LXII.それでも私はやってない。
※注釈
・ゴキカブリ
口にするのもおぞましい“例のあの人”の事。
黒光りする漆黒の外殻をその身に纏い、今日も彼は密かに隠密任務に従事している。
・汚いな流石ゴキカブリ汚い
元ネタは「汚いなさすが忍者きたない」。
分からない?
うーん…そうか、それは仕方ない!ググリませう!
「プラトークの皇太子よ…準備は良いな?」
エーバーハルトは不敵な笑みを浮かべ、右手のレイピアと左手のダガーをばちんっとぶつける。
「勿論だ。心の準備は兎も角、物理的な意味では準備万端だな」
数メートル距離をとってサーベルを構える私は、余裕の表情を浮かべている(様に見せかけている)。
ここがコロシアムか何かであれば喧しい声援が送られてくるところであろうが、声援どころか他に何も聴こえない。
黙って見つめる人々を前に、静かに我々が対峙するのみである。
この決闘のルールは簡単。
勝利条件は相手を殺すか戦闘不能にする事、或いは降参させる事、場外に追いやる事である。
決闘としては非常にシンプルで、尚且つよく見られる一般的なものだ。
何か特別な決まり事等は無く、その勝利条件を満たせるのであれば何でもあり。
極論を言えば、いきなり第三者が乱入してきても問題無い…というものである。
一体全体何故この様なルールにしたのかは不明だが、即座に思い浮かべられる分だけでもいくつでも狡い考えが頭に浮かんでくる。
先述の通り第三者の介入すらもルール上は許容されているので、観客の中に腕の立つ者を潜り込ませておいてそこから弓で援護とか、もっと堂々と十人ぐらいの兵士を舞台に上がらせて加勢させる事も可能だ。
その他にも、他人の手に頼らずとも懐に銃や小型の弩等の飛び道具を忍ばせておいて遠距離から安全に攻撃してやっても良いし、小瓶に薬品を入れておいて硫酸攻撃ィィヒャッホーウ!!!…をしても良いだろう。
それらも同様にルール上は全く問題無いのだから。
…しかし、それをしようにも出来ない事情がある。
仮にも私は一国の皇太子。
北の覇者たるプラトーク帝国の皇太子なのである。
故に、勝つにせよ負けるにせよ相応の態度というものがある。
もし仮に情けなく降伏などしようものなら、その後も一生恥が我が身に纏わり付いてくる事だろうし、汚い手を使って勝っても皆から軽蔑されるだけであろう。
そもそもこの様にルールが穴だらけのガバガバ状態なのは、この様な事情があるために誰も汚い手に頼ろうとはせず、ガバガバルールでもモラルがある内は問題無いからである。
恥も外聞も棄てて、それでも勝ちたいのであればそういった手段に頼れば良いが、その後に待つのは社会的な死のみ…という訳だ。
きちんと最初からルールとして縛ってくれているのならまだしも、この様に半端に縛るルールというのは…どうにも性格が悪い。
カリギュラ効果を逆手に取ったルールという事なのか、それとも高位の者同士が闘う事が多いためなのか、はたまた何も考えられていないのか…
兎も角、この決闘に於いて私は正々堂々と戦い、正々堂々と丁度良い塩梅で負けるつもりである。
それが保身のためにはベストの選択なのだから。
名誉と物理的な我が身を守るにはこれ以上に良い手は無い。
残念ながらルイーゼまでをも守る事は出来ないが。
私の狙いは場外、ただそれのみ。
ついうっかり場外になっちゃったテヘペロ☆作戦である。
しかしそのためにはある程度エーバーハルトの攻撃を耐えねばならない。
直ぐに場外では私の評判がガタ落ちになってしまう。
「では、私から行くぞ、プラトークの皇太子よ。先ずは軽く肩慣らしといこうではないか。この程度でへばってくれるなよ?」
子鹿が跳ねる様に軽々とステップを踏み、彼は一気に間合いを詰める。
シュッと小さな風を切る音がして、レイピアが迫って来る。
「うわっ…と」
余りにも鋭い突きに、私はついつい一歩後ずさり。
上体を大きく逸らしてみっともない回避。
「何だ、その格好は?プラトークの武人はその様な情けない避け方をするのかな?それとも…皇太子殿下特有のものかな?」
安い挑発である。
私を怒らせて、さっさと飛び込ませようという魂胆か。
「いやあ、なに、気にしないでくれ給え。君の顔面が高速で迫って来るものだからついつい顔を背けてしまったのだよ。いやあ心臓に悪いな、男前と戦うのは。胸がときめいてしまったぞ」
うーん…苦しい言い訳。
まだギックリ腰とか言った方がマシだったか?
「ふふふ…それは心配だな。今度はもっと近くで私の顔を眺める事となるぞ?」
彼はレイピアをくるりと一回転させ、構える。
現在、彼我の間合いは三メートル程度。
突如、彼が動いた。
先程とは対照的に、荒々しい踏み込み。
力任せに真っ直ぐ突っ込んで来る。
回避…いかん、避けきれん…!
気付けばもう既に目前に切っ先が迫っていた。
レイピアは細いため、風圧は然程感じない。
咄嗟にサーベルを前に出し、受け止める。
否、受け止めたはずが…弾かれる。
辛うじてその軌道を横にずらすも、左頬を掠める様にして刃がぎりぎりのところまで来ていた。
一体、どうやって?
彼の刺突を、私は横方向からサーベルで割り込む形で防いだはずだ。
弾かれる事など本来あり得ない。
しかし、現に弾かれてしまった。
何故だ?
そしてその様な事を考えている間にも彼の攻撃は続く。
刺突の利点は、連撃が得意であるという事。
斬撃では、振るった後にどうしても次に繋げるまでに時間がかかってしまうが、刺突はその限りではない。
突きの後にもう一度引いてやれば第二撃の準備完了である。
遥かに短い時間で以って続く第二撃に移れるのだ。
エーバーハルトも勿論この刺突剣の利点を利用してくる。
この初撃を何とか防いだと思ったのも束の間、直ぐに剣は引っ込む。
そして息を吐く間も無く第二撃だ。
第二撃は初撃よりも位置が低い。
初撃は顔面を狙った高めの一撃だったが、それは私の意識をそちらに向けるための誘導であった様だ。
初撃を防いだ事によって空いた下腹部めがけてピンポイントにひと突き。
この突きも避ける事は叶わない。
というのも、下腹部というのは最も咄嗟に動かす事が難しい部位だからである。
腕や脚といったものなら簡単に動かす事が出来るのは当たり前だし、他にも上半身ならば腰を使って逸らす事で回避が出来るし、姿勢を傾ければ素早く動かせる。
一方で下腹部というのは何をするにしても簡単には動かせない。
人間の動きというのはどれも下腹部を中心としてのものだからである。
故に、エーバーハルトのこの第二撃は確実に当てる、という点ではベストの選択だった。
だが私にとって幸いだったのは、サーベルが重いがために無意識の内に腕が下がっていた、という事である。
普通ならもう少し高めに掲げられていたはずだったサーベルは、その様な理由によって本来あるべき位置よりも低かった。
そしてそれが幸いした。
防衛本能の赴くままにぴょんと後ろに飛び退き、がむしゃらに剣を振り下ろす。
すると、キンッと鋭い音がして、エーバーハルトのレイピアと私はサーベルがぶつかり合うのを感じた。
直後、彼のレイピアが床──私のつま先より少し前の辺り──を掠めていく。
この振り下ろしは結果的にかなりの速度が出ていたので、上手くいけば彼のレイピアを力任せに折る事も可能だったのだが、インパクトの瞬間に下方向に逃げられ、力を受け流されてしまったためにそれは叶わなかった。
彼のレイピアが床にまで達したのもそのためで、決して私によるものではない。
上手い具合にいなされてしまった様だ。
しかし、それによって彼の能力の一端を知る事が出来た。
彼は突きの最中にもかなり自由に、横方向にも進路を変えられるという事だ。
つまり、野球の変化球の様な攻撃をしてくる事も大いにあり得る。
事前に警戒するだけの価値はあるだろう。
また、それによって分かった事がある。
すなわち、初撃に於いて起こった事の正体だ。
初撃に於いては彼に剣を弾き返され、何が起こったのかと驚いたものだが、それの正体もこの横方向の進路変更だった訳である。
高速で私の剣に向かってぶつける事によって弾き返した、というのがタネだ。
…まあ、トリックのタネが分かったところで、それを打ち破る方法などありはしないので特にどうという訳でもないのだが。
だが少なくとも、重要な局面での弾き返しに気を付ける事は出来るし、当初予定していた武器破壊も受け流されるせいで成功の見込みは薄い、という事実が分かった。
それだけでも良しとしよう。
しかしそうなると折角サーベルを重たいものにしたのに、それが無意味になってしまった。
それどころか自分から不利な要素を生み出してしまった事になる。
エーバーハルトのレイピアを折る事が恐らく非常に困難である以上、剣の重量はこの状況ではマイナスにしか働かないだろう。
更に、彼の連撃がここで終わるとも思えない。
第二撃をやり過ごそうとも、第三、第四、と次が襲ってくる事は目に見えていた。
それを防ぐにはこちらから打って出る他無いが、それこそ罠に突っ込む様なものだ。
少しでも剣を振りかぶれば、その隙に腹を刺し貫かれてゲームオーバー。
この二突きで確信を持てた。彼が本気で私を殺しにきている、と。
そして第三撃。
第三撃はそれまでよりも少し余裕を持って対処出来た。
第二撃で上手く彼の剣を地面すれすれまで追いやる事が出来たため、その分若干の時間的余裕が存在したのだ。
第三撃は完全なる牽制であった様で、胴体ど真ん中めがけたストレート。
易々と…とまではいかないが、これは流石に何とかなる。
続く第四撃は私の右肩狙い。
右肩がやられるとほぼ敗北必至であるから、これは肩を逸らして避ける。
次は第五撃…と、私が次に備えていたその一方で、エーバーハルトはそこで攻撃を止める。
トンッと軽いバックステップで二メートル程距離を置いた。
少なくとも十連撃くらいは覚悟していただけに、意外な行動であった。
ここで早々と切り上げるとは…何か企みがあるに違いない。
「どうした?」
「…」
彼は黙ったままであった。
しかし、私を睨みつけるその目は鋭い。
「おい、聞いているか?」
そこで彼は口を開いた。
「貴様…見損なったぞ…」
その声からは激しい怒りの感情が読み取れた。
何かが気に障ったらしい。
「見損なった、だと?笑わせるな、最初から私の事などちっとも評価していなかったであろう?」
ククククク…と彼は狂人がする様な不気味な笑い声を上げる。
「確かに…確かにその通りだ、プラトークの皇太子よ…!だが、それでも今までは貴殿の事を汚い蛆虫程度には認識していた…」
「ほう…で、今は?」
「お前を蛆虫呼ばわりしては蛆虫に失礼だ。そうだな…ミジンコ…ダニ…いや…もっとおぞましいもの…そうだ、ゴキカブリだっ!!」
ゴ…ゴキカブリだとっ…?
な、何とも心外な…!
蛆虫ならば、まだ見様によっては可愛く見えない事もない(?)虫だが、ゴキカブリとなるともう話は別だ。
他国の皇太子に対してG扱いとは、無礼千万である。
「私が何をしたと言うのだ…」
「フンッ…惚けても無駄だぞ。お前が勝つためにどの様な汚い手を使ったか、ここでバラしてやるっ!」
彼は血走った目で、フハハハハと高笑いする。
何だかやけにチョイ役出演の悪者っぽい。
「何の事だ?本当に何も知らないのだ…身に覚えが無い」
「白々しい…そうまでしてシラを切るか。そうか、ならば良いだろう…ここで証明してやる」
「おい、待て!本当に何も──っておい?!」
私が言い終わらぬ間に、エーバーハルトは胸を押さえ、口からどす黒い血を吐く。
そして、苦しげな表情で地面にべタンと崩れ落ちた。
「ぐぅぅぅ…汚いな流石ゴキカブリ汚い…ここまでするとは…」
「えっ、ちょっと!?えっ?!わ、私じゃないぞ!?ち、違う!私じゃない、私じゃないのだァァァァ!!」