LXXIX.国外逃亡のすゝめ。
〜某月 某日 ニーゼルレーゲンにて〜
彼は川の流れの様な人の動きを、座ってじっと眺めていた。
真昼間から右手にはアルコール度数の高い酒のグラスが太陽光を反射してテカテカと輝いている。
琥珀色のそれは時折彼によって揺さぶられ、浮かんだ氷がグラスにぶつかってカランコロンと間抜けな音を立てる。
左手はテーブルの上に肘をつき、彼の頭を支えている。
日光はパラソルによって遮られ、心地好い風と共に海からの潮の匂いが香る。
ここはヴァルト王国の王都ニーゼルレーゲン。この国で最も賑やかな都市だ。
まるで世界の全てを掻き集めて来たかの様に、様々なものが集まって来る。
当然物だけでなく人も集い、人口密度は凄まじい。
特に今彼がいる店のテラスはこの都市のメインストリートに面しており、人の波が途絶える事はない。
彼は今日もこうして呑んだくれて一日を潰そうと思っていた。
幸い、金はいくらでもある。
道徳的観点から見ればいつまでもこうして生きていく訳にはいかないが、そうしようと思えば金銭的には可能なのだ。
氷が溶けて薄くなってしまう前に、彼は一気に酒を飲み干した。
喉にピリリと痛みを残しながら酒は胃へと消えていく。
トンと空になったグラスをテーブルに勢い良く叩き付け、彼は店の中に向かって叫ぶ。
「おかあリィ〜!」
かなり酔いも周り、呂律が上手く回らない。
ベロンベロンとまではいかないものの、その一歩手前だ。
すると中から娘が出て来る。
「ちょっともう…止めときなよ!飲み過ぎだから!」
「ふぇ?なんてぇ?」
「だ・か・ら!飲み過ぎ!!」
彼女はそう言うとグラスをひったくる様にして奪う。
「いいじゃねえかよぉ、お客様だぞお」
「物事には節度ってのがあるの!昼間っから呑む以外に何かやる事無いの?!」
彼女なりに心配しての言葉だが、彼はそんな事御構い無しにへへへ、と笑うのみだ。
「何も無いんだも〜ん!」
ハア、と小さく溜め息を一つ吐き、彼女は去って行く。
すると後ろから彼の声。
「おかありわぁ?」
「おかわりなんてありません!!仕事辞めさせられたなら、さっさと新しい仕事見つけなさい!」
去り際にそう言い放って彼女は店に入って行く。
彼はその後ろ姿を恨めしそうに睨み付けると、コテンとテーブルの上に倒れ込む。
「──んな事…分らぁてんだよ…」
これが彼の本音だった。
今のままで良いとは彼も勿論思っていない。
しかし、彼の心には、以前はあった何かが抜け落ちていた。
そのせいで何もする気力が湧かないのだ。
目を閉じて、暗闇の中へと深く深く沈んで行く。
彼は自分に起こった出来事を思い出した。
──そう、それは数日前の事。
遥か昔の事の様にすら思えるが、まだ殆どあれから時間は経ってないのだ。
それこそが今彼が呑んだくれている理由であり、彼の運命を全て変えてしまったものだった。
「全艦に告ぐ、こちらはヤマト!これ以上の戦闘は無駄だ。今すぐに離脱せよ!ヤマトはこれより母港に帰還する!良識のあるヤツは急速反転し、本艦に付いて来い!そして私の名はヤマト艦長、オガナである!軍法裁判で私を裁きたいのであれば、生き残る事が先決であると思うが?死にたくなかったらつべこべ言わずに私と共に逃げろ!──以上だ」
この無線と共に、彼は敵から逃げた。
決して臆してではない。
その無線の通り、無駄な損害を抑えるためだった。
しかし、その時彼の号令に従ったのは残存兵力のうちごく僅かだった。
大半はそのまま死を選んだのだ。
その結果、王国海軍はたったの数時間で主力戦艦であるヘルシャー級二隻を含む、艦隊の戦力の過半数を失ったのだった。
その後は全てが淡々と進んだ。
軍の上層部は敗戦の責任を全て彼に押し付けた。
彼のとった行動は、あの状況では正しかったが、客観的に見れば仲間を見捨てて敵前逃亡したという事には違いないのだ。
それ故に批判をかわすための格好のスケープゴートとして彼は全責任を負わされる形で軍から追放された。
その時に秘密裏に彼に多額の退職金が支払われたのは、要は口止め料だった。
自殺だとか不慮の事故だとかに偽装されて殺されなかっただけまだマシかもしれない。
しかし、様々な無知な人間から罵倒され続け、彼はもう何もする気力が湧かなくなってしまった。
それからというものの、ずっとこの店で朝から晩まで酒を飲むだけの生活を送っている。
もう、全てがどうでも良かった。
異世界に来てからというものの、今までずっと軍のために働いてきた。
しかしその結果がこの有様だ。
おきのどくですが ぼうけんのしょ1はきえてしまいました の気分だ。
積み上げてきたものが全て崩れ去り、もう一度積み上げる事に意味を見出せない。
何れ全て崩れてしまうと分かっていて、何故積み上げ続けなければならないのか。
…
──ポンと肩に感触が。
彼は直ぐに夢から覚めた。
どれぐらいかは分からないが、眠っていたらしい。
誰かが彼の肩を叩いたのだ。
店の娘がさっさと退く様に叱りに来たのだろうか。仮にも金なら腐る程ある上客なのだが。
…と少し不満に思いつつ、彼はゆっくり後ろを振り向く。
そこに姿勢良く直立していたのは、店の娘ではなかった。
「お久しぶりです、艦長…いや、元艦長。多分三か月ぶりぐらいですね。いや、もっとかな?」
そうはきはきと言うと、彼女はニッと笑った。
「ローザか…」
ローザはいつもの見慣れた軍服ではなく、普段着の様だった。
落ち着いた紺の服を着ている。
快活な彼女には似合わなそうなものだが、案外よく似合う、と彼は思った。
ちなみに、三か月ぶりでもなければ、もっとでもない。
数日ぶりである。
「昼間からそんなに酔っ払ってて良いんですか?」
彼女はそう言いながら向かいの椅子に座る。
比較的長い付き合いなだけあって、言葉に遠慮が無い。
「昼に酔おうが夜に酔おうが無職には関係無いさ。世間体さえ気にしないならね」
「まあ、もう既に世間からの評判は最悪ですからね。臆病者の敵前逃亡艦長ってね。新聞様に言わせりゃ、元艦長の股間のブツは既に腐り落ちて使えないらしいですね」
「玉無し野郎ってか…デイリーヴァルトニュース社の連中は超能力者か何かなのか?大当たりだ」
「そうなんですか?それは知りませんでしたね。折角元艦長とこれからイイコトする予定だったのに、残念です」
「他をあたってくれ。そうだな、動物園のとあるゴリラがおススメだぞ?あいつのブツは随分大きかった」
「すいません、艦長以外の哺乳類には興味無いのでお断りしておきます」
彼女はいたずらっぽく笑みを浮かべると、店の中の娘を呼び出す。
「すみませーん!チャイ一つ」
「ついでに酒のおかわり」
「はーい、チャイ一つですね」
それだけ言うと娘はくるりと回れ右でまた中へと戻って行く。
「おい、俺のおかわりは?!無視!?」
くすくす、とローザが笑い、それを見て彼はムッとする。
「ははは、良いお店じゃないですか」
「必要最低限の接客も出来ない不良店舗だな」
いえいえそう言われてまでお酒を出さないところがどうこうとかそもそも接客というものはなんちゃらだとか、この店のデザインが云々かんぬんとかローザが話し始め、彼は時々、はあ…とかほお…とか曖昧な返事をしつつ聞き流す。
取り敢えず適当に相づちを打って聞いている風だけは装った。
ローザのお喋りは止まらない。
気持ち良さそうにべらべらと恐ろしい程の速さで次々と言葉が出てくる。
相づちだけなのに首が疲れてくる頃になって、やっとチャイが運ばれて来た。
長い。
そう思って彼が腕時計をちらりと確認すると、まだ彼女が注文してから五分も経っていなかった。
恐ろしや、ローザのマシンガントーク。
不意に滲み出る苦笑を噛み殺して彼は覚悟を決めた。
案の定、この後数時間に及びベラベラとお喋りの相手を務める羽目になった。
…
「ところで、なんでここにいるんだ?」
彼女のおかげ(?)ですっかり酔いも醒めてしまった。
「え?今更それを聞きますか?」
一通り喋り終えた彼女は活き活きとしている。
反対に彼の表情は疲れ切ったものだったが。
確かに今更だが、実際に今更ながらそれが気になったのだから仕方がない。
疑問などというものはその場で解消してしまうに限る。
「いやあ、ご存知の通り王国海軍は大幅に戦力を失ってしまいましたから…ロクに作戦行動なんて出来ませんよ。少なくとも混乱が収まるまでは海軍の機能は最低限のもの以外は全て停止したままでしょうね。という事で私もお休みを頂いているのですよ。いざ休みとなると何もやる事無いんですけどね」
そう言ってへらへらと笑う。
うん、確かに暇そうだ。
第三者目線で見ると馬鹿女にしか見えなかった。
こう見えても彼女はかなり優秀なのだが。
やはり優秀な者とは見た目では分からないものだ。
そう一通り心の中で感想を述べつつ、彼はこの後どうしようかと考える。
もう今日はこれ以上この店では酒を出してくれそうにもない。
そうなると他の店だが…
残念ながらここ以外ではゆっくり出来そうにない。
何せ、公式的には色々な罪をなすり付けられ、軍をクビになった身だ。
事実は兎も角、新聞やら何やらでは連日彼の事を写真付きで報道していた。
痛烈に批判を繰り返すものもあれば、少し彼に同情的なものもある。
しかし、共通して言えるのは、それらは全て彼に何らかの責任があるという前提の下に記事を書いているという事だ。
そういう意味では、どれも彼の味方ではなかった。
そしてそれを読んだ国民の反応もよろしくないのは当然だろう。
売国奴と罵られるのは当たり前。
犠牲者の遺族からは殺人鬼扱いで恨まれ、息子を返せ、とか言われてしまう始末。
そんなものは私ではなくカルト宗教にでも頼め、と言いたくなるのを抑えて彼は今まで耐えてきたのだ。
以前から顔見知りのこの店では問題無いが、他の店となると居心地は良くないだろう。
それどころかそもそも注文すら受け付けてくれない可能性もある。
もうこの国ともお別れかな。そう思ってしまう程に彼は冷め切っていた。
どこか他の国にでも移り住もうかと真面目に考えてしまう程には嫌気がさしていた。
「そう言えば、あの“鳥人間”の事だが…どうだ?王国海軍はあれ以後何か対策を?」
「んー…無いですねー。上層部もそれ程馬鹿ではないので放って置く訳にはいかないという事自体は分かってはいるんでしょうが、動く予兆はありませんね。何か他に策があるのか…それとも逆に何も無いのか…まあ、確実に後者でしょうね」
「え…?じゃあどうするの?」
「どうしようもないですねっ!」
「大丈夫かよ、おい…」
大丈夫ではない。それだけは分かった。
これはもうさっさとこの国から去るべきかもしれぬと彼は心中で決心を固めていた。
「あ、元艦長!今、この国を見捨てるとかそういった類の事を考えたでしょう!?」
「いや、別に…てか、元艦長とか言うなってば」
「分かるんですからね、そういうの!女の勘をナメてると痛い目に遭いますよ?!全く…いくら元はこの国の出身ではないとは言え…薄情じゃないですか!」
「はあ…ん…まあ、すまん…だってこの国に──」
「──じゃあ、いっその事、私とこの国から逃げ出しちゃいましょうか?」
「…へっ?」
彼女は彼の肩を掴むと大きく揺さぶった。
そして彼の耳元で囁く。
「さっき元艦長に訊かれた事、今度は真面目に答えますね。実は…今日私がここに来たのはオファーのためです」
「オファー…?」
「ええ、元艦長…いえ、艦長…もう一度艦長になってみませんか?…国外逃亡して、ね」