LXXXII.Foot in the Doorは分かっていても引っ掛かるものである。
※注釈
・Foot in the Door
セールスマンお得意のテクニック。
「取り敢えず話だけでも聞いて頂けませんか?」とか言って、契約に漕ぎ着ける戦法。
“聞くだけ”で済む訳ないじゃない。
・クロッシュ
料理の皿の上に載っけるあの金属っぽいヤツの事。
フランス語なんだそうですよ。
〜七月二十日 (百一日目) ベハンデルン港にて〜
「どうぞ、こちらがフォーアツァイト帝国海軍名物、“海軍カレー”でございます」
コトリ、と皿が目の前に置かれる。
ウェイターがクロッシュをゆっくりと上げると──
「うわぁ…茶色いっ…!!」
何やら嗅いだ事の無い独特な香りをプンプンさせながら、茶色い物体が現れた。
白いツブツブ──恐らく、ライス──の上に、茶色い汚らしい色のドロドロした液体がかかっている。
こう表現すると不味そうに思えてしまうが、何故か非常に唆られる。
「何だろう、初めて見るはずなのにそんな気がしないな…グロテスクな見た目なのに不思議と受け入れられる。まるで普段から食しているかの様に、当然の様にこれを口にしようと思っている自分がいる…海軍カレーとは何とも恐ろしい代物だな…!」
「大袈裟ですね。まあ、喜んで頂けるならその分にはこちらとしても本望ですけどね。まさか皆さんがカレーライスを食べた事が無いとは思ってもいませんでした」
お上りさんがはしゃいでいる様を見守る心境に近いのか、ルイーゼは半笑いである。
可笑しくて仕方ないらしい。
「田舎者で悪かったわね。皇族である私ですら毎日同じ様なものばかり食べる生活だったのだもの、カレーライスなんていうハイカラなものはウチにはありませんよー、だ!」
ヘンッとナーシャは捻くれた返事をして、スプーンを手にする。
そうは言っていても、早く食べてみたいという気持ちはやはりあるのだろう。
「ナーシャ、安心しろ。シェフを数人連れて来たからな。フォーアツァイトの料理をプラトークでも食べられるようになるぞ」
「つまり…?」
「プラトークもハイカラさんの仲間入りだ」
フフフフ…と私と妹は顔を見合わせて笑う。
「良いですねぇ…他国の文化を吸収していくのは。この調子で搾り取れるだけ搾り取ってやる…!」
案の定、妹が考えているのはそういった事だ。
「あらあら、でもそれって文化的侵略ってやつよ?良い事ばかりじゃないのよ?」
「そういう事なら問題無いわ。だって、文化的侵略というのは他国からの文化流入によって自国の文化が破壊されたり置き換わっていく事を指すのだから。プラトークにはそもそも文化らしい文化なんて無いし、あったとしても劣った劣等文化よ。だから無問題よ」
その通り。
破壊されたり消滅して困る様な価値のある文化なんて元々存在しないから、どんどん他国の文化は取り入れちゃって結構!
「はあ…そういうものなんですかね…?」
「そういうものなのだよ。ま、君もプラトークに来れば分かるさ」
ルイーゼは納得のいかない様子だが、それは育った環境の違いによって生じる価値観の相違によるものであろう。
プラトークの洗礼を受けるが良い。
「あの…まだ食べちゃダメですか?」
そう恐る恐るといった様子でこちらを窺うのはアリサ。
メイドの分際でこのランチに参加させてもらっているのだが、それでも食い意地だけは一丁前だ。
「じゃあそこの食いしん坊が催促してきている事だし、そろそろ食べるか」
せーの!合図でカレーライスにスプーンを突き立てる。
白いライスと茶色い液体が同じくらいの割合で掬えた。
「では、毒見の意味もありますので私から。所詮形式的なものですけどね」
エレーナ副メイド長は淡々とそう述べると、スプーンを顔の前にまで持ってくる。
いつも通りの無表情だが、頰が少し赤らんでいる。
彼女も少なからずカレーライスとの遭遇が楽しみである様だ。
「…いきます」
彼女はそう小さく呟くと、ぱくりと一口。
もしゃもしゃ。
無表情。
そしてもう一口。
もしゃもしゃ。
無表情。
彼女のその様子に、部屋の隅っこに立っているシェフ達も冷や冷やした面持ちだ。
「アリサ、食べてみなさい」
「は、はいっ!」
アリサはプルプルと震える右手を押さえつけ、一口。
「こ、これは──?!」
アリサの驚愕の表情。
シェフ達の冷や汗がダラダラと流れる。
「──美味しい…!」
しかし、それは要らぬ心配だった様だ。
「美味しいです!昔つまみ食いしたパーティーの料理よりも!パサパサしたライスとドロドロした茶色いのが混ざって独特の口触りを生み、見た目の割には問題無く食べられますし、味の方も経験した事が無いものですが香辛料に類かと。ただ一つ難点があるとすれば辛いです!お水が欲しいです!」
アリサは嬉しそうにベラベラとその様な感想を述べる。
副メイド長もそれにウンウンと頷いているので同意見らしい。
シェフ達もホッと胸を撫で下ろし、一件落着。
「じゃ、問題無いな。我々も頂こうか」
「そうですね、今日も日々の糧にありつける事、神に感謝を──」
「──陛下!!」
そこにゼエゼエと息を切らせてフルシチョフ少将が駆け込んで来る。
「お騒がせして申し訳ありません…!ただ、直ぐにでもお耳に入れたい事が!」
「これから食事だったのだが…」
「陛下はそのまま召し上がって頂いて結構です、報告だけさせて下さい」
…と、彼が言うので、カレーライスを堪能しつつも耳だけはそちらに向けてやる。
「ああ、美味だなこれは…一般の軍人用の食事でこれ程美味いとは素晴らしいな…で、少将。報告したい事とは?例の空飛ぶ人間だか鳥男だか目からビームだかの件か?」
「はい、その件です。状況が動きました。メーヴェ王立海軍がその全力を以て必ずや敵を叩く、と国内外に向けて宣言しました」
「ほう…メーヴェが動いたか…」
ツァーレ海を囲む国々にはフォーアツァイトやヴァルトなど強力な海軍を擁する国々が揃っているが、その中でもメーヴェは別格である。
遂に海の王者たる奴等も動かざるを得なくなったらしい。
「ツァーレ海を囲む国々や国内に向け、声明文が。まあ、どちらかと言えば国内向けの内容ですね。読み上げます。“ツァーレの平穏を乱し、我々の安寧を妨げる不埒な輩を此度メーヴェ王立海軍が女王陛下の御名の下に成敗する事をここに宣言する。女王陛下は民の生活に多大な影響が及んでいるこの事態を非常に憂いておいでである。即座に問題を解決し、本件の真相を解明せねばならない。しかし敵は強大であり、我等の全力を以てしても勝利を確約出来るものではない。しかしながら我々には誇るべき友人達がいる。今こそ団結の時である。友人達と共に武器を取り、邪悪なる敵を討ち滅ぼそう。力を合わせれば我々に困難など無いと確信する。無論、幾多の困難が待ち受けているであろう。されど我々ならば必ず出来る。そう厚く信じ、我々は正義を執行するべく戦友達と共に大海原に漕ぎ出すのである”…だそうです」
「何だ…?随分と熱苦しい内容だな…更にポエミーだ…メーヴェの政府は熱血青春ボーイ達が組閣しておるのか?それに、国内向けとは言え勇ましいな…本当に大丈夫なのだろうか」
まるで戦時の戦意高揚プロパガンダだ。
言っている内容としては要は“俺達だけじゃ敵わねえから他国にも助けてもらうぜ!”という事なのだが。
大本営発表並みに威勢だけは良い。
「いえ、これは政府によるものではなく…王立海軍の発表です」
はあ…
そういう事か…
メーヴェは歴史的な経緯で、陸軍と空軍は政府が管理しているが海軍だけは国王のものという事になっている。
それで、政府の承認も得ずに勝手に暴走した、と…
こちらとしては都合が良いが、もう呆れるな…
「その声明文では“友人達”だとか“戦友”だとか言っておったが、それは何処の国を指しておるのだ?各国が強力する事が前提であるかの様な言い草だったが…」
「恐らく、我々プラトークも含めたツァーレを囲む国々でしょう」
「は?我々も?」
「そうです、どうやらメーヴェ王立海軍内では我々も勘定に入っている様ですね。これとは別に電報が届いております」
「我々が戦力になるとでも…?連中、ちゃんと分かってるのか?」
「猫の手も借りたい…という事でしょうかね。恐らく、この件もメーヴェの女王の独断でしょうから“ちゃんと分かっているか”と訊かれるとかなり怪しいですが」
メーヴェの女王は、政治介入が大好きな事で悪名高い。
今回も偽善に駆られてこの様な事を独断で仕出かしたのだろう。
プラトークはメーヴェとも一応の国交があるから、私は昔彼女に会った事がある。
当時私は幼く、余り詳しくは覚えていないのだが、当時の彼女(十歳くらいだっただろうか?)もとんだお転婆娘だった様に記憶している。
あれから月日は流れ…今でも変わらんらしい。
「しかし主人面しおって…気に入らんな…少将、まさか誘いに乗るつもりではなかろうな?」
「まだ我々としては知ったばかりですので何とも…一応、お誘いの電報も読み上げましょうか?」
「ああ、どんな誘い文句を用意してきたのか聞いてやろうではないか」
「“文月。春も過ぎ去り、いよいよ夏本番が近付いて参りました。ニコライ皇太子殿下ならびにプラトーク海軍の皆様方、如何お過ごしでしょうか。この度ツァーレ海に出現した謎の未確認敵性人物の影響によりベハンデルンでの滞在を余儀無くされていると小耳に挟み、この電報を送らせて頂きました次第です。(中略)我々メーヴェ王立海軍は、ツァーレ海の平穏を守るためにこの未確認敵性人物を討伐しようと計画しております。これはメーヴェとプラトーク双方にとっての利益になる事であるかと思います、どうか討伐大同盟に参加して頂きますよう、何卒宜しくお頼み申し上げます”」
今度は打って変わって丁寧な…
「恐らく、先程の声明文は女王の耳に入るものだからあの様な内容だったのだろうな。低姿勢な内容だとプライドの高いあの女に叱られるからな。きっとこちらがメーヴェの連中の本音だろう」
「どうしますか?」
「どうするもこうするも…参加する義理など無いだろう?こんな馬鹿げた事で無駄に戦力を消耗する訳にはいかんよ」
参加するには、明確なメリットが無ければ。
「しかし、あちらとの交渉次第では何らかの利益が生じるやも…自分としては──あくまで個人的な私見に過ぎませんが──詳しく話を聞くだけの価値はあるものと信じます。“詳しい内容はヴァルト王国にて”とあります。取り敢えずはヴァルト王国にまで赴いてみては如何でしょう?判断するのはそれからでも遅くはありません」
「ヴァルト王国…?何故ヴァルト王国?」
「メーヴェとヴァルト王国は蜜月ですので、海底ケーブルでつながっているのです。ヴァルト王国からならばメーヴェと連絡が簡単に取れます。事実、この電報もヴァルト経由で届いたのですから」
「ふむ…どうするかなぁ…」
ちらり、と横のルイーゼに視線を向ける。
「ところで、ずっと気になっていたのですが…連邦にかけあって領海を通れるようにしてもらわないのですか?」
「駄目だ。奴等は聞く耳を持たんからな。却下の一点張りだ」
「ならば現状、その敵が消えてくれないと帰国出来ないんですよね?外海に出るのは危険なのでしょう?じゃあ少将の言う通り、話を聞くだけでもヴァルトに行ってみてはどうでしょう?ここでずっと釘付けになっているよりは遥かにマシでしょう」
嫁曰く、ヴァルトに行けとの事。
「そうか…じゃあ、行くか…ヴァルトに」