LXVII.放置プレイはお気に召さなかった様です。
※注釈
・スティレット
短剣。主にトドメを刺す用に使われたので、日本の“鎧通し”と非常に用途としては似ています。
実際に長さ等もほぼ同じ。
形状の特徴は、十字である事ですが…これはこの剣に限った事でもないし…
要するに特に何の変哲も無い短剣です。
「ナーシャ…?」
私もそこから動けずにいたが、不安になってきてその名を呼んだ。
「兄上、動かないで」
彼女はエーバーハルトを睨んだまま、返答した。
その声の調子がいつも通りで、私は少しホッとする。
もう一度よく見てみると、ナーシャの持った短剣がエーバーハルトの腕を貫いているのが見えた。
ナーシャの右肩の白いウェディングドレスが血で赤く染まっているのは何故か分からない。
エーバーハルトのダガー──私の血液を浴びて禍々しくギラリと輝いている──は私の首元で動きを止めていた。
そうか、動かないのではない。
動けないのだ。
二人は互いに牽制し合い、動けないのだ。
ナーシャは泣いていた。
その顔をぐしゃぐしゃにして、公衆の面前なのに鼻水まで垂らしている。
それなのに笑っている様にも見えるのが不思議だった。
「だから言いましたのに…無理はしないようにって。聞いていましたか?」
「それより、その剣は──」
「聞いていましたか!?」
「あ、はい、すいませんっ」
彼女は溜め息を一つ吐いた。
「これも護身用です。誰がシミターしか持っていないと言いました?」
本当に…本当に流石だな…
「それより、その右肩…大丈夫か?と言うよりもそれ、ナーシャの血だよな?」
彼女はまた溜め息を吐いた。
今度はもっと盛大に。
「ああ…これですか…勿論私の血ですが…理由は言いたくないですね…」
「教えてくれ」
“教えたくない”とは言うものの、“教える必要がある”とはしっかり認識している様で、彼女は渋い顔をしつつも答える。
「狙撃です、狙撃。ほんと最悪…豚を狙った弾が私に当たったのですよ」
そうか、例の“奥の手”か…
まさか本当にフレンドリーファイアーとなるとは。
「自分で掘った落とし穴に自分で落ちる様な…本当に凄まじく惨めな気持ちです…三名用意しておいたので三発撃ったはずなのですが、そのうち二発が盛大に外れ、残り一発は私に命中とはね。後でスナイパーの皆様にはたっぷりお礼をしてあげないといけませんね、それはもうたっぷりと」
おお怖…
でも確かに全く関係無い離れた場所に銃痕が二つ。
盛大に外れた、というのは事実の様だ。
そのくせ味方には当たるのだからタチが悪い。
「では大丈夫なのだな?」
「ええ、肩ですので。これがお腹だったらと思うとゾッとしないでもないですが」
通常の弾丸には骨を貫く程の威力は無いので、今回のナーシャの様に肩などに当たると骨に阻まれてほぼ危害を加えられない。
しかし腹部などへの被弾の場合は話は別で、弾丸が骨にぶつかって跳ね返り、臓器をぐちゃぐちゃに搔き回す。
そうなると並みの刀剣なんぞよりもよっぽど恐ろしい。
まあ、不幸中の幸いだったという事だ。
「で、私はどうすれば良い?ナーシャは動けない様だが、何かすべき事は?」
いつまでもこの睨み合いが続く訳ではない、その様に尋ねるものの、ナーシャの返事は素っ気なかった。
「動かないで下さい。それだけです」
あっそう…
よくよく見てみると、ナーシャの持っている短剣──恐らくはスティレット──はエーバーハルトの右腕を貫いており、これで動きを封じている様だ。
逆にナーシャが今少しでも力を抜けばエーバーハルトのダガーが私を再び襲う事になりそうだ。
しかしそれならば私が動いてはいけない理由が見つからない。
はてな…?
「理由を教えてくれんか?疑う訳ではないのだが」
「左手」
左手?
彼女の左手を見ると、もう一本のスティレットが握られていた。
エーバーハルトの左手にも同様にダガーがもう一本…
成る程…そういう事か…
右手は膠着状態、左手は睨み合い…か。
しかしエーバーハルトは兎も角、ナーシャまでもう一本持っているのか。
何という念の入り様。
感心するレベルだ。
「全く…この剣は奥の手として温存しておく予定でしたのに…もう手の内を明かす事になってしまいました…兄上のせいですよ?」
また私は彼女の計画を破綻させてしまった様である。
「すまん…」
「いや、本当に頼みますよ?兄上はちょっとその…考え無しに動き過ぎと言いますか…浅はかと言いますか…」
うん、要するに馬鹿だと言いたいのだな…
「それよりも、少し不味くないか?」
少し思い至った事があって話を振る。
「何がです?」
「いや、先程まではナーシャはあくまでもサポートに過ぎず、直接は戦っていなかっただろう?だから問題無かったが…今はナーシャも堂々と戦っているし、色々と不味いのではないかと思ってな…」
ルール上は全く問題無いが、観衆からすれば心情的に宜しくないのではなかろうか。
古今東西に自分の代わりに妹を戦わせ、挙げ句の果てには怪我をさせる兄など聞いた事が無い。
心底軽蔑されるのでは…?
「兄上…さっきまで死にかけていたのに、もうその様な事の心配ですか?呑気な事で、羨ましい限りですね…」
嘆く様な口調で妹に窘められてしまった…
「はあ…良いですか?兄上のご心配は杞憂に終わるでしょうからそう不安がる事もありませんよ。確かに普通ならば余り良くはないのでしょうが、それはあくまで普通ならという話です。今回はそれどころか皆揃って私の参戦を心中で歓迎している事でしょうね」
「歓迎…?何故だ?」
さっぱり分からん。
歓迎だと…?
何を歓迎すると言うのだ?
「よく考えてみて下さい、もし兄上の身に何かあった時の事を」
我が身に…?
…成る程、分かったぞ。
「要するに、私が死ねば外交問題に発展しかねんから、ナーシャの乱入は咎めるどころかむしろ歓迎という訳だな?」
「そういう事です」
私は最初から半ばエーバーハルトが私を本気で殺しにかかって来ると覚悟の上でこの決闘に挑んでいたが、観客達の多くはそうではないだろう。
無論、(一応は)両者の同意の元で行われているので死のうが寝たきり状態になろうが後から文句を言う事は出来ないのだが、それはそれ、これはこれ、である。
表立っては何も言われずとも、両国の関係が悪化する事必至。
下手すれば戦争沙汰となる可能性すらある。
その様な事を考慮して、現状を眺めてみるとよく分かる。
観衆(特にフォーアツァイト人)からすれば、エーバーハルトがとんでもない事を仕出かしている光景以外の何物でもない。
この状況はさながら自分の財布からひらりと落ちた一万円札が自販機の下に落ちていくのを見る様なものだろう。
そんな彼等からすればナーシャはまさに救世主。
(誰も行動には起こさないが心の中では)よくぞやってくれた、とやんややんやの大喝采だろう。
「…という事で、もう隠す必要も無いですし私も戦いますので。初めての共闘ですよ」
ナーシャは私なぞよりも遥かに強いので物凄く心強い。
先程までも協力してくれてはいたが、やはり物理的に共に戦ってくれるとなると非常に頼もしい。
「ああ、宜しく頼む」
「お任せ下さい。放って置くと兄上は確実に死んでしまうでしょうし…そうなると私も兄上の後を追わねばなりませんし…私とて好き好んで死のうとは思いませんからね。ただ、右腕がこのザマですから…利き手を使えない分いつもと同じ様にはパフォーマンスを発揮出来ない事は分かっておいて下さい」
「了解した。私も迷惑をかけない程度に頑張ろう」
一応これは私とエーバーハルトの決闘だが、ナーシャも当事者なのでやる気十分。
下手すれば私の出る幕は無いかもしれない。
「あ、それと一つ良いですか?」
「どうした?」
「見ての通り私、肩に被弾してしまいましたよね?」
「そうだな」
「傷が残るかもしれません。最悪、もう肩を出したドレスは着れないかも。申し訳ありません…兄上は露出が多い方がお好みなのに…」
私はどう反応すべきなのだ…?
「そ、そうか…それは残念だなぁ。しかし肩なぞ出さずとも十分可愛いから問題無いと思うぞ?実際、今着ているそのウェディングドレスだって肩など出していないではないか」
「そういう問題ではありません。嫁入り前の身体に傷が付くとは何という…嗚呼…後で一緒に狙撃手の連中に罪を償わせましょう。兄上にもその権利はありますからね」
「へ?ど、どういう──」
「既に私の身も心も兄上のもの!つまり私の身体は兄上のものなのです!自分の所有物に傷を付けられたのですよ?兄上にも文句の一つや二つ、言う権利はありましょうや!」
所有物って…
「だから、先程から言っているが…ちょっとした傷如きでナーシャの価値は変わらん。気にするな」
取り敢えず、哀れな狙撃手達を擁護するためにもこう言っておく。
それに実際、その程度の事なんて気にならないぐらいに我が妹は可愛い。
傷などほんの瑣末な事に過ぎん。
「そうですね。普通の殿方ならば兎も角、私は兄上と結婚するのですから。そこら辺の狭量な奴等と兄上を比べるなどそもそも可笑しな話でしたね」
まあ、そういう事にしておこう。
「両殿下、そろそろ宜しいかな?」
冷ややかな笑みを浮かべ、エーバーハルトが話し掛けてくる。
少し顔が青い様に見えるのは、出血のせいだろうか。
剣は刺さったままで抜いてはいないので出血量自体は大した事はないはずだが、それでも多少なりとも影響は出るのだろう。
「おお失礼、汚豚殿。放置プレイはお好みかと思っていたのにそうでもなかったかな?どう、腕の調子の方は?」
「“おかげさまで”、剣が骨まで貫通してしまいましたよ。全治数ヶ月…面倒な事になりました。ギプスは嫌いなのですが」
「安心しなさい、治す必要が無いようにしてやるから。今この剣を抜いたら失血死確定でしょう?」
「残念ながら殿下、その程度では失血死には至りません。まあ、適切な応急処置が前提ではありますがね」
「じゃあ…この剣を抜いて、応急処置が出来ないように邪魔をしたら?」
「それは困りますね。…非常に困る。しかしそれは殿下のために警告しておきますが、お止めになった方が宜しいかと。殿下のお兄様の首をはねる事になってしまう…」
「それは困ったわね。どうしようかしら」
彼女は心底困っているかの様な口調でそう応える。
恐らくは皮肉の混じった演技だろうが。
「では、私から提案があるのですが、その剣を離してくれませんか?そうすれば私も離れますから。ね?」
「信用出来ないなぁ。離した瞬間兄上を殺さないと誰が保証出来ると言うの?」
「でも、その様な事をすれば今度はあなたが私を殺すでしょう?それで抑止力になりませんか?」
そりゃそうだ。
真っ当な主張に聴こえる。
「殿下だって、お兄様の首にずっと刃物が突き付けられている様な状況は直ぐにでも抜け出したいでしょう?それにそうしないと決闘の決着がつけられない。どうです?」
「確かに。兄上、そういう事で良いですか?」
「私にはよく分からん。良きに計らえ」
情け無いが、ナーシャ任せがベストだ。
「では、私が手を離したら直ぐに後ろに十歩退がりなさい。それで良いかしら?」
「ええ、どうぞ」
「じゃあ…せーの…」
ナーシャが握っていた剣を手放す。
──刹那、エーバーハルトの顔が喜悦の表情に歪んだ。
「馬鹿めっ、この雌ガキがァ!」
次の瞬間、目の前でどす黒い血液が飛び散る。
「え…?」
思わず目を遣ったその先では──
──エーバーハルトの左手のダガーがナーシャの腹に突き刺さっていた。