか?」と二人に問いかけた。

 ショウは首をかしげ、ルカは東方語の『か』と答えた。ショウがテキストを見ると、確かにそうも見えるが、線が一本多い。

 ベルは首を振った。

「いいえ、適当に線を引いただけで文字を書いたつもりはありません。これは人為的なものですが、自然の中に似たような模様がないとは言えません。それが眼に映るたび、自動的に文字として捕らえたらどうなるでしょう。意味がないのに意味を感じてしまい、混乱します。ですから【読解】術は使わず、個人の識字に任せたのです」

 「なるほど」とショウは素直に納得し、ルカは「ふ~ん、そっか」と薄く笑った。

「ちなみに、あなたがたの【伝心】術は、ギザギ国でもこのサウス領内でしか発動しません」

「甘えが許されるのも領内だけってことかな」

「わたしにはわかりませんが、そうなのかもしれませんね。サウス領は勇者養成所として提供されている地ですから」

「そうなんだ。ねぇ、もう少し詳しく教えてもらえるかな」

 ルカが興味深そうに前のめりになった。

「ごめんなさい、今は国語の時間なので。もし、気になるようでしたら三階の資料室に異世界人召喚の歴史本がありますので、そちらをご覧ください」

 申し訳なさそうに告げるベルに、ルカは残念そうに「は~い」と応えた。

「では、話を戻しますが、実はこの【伝心】術は領内でも自分の意思で解除することができます」

「え?」

 異世界人二人は驚く。

「これは言葉を覚えたときのテストをするときに邪魔になるという理由でオン・オフが可能なのだそうです」

「どうやって?」

「ステータス・サークルを出してください」

 ベルに言われたとおり、二人は首元を叩いてサークルを出した。

「サークルを裏から叩いてみてください」

 二人は手の甲で軽く叩く。すると、サークルがひっくり返った。見たことのないステータスが出てくる。

「オプションの言語設定の『自動伝心』を『切』にしてください」

 『入』になっている部分に触れると、『切』に変わった。

 ベルが何か言っているが、まったく意味がわからない。

「ベルさん、なに言ってるんだろ」

「おそらく東方語を話しているんだろうけど、わからないね」

 ショウとルカは顔を見合わせた。二人は日本語なので通じ合っている。

「そうだ、『アヒチノカ』」

 ショウがおもむろに口にした言葉にベルは一瞬驚き、それから笑顔で「アヒチノカ」と返した。少年とはイントネーションが少し違った。

「それって、東方語? さっきやったね」

 ルカがテキストのページを戻す。『こんにちは』だった。ルカはベルの発音を真似て繰り返した。

 ベルが小さく手を叩く。

 ショウもテキストを見て、単語を一番上から流した。ベルは付き合いよく、発音を正しながら応えた。

 結局、後半は発音練習で終わった。一回目の講義は、ショウとベルが夢中になっていて10分オーバーしている。

「ありがとうございました。またお願いします」

 『自動伝心』を『入』に戻し、ショウはお辞儀をした。

「はい、いつでもどうぞ。がんばってくださいね」

 ニコやかに去っていくベル。その背中を見て、ショウは思い出した。

「あ、待ってください。ちょっと相談が!」

「はい?」

「実は、東方語の講義を受けたいという人がもう一人いるんですけど、仕事の都合で夜の部も間に合わないらしいんです」

「まったくお休みがないのですか?」

「どうでしょう? 彼女、今日からパン屋で働いてて、終わりが19時としか聞いていないのですが」

 「ああ」ベルは手を叩いた。

「アカリさんですね? たしかにパン屋さんへの定番作業を希望されました。あそこは早朝とお昼、夕方が混み合いますが、お昼前なら多少時間がとれるのではないでしょうか? もしその間に一時的でも管理局に戻れるようでしたら講義をしますよ。もうすぐ帰ってくるでしょうから、こちらからお話してみますね」

「よろしくお願いします」

 さっきより深く頭を下げた。

「キミ、ホント、お人好しだね」

 ベルが去ったあと、ルカが多少呆れて言った。

「そうか? 普通だと思うけど」

「普通ってなんだろうね」

 ルカは今度は笑った。


 ショウはエントランス・ホールの、玄関に近いベンチに座っていた。そろそろ帰ってくるであろう、アカリを待つためだ。先ほど食べ逃したパンをかじりつつ、東方語テキストをパラパラとめくっていた。

 ルカは講義が終わると三階に上がっていった。異世界人召喚の資料本を読みたいと、資料室へ向かったきり戻らない。

 ほどなくして、玄関からアカリが息せき切って飛び込んできた。少年を発見し、勢いそのままに近づいてくる。

「もう終わっちゃった?」

 主語のない問いかけだがショウは理解した。

「さっきな。話はしといたから、ベルさんと相談してみな。奥にいるだろうから呼んでもらえよ」

「さんきゅっ」

 アカリは笑顔で手を振って離れていった。すっかり人気のなくなった受付の呼び鈴を鳴らし、出てきたベル・カーマンと何か話している。

 また玄関扉が開いた。見慣れた顔が続く。今度はアキトシだった。

「よぉ、おつかれ」

「あ、ショウくん。おつかれさま」

 本当に疲れた顔をして、アキトシはショウのとなりに座った。深い吐息が漏れた。

「アカリといっしょにパン屋だって?」

「そうなんだよー。ボクははじめからパン屋に行くつもりでいたんだけど、彼女は最後まで悩んで結局いっしょだったんだよね」

「悩んでた? ああ、消去法って言ってたな」

「うん。はじめはベビーシッターとか掃除とか見てたんだけど、ピンとこなかったらしくてさ。飲食店系はここしかなくて、ホントに消去法」

「いっしょだと疲れるだろ?」

 ショウがからかう。

「ボクは裏方だから絡むことが少ないし、でも、顔見知りがいるのは心強いよ」

「まるっきり一人で挑戦するよりは気が楽か……」

 そう言ってみて、実はアカリも同じなのではないだろうかと思った。思ったが、あのアカリが?と自分の想像を嗤って否定した。

「で、パン屋は続きそう?」

 ショウはアキトシ自身への話題に転じた。

「そうだね。建設現場や倉庫よりは楽しいし、やりがいもあるかな。ボクは冒険よりもこういうほうが向いてるよ」

「そっか。いつかいっしょに冒険に出るかと思ったけど、なさそうだな」

「うん。ボクはパンを焼くよ」

 アキトシの晴れやかな顔を見てショウは残念に感じたが、それ以上に納得していた。アイリが日本へ帰ったときに、マルが『それがそいつの生き方』だと言った。ならば、アキトシの生き方はパンを焼くことなのだろう。

「……さて、歯を磨いて寝る準備するかな」

 ショウが荷物を持って立つと、アキトシも「終了報告してこなきゃ」と腰を上げた。

 そこへ、またも玄関が開かれる。今度は慌しく、乱暴に。

「ツァーレさん、いるか!」

 革の鎧を身につけた青年が叫んだ。肩には血まみれの男を担いでいる。玄関先でそっと降ろし、もう一度ツァーレ・モッラを呼ぶ。

 ショウもアキトシも突然の出来事に対処できず、立ち尽くすだけだった。

 受付でアカリと話していたベル・カーマンが慌てて奥の部屋に向かう。アカリはショウたち同様、その場で硬直していた。

 ツァーレ・モッラとベル・カーマンが奥の事務室から飛び出してくる。パーザ・ルーチンの姿も見えたが、彼女は呆然とするアカリの手を取ってまっすぐ診療室へ走っていった。

「どうしたのですか?」

 ツァーレが血まみれの男の様子をうかがい、出血元を探した。

「ゴブリンだ。畑の巡視作業中に襲われた」

 革鎧の男も腕に切り傷を負っていたが、相方の心配に意識が集中しており、痛みを忘れていた。

「背中を刺されたのですね。すぐに傷口を塞ぎます」

 ツァーレは出血箇所を確認し、【治癒】を施した。肩口にも裂傷があったので治しておく。

「これで血は止まります。呼吸も安定してきていますし、もう大丈夫だと思います」

「ああ、よかった。ツァーレさん、ありがとう」

「いえ、神のご加護です」

 ツァーレは光の神の印を切った。

「ツァーレ、大丈夫なの?」

 パーザ・ルーチンが包帯やタオルを大量に持ってやってきた。後ろには水桶を持ったアカリがいた。

「はい。傷は塞ぎました。あとはゆっくり休んでもらえれば、回復すると思います」

「そう。これで体を拭いてあげて」

 アカリに水桶を置くように指示し、相方にタオルを渡した。彼は「ありがとうございます」と受け取り、血まみれの戦友を拭ってやった。

「他のメンバーは大丈夫ですか?」

 パーザは彼が夜間巡回作業員の一人であるのを覚えていた。今日のメンバーは全部で10名だったはずだ。残り8名はどうなったのだろうか。

「無事だ。襲われてすぐに笛を吹いて仲間を呼んだらゴブリンどもは逃げていった。全員で畑を離れるわけにも行かないから、オレだけコイツを連れて戻ってきたんだ」

「そうですか。今日は休んでください。明日、他の方からもお話をうかがいます。……ツァーレはしばらく診療室で彼らについていて。ベルは後片付けをお願い」

 二人の後輩が返事をすると、パーザは事務室へ戻っていった。彼女には報告書を作成し、上司に対応策を相談する役目があった。

 革鎧の男が怪我人を担ぎ上げようとした。が、彼自身の負傷と仲間の無事に緊張感が薄れ、力が入らなかった。

 それと気付き、ショウがようやく自分にできることを見つけた。怪我人の反対側の肩に腕を回し、鎧の男と同時に立ち上がった。

「助かる」

「いえ、お互いさまですから」

 怪我人を診療室で寝かせ、ショウは部屋を出た。

「こういうの、ホントにあるんだね」

 エントランスで待っていたアキトシがショウに言った。不明瞭な言葉だったが、ショウは理解できた気がした。ゴブリンの存在や襲撃。重傷を負った仲間と助ける仲間。事件が起きても仕事は放棄できず、恐怖しながらも続けなければならない現実……

「今の人たちって、夜間野外作業だからレベル3以上なのよね?」

 ベル・カーマンを手伝って床の血を拭いていたアカリが、作業を終えて近づいてきた。顔が青くなっている。

「そうだな。レベル2以下は参加できなかったはず……」

 朝の作業分配集会でレベル制限をかけていたのをショウも覚えている。レベル3ともなれば、基礎戦闘訓練を受けているはずだった。人によっては魔術や戦闘スキルの一つも覚えているだろう。

「それでもゴブリン相手にあれだけ負傷するのね……。ゲームとは違うってわけね」

 アカリの言葉は強がりではなく、確認だった。現実の戦闘が数値や武器で決まるわけではないのだと思い知らされていた。

「ボクはやっぱり、パン屋でいい……」

 アキトシは気分が悪いのか、下を向いたまま休憩所へ歩いていった。

「あたしも当分はお店でがんばるわ。覚えなきゃいけないこともたくさん残ってるしね。じゃ、お先ー」

 アカリもカバンを担いでアキトシのあとを追った。

 ショウはうっすらと血痕が残る濡れた床を見た。背中が寒くなり、自分の肩を抱いた。服に手が張り付く感じがして、なんだろうと手を広げる。その手に、負傷者の血がついていた。彼を抱え上げたときについたのだ。少年は慌てて服で拭い、赤黒いシミを上着に伸ばしていく。

「どうしたんだい?」

 いつの間にかルカが目の前にいた。

「あ、今、ゴブリンに襲われた人が……」

 真っ青な顔で服を汚している友人に、銀髪の少年は察した。ショウの汚れている手をとり、玄関を出て裏の井戸までつれていった。

 ポンプの前に座らせ、水を汲み上げる。手から血糊が落ちるまで、何度も繰り返した。

 ショウにタオルを投げると、今度は手桶に水を汲み、自分の手も洗う。ショウの手から伝わった血を流すために。

「服も洗ったほうがいいよ。落ちるとは思えないけどね」

 ルカが笑った。ショウはその笑顔でようやく気持ちを落ち着けた。

「色はともかく、血の臭いって消えないんじゃないのか?」

 よほど混乱していたのか、上着の前面には赤い指の跡がたくさんついていた。

「人間は感じなくても、獣なんかは血の臭いに誘われて襲ってくるかもね」

「それ、シャレにならない」

 ショウは上着を脱いだ。着替えたばかりだが、別の上着を出す。アイリが修繕してくれた物だ。「こっちをダメにしなくてよかった」とショウは安堵した。

「で、何があったんだい?」

 ルカは三階の資料室にいたので騒ぎには気付いていなかった。資料室で適当な本を見繕っていると、資料室管理職員に急報が入って部屋を追い出されたのだ。そして一階に戻ってみると、ショウが血相を変えて手を拭っていたのである。

「ゴブリンだよ。町の外に畑があるんだけど、その巡回作業を請け負った先輩たちがゴブリンに襲われたんだ。一人が大怪我して運び込まれてきた」

 ショウは事の重大さを伝えるべく力を込めて説明するが、ルカはきょとんとしている。「えーと、仲間が怪我したのはよくわかったんだけど……」

「なんだよ?」

 ルカの平然とした態度にイラッとした。

「ゴブリンってなに?」

「え?」

「なんか、童話か映画で聞いたような名前なんだけど、思い出せないんだよね」

「……ゴブリン、知らないの?」

「うん。知らないとダメなヤツ?」

「ダメだろ! ファンタジーの常識みたいなものだぞ!」

「あ、そうなんだ。よければ教えてくれる?」

 ルカはパッと顔を輝かせた。

「……いいけど、からかってないよな?」

「ないない。ボク、ゲームとかマンガとかよく知らないからさ、これからいろいろ勉強しなきゃだね」

「それでよくこの世界に来る気になったな」

 と、ため息をつきつつ、イソギンチャク先輩のような人もいるのを思い出した。理由はさまざまあるのだろう。

「何も知らないほうが楽しいじゃないか」

 ルカは子供のような笑顔を浮かべた。

「たしかに頭カラッポのほうが夢つめこめるよな……」

 有名な一文がつい口をついた。

「なにそれ、カッコイイ」

「え、おまえ、このフレーズも知らないわけ?」

「うん、ぜんぜん」

「どういう子供時代をおくってたんだ、おまえは……」

 ここまでいくとショウは呆れるしかなかった。カバンからハンドブックを出し、「これにも出てただろ」とゴブリンのページを開く。

「落としたって言ったじゃないか」

「あ、そうだった」

 ショウは思い出し、ハンドブックを手渡した。

「ふーん、外にはこういうのがいるんだね」

 ルカはゴブリンのページだけではなく、他のページにも眼を通していた。

「……外に出るのが怖くなった?」

「いや、むしろ楽しみだね。冒険のしがいがありそうじゃないか」

 ルカは眼を輝かせながら言った。

 ショウはホッとした。アキトシもアカリも外へ出るのを萎縮していた。リーバはそもそも地に足をつけた選択をしている。ルカも同じだったら仲間が誰も残らなくなってしまう。知った顔の冒険仲間が誰もいないのは寂しい。

「――て、マルもいたか。でもなぁ」

 いつか彼と共に外へ出たとしたら、面倒をみるのに疲れそうな予感がした。

「ありがとう、返すよ」

 ショウはルカから渡されたハンドブックをカバンにしまった。血のついた服をゴミ集積所に投げ捨て、二人は建物内に戻った。

「ああ、ちょうどよかったです」

 ツァーレ・モッラが玄関を潜ったショウに声をかけた。

「なんですか?」

 また神様や宗教についての話だろうかと思ったが、仕事がらみのものだった。一枚の用紙を差し出された。

「ナンタン内区・外区通行許可証……?」

 日本語のルビを読み上げてから、「あー」と声を上げた。

「先ほど発行されましたので、お渡ししますね。あと、アカリさんたちの分もあるのですが、みなさん、休憩所にいるでしょうか?」

「なら、オレから渡しておきますよ」

「お願いしたいところですが、書類が書類ですので直接お渡ししないと……」

「それもそうですね。……アカリとアキトシは休憩所だと思います。リーバさんは見てないなぁ。マルは――」

「食事は済ませているし、休憩所じゃないかな」

 ルカが補足した。

「わかりました、行ってみますね」

 ツァーレはお辞儀をして休憩所へと向かった。

「それ、なんだい?」

 ショウがじっと見つめている許可証をルカが覗き込んだ。

「ルカが入りたがっていた中心部へ行くための許可証だよ」

「へー。どうやってもらうの?」

「レベルが2になると発行してもらえる」

「じゃ、ボクはまだまだか……」

「一生懸命仕事をすればすぐだよ。ともかくこれで仕事なら外へも行けるようになった。明日はそういう仕事を探してみようかな」

「外は危険なんじゃなかったっけ?」

「それでも外へ出てみたいじゃないか」

「まぁね。いっしょにいけないのが残念だ……」

 心の底から無念を訴えかけるように、深く重く息を吐く。

 ショウは笑い、「そうとなれば早めに寝るか」と休憩所への進路をとった。途中でツァーレとすれ違い、全員に許可証が渡せたと聞いた。

 休憩所ではマル一人が外へ出られるのをはしゃいでおり、アカリたちは興味もなさそうだった。自然とショウはマルと合流し、明日からの仕事を楽しみにした。

 しかし、翌日、少年は再び現実を思い知る。

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