VI.修羅場の季節がやって来ました。
※注釈
・人は石垣
一人一人はか弱い人間だが、集まれば立派な肉壁になる、という有り難いお言葉。
「陛下、おはようございます」
「うむ」
通りすがりの禿げ散らかしたおっさんがこちらを見付けて、丁寧にお辞儀する。
私もそれに愛想良く応える。
どうやら貴族のおっさん達にも私を“陛下”と呼ぶ連中が徐々に増えてきている様で、大変喜ばしい限りだ。
まあこの調子なら何れ確実に皇帝になるだろうから皆がそう呼ぶ様になるのも時間の問題ではあるが、早いに越した事はない。
父を殺害してから今日で早一週間。
もうそんなに経ったのか、と驚くばかりだ。
昼間は仕事に追われ、夜間は妹に追われ、息を吐く暇もあまり無かったからか、恐ろしく時間が過ぎていくのが早く感じられる。
そして驚くべき事に、私の童貞は未だ健在だ。
早期にソフィア医師というボディーガード要員を見つけ出せた事が幸いした。
妹が使用人連中を味方に付け、外堀を埋めていく中、私とてそれをただ指を咥えて眺めていた訳ではない。
使用人が敵側に回ったとしても、まだそこら中に貴族のおっさん共がいるではないか!
斯くして私は、将来的に昇進させてあげるよ〜だとか、重用してあげるよ〜だとか甘い蜜でおっさん共を誘惑し、彼等を味方にする事が出来たのだ。
まあ、人に言う事を聞かせるのに一番手っ取り早いのはお札でほっぺをペチペチと叩いてやる事なのだ。
富と権力に物を言わせての『味方がいないならおっさんを買収すれば良いじゃない作戦』は無事成功。
おかげさまで日中、貴族のおっさんに囲まれて仕事をしている間は妹も私に手を出せない。
妹の『外堀埋め埋め作戦』に対して私はおっさんの壁で対抗した、という事だ。
人は石垣って、こういう意味だったんだね!
現在、買収は完全に完了し、作戦は第二フェーズ『おっさんの壁作戦』へと移行した。
しかしこの『おっさんの壁作戦』には、大きな弱点がある。
それは、日中は無類の防御力を発揮するものの、業務終了後は効果を発揮しないという事。
そのせいで私は夜間に妹という血に飢えた獰猛な狼に追い回される羽目になった。
我が妹は猛禽類の如く夜目が効くし、飢えた狼の様に嗅覚(ただし、私の匂いに限る)も鋭い。
毎晩私は妹の影に怯え、びくびくと震えていたのだ。
しかし、そこに天使が舞い降りた。
彼女の名はソフィア・アレクスナラヴナ。
ソフィア医師は、そんな肉食獣が跳梁跋扈するジェノサイドムーンの夜に於ける一筋の光明だ。
一人新しい医者を雇い、その分彼女は後宮と私専属、という事にした。
勿論最優先は将来の皇帝である私である事は言うべきにもあらず。
これにより夜間はソフィア医師をボディーガードとして傍に置いておく事に成功。
風呂への妹の侵入も、ソフィア医師によって未然に防がれている。
お陰で私は今日も後顧の憂い無く務めを果たせるのだ。
そして私は今、執務室に向かっている最中。
執務室は皇帝の居室の隣に位置するため、本来ならば皇帝は即座にお仕事に取り掛かれるのだが、私は依然皇太子用の部屋を使用しているのでそこまで行くのに多少歩かねばならない。
何故供の一人も連れずに歩いているかというと、残念ながら私のお付きの侍女達も全員妹の支配下に置かれてしまっているからだ。
風呂場に妹が乱入した何時ぞやの事件を覚えておられるだろうか?
出入り口に使用人が侍っていたというのに何故妹が入って来れたのか、と不思議に思い、後日調べてみたところ、使用人が妹に協力して浴室への侵入を許したのだという事実が発覚した。
大変遺憾だ。
まさか私の周囲の人間にあの時点でもう既に妹の影響力が及んでいたとは…!
もう私が信じられるのは実利関係で結ばれた貴族のおっさんと、善に生きる人であるソフィア医師だけだ。
取り敢えず、私が見ていぬうちに妹がソフィア医師を懐柔する事を防ぐため「次期皇帝にもしもの事があってはいけないから」という名目で彼女には日中も執務室にて待機させる事にした。
これでソフィア医師までもが敵に回る事は予防出来たはずなのだが…
残念ながらそれによって、別の問題が発生してしまったのだ。
そしてそれは現に今、私の執務室にて進行中だ。
嗚呼…少々来るのが遅かったか…
執務室の前まで来ればドア越しに、現在その向こうがどの様な状況なのかは想像出来る。
一言で言おう…混沌だ…
ドアをノックもせずに開けると、我が妹がソフィア医師に食ってかかる最中だった。
「ソフィア、何度も言わせないで!兄上から直ぐに離れなさい!この薄汚い泥棒猫めっ!」
「殿下、誤解です。私はその様な…」
「いつまでシラを切り通すつもり?!いつもいつも、私が兄上と夫婦の営みを楽しもうとするのを邪魔して!あまつさえ昼間の間も執務室でずーっと兄上と一緒だなんて!若い男女がずっと一緒にいて、何も無い訳がないでしょう!?」
「そんな、滅相もございません!私如きの身分の者が、その様な分不相応な事を…」
「よく分かっているじゃない!だから兄上から今直ぐ離れなさい、と再三忠告しているの!!」
「しかし、私と陛下の間にはその様な…」
「まだ反抗するか!」
そう、お分かり頂けただろうか?
妹が…私とソフィア医師の関係に嫉妬しているのだ…
それを可愛いとか思えたならばまだ良かったのだが、残念ながら私にはそうは思えないのだ。
そう、これっぽっちも。
ミリどころかナノメートル単位でもそんな感情は湧かん。
しかし、だからと言って私があの中に割って入って、ナーシャを鉄拳制裁っ!!
…とかいう展開は不可能に近い。
残念だが私の対妹用決戦兵器は未だ行方不明で…と言うか、そもそもその様なものが存在するのかすら不明な状態で、私に出来る事は…何も無い!
故に、ソフィア先生タスケテー、と情け無く彼女に頼る以外にないのだ。
頑張れソフィア医師!
私は当事者だが陰ながら応援しているぞ!
…文字通り、ドアの陰から!
「殿下、それは陛下にもしもの事があってはならぬから、という…」
「“もしもの事”?!例えばあなたが兄上を私から奪うとか?!そんな事許しませんからね!」
「いえ、ですから…陛下からのご命令ですし、私としては何とも…」
「兄上のご命令?あなたが兄上を誘惑してそうさせたのでしょう!?」
「誘惑なんてとんでもない!そういった事を陛下にした事は一切ありませんし…」
「あなたの存在自体が兄上にとっては誘惑なの!あなた、もしかして気付いてないの?あなたの身体中から漂うそのビッチオーラ!愛に飢えている可哀想な兄上ならば、つい泣く泣くそれに服従してしまったとしても仕方無いわ…!」
「ビ、ビッチオーラ…!?」
「嗚呼、お可哀想に…!今までは兄上に私は何もしてあげられなかったから…これからは私が真の愛を教えて差し上げなければ!」
はあ…どうすれば良いのやら。
妹はブレーキのイカれた暴走列車の如く只今絶賛暴走中…
勿論私とソフィア医師はやましい関係などではないのだが、妹からすると私が彼女を気に入って傍に置いている様に見えるのだろう。
君が私を追い掛け回すのを止めればソフィア先生も自動的に私の下から離れるよ、と我が妹に優しく教えてやりたいものだ。
取り敢えず、私が入って来た事にすら気付いてらっしゃらないご様子なので御二方に声を掛ける事とする。
「ナーシャ、ソフィア先生に突っかかるのは止めなさい」
刺激せぬよう優しく、しかし厳しい口調で妹に話しかける。
「あ、兄上!」
私に気付いた妹は、さっきまでの不機嫌な様子は何処へやらニコニコと笑顔を浮かべる。
この切り替えの早さ…
ソフィア医師も、助かった、と言わんばかりの表情でこちらをちらりと見る。
流石の彼女とて無敵ではない。
それなりに彼女のHPも減っているのだ。
「先程から何を騒いでおるのだ。私は今から仕事だ。出て行ってもらおうか?」
「兄上、私も兄上のお仕事をお手伝いしたく存じます。少しでも兄上のお役に立ちたいのです」
この言葉、何度聞いた事か。
「駄目だ。次期皇帝である私にしか出来ぬ事も多い。邪魔にならぬよう退いてなさい」
「では何故私は駄目で、この女は問題無いのです?せめて、ソフィアも連れて行かせて下さい!」
「彼女は緊急の事態に備えて侍っておるのだ。連れて行くなど許さんぞ」
妹の笑顔がどんどん固まっていく。
不味い…非常に不味いが…他にどうせよと?
「兄上は…あの尻軽女に騙されておられるのです…!」
「は?」
彼女は持ち前の瞬発力で私の懐に瞬時に飛び込むと、胸倉を掴む。
「兄上…あの様なビッチに騙されないで下さい…あいつが誘惑してこようともそれは罠です!惑わされてはなりません!」
流石に今の物言いはソフィア医師に失礼過ぎる。
ここは兄として厳格な態度で応じなければ。
彼女の手を振り払い、私は冷たく告げる。
「ナーシャ、もう一度言うぞ。ここから出て行きなさい。今直ぐにだ!」
じわっと彼女の目に涙が溜まる。
泣かせるつもりはなかったのだが…
「兄上の浮気者っ!」
刹那、ぱちんっという音と共に頰に痛みが走る。
び、ビンタされた…!
彼女は、うわーん、と泣きながら走り去って行く。
泣きたいのは私の方だというのに。
これではまるで私が悪者みたいではないか。
幸い、まだ朝早い時間帯のため、私達の他に人がいなかったから良かったものの…
泣きながら走る彼女の姿は、確実に廊下で何人かに目撃されるだろう。
変な噂が広まらなければ良いのだが…
うん、間違いなく広まるな…(確信)
後ろを振り返ると、ソフィア医師がこちらを何か言いたげに見ている。
彼女とも話し合わねばならないな。
「先生、妹の事なのだがやはり…」
「失礼します」
声を掛けたところで、タイミング悪く役人が入って来た。
どうやら、そろそろ仕事の時間の様だ。
仕方が無い。周りの人間に痴話喧嘩の内容を聞かせる訳にもいかんし、今は一先ず保留だ。
私は彼女に手招きすると、小声で口早に告げる。
「この件に関しては、後で話し合えるか?」
「かしこまりました」