VIII.それぞれの想いが重い。
「おほんっ!では、仕切り直しといこうではないか」
そう声高々に宣言する私の右隣では、ソフィア医師がはい、陛下♡とか言いながら照れた様な表情をして座っている。
語尾に何やら余計なものが付いている気がしないでもないが、もうその事についてはスルーする事にしよう。
私の偉大なスルースキルはこういう時のために鍛えてきたものなのだから。
不慮の事故によって彼女が私に襲われたと勘違いし、「以前から陛下の事を好いておりました」とかいう風に告白してしまうという悲しい出来事についてはその後うやむやになったものの、何とか切り抜ける事が出来た。
告白後の男女にありがちなギクシャクした空気にもならず、そういう意味では大変結構なのだが…
残念な事が一つ。
それは、ご覧の通りソフィア医師が私にはっきりと好意を向けてくる様になってしまった、という事。
良いじゃないかと思われるかもしれんが、そう単純な話でもないのだよ。
妹から我が身を守るために彼女を重宝していたというのに、彼女がそうなってしまうとは。
ミイラ取りがミイラになる、とはまさにこの事。
そういう意味では妹の言い分は正しかった訳だ。
まあソフィア医師は妹とは違い、襲ってきたりはしないので取り敢えずは大丈夫だろうが。
あの様な事があった後だというのに私に情熱的な視線を向けるだけに留めている事からも、彼女は多分心配せずとも良いと思う。
もじもじしてたりだとか、視線がアレだとか、語尾がたまに気になる事を除けば以前とそれ程変わらぬし、引き続き彼女には対妹ボディーガードとして働いてもらう事としよう。
さて、本来は「妹の誤解を解く」方法について話し合おうと思っていたのだが、それが誤解ではなく事実だった以上、私は早急に方針転換を余儀無くされる。
つまり、「妹に先程あった出来事を勘付かれないようにする」方法と、「妹にソフィア医師を傍に置く事を認めてもらう」方法を議論せねばならないのだ。
ただし、前者が最優先。
だって、ソフィア医師とこんな事があっただなんてバレたら最悪死人が出る。
忘れてもらっては困るが、一応妹は父殺害の主謀犯。
私とくっつくためになら父を殺させる事も辞さないお方だ。
そんな彼女に、ソフィア医師が私に告白した、などという事を知られた場合、ソフィア医師は抹殺されるだろうと私は確信する。
もしかしたら、兄上は一生誰にも渡さないんだからね!とか言って、私を監禁とか殺害とかいう可能性も大。
ヤンデレをこじらせた我が妹ならば大いに有り得る。
だが、幸い対処方法は簡単だ。
「…つまり、だ。二人だけの時は兎も角、他人の前ではその様な態度をとらぬようにして頂きたい」
「具体的には?」
「要は、以前と同じ様に振る舞えという事だ」
彼女は二人だけの時はイチャイチャしても宜しいのですね、とか色々と呟きながらも、直ぐにそれを了承した。
彼女とて我が妹の恐ろしさは十分理解しているので、その様に振る舞う事に異論は無い様だ。
そして、後は彼女を妹に認めてもらうためにどうすべきか、だが…
私にはさっぱり良い案が浮かばない。
妹に説得が通じない事は分かり切っているし、穏便に済ませるとなれば手段も限られてくる。
私が頭を抱えて悩んでいる間に、ソフィア医師は名案を思いついたらしい。
「陛下、この際ある程度妥協するのは致し方無いかと」
「妥協だと?」
「ええ。殿下が私を疑ってらっしゃるのならば、その疑いを晴らすために監視者を受け入れるのも手段の一つではないでしょうか」
監視者?
「殿下の息がかかった人間を監視役として受け入れるのです。それで殿下が満足して下さるのならば悪くはないと思います」
「成る程、下手にナーシャに探られるぐらいならこちらから誘い込んだ方がまだマシだろうしな」
確かに彼女の言う通りだ。
「しかし、監視役か…」
「不安ですか?」
「無論だ」
不安にならぬはずがない。
あの妹が選ぶ監視役など、とんでもない人間に違いない。
もし少年漫画の悪役とか未来から来た殺人アンドロイドが送り込まれて来ても驚かないぐらいに。
「だが、それ以外に思い浮かばんしなぁ…」
止むを得ないか。
「ある程度ではありますが、こちらから派遣されて来る者をコントロールも出来ますし、そこまで気負わないで良いでしょう」
「真か?」
「場合にも拠りますが。上手くいけばこちらが御しやすい人間にする事も出来るかもしれません。これに関しては私にお任せ頂きたく」
「分かった、一任する」
「かしこまりました」
しかし、彼女は非常に優秀だな。
頭の回転も速いし、この様に相談役も務めてみせるとは。
個人的にも私に好意を寄せている様子だし、秘書の様な事をやらせてみるのも良いかもしれない。
結局、色々とゴタゴタしたせいで最終的には本来の目的を果たせたから良いものの、随分と時間を食ってしまった。
ソフィア医師が私を、ねえ…
困惑しつつも、確かに嬉しいと自分が感じているのもまた事実なのだった。
✳︎
「兄上!これは一体どういう事なのですか?!」
ばんっと荒々しくドアを蹴り開けながら、怒り狂った妹が寝室に乗り込んで来る。
彼女に引っ張られ、ソフィア医師もよろめきつつ続いて入って来る。
時刻は午後七時を回ったところ。
丁度私は夕食を終えたばかりだった。
一昨日、彼女と喧嘩(?)してからというものの気不味くて顔を合わせていなかったのだが、彼女の側からこうもいきなり接触を図ってくるとは思っていなかった。
「ナーシャ、どうかしたか?」
内心では冷や汗ダラダラだが、表面上は冷静を装って応対する。
少しでも弱みを見せたら殺られる…
そう自分に言い聞かせ、最大限の注意を彼女に向ける。
「兄上、この女とやはりデキていたのですね!?」
ぐいっと妹は乱暴にソフィア医師の髪を掴む。
「一体何の事だ?」
「兄上とこの売女が二人で部屋に入り、出て来るのを見た者がいるのです!もうそこら中で噂になっているんですよ!?」
何と、話し合いのためにソフィア医師の部屋に行ったのを誰かに見られていたらしい。
妹が乗り込んで来るタイミング的に、彼女が知ったのもつい先程なのだろう。
「陛下!…殿下には私から説明をっ…!」
「お前は黙ってなさい!」
ナーシャはソフィア医師を黙らせようとさらに激しく髪を引っ張る。
「私は兄上から直接お聞きしたいのです!兄上、どうなのですか!?」
ここまで来るともう正直に話すしかない。
ソフィア医師の部屋に行った事も隠し通せはしないだろう。
私とソフィア医師のアリバイを調べられれば直ぐに知れる事なのだから。
「ナーシャ、誤解だ。確かに私は彼女の部屋に行ったが何もやましい事は無かった。ソフィア先生とは個人的に相談したい事があって、他人に聴かれてはいけない内容だったから彼女の部屋に行っただけなのだ」
「嘘です!」
「嘘ではない、本当だ。信じてはくれないのか…?」
無論、信じろと言って信じられるものでもないだろう。
目撃した者が勘違いしてしまった様に、誰でも我々が人目をはばかりコソコソと密室に二人切りで篭っていた、などと聞けば我々が男女の仲にあると勘違いしてしまうに違いない。
実際そうなりかけた訳だし勘違いも仕方の無い事なのだが、それでも結局何も無かったのだ。
「信じられません!」
ナーシャはパッと掴んでいたソフィア医師の髪を手放し、私に抱きつく。
それと同時にソフィア医師は床にへたり込む。
私を見つめるその両目は、込み上げる怒りによって血走っていた。
「兄上が…信じられないのです!私の事は避けるのに…あの女は私の許可も無く傍に置いて…!」
「ナーシャ…それは…」
「私だけの兄上だったのに…!私だけのものだったのに!後生ですから…私の元に帰って来て下さい!」
徐々に苦しげになりつつ、彼女は終いには泣き出しながら私への愛を叫ぶ。
私をぎゅっと抱きしめ、私の胸で泣きながら延々と私への感情を吐露する。
彼女に掛けるべき言葉など浮かばず、私は黙って彼女を抱きしめ返す他に無い。
嗚呼、これ程までに彼女は私を想っているのか。
しかし、我々は兄妹。
この重過ぎる愛は、私にとって辛いものでしかない。
「すまない、君をこれ程苦しめる事になるとは…」
私がこうやって力無く呟く間にも、妹はひたすら涙声で私を如何に愛しているか訴えかける様に語る。
「お可哀想に…兄上はあの憎たらしい女に汚されてしまったのですね…!私が上書きして差し上げます…!」
彼女は私の腕を慣れた手つきで捻り上げ、ベッドの上に引き倒す。
「ナーシャ、人前でこういう事をするのはいけないと思うのだが…」
ちらり、とこちらを茫然として眺めているソフィア医師を横目に見る。
「兄上!」
彼女はクッと私の顎を無理矢理自分に向け、囁く様にしてゆっくりと告げる。
「余所見はいけませんよ、兄上。他の女に目を向けるなど…私だけを見て下さい。兄上は私だけを見ていれば良いのです」
そしてぺろりと私の鼻先を舐め、私の鼻を摘まむ。
「な、何を!」
私が口を開いた瞬間、彼女の舌が口内に滑り込んで来る。
身構えたものの、以前とは違ってそれは激しいものではなかった。
ゆっくり、ゆっくりと、味わう様にして舌と舌が絡み付く。
久し振りの妹の味。
甘い唾液が次々と流れ込んで来る。
すると不意にぴたりと彼女が動きを止め、唇を離す。
彼女が顔を上げると、互いの口から唾液が名残惜しそうに糸を引く。
「兄上、今回の件は不問に致しましょう…」
「真か…?」
予想外の言葉。
しかし、願ってもない申し出でもある。
「本当ですとも。ただし、条件があります」
彼女はそう短く告げると、背後のソフィア医師を一瞥し、又私の方に向き直る。
「兄上があの女と何も無かったと仰るなら、それを信じましょう。しかし、将来的な危険の芽は潰しておきたいのです。兄上、今度は私からではなく、兄上から私に甘く魅惑的な口付けをお願い致します」
「私から、ナーシャに、だと?」
「ええ。いつも兄上は受け身の姿勢でいらっしゃる。私はもうそれでは我慢出来ないのです。あの女の前で情熱的に私を求め、あの女に絶望と醜い嫉妬を味あわせてやって下さいませ。本当はそれ以上を求めたい所ですが、兄上は奥手なご様子なので、私もこれで妥協致します」
目の前で私に跨る妹と、向こうでわなわなと震えながらこちらを嘆願するかの様な目で見つめるソフィア医師を交互に見遣る。
ソフィア医師は当然ながらこれ以上妹と私が何かするのを見ていたい訳ではないらしく、茫然としつつも、そんな事はしないで欲しい、と目で語っている。
自分の好きな人が(例え妹と言えども)他の女と目の前で…など常人なら嬉しいはずがない。
先程も私と妹の行為を見て、今にも泣き出してしまいそうな顔になっていた。
妹の言う通り、彼女は絶望と嫉妬を同時に感じているのだろうか。
「兄上?もしや、断られるので?私よりもあの雌犬の方を取ると仰るのですか?」
決めかね、黙っていると、妹が急かす様に私に問い掛ける。
ソフィア医師から視線を逸らし、妹のその顔を見た瞬間、私は少し驚いた。
…泣いていた。
静かに、声も上げずに、ぐっと歯を食いしばって。
とうに泣き止んだはずだったのに、又彼女は泣いていた。
彼女が泣く事自体はさして珍しい事でもない。
気の強い性格ではあるが、彼女とて一介の少女。
歳相応には涙を流す事もある。
だが、この様なナーシャを私は未だかつて見た事がない。
歯を食いしばり、必死に泣くまいと耐えつつも、それでも涙が止まらない彼女の姿など。
彼女のその様子を見て、私は決心がついた。
「ナーシャ、目を閉じ給え…」
彼女は黙って頷くと、ゆっくりと眠る様に瞼を閉じた。
それと同時に涙の一雫が彼女の頰をすーっと流れる。
ソフィア医師には悪いが、ナーシャの申し出を受ける事とする。
ソフィア医師とて私を好いてはいるのだろうが、妹はそれとは比べ物にならない程に私を愛しているのだ。
それが今の彼女からはひしひしと感じられる。
それを無下にする事が、兄である私に出来ようか?
私は兄だ。
だが、この少女の願いを──どんなにそれが醜く、嫉妬に塗れていたとしても──叶えてやりたくなったのだ。
彼女は先程「絶望と嫉妬を味あわせてやりたい」と言った。
しかしそれは、彼女が感じていたものなのではないか?
彼女が、私とソフィア医師が共にいるのを見て常に感じていたものなのではないか?
ここで彼女を裏切る事など、私には…出来ない。
妹のその可愛らしい頰に伝う涙をそっと拭い、彼女の身体を引き寄せる。
「兄上…この様な意地悪をお許し下さい。どうか、私を嫌いにならないで…」
そんな事を呟く彼女の髪を撫で、唇と唇をそっと重ねる。
唇を徐々に押し付け、温かい妹の口内へと自ら舌を入れる。
これまではずっと彼女の為すがままになっていた。
故に、私はどうすれば良いのかさっぱり分からない。
先程彼女が私にした様に舌を絡めようと、ぎこちなく必死に舌を動かす。
彼女もそれを手助けする様に私の舌の動きに巧みに応じる。
ほのかな快感に促され、私はもっとそれを得ようと舌を妹に絡め続ける。
ただ、ひたすらに、本能の赴くままに。
少しずつ、少しずつ動きは速くなっていく。
それに比例して、私と彼女の息遣いも激しいものとなる。
ナーシャの呼吸を肌で感じつつ、尚も私は彼女の舌を追い回す。
「あっ…」
急に彼女の舌が激しく、荒く、私の舌に吸い付き始める。
私もそれに追い付こうと最大限舌を酷使する。
「ああっ…!」
刹那、彼女の身体がビクビクッと震え、不意に彼女の舌が止まる。
彼女は口を離し、我に返った様に立ち上がる。
「私とした事が、気持ち良過ぎて…この程度でキちゃうなんて…」
彼女が跨っていた所を見ると、少し湿っていた。
「いや、良い。それ以上言うな」
「しかし、私のせいでお召し物が…こんなに濡らしてしまうなんて…」
彼女はそう言うと、恥ずかしそうに先程まで自分が跨っていた所を見つめる。
「それ程濡れてはいない。少し湿っているぐらいだ。気にするな」
「そうですか…では、今日はこれぐらいにしておきましょう。お約束通り、ソフィアとの件は不問に致します」
「それは良かった。何度も言うが、本当に彼女とは何も無かったのだからな」
「兄上を信じましょう…それでは、御機嫌よう」
彼女は流れる様な動作でベッドから床に着地すると、部屋から出て行く。
彼女が確かに部屋を出たのを確認して、私はソフィア医師に声を掛ける。
「あの…ソフィア先生…」
彼女は私の声に反応し、びくりと身体を震わせると、くるりと踵を返して逃げる様に去って行った。
嗚呼、きっと彼女には完全に嫌われたなあ。
何せ、私は彼女の気持ちを分かっていながら、それを無視してナーシャとあの様な事をしたのだ。
それも、目の前で、見せつけるかの様に。
いや、実際に見せつけたのだ。
それが妹の狙いでもあったのだから。
妹はこうなる事が分かっていて、私にキスをする様に迫ったのだ。
こうやって、私とソフィア医師の関係が壊れる様に、と。
去り際に彼女が見せた表情を思い出す。
まさに、それは絶望の色だった。
それは、嫉妬などの様には見えなかった。
私にはそれは絶望一色の様に見えた。
クソッと何かを罵りつつ、ばんっと壁に拳を叩き付ける。
本来彼女に嫌われようが好かれようが私にとってはどうでも良い事のはずなのだ。
それなのにそんな事を気にしてしまう自分がいる。
どうせソフィア医師と恋愛をする気など無いくせに。
最低だ。
私は最低だ。
私は紳士などではなかった。
ただのクズ男だ。
…
はあ…今日はもう風呂にも入らずこのまま眠る事としよう。
このまま一生眠っていたい気分だ。