LXIV.残念ながら、兄に叱られる妹よりも妹に叱られる兄の方が多い。
※注釈
・シミター
シャムシールと同義。
しかし何故か一般にはシミターというと小さい片手剣、シャムシールというと長い両手剣を指す模様。
何故でしょうね?
「お、おいっ!?どうした、エーバーハルト!?」
その時、エーバーハルトが突然血を吐いた事で、私は混乱に陥ってしまっていた。
「あれ?何もしてないぞ?」とか「結核でも患っていらしたので?」とか言いたい事は色々あったが、その後直ぐにハッと気付く。
私の野生の勘が、後ろを振り向くように言っている…!
恐る恐る背後を振り返ると、そこにはニヤニヤ笑いながらこちらに手を振るナーシャと少し心配そうにこちらの様子を伺うルイーゼの姿。
ああ…この態度は…
確信した。
疑念が今、確信に変わった。
犯人は…妹だ…!
恐らく、何らかの手段──恐らく、毒物とかそういった類のもの──でエーバーハルトをこの様にしたのだろう。
不味いぞ…毒物なんて、特に不味い…
世間様に顔向け出来ない汚い手段ランキングトップテンの常連さんではないか!
誰が「私ではなく妹が独断でやりました。私は知りませんでした。無関係です」なんて言ったところで信じてくれるものか。
まるで汚い金の存在がバレた国会議員が「金の管理は全て秘書にやらせているので私は知りませんでした」とか「いえ、後援会が…」とか言い訳する様なものではないか。
どう考えても信じてもらえん…
これ、下手したら人生詰みでは…?
このままだと汚い手段を使うクソ野郎と認識され(=社会的に詰む)、手段はともあれエーバーハルトを倒した事になってナーシャと結婚(=人間として詰む)する羽目になる。
絶望しか無い…
嗚呼…世界は残酷だ…
この世に慈悲など無いのか…
「ゴホッゴホッ…!糞ったれ…貴様の下劣な行い…を皆に知らしめてやろうと…思ったのに…声が出ない…ではないか…!ゴホッ…」
「違う、本当に私ではないのだ!恐らくこれは我が妹が勝手に仕出かした事で…!妹の代わりに謝るから、どうか信じてくれ」
エーバーハルトはキッと私を睨み付ける。
「妹…ねえ…もし仮にお前の妹の…仕業だったとしても…ゴホッ…何れにせよそちら側の策略で…ある事に変わりなどないではないか…」
「それは本当にすまない。私の方の不手際だ。だから取り敢えず、この決闘は一旦おあずけにしないか?君が正常な状態でないのは見ていれば誰にだって分かるはずだ、そんな瀕死の相手と闘うのが正しい決闘とは誰も思ってはいないだろうし──」
しかし彼は首を振る。
「──駄目だ。ここには各…国から多くの…人間が招待されている。国の信用を…考慮すればここで…決着を…つける他無いだろうな」
「つまり、確実にどちらかが勝ち、どちらかが負けねばならない、と?」
「そうだ…」
この状況で、私への被害を最小限に抑える手段がある。
それを選ばざるを得ないか…
「ならば私が負けよう」
「正気か…?!」
「勿論正気だ、勝ちは君に譲ろう。ただし、条件がある。代わりと言っては何だが…妹が仕出かした事に関しては内密にして欲しい。決闘中に持病が悪化した…とか、そういう事にして欲しいのだ。その条件で、私は君に大人しく勝ちを譲ろうと思う」
「ふむ…」
彼は少し悩む素振りを見せる。
少なくとも考えてみる余地はある、というぐらいには考慮してもらえているという事か。
しかし、彼は(痛みに引き攣った)笑顔で拒絶の意を示す。
「却下だ」
「何故…?このままでは君の負けは確定だぞ…?」
「ふふふ…ふふ…ゴホッ…今の貴様の…提案のおかげでやっと貴…様の真意が…分かったぞ…礼を言おう、皇太子殿下」
彼はまるでナーシャの様な、邪悪な笑みを浮かべた。
どういう事だかさっぱり分からん…
彼は何が言いたいのか。
「まだ分から…ん様だな、お馬鹿さんめ…良いだろう…教え…てやるよ…」
「いえ、もうこれ以上話さなくても宜しくてよ?」
背後から声。
カツカツカツ、と靴が大理石とぶつかる音をさせて二人の女性──無論、ナーシャってルイーゼだ──がやって来る。
「ナーシャ、何故来た?危ないから離れていなさい」
「いえいえ、ルール上は私がここに入って来ても全く問題無いはずですよ。それに危なくもないですし」
彼女は意味ありげにエーバーハルトのレイピアを指差し、ニタリ笑う。
「そうだな、君がやったのだからな」
「そうです、私がやったのですから」
何の反省の色も無い堂々とした返答だ。
「で、何をしに来た?」
彼女が来たからには何らかの理由があるに違いなかった。
エーバーハルトに最後のトドメを刺しに来た、とかだろうか?
その場合、私は彼女を止めねばならないので、少し身構える。
「そう警戒せずとも良いのに。ただ単にそこで喘いでいる汚い豚のために来てあげただけです。苦しそうだから代わりに私が説明してあげようかと。あ、後ついでに兄上を叱責するためにね」
うん、恐らく後者がメインだな。
「で、ルイーゼは?」
「私は何となくついて来ただけですのでお構いなく」
本当かな…?
「まあ理由の如何に関係無く、それ以上近付くなよ?」
「何故ですか?」
「君がエーバーハルトを殺す可能性もあり得るからだ」
その様な事をするつもりは無かったのに、下衆の勘繰りですよ兄上?とか彼女が言い張るが無視する。
まあ確かに、殺すつもりならば既にそうしているだろう。
しかし用心に越した事は無い。
「まあ…良いでしょう。えーっと、先ずはそこの瀕死の豚が言わんとしていた事ですね。これが言っていた“真意”とはつまり、兄上がこの決闘にどれぐらい重きを置いているか、という事です。兄上…盗み聞いておりましたが先程、保身のために勝ちを譲ろうとしておられましたね…?」
じろり、と黒目が私に向けられる。
「そ、その通りだがそれがどうした?私は祖国の看板の様なものだ、私の不名誉はすなわちプラトークの不名誉でもある。まさか私個人の身勝手な行動で国の民全員の顔に泥を塗る訳にもいくまい。故に泣く泣く勝ちを譲ったというだけだ。それにそもそもは小細工に頼ったナーシャのせいでこうなったのだから、どちらかと言うとナーシャのせいでは?」
少し緊張しているのを悟られぬように虚勢を張り、あまつさえナーシャを批判する。
我ながら大した度胸だ。これはこれで褒められて然るべきかもな。
対するナーシャは、やれやれと肩を竦めてわざとらしい溜め息を吐く。
「兄上、良いですか?…いえ、そうですね。確かにその通りですとも。国の未来を背負う、次代の皇帝としてのご自覚がしっかりとしていらっしゃるのは流石かと思います。大変感服致しました。まさか私やルイーゼを見捨ててまで国の威信を選ぶとは…上に立つ者とは雖も中々出来る事ではありませんよ。もし私が兄上の立場ならば国よりも、可愛い妹とおまけの女を選んでいた事でしょう」
勿論言葉通りの意味ではなく、嫌味である。
「しかしながら兄上、それを鑑みてもやはりその様な提案をすべきではありませんでした。例え本心はそうであったとしても、表面上は勝ちにこだわる姿勢を貫くべきでしたよ。兄上から先にその様な提案をしたせいで、兄上の中でのプライオリティーが発覚してしまいました」
「つまり、エーバーハルトは私の真意を図りかねていたが私がこの様な提案をしてしまった事でそれが明らかになった、と?」
「そういう事です」
「しかしそれに何の問題がある?それが──」
「大ありですっ!おかげで勝負をつける機会を逃したのですから!」
私が未だに事情を図りかねているのに腹を立ててか、ナーシャは思いっ切り怒鳴る。
「な、え?どういう事…?」
「もし兄上があの様な提案をしなければ、先にマゾ豚の方から何かしらの取引を持ちかけてきたはずなのです。それも、兄上にとって有利な条件で!」
「そ、そうなのか…?」
エーバーハルトの方に目を遣ると、ウンウンと頷いていた。
「それなのに兄上が勝利にこだわっていないという事をわざわざ報せる様な真似をするから、もう取引なんて無駄になってしまったのです。この豚、まだ闘うつもりですよ?!どうするんですか!」
「え、でも…」
「そもそも、わざわざ細工を魔法に限定したのは証拠隠滅が容易だったからなのです!豚が騒ごうともシラを切れば問題無かったものを…!」
魔法!?
え、そうなのか?毒ではなく?
「いや、毒物を使っているのかとばかり思ってな…」
「そんな訳ないでしょう?毒物なんて調べられたら直ぐに特定されてしまいます。流石にその様な愚かな真似はしません。愚かな豚ですら気付いているというのに…全く、兄上は…」
「え、エーバーハルトも気付いていたのか…?」
もう一度彼に目を遣ると、また彼はウンウンと頷く。
それも少し憐れみの混じった目でこちらを見ながら。
つまり、ここまでの話を纏めると…私はナーシャの事前の計画をことごとく台無しにしてしまったらしい。
事前に周到に練られ、用意されていた勝利への道を私が大きく迂回し、尚且つ逆走してしまったが故に怒っていらっしゃる様だ。
要するに、私が阿呆であるのが悪い。
それも、アクティブな阿呆であるという事が。
成る程、無能な働き者とは私の事を言うのだな。今納得した。
「それはその…申し訳なかったな…」
「いえ、許しませんから。ちょっとやそっとの謝罪ぐらいでこの罪を償えるなんて思わないで下さいね?」
これは後で色々と要求されるパターンだ…
「しかし、エーバーハルトがまだ闘うつもりだ、とか言ったな?この様な状態では無理ではないか?」
エーバーハルトは口から血を吐いて苦しそうにしていた。
ナーシャがどの様な魔法を仕掛けたかは知らんが、見たところもう戦えそうにないが…
その疑問に応えたのはルイーゼだった。
「ニコライさん、甘いですよ。恐らくまだまだエーバーハルトは動けます。半分くらいは演技であるかと。多分あと二、三歩近付いていたら殺されてましたよ」
「えっ本当…?」
エーバーハルトをちらり見ると、笑いを堪える様な顔をしていた。
ああ、これは事実か…
おお怖。
「だが…ヤツの武器に魔法を仕込んであるのなら大丈夫では?」
「だから甘いんですって。予備の武器の一つや二つ、隠し持ってるに決まってますよ!」
「ルイーゼは賢いなぁ…私の事なんて全てお見通しという訳か。お互いに心が通じ合っている様で嬉しい限りだ」
彼はにこにこと朗らかな笑みを浮かべ、先程までの弱り切った様子が嘘であるかの様にすっくと立ち上がる。
ついでにぽいっと両手のレイピアとパリーイングダガーを投げ捨てる。
パフォーマンスの一環だろう。
「そういう事言うの止めてくれない?不快だわ」
「相変わらず素晴らしい罵りだ…惚れ惚れするね」
彼は内ポケットから一本、ダガーを取り出す。
刃渡りは…うん、確実に銃刀法違反だな。
「ナーシャ、流石にあのダガーには…」
「勿論、あれには何も仕込んでおりません。刺されたら普通に死にますよ?」
失って初めて分かるナーシャの安心感。
何だかんだ言っても、結局私は妹に守られていたのだなぁ…
「兄上、サーベルは棄てて下さい。最早リーチがどうのこうのという段階ではありません。そのサーベルでは火力過多ですし、一発外せばそれで終わりですよ」
「でも、他に何を?」
「これをっ!」
ドレスの裾をまくると、彼女の脚には革のベルトでシミターが括り付けられていた。
それをスッと慣れた様子で抜くと、刃を晒したまま投げて寄越す。
「うおっと、危なっ」
何とかそれを受け止めると、随分と軽かった。
「私の護身用の剣です、どうぞお使い下さい。それならばか弱い乙女──つまり私──用なので軽いですし、扱いやすいでしょう」
なぁにが“か弱い乙女”だ…
いつの間にその様な物騒なものを隠し持っていたのだ…
「大丈夫です、兄上。物理的なサポートは厳しいですが、出来る限り他の面で協力しますから。少なくとも死なせはしません」
少なくとも死にはしない、か…不安しか無いな…
「ナーシャちゃん、私は?」
「あなたは退がってて。最終手段ではあるけど、もしものために狙撃手を伏せてあるから近寄ると流れ弾に当たるわよ」
いや、それ…下手したら私にも当たるのでは?
「分かったわ。では二人ともご武運を」
彼女はそう言うと元いた位置に下がって行く。
「では兄上、目の前の狂った豚野郎と私の声だけに集中して下さいね。私の言う通りに動いて下さい…さあ、結婚前初めての共同作業です!」