LXX.ソフィアさんは今まで医者らしい事は殆どしてなかったけど、こう見えてちゃんと医者です。
※注釈
・ジエチルエーテル
CH3CH2OCH2CH3。
高校化学で習います、理系の化学選択者は。
麻酔作用があり、吸引、飲用によっておねむになります。
お酒の様なものだと思って下されば宜しいかと。
人体にはほぼ無害ですが、それ以外の諸事情によりちょいと危険なので、昔は麻酔として使われておりましたが現代の医療現場ではあまり使われません。
正確にいつ頃まで使われていたかは不明ですが、少なくとも第二次世界大戦時に米軍が戦場で応急処置を施す際に用いていたのは確かです。
米国側の硫黄島プロパガンダ映画に使用するところが映っています。
お手軽麻酔としては重宝されたのかもしれませんね。
・イソフルラン
麻酔その2。
これもちょいと古い。
・トリアージ
※すいません、書きたい事を書いているとついつい長文になってしまいました。飛ばして頂いて結構です。
多数の患者がいて、圧倒的に医師の手が足りない状況下(大災害発生時等)で誰を先に治療して誰を後に回す(あるいは見捨てる)か優先順位を決める事。
無論、医者の大原則は“全ての患者は公平に扱う”というものですが、最大の使命である“出来る限り多くの命を救う”という事を遂行するためには切り捨てねばならない命もやはり存在します。
もうこの人はダメだ…と見限る場合は黒のタグを付けます。また、既に死亡している場合も同様。
つまり、まだ生きていたとしても何れ死亡するので死人と同じ扱いとなるのです。
↑この説明は、医療関係者が読んだら大激怒あるいは苦笑いする様なかなり直接的なものとなっていますが、実際にその通りなのだから仕方がないのです。どんなに綺麗な表現で柔らかいオブラートに包んだとしても、結局やっている事はそういう事です。
この事に関しては難しい問題ではあり、黒を付けられる側の患者やその家族からすれば堪ったものではないのですが、それでも医者にはどうしようもないのです。
医者の方としては学生の頃から何度も考えさせられ、教え込まれて(いるはずの)、既に結論の出ている事なのですが、やはり一般の人からすれば受け容れ難いかもしれません。
ネットを見ているとね…予想外にトリアージ批判が多くて何とも言えない気持ちになってきますが…
「命の選別だ!」などと声高に叫ぶ事も出来ますが、それは現場を知らないが故の無知な偽善です。(そんな事は医者が一番分かってるのですから。例えば地震の場合なら、医者を恨むよりも日本という地震大国に住みついた自分の祖先を恨むべきです)
まともな人間ならばそう思ってしまう事自体は仕方ない事ですが、そのマトモな倫理や道徳が通じないのが災害現場や事故現場という場所です。
普段なら人殺しなんて絶対にしないまともな人間が、戦場に行けば人を殺す…それに似たものです。通常の価値観など棄て去らねばならない狂気が支配する世界なのです。
そういう意味で、医者と兵士は非常に似ていると言っても良いのかもしれません。
どちらも、人間性を棄てねばならない瞬間がいつかやって来る。
それに、医者だって人間です。
マウスの解剖実験の際に50匹目辺りで女子学生が罪悪感と憐憫から泣き出す(事がよくある)のと同じ様に、彼等だって辛い。
例え冷酷に見えたとしても、それは彼も感情が麻痺してしまっているか、必死に耐えているかの何れかに過ぎないのです。
実際、「トリアージしたい!」なんて思っている医者は一人もいないでしょうし、彼は貧乏クジを引いてしまった哀れな被害者の一人とすら言える。
…兎も角そういう意味では今回のソフィアの、ナーシャの手術を優先するという行動は医者失格です。プラトーク侍医としては正しいんですけどね。
・結紮止血
血管を糸で縛って止血する方法。
・止血鉗子
止血するための鉗子。
名前そのままですね。
鉗子というのは、手術で使うハサミの様な道具。
「ジエチルエーテル吸入、確認しました」
助手の一人が緊張した面持ちで告げる。
その両手にはガーゼでくるまれたマスクとエーテルの入った瓶。
このガーゼにエーテルを垂らすことによって麻酔とするのである。
「導入が遅いので少し不安ですが…大丈夫ですか?」
「元から意識レベルはかなり低いので問題無いでしょう…そう願いたいものです、私とてジエチルエーテルなんて使うのは初めてですから…」
エーテルは睡眠導入が非常に遅いという欠点があり、中々使えたものではない。
しかし今回のケースではナーシャが既に気絶状態である事と、彼女は大人と比べれば十分幼く比較的導入が早い事からエーテルを採用した。
本来ならばイソフルランでも使いたいところだが、ここには初心者しかいないのでそれは危険だ。
故に、扱いやすいジエチルエーテルなのだ。
「では始めましょう。まだ届いていないものはオペ中に使用人の方々が後から運び込んで下さるそうですから、そちらの方は安心して下さい。良いですね?我々はオペに集中しましょう」
使用人の控え室であったこの部屋は今やすっかり姿を変え、ちょっとした手術室に様変わりしている。
元々は使用人達が休憩時に使うために置かれていた大きなテーブルはそのまま毛布やら何やらを使って簡易の手術台に早変わり。
お茶を作るためか流し台だってしっかりあって、血だらけになった道具類を洗浄、消毒、そして再利用すべく人員が一人待機中。
ごちゃごちゃと様々なものが雑多に置かれていた部屋の隅は、それらは放り出され、今では代わりに様々な医療機器がごちゃごちゃと置かれている。
かつては紅茶やコーヒーの薫りが漂っていたこの部屋全体も、ソフィアが消毒のためにアルコール(ブランデーなどのアルコール度数の高い果物酒がメイン)をぶち撒けたせいでエタノールの酒臭い匂いや、ほのかに甘い香りがそこかしこから漂う。
また、そこにいる人間とて例外ではない。
メイド達がキャッキャウフフと戯れていた元の光景は何処へやら、今では血だらけの患者と六人の白衣姿の男女。
匠の鮮やかな技によってこんなに立派な手術室になりました。
「この後にはエーバーハル…失礼、もう一人の患者が控えています。応援のチームの方々が簡易的な処置を行って下さってはいますが、そちらの方はアナスタシア皇女殿下以上の重傷ですので、彼のためにも早急に済ませてしまいましょう」
医者として真面目にトリアージ(たったの二人だけど)をするならエーバーハルトが最優先だろうが、残念ながらそうはいかない。
彼女は医者である前にプラトークの侍医であり、プラトークの皇女の命は何者にも優先される。
それに、彼女個人の心情的にもエーバーハルトを優先しようなどという気持ちは微塵も湧かなかった。
例え彼女にとってナーシャがいつもいがみ合う因縁のライバル(主にナーシャの方から一方的に突っかかっているだけだが)であろうとも、やはりこれだけ一緒にいるとちょっとした友情が芽生えてくる。
言わば“喧嘩友達”である。
そのナーシャを傷付けた(ナーシャの自業自得とも言えなくもないが)相手となれば、やはり良い感情は抱かない。
「──開腹します、メス」
ソフィア右手に、ポンとメスが手渡される。
それを受け取ると、ダガーの刺さった部分を広げる様に、ゆっくりとメスで撫でる様にして切る。
それはまさに寿司職人が魚を切る様子にそっくりだった。
まるで豆腐でも切るかの様に、滑らかに刃が肉を切り裂いていく。
「うわ…すごい出血だ…」
助手の一人が思わず眉をひそめながらそう呟いた様に、メスによって生まれた切れ目から洪水の様にに血液が溢れ出てくる。
「やっぱりね…落ち着いて処理を。バイタル以外にもちゃんと気を配ってね。ガーゼじゃ間に合わないわ、何か他の布を!」
「他の布って?!」
「何でも良いんです、何でも!ほら、手術衣を使って!」
結局、助手達は皆身に纏っていた手術衣を脱いでそれで血を拭う。
正確には“拭う”というよりも“掻き出す”と表現した方が正しいのかもしれないが。
「まだ短剣は動かさないで!そうです、触ると余計に出血しますよ!出血箇所が見えるくらいになったら予定通りに進めます」
この予定とは、最初の血液ウェーブを何とか凌ぎ、その後結紮止血(止血鉗子の数が足りないため、一時的な止血もこれで行う)、止血が完了したら臓器のダメージの度合いに応じて何らかの処置…というもの。
無難かつ平凡なものである。
しかし最後の何らかの処置というものこそが本命であり、これ次第でこの手術は大きく性質を変える。
ソフィアの表情が優れないのは、この何らかの処置が面倒なものになるであろうと確信しているためだった。
ちなみに短剣を抜くのは事前に出来る他の作業を終えてから、となる。
「バイタル──!」
「大丈夫、止血さえすれば何とかなるから!」
溢れ出てくる血液がある程度減ってくると、早速作業開始だ。
出血箇所に素早く糸を巻き付けていく。
場合によっては熱を加え、蛋白質の性質を利用して止血する。
まだ奥の方は血で見えないが、外側の部分だけでも少しずつ止血していく。
「この調子なら…いけそうですね…!」
助手達のマスクで隠れた笑顔が眩しい。
それを見て、まだまだ若いなぁ、とソフィアは感じた。(彼女も十分若いのだが)
「油断禁物ですよ。まだ本命の前の事前準備に過ぎません」
今は皮下の浅い部分を止血している段階に過ぎず、こうしている間にも奥の方では未だ出血している。
油断するには少し早い。
現状を戦争に例えるなら、今は塹壕を掘り終わり、準備砲撃を敵に向けて無茶苦茶に加えている状況。
これから肝心の突撃が待ち受けているのだ。
そして今回の本命とは──
「見えてきましたね…嗚呼、思った通りだ…」
ソフィアの表情が一気に曇った。
「先生?どうしたんです?」
「覚悟はしていました…覚悟はしていましたが…これは…」
ソフィアの瞳に薄っすらと涙が浮かび、彼女は手元が狂わないように急いでそれを拭う。
「先生…?付かぬ事をお聞きしますが宜しいですか?」
急に泣きだしたソフィアに、助手の一人が恐る恐るといった様子で質問する。
「何かしら」
「僕には分からないのですが…もしや、相当に不味い状態なのですか?最悪、命の危険があるとか?」
彼の懸念も当然だろう。
手術中に医者が急に険しい表情になり、終いには泣き始めたのだ。
気にならぬはずがない。
「いえ…心配かけてごめんなさい、違うんです。大丈夫、あなた達が感じた通り、このオペ自体はこの調子なら上手くいくでしょう…ただ──」
そこで彼女は言葉を切る。
「──ただ、問題は術後です…」
彼女の涙は、同情から来たものだった。
彼女の事を知るからこその、憐憫の涙。
彼女のその後の悲しみを想っての涙。
彼女の夢が淡く儚く消え失せた事に対する涙。
彼女の希望が絶たれた事を嘆いての涙。
「現実は…残酷ですね…」
✳︎
「縫合…よし…!」
「異常は確認出来ますか?」
「いいえ、特には。全て問題ありません!」
「分かりました…では、これにて終了です。皆さん、よく頑張ってくれました。お疲れ様です」
時計の針は随分と進んでいた。
エーバーハルトの手術が終わったこの瞬間、時刻は午後七時。
「いやぁ、終わった終わった…後の事は使用人に任せて食事にしましょう。もうお腹ぺこぺこですよ、昼も飯抜きでしたし」
「肉が食べたい気分だな」
「えー…さっきまでずっと人間の肉を見てたのに?よくもまあ…」
「いやいや、だからこそ、でしょ」
緊張が一気に解れ、皆楽しげに冗談を言って笑い合う。
ほんの数時間前まで赤の他人だったが、共に困難を乗り越え、今ではソフィアも彼等と友人の様な関係になっていた。
「ところで、先生」
助手の一人──七人の中で最も背の高い男──が声を掛ける。
「はい、何ですか?」
ソフィアは、少し疲労の混じった笑顔で応じる。
「いえ、その…僕の勘違いかもしれませんが…何だか、無理してませんか?」
「え?」
「無理に笑ってる様な…辛そうな…そんな感じがするんです。やはりアナスタシア皇女殿下の事ですか…?」
「そうですね…そうかもしれません。ご本人がお目覚めになった時に事情を説明するのは私ですし、陛下…ニコライ皇太子殿下に伝えるのも私です。それを思うと、ね…」
「…大変ですね」
「いえ、まあ殿下や陛下に比べれば大した事ではありませんよ。仕事ですしね」
彼女はそう言って無理矢理笑みを作ると、ゴム手袋をポスッとゴミ箱──大きく赤文字で「焼却処分」と書かれている木箱──に棄てた。
「殿下とは懇意にしていらしたのですか?」
「ええ、まあ。元々侍医は高貴な方々と接する機会が多いというのは当然ですが、私の場合は特にそれが顕著でしたので」
「それはその…愛人だから…ですか?皇太子殿下の」
「へっ?ち、違いますっ!陛下と私はそういう関係ではありません!何故か世間ではそう噂されていますけど、根も葉も無い噂ですから!事実無根…ではないけど兎に角違います!」
「そんなに必死にならなくても良いじゃないですか、逆に怪しいですよ、それ」
彼の言葉に同意して、他の皆も揃って頷く。
「まあ、愛人じゃないってのはどうやら事実の様で安心しましたけど」
「え?何故?」
「何故だと思います?」
「えぇ…そんな事言っちゃいます…?大体予想はつきますけど、私が言うと自意識過剰みたいでちょっと嫌だなぁ…」
「ははは、すいませんね。コイツ、女の子を困らせて悦ぶ悪い癖があって。ところで先生、こんなゲス野郎ではなく僕と付き合っ…ゴフッ!」
「いやいや、俺が…ってちょっと押すなっ!」
「待って!せめて連絡先交換…ってしまった、プラトークか!遠距離恋愛になっちまうっ!」
「先生、こんな馬鹿共は放って置いて、僕と一緒に美味い酒でも──」
男達の突然のナンパに、ソフィアは苦笑いする。
「もしかして私、口説かれてます?」
「もしかしなくても口説かれてますね。申し訳ない、コイツら、美人となると見境が無くって…」
そう溜め息混じりに男達の代わりに謝罪するのは、助手六人の中で紅一点の少女である。
「あー、やっぱり?さっきまでシリアスな展開だったはずなんですけどネェ…」
「だからこそですよ。傷心中の女の子に付け入って、あわよくばムフフな関係になろうという下衆な企みでしょう」
汚いものでも見る様な目で彼女は男達を見ると、苦々しげにそう言う。
「まあ良いや、おかげで何だか吹っ切れましたし」
きっと励ましの意味もあって彼等は急にこんな事をし始めたのだろう、と彼女は好意的に受け取っていた。
残念ながら実際には、励まし一割、性欲九割だったのだが…
「それなら良かった。あんな馬鹿でもたまには役に立つんですね」
「ふふ、そうかもね。取り敢えずご飯にしましょう、ルイーゼ殿下が気を回して用意して下さったそうですから」