LXVI.危急で帰厩を希求する。
「兄上っ、ヤツに少しでもペースを持っていかれたら敗色濃厚となります!どういう事か分かりますね?!」
「つまり…あー、やり過ぎぬ程度にこちらから積極的に攻撃せよという事だろう?」
「そうです!GO!GO!GO!」
「よし、いくぞ」
シミターは別名三日月刀などと呼ばれる事からも分かる様に、非常に反りが大きい。
先程まで使っていたサーベルなどとは比べ物にならない程に斬る事に特化した武器だ。
使用法としては日本刀に非常に近く、反りが大きい日本刀だと解釈しても構わない。
私が今使っているものはナーシャが護身用に持っていたものであり、女性の使用を想定してある事(ナーシャは下手すれば並の男よりも強いが)や持ち運びの利便性が考慮されている事、シミター本来の性質も相まって、平均的なものよりも比較的短く軽い。
刃渡りは五十センチ程度と推定される。
サーベルの約半分。
対してエーバーハルトの取り出したダガーも、懐深く忍ばせておくための予備武器であるから非常に小さい。
刃渡りは正確には言えんが、三十センチ程度かと思う。
こちらは刀身が真っ直ぐで、レイピア同様刺突用か。
しかしレイピアとは違って太くて分厚く、刃もしっかりしたものが両側に付いているので斬る事も可能であろう。
純粋な攻撃の届く距離だけで比べればこちらの方が有利だ。
しかしながらエーバーハルトもその程度の事は理解しているので、彼は敢えてダガーを逆手に持っている。
逆手に持つ、という行為はすなわち“リーチという名の最大の武器を棄てる”事に等しいのだが、それでも尚よく行われる。
何故なら短剣の様な武器を扱う場合、至近距離では逆にこの持ち方の方が有利だからである。
身体が触れ合う程の至近距離での戦いでは順手だとどんなに小さな武器でも邪魔になってしまうが、それに対して逆手ならば持っている武器が拳に付いて来る様な形で動くので扱いやすい。
また、防御が行いやすいという利点もある。
この持ち方だと主な攻撃方法は「首元を撫でる様に斬る(所謂撫で斬りに近い)」、「刺す」の二通り。
後者に関しては今まで通りだし、それどころか射程が短くなっている分まだ安全だとすら言える。
問題は前者の方にこそある。
この逆手持ちのダガーというものに暗殺者のイメージが強いのにはしっかりとした理由があり、実際にそういった用途に非常に向いているのである。
「何故わざわざ逆手に持つのか?」
これは誰もが抱くであろう真っ当な疑問だ。
しかしこれの答えは至極単純である。
勿論、前述の通り様々な理由があるのだが…一番の理由は「確実に頚動脈を切るため」というものではないだろうか。
暗殺者にとって、ターゲットを確実に始末する事こそが最もな重要な事。
そんな彼等にとって最も確実に物理的に殺す方法が「頚動脈を切る事」なのである。
案外人間は丈夫にできていて、短い刃物でちょっと刺したくらいでは死にはしない。(無論、刺しどころによるし、何度も刺せばその限りではないが)
だが頚動脈なら確実だ。
野生の肉食動物(特にネコ科)が狩りをする際にまず初めに噛み付く場所が首であるのも同じ理由である。
時間がたっぷりあるならば狼の様に関節を攻撃するとか、そういった方法が有効だが、一瞬で始末するつもりなら先ず間違い無く首を狙うのが一番だ。
他にも心臓だとか脳だとか急所はいくらでも存在する事にはするが、心臓は狙いにくいし脳は頭蓋骨に守られている。
それを踏まえればやはり刃物で殺す場合には頚動脈狙いがベターであろう。
そして逆手だと武器が拳を追う様に動くから頚動脈を切るための撫で斬り(に似たもの)がしやすい。
こうして、最終的に武器を逆手に持つ事が相手を確実に殺す事と同義となるのである。
説明がくどくなってしまったが何が言いたいかというと──つまり、エーバーハルトがダガーを逆手に持っているのは「懐に飛び込んで一発でケリをつけてやるよ」という事なのだ。
ほんの一瞬でも隙を生んでしまえばエーバーハルトの接近を許し、首からピンク色の血を噴いて倒れる事となるだろう。
“一撃必殺”。
それこそが彼の戦法だ。
そしてこれは私は勿論の事、ナーシャにとっても想定外であろう。
元々、エーバーハルトの使うレイピアという武器は“リーチを活かしてアウトレンジから突きを繰り広げては退き、また飛び込む”を繰り返す消極的な戦法を得意とするものだ。
それなのにダガーになった瞬間にその正反対の戦法を取ろうとしてくるなど誰が予想出来るものか。
だからこそナーシャは私に積極的な攻撃を命じた。
エーバーハルトに行動を起こさせては対処法が無いから確実に詰む。
そうならぬよう、動きを封じるために。
「臆病者のくせに自分から来たか…どうやら妹に背中を押してもらえばちゃんと動ける様だな。その歳でまだ自立していないとはとんだお笑い種だが」
「悪かったなっ!自立し過ぎると親を殺す羽目になったりもするのだがな!」
上からの大きな振り下ろし。
重量が無いシミターには本来向かない攻撃だが、そもそもこれは本気で当てる気の無い陽動に過ぎぬ。
受けるなり避けるなり何かしら反応してくれるならそれで御の字だ。
パリーは少々厄介だが、これに関しても最初から当てる気が無ければ全く問題無い。
私の初撃は当然の如くダガーで弾き返され、そのまますかさずエーバーハルトが反撃。
素早い薙ぎ払い。
しかしこれはバックステップで難無く回避。
元々回避前提で一撃しか与えるつもりがなかったため攻撃と同時にもう回避の準備をしていた事や剣のリーチの差が味方した。
彼の攻撃は掠りもしない。
しかしこの程度で喜んでもいられない。
彼の武器はダガーであるから、一度空振る程度ではこちらの攻撃チャンスになり得る程の隙が生じないのだ。
そもそも私はコンナミコマンド、エーバーハルトは頚動脈への一撃、という必殺の一撃を互いに狙っている状況であるから、この程度の攻撃はどちらにとってもほぼ意味を成さぬ。
短期決戦を狙う以上、スタミナの消費等の要素とも無縁だし、もう既にお互いの意図が見え透けている現状では探り合いとしての価値も無い。
兎も角、現状で私がすべき事はひたすら「エーバーハルトを近付かせずにギリギリこちらの攻撃が通る距離を維持する」という一事に尽きる。
私には状況を打開する一手が思い浮かばぬ以上、現状維持に努めてナーシャの指示を仰ぐ他無いだろう。
「兄上、もう一度!」
背後のナーシャの声に応じ、もう一度踏み込む。
今度は右上からのは袈裟懸け。
これも弾かれる。
今回は反撃すらされない。
「もう一度!」
身体を捻り、下からの振り上げ。
軽いシミターだからこそ然程威力が落ちる事もない。
これもエーバーハルトの防御を前に余りにも頼り無い。
弾くまでもないと判断されたのか、ダガーで直接受け止められる。
直刀ならばこのまま引っ掛けられて隙を生んでしまうところだが、十分に湾曲したシミターでは問題無い。
また今まで通りに後退出来る。
「仔細任せますので兎に角あの豚を休ませないように攻撃し続けて下さい。無理はせず、封じ込めに徹するように。ただし今のものよりも多少強力に」
無言で頷きナーシャに応え、私はまた前進。
何とも言えぬ難しい命令だが、やるしか無い。
軍隊が命令に絶対遵守の姿勢を貫くのと同じ様に、私もナーシャに何が何でも従う。
それが全てである。
「嗚呼…結婚したら尻に敷かれそうだ…」
嘆きの言葉と共に私は再度エーバーハルトに挑んだ。
右方向からの薙ぎ払い。
受け流される。
そのままの流れで剣を一回転させ、回転斬り。
避けられる。
エーバーハルトの反撃。
退がる。
もう一度斬り込む。
左からの袈裟懸け。
弾かれる。
退く。
追って来ない。
再び突っ込み右からの薙ぎ払い。
低めの下段。
エーバーハルトは余裕を持って大きく回避。
追撃。
クルンとシミターを反転させ、今度は首を狙った上段。
これはしっかり弾かれる。
また退く。
そして再度飛び込む。
力を込めて振り下ろ──
ここで私は気付く。
私が二歩目を踏み出したその瞬間、エーバーハルトが身を屈めた事に。
飛び込んで来るつもりだろう。
避けなければならない。
…避けねば。
だがもう遅い。
もう何をしても遅い。
右手はまだ頭上に。
やっと下まで降り始めたばかり。
左手…
駄目だ、コイツも間に合わない。
では足は…
何か、何か無いのか?
無い。
何も無い。
生き残る術が。
ヤツを止める術が。
──宙に浮かんだこの右足が地に付く時、ヤツは私の目の前でほくそ笑んでいた。
心底嬉しそうな。
嗚呼…楽しいのだろうな、勝利を確信して。
私の表情を見て。
恐らく私の表情は驚愕で固まっているか、あるいは間抜けな顔の何れかであろう。
──左足を上げた時、ヤツは私の右横直ぐそばにまで迫って来ていて耳元で何かを囁く。
「じゃあね」
怒りすら感じる暇は無かった。
ただあるのは虚無感。
そして滲み出る様な後悔。
そして音が消えた。
肌に風を感じた。
静かに、音も無くそれは私の首元に押し当てられた。
冷たい鉄に体温が奪われる様な気がした。
目を閉じた。
きっと一瞬だろう。
直ぐにケリがつく。
死ぬ時はほんの一瞬で、痛いのも一瞬。
直ぐに楽になる。
突き付けられた刃が私の柔らかな首筋の肉を抉り──
「うわああああああああああああああ!!!」
背後から叫び声とも泣き声とも判別のつかぬ喚き声が聴こえた。
無音の闇を突き破る様に、妹の声が。
助けようとしてくれているのだろうか。
それとも間に合わないと悟っての絶望の嘆きだろうか。
背後から彼女の足音。
前者…いや、両方だろう。
嗚呼、ナーシャには悪い事をした。
妹には今まで散々振り回されたが、私も彼女を振り回した。
本当に悪い事をした。
刹那、鈍い音と共に血飛沫が──
…
静かだった。
首元から少し痛みを感じた。
顔面が熱い。
何かが──
そっと目を開けた。
最初に入ってきたのは真っ赤な何か。
血だ。
誰の?
…私ではない。
ならばそれは…
嫌な予感がする。
だが私の予想は外れた。
良くも悪くも外れた。
それは、エーバーハルトの血液でもなければナーシャの血液でもない。
二人の血液だ。
私の右横でエーバーハルトとナーシャの二人が血を流していた。
エーバーハルトは腕から。
ナーシャは肩から。
対して、私はほぼ無傷。
首元から少し血が出ているだけだった。
数秒経った。
しかし誰も動かない。
「ナーシャ…?」