LXVIII.さあ。決着をつけよう、そして終止符を打とう。
※注釈
・ジュードー
柔道の事ではない。
──ほんの一瞬の事だった。
誰も油断などしていなかったはずだ。
私も、ナーシャも。
しかしそれは起きてしまった。
…ナーシャが刺された。
この事態を予測していなかった訳ではない。
しかし心のどこかで彼女ならば大丈夫、と高を括っている自分がいた。
だからこその予想外。
あり得たはずなのに、あり得なかった事。
彼女のドレスにもう一つ赤い染みができた。
しかしそれは肩のものとは比較にもならない。
遥かにどす黒く、大きく滲んでいく。
ナーシャの顔に張り付く表情は、完全なる無だった。
その光景を見て尚、私が剣を振るえたのは幸運か否か。
ただ気付けば私は無意識に剣を目の前の男めがけて振り下ろしていた。
何らかの思考や感情が伴ってのものではない。
脊髄反射の如く、身体が先に動いていた。
あれ程鉄壁の様に私の攻撃を防いでいたのに、その時だけは簡単に当たった。
彼の右肩に、吸い込まれる様に…
「きゃあああああ!!!」
場内各所から今更の様に悲鳴が上がるのが聴こえた。
やっと状況を理解した観衆──主に女性──が空虚な叫び声を撒き散らしているのだ。
しかしどれも全て雑音に過ぎない。
顔に熱い返り血を浴びる。
剣はエーバーハルトの右半身に綺麗に滑り込んでいき、縦にその肉を斬った。
右腕はもうロクに動かないらしい。何の抵抗もせずにだらりと下がったままだ。
小さな呻き声を漏らしつつ、咄嗟に彼は後退を始める。
左手のダガーの回収は諦め、手放した。
同時に、どしゃっと鈍い音がして、ナーシャがそのまま床に崩れ落ちる。
つまりこの瞬間、彼は何の攻撃手段も持っていなかった。
右手に握るダガーを左に持ち替えるまでの一瞬に過ぎないが。
しかしその一瞬で十分だった。
「あああああああっ!!」
私は悲鳴の様なものを上げていた。
そしてこの瞬間になってやっとこさ激しい感情が湧き上がってくる。
怒り、憎しみ、悲しみ…その様な単純なものではない。
自分でも何が何だか分からない何かしらの感情。
ただ、ひたすらに激しい…
今度は無意識などではなかった。
ただその感情の赴くままに行動すれば良い。
その感情の中に幾許かの殺意が混じっている事は確かなのだから。
まだ足りぬ。
血が足りぬ。
殺しても殺しきれぬ。
ナーシャの駆け寄る選択肢もあったかもしれない。
しかし、その瞬間の私には右手に握る剣に感情を込める他の事は頭に無かった。
逃がさない。
逃がさないぞ。
どんなに逃げたって追いかけて、ブロック肉になるまで切り刻んでやる。
半ば飛び込む様にして間合いを詰める。
剣をそのまま反転させての斬り上げ。
防御度外視の、今だからこそ出来る攻撃。
威力も今までとは比べ物にならなかった。
手応えを感じる。
同時に、再び血飛沫が私の身体中に降り掛かった。
思いつく限りで最も気持ちの悪い効果音と共にエーバーハルトの右腕が宙を舞った。
──右腕を断ち切った…!
しかしそれは少々無理が過ぎた。
丈夫なロングソードなどならば可能でも、シミターには荷が重過ぎた様だ。
シミターはあらぬ方向へとぐにゃんと曲がり、もう使い物にならなくなってしまった。
ロングソードが包丁だとするなら、シミターはカッターナイフ。
根本的に用途が違えば、耐えられる限度も違う。
「クソッ!」
そのままエーバーハルトにそれを投げつけるが、大きく逸れて外れる。
「はははははっ!」
右半身は血みどろちんがいで、右腕は物理的に吹っ飛び、左手は素手。
立っているのが不思議な程の傷を負い、武器など一つも持っていない。
絶対絶命のその状況で、何故彼は楽しげなのか?
何故笑えるのか?
それが余計に腹が立った。
それと同時に私に得体の知れぬ焦燥感を覚えさせた。
こちらはほぼ無傷だが、エーバーハルトはかなり深手の傷を負っている。
武器に関してはどちらも持っておらず、共に素手。
しかしそれでも彼にはまだ希望があるのか?
それとも絶望による笑い?
駄目だ、まだ油断は出来ない。
直ぐにでもナーシャに駆け寄ってやりたいが今は耐えねば。
ソフィア医師の声が聴こえる。
彼女は駆け付けて来て、何らかの処置を施そうとしている様だ。
大丈夫、彼女に任せれば。
そう、きっと大丈夫。
私がナーシャに付いていても出来る事などありはしない。
ならばエーバーハルトをどうにかするのが先決。
──いや、違う…
武器はまだある。
私のサーベルとエーバーハルトのレイピア、そしてパリーイングダガーが。
エーバーハルトの思惑に気付いてしまった。
ヤツはそれを使うつもりだ──
エーバーハルトの武器に関しては恐らくナーシャによる細工が為されているので使用不可。
そうなると彼が他にもまだ隠し持っていない限りはこの場に存在する武器はサーベルのみ。
ヤツはそれを使うつもりだ。
「させるかっ!狙撃手!!撃て!一斉射!」
どこかに隠れているであろう狙撃手に向かい、大声で叫ぶ。
彼等はナーシャの命令は受けても、私の命令にまで従ってくれるのかは不明だが、試してみる価値はある。
先程と違い、今度はエーバーハルトとの間に十分な距離がある。
私にまで当たる事は(恣意的にでなければ)あるまい。
パパパッと小さな発砲音がどこからかして、弾が床に当たってペシペシと弾ける。
全弾外れた。
「役立たずっ…」
小声で悪態を吐き、エーバーハルトを更に追う。
次に発射可能なるまで待っていてはエーバーハルトに剣を奪われてしまう。
先に剣を手に入れるか、あるいはエーバーハルトを足止めするか…
前者は距離的に不可能だろう。
エーバーハルトはもう少しでサーベルの元へと辿り着いてしまう。
後者は…ぎりぎり間に合うかどうか。
ならば選択肢は後者しかあるまい。
武器は持っていない。
しかし、この拳ならば──
「せりゃぁぁ!」
飛び込む様にしてパンチ。
利き足を精一杯踏み込み、跳躍。
右の拳に全力を込め、力の限り殴りつける。
ドロップキックのパンチバージョンだから…ドロップパンチとでも呼ぶべきなのだろうか?
この一発限りの、防御も何もかも考慮せぬただ純粋に一発殴るためだけのもの。
だが、これは外れる。
否、当たるには当たった。
しかし受け止められてしまったのだ。
どこにその様な力があり余っていたのやら、彼は左回りに回転するとそのまま私の拳を左腕で横から押し出す様にして受け止めた。
完璧なタイミング。
ヤツは後頭部に第三の目でも付いているのか?
そしてそれだけでは終わらない。
その左手で私の腕を握ると、飛び込んでいく私の勢いをそのまま利用して左肩を軸に──
──投げた。
ジュードーか?!
エーバーハルトの手が離れ、ほんの一瞬だけ浮遊感を感じる。
そして徐々に重力を感じ、床が目の前に近付いてくる。
クラッシュ!
投げ技は非常にコスパが良い。
相手の勢いを利用し、自分ではほぼ力を使わずに攻撃出来る。
相手の攻撃をそのまま自分の攻撃に転用出来るのだ。
更に、投げ技には一時的に相手を無力化する効果もある。
一度投げ飛ばされた相手は、起き上がるまで活動を再開出来ない。
そして今の様な一分一秒の差で状況が大きく変わる状況では、この僅かな“無力化”が非常に大きかった。
不味い…!
私はぎこちない受け身をとってコロコロと転がると、その勢いのままに立ち上がる。
しかしもう遅い。
見れば、既にエーバーハルトがサーベルを拾っていた。
一気に不利になった。
ヤツが出血多量で気絶でもせん限りは逆にこちらが斬られる未来しか無い。
攻撃手段がほぼ無い現状では逃げ回り続けるが最善手だろうか。
実際、床を見れば血が尾を引く様にしてべったりと線を描いている。
長期戦に持ち込めばそれだけこちらが有利なのは確かだろう。
しかしその程度の事はあちらとて百も承知。
それを許すまいとしてくるのは分かりきっている。
…ならばここは敢えて逃げずに虚を突く。
この状況下での虚とは──
「狙撃手、斉射!次こそ当てろ!」
ここでもう一度叫ぶ。
するとパパパッと豆鉄砲にも似た頼り無さげな音と共に弾が飛ぶ。
しかし今度は先程とは少し違った。
一発だけエーバーハルトの眉間を掠め、彼の動きが止まる。
今だっ…!
虚を突く。
虚を突く。
虚を突く。
この場合の虚とは──
──私はエーバーハルトの棄てたレイピアを拾い上げ、そのまま彼の元へと駆け出す。
気でも狂ったか?…ヤツの気持ちを代弁するならそんなところだろう。
この剣で彼を攻撃しようとも、全ては無駄であるどころか私に跳ね返ってくるのだから。
しかし、それこそがまさに虚なのである。
その認識こそが。
私はそのまま突きに移行すべく剣を少し後ろに引く。
いつでもこの剣のリーチ内にエーバーハルトが入って来さえすれば刺突が繰り出せる。
「馬鹿か…?」
彼は私の想定通りの反応。
そう、全ては想定通り。
コンナミコマンドはレイピアでは全く使えない。
折角練習したのに未使用とは残念だ。
しかし、私のこの一撃で全てを決する気でいた。
それにそうする自信があった。
半ば賭けでもあったが、どこから湧いてくるのやら…途轍もなく自信があった。
「そうだ、馬鹿だ。しかし貴様はその馬鹿よりも馬鹿だ、阿呆め。ここで死ね…!我が妹に仕出かした事、命で償ってもらうぞ…!」
そうだ、私だって兄として妹が大好きだ。
兄として。
だから兄として復讐する。
兄として仇を討つ。
「狂ったか?全て自分に返ってくるぞ?」
その通り。
だが、これならばどうかな?
私はリーチに入るよりも少し早くに刺突のモーションに入る。
距離は剣二つ分。
そして──
──投げた。
この剣で誰かを攻撃したならば、その分だけ自分に返ってくるらしい。
成る程、それは確かな様だ。
しかしその“自分”とは誰だ?
使用者?
ではその使用者とやらはどうやって判別されている?
それに私は一つの答えを導いた。
“使用者とは、その剣に触れている者の事ではなかろうか”と。
ならば、剣をそのまま投げたならば?
使用者たる私は剣に触れていない。
その場合使用者とは誰になる?
もしこの賭けに私が勝ったなら、この場合の使用者とは“存在しない”か唯一(攻撃されて結果的に)触れている“エーバーハルト”の何れかになるはずだ。
負けとはすなわち、その様な誤魔化しは効かずに私が使用者として攻撃を反射される場合だが…こればかりはもう運次第。
魔法なぞ私に分かる訳もないのだから。
そしてこの読みは結果的に当たっていた。
決闘序盤でエーバーハルトが被った“反射”なる魔法は“剣を握っている者を使用者と認識する”からだ。
つまりこの“反射”の魔法はこの場合のニコライには全く影響を与えなかった。
そして逆に言えば、攻撃される側であるエーバーハルトにも何ら影響を与えない。
しかし、問題はその他にあった。
忘れてはならないのはこのレイピアには“他にもいくつかの魔法がかけられている”という事である。
そしてその“他の魔法”とやらが今この瞬間、作動した。
その魔法の名は“スイッチ”。
これは補助魔法の一種であり、その名の通り魔法の使用のONとOFFをスイッチするために存在する。
この魔法の効果は「魔法を利用した道具等にこの魔法を施す事によって、未使用時の他の魔法発動を一時凍結し、その魔法の効果時間を延長させる」というもの。
つまり、「使わない間も発動させておくのは勿体ないから使う時だけ発動させましょう」というものなのだ。
その平凡な魔法がこの時には非常に大きな役割を果たした。
この魔法はナーシャによって「剣を誰も持っていない状況下で有効」となるように設定されていたのだ。
それは、ニコライが剣を投げた事によって空中に於いて適用される。
これによってこのレイピアに施されていた全ての魔法が一時的に凍結。
本来ならばこの剣の先端が何かに刺さる瞬間に発動するはずだった“幻影”──刺突攻撃によるダメージ無効化──が仕事をしなくなった。
つまり、エーバーハルトにダメージが通るようになった。
エーバーハルトにしっかりと。
柔らかな肉相手なら投げてでも十分な威力がある。
そして彼はそのいきなりの飛来物を避けるなり弾くなりする事が出来なかった。
虚を突かれたが故に。
ざくりっ、肉の裂ける音がして、彼は小さく呻いた。
「そんな…そんなの…」
「チェックメイトだ」
彼はサーベルをポロリとその手から落とした。
「はは…ははは…これは…素晴らしい…負けたよ…」
そして彼は倒れた。
冷たい大理石の上に。