LIX.全ては決戦の刻。
その二人の花嫁が現れた時、人々は息を呑んだ。
時間がぴたりと止まったかの様に静寂だけがその空間を支配し、人々の目はただ一点へと向けられた。
老若男女の違い無く、全ての人が。
ふわふわの絨毯の上を、彼女達は音も無く歩いた。
右足と右足。
左足と左足。
彼女達はまるで一心同体であるかの様に同じ動きをしていた。
人々には分からなかった。
あの少女は何者なのか、と。
人々には分からなかった。
ルイーゼ皇女殿下の隣を歩く、あの少女は誰か。
何故彼女はそこにいるのだろう。
何故彼女は共に歩いているのだろう。
何故彼女は同じ様にウェディングドレスを着ているのだろう。
これは我等が皇女殿下の結婚式ではなかったか?
何かの間違いか?
…いや、しかし彼等は確かにその様に言われてそこに招待されていた。
では、何故花嫁が二人?
…彼女は誰だ?
招待客の大半は、この様に困惑する羽目になった。
彼等の大半はフォーアツァイト帝国の貴族で、皆自分達の国の皇女の結婚を観に来たのである。
それなのに何故そこに見知らぬ少女が同じ花嫁の姿をして立っているのか?
結婚式会場は、古来よりフォーアツァイトの皇族達が使ってきたものである。
その名も、契約宮。
他国に嫁入りするなどの例外を除き、基本的に皇族はここで式を挙げねばならない決まり。
逆に、皇族以外はここで式を挙げてはならない。
故にここにルイーゼ以外の花嫁が存在してはならないのである。
しかし彼等の目の前には皇族ではない花嫁がいる。
彼女は一体何者か?
それを許したルイーゼ皇女殿下は一体何をお考えか、と。
奥の一段高くなっている所にまで彼女達は辿り着くと、自分達をじっと見つめる群衆の方向を振り返る。
それによって、人々は花嫁二人の顔をまじまじと眺める事となった。
「美しい…」
誰かが呟いた。
それは、どちらに向けて発された言葉であったろう。
自分達の皇女へ向けられたものか、あるいは素性も知れぬもう一人の少女に向けられたものか。
もしくは両方か。
その言葉を皮切りに彼等は沈黙を破り、それぞれで話し合い始めた。
今まで溜め込んでいたものを吐き出すかの如く、彼等は口々にその謎の少女について自分なりの推理を披露し合った。
「何だ、殿下のお側に立っているあの女性は?」
「知りませぬな…見かけた事もありません」
「余興か何かでは?もしや、彼女は歌姫ではありませぬかな?ならば説明もつくと私は思うのだが」
「いいや、あれはその様な下賤の者には見えぬな。あの佇まいに仕草、殿下にも劣ってはおらなんだ。どこぞの上流階級の娘に違いない」
「私もそう思いますわ。あの様な優雅な振る舞いは一朝一夕で身につくものではございません。芸者の類ではないと私は思います」
「ほお…社交界の花形であられる伯爵夫人がそう仰られるとなると、そうに違いありませぬな。では、どこの貴族の娘なのだろう?」
「私は帝国内の全ての貴族を把握しておりますが、あの様な少女が存在するなどという事は…」
「では、国外か?」
「国外?まさか、国外の者というのはあるまい」
フォーアツァイト帝国の皇女ともあろう者が、自らの結婚式に国外の者に花嫁姿をさせ隣に立たせるなどあり得ないと彼等は思ったのだ。
彼等の知るルイーゼという女性は、その様なおふざけを好む様な人物ではなかった。
「ヴュルテンベルク公、何かご存知ないか?」
遂には、エーバーハルトの父親であるヴュルテンベルク公にまで話が回ってきた。
彼は最前列にどかんと座り、黙って花嫁をただひたすら見つめていたのである。
「私も知らぬな…」
彼はそう、威厳ある声で答えた。
関係者である彼も知らぬとなると、いよいよさっぱり分からなくなってくる。
「もしや、先代の隠し子では…?」
終いにはこの様な下衆の勘繰りまで出てくる始末。
しかし、これに一定の信憑性があるのだからまた性質が悪い。
フォーアツァイトの先代皇帝は色好みで知られ、本人も認知していない様な子供がいる可能性も否定は出来ない。
なればこそ、その様な突拍子も無い主張にも人々は成る程、と耳を傾けるのである。
だが、その様な混乱にも遂に終止符が打たれる。
それはある男の一言がきっかけであった。
「私には彼女に見覚えがあるのですが…もしや、プラトークの皇女では?」
皆がその一言に、一斉に反応する。
同時に後ろを振り向くその様は、一種のホラーですらある。
「それは…本当ですかな?」
ナーシャの正体を当ててみせたのは、島国であるメーヴェから代表として招待された外交官であった。
「私は以前、プラトーク帝国の式典に参列した事がございまして…その際に遠くからではありますが、アナスタシア皇女殿下のご尊顔を拝見させて頂く機会がございました。五年程前の事ですし、当時はまだ殿下も小さな子供であられましたが、雰囲気はかなり似ておられますな」
「五年前…?それはどこまで信じて良いのやら。あの歳頃では五年もあればかなり成長なさるでしょうに」
「しかし、背格好もそれぐらいでは?聞き及ぶ限りではアナスタシア皇女殿下は十六だったか十七だったか、それぐらいの年齢であったはず」
「何よりもプラトークの皇太子が滞在しておられるのであろう?実はアナスタシア皇女も付いて来られたのでは?ならばあり得ぬ話でもない」
「ああ、分かったぞ。つまり、彼女は兄をああして見守ろうというのだな?」
「そうに違いない。噂では、プラトークの兄妹は随分と仲が良いと聞くし、兄を見守るべくここにいるのだろう。あのウェディングドレスに関してはよく分からんがな」
こうして、彼等の憶測もかなり正確なものへとなっていく。
兄の決闘を見守るべくそこにいるのであろう、と。
その時には誰も、彼女が兄と結婚するためにそこにいるとは思いもしなかったが。
「随分と健気じゃのう。ヴュルテンベルク公には悪いが、儂はアナスタシア皇女殿下のためにもニコライ皇太子殿下を応援したくなってきたぞ」
「ははは、確かに。あの女神の様な姿を見てしまっては。私も息子の嫁にどうかと真面目に考えたいぐらいですな」
とまあ、斯くして何も知らない彼等は見事にころりとナーシャの色香(と言うには余り扇情的な身体つきではないが)にやられてしまったのであった。
そしてこれはナーシャにとっても都合が良い。
先程から聞き耳を立てていたナーシャは、心中でほくそ笑む。
かなりの距離が離れているというのに、彼女は驚異的な聴力を以ってして彼等の会話の大半を把握していた。
兄の声や足音を遠くからでも拾い上げられるように、と彼女が鍛えてきた聴力である。
「こうも褒められると、何だか悪い気がしないわね」
隣に立つルイーゼに向け、彼女は話し掛けた。
「本当に聴き取れるの?」
ルイーゼはナーシャの身体的スペックの高さに驚く他無い。
「ええ。どうやら、勝手に勘違いして私を応援してくれるそうよ。ふふふ、観客を味方につけるのは関係無い様に見えて大事な事だから…良い滑り出しだと言えるかもね」
彼女は無表情に努めつつ、そう話す口元はニタリと笑っている様に見えた。
悲しい哉、これが現実というものである。
皆が天使だ、とか女神だ、とか絶賛崇めている最中であるこの少女は残念ながらどちらかというと魔女、あるいは悪魔とも言うべき腹黒さであった。
隣で見ているルイーゼとしては、内面って大事だなぁ…と、しみじみ思うばかりである。
「それは良かった。で、私に関しては何か言ってる?」
そして、それでもやはり自分に対する評価が気になるルイーゼは、そんな事を訊いてしまうのであった。
「う〜ん…どいつもこいつも私の事ばかり話しているわね。あなたの事は誰も話してないわ」
「そ、そう…」
ちょっと悲しい気分になるルイーゼであった。
そこへ、司会進行役らしき男が声を張り上げる。
「皆様、ご静粛に!皇帝陛下がご入場されます」
彼がそう言うと同時に、場内はまたもや静まり返る。
そうして待つ事約一分。
まだかまだかと待つ人々の前に、ヴィルヘルムは現れた。
式典用の、黒を基調とした上品な礼服。
しかしながら細部にまで細かく金色の糸で刺繍が施されており、地味ながら印象など全く与えない。
それどころか、それを着たヴィルヘルムの威厳たるや、ニコライをして思わず頭を下げてしまった程である。
まさに、王者の貫禄。
立派な髭に、渋い顔立ち。
皇帝陛下、と呼ぶに相応しい。
胸やら肩やらにびっしりと付けられた勲章は、彼が絨毯を踏みしめる度にじゃりんじゃりんと重々しい音を奏でる。
いささか付け過ぎだろう、とも思われるが、ここまで多過ぎると逆に思い切りが良い。
その半分近くは、歴代のフォーアツァイト帝国の皇帝ならば誰でも即位と同時に与えられる代物で、残り半分は臣民感謝章(臣民の懇願によって皇帝に献上された…という建前で与えられる)とか、柏付き十字英雄勲章(本来ならば戦功著しい軍人に与えられるものだが、ヴィルヘルムが軍事訓練に興味本位に参加した際に軍部より献上)とか、連星歩兵章(ヴィルヘルムが国境の守備兵を視察した際に、現地の兵士達の感謝の気持ちとして、という名目で献上された)といったものである。
こんな調子で勲章が増えていくものだから、この様な数になってしまうのも当然であった。
彼の姿が見えるや否や、示し合わせたかの様に皆一斉に起立。
彼等の偉大なる皇帝を迎え入れる。
そして彼に追従する形で、少し後ろをエーバーハルトとニコライが歩く。
二人とも決闘のために動きやすいよう軍服姿である。
三人が舞台にまで辿り着き、ヴィルヘルムが右手を挙げると、人々はこれまた同時に着席する。
軍隊の様な揃い具合である。
契約宮は、本来は結婚式限定などではなく、冠婚葬祭、はたまた演劇に至るまで多用途に利用されるべく建てられたものである。
しかし時代を追うごとにそれら専用の他の建物ができていき、いつからか結婚式のみに使用されるようになっていった。
その様な経緯から、契約宮は様々な用途に適用出来るようにと広く設計されており、今回のニコライとエーバーハルトの決闘もここで行う事が可能となったのであった。
壇上は広く、決闘にも十分足る。
多少広過ぎる気がしないでもないが、狭過ぎるよりはそちらの方が良いというもの。
大は小を兼ねるのである。
ヴィルヘルムは一通り辺りを見回すと、少し間を置いて話し始める。
「皆も存じておる事かとは思うが、本来ならばここは我が妹ルイーゼと、ヴュルテンベルク公のご子息であるエーバーハルトの結婚式となるはずであった。しかしこの度、プラトーク帝国皇太子であられるニコライ殿下がルイーゼに求婚し、我が妹もどうやらこちらの方に心を奪われておるらしい。本当ならばそのままエーバーハルトと結婚させるところではあるのだが、相手が相手であるし、本人の意思を無視するのも兄として躊躇われる。故に、ヴュルテンベルク公には大変申し訳ないが、此度は婿をどちらにするか決めるべく決闘を行う次第となった。本来ならば一国の皇太子がそう簡単に自らの妻を決めて良いものでもないが、ニコライ殿下のお父君は既にお亡くなりになられており、これもまた辛うじて許容範囲であろうという判断だ。来賓の皆にはご理解の程宜しく頼む」
私が求婚したとか、所々微妙に違うが公式的にはそういう下りとなっている。
伝統を重んじるフォーアツァイトに於いてこの様な事が許されてしまったのも正直意外ではあったが、これも同盟相手であるプラトークとの関係強化を思えばヴィルヘルムとしても悪くない一手なのであろう。
そこまで言うと、彼は振り返ってナーシャの方を向く。
「ところで、アナスタシア殿下。何故その様な格好をなされておいでで?」
やはりそこのところは気にならずにいられぬらしい。
「兄上の応援のためです、お気になさらず」
ナーシャはそうとだけ言うと、にこり愛想笑いをする。
そうか、とヴィルヘルムはいまいち腑に落ちない表情であるがそこで引き退る。
「勝負の行方については、そこの皆とこの私が見届けさせてもらう。異論無いな?」
「「ええ」」
ニコライとエーバーハルトは同時に同じ返事を返す。
それに満足げに頷くと、ヴィルヘルムは婿候補二人に向け他の人にも聴こえるように大声で話し掛ける。
「国内有力貴族であるエーバーハルト、他国の皇太子…事実上の皇帝であるニコライ殿。どちらでも皇帝一族にとっては不足の無い相手だ、存分に闘うが良い。ただ、兄としてはより想いの強い者が勝つ事を祈るばかりである」
「他国の人間である私にこの様な機会を与えて頂き、感謝します陛下。私なりにベストを尽くしましょう」
ニコライが同様に大声でそう応える。
負けじとエーバーハルトがその後に続く。
「プラトークの貴族として恥じる事無きよう努めます。これも一種の試練。愛は障壁が多い程に熱く燃えるものです」
愛だとか小っ恥ずかしい事を語った彼は、臆す事無くヴィルヘルムをじっと見つめる。
一方通行ではあるが、彼のルイーゼへの愛とやらは本人からすれば大真面目なのである。
「良かろう、両人とも励まれよ」
少し笑いを堪えながら、ヴィルヘルムは特別に用意されている豪華な椅子の元へと向かい、どかっと腰掛ける。
そして壇上に残されたのは二人の婿と二人の花嫁であった。