XLVIII.ヴィルヘルムといっしょ。
※注釈
・ジャム
ロ○アでは紅茶を、ジャムと一緒に飲む習慣があります。
これは、本作に於けるプラトークにも当てはまり、ニコライにとっての紅茶とは、ジャムがセットなのです。
・ご冗談でしょう、ファインマンさん
ノーベル賞受賞者の物理学者、ファインマン氏の自伝。
wikiでは回顧録だと書かれていますが、まあこの際どちらでも良いでしょう。
彼はマンハッタン計画 (知らない方のために説明すると、アメリカの原爆研究の事)に携わった人間の一人でして、それらにも触れつつ、といった感じの、日本人目線でも興味深い本です。
筆者も十年くらい前に実際に一度読んでみた事がありますが、広く読まれているものなだけあって、中々いけますよ。
自伝、などと聴くと及び腰になってしまうかもしれませんが、機会があれば食わず嫌いせずに是非とも読んでみるのも悪くないかもしれません。
筆者は物語よりも論説文の方が好き、という少し変わった人間ですので、美味しく頂けました。
・ロゼッタストーン
古代エジプトの文字解読の契機となった石。
ずっと密約の話し合いが行われていた会議室らしき部屋にまで向かうと、目の下に明らかに不健康そうな隈のあるプラトークとフォーアツァイト両国の外交官と、ヴィルヘルムが私を出迎える。
流石にヴィルヘルムは徹夜とまではいかなかった様で、一応は隈などは無い。
しかし、それでも端々から疲労の色が見える。
「おはようございます、ヴィルヘルム殿。ほら、ナディアも」
手を繋ぐナディアに挨拶するように言ったのを見て、彼は笑う。
「ははは、まるで父親だな。安心召されよ、貴殿の婚約者のレディーとはもう今朝既に挨拶済みだからな」
ああ、それもそうか。
「おじさん、じゃあいちおー、もういっかいね?おはよー!」
「ああ、おはよう」
にこやかにナディアに笑顔を見せる彼の様子から察するに、随分とナディアと打ち解けたらしい。
それ程までにナディアは大事な話し合いの場に乱入していたのか…
「どうやらナディアが何度もここに来ていた様で…ご迷惑をお掛けしませんでしたか?」
「迷惑など、とんでもない!私には息子はいるのだが、娘が一人もいなくてね。このお嬢さんなら可愛らしくて逆に大歓迎だ。ニコライ殿の婚約者でさえなければ、息子と結婚させたいぐらいなのだが」
彼は、がはははと豪快に笑うと、私に席を勧める。
さらりと言ってのけたが、今かなり凄い事を…
「さあ、皆も疲れておる事だし、早速だが本題に入っても宜しいかな?」
「ええ、そうしましょう」
私が席に着き、続いてヴィルヘルムが座るのを見届けてから、外交官達も座り始める。
ナディアはいつもの定位置、つまり私の膝の上に陣取っている。
「どうぞ」
侍女が紅茶を配っていく。
驚いた事に、ジャムまである。
「ジャム…?」
「ええ。ここでは、プラトークに倣ってジャムも一緒に頂く事にしているのですよ」
フォーアツァイトの外交官の一人がそう答える。
「まあ、たまにはこういうのも悪くはないからな。文化交流というヤツだ」
ヴィルヘルムは少しぎこちない手つきでスプーンでジャムを掬って舐めると、続いて紅茶をすする。
「では、密約の内容を確認して頂きたい」
彼が目配せすると、プラトークの外交官が綺麗な紙を取り出す。
くるんと巻かれたその紙を広げると、大きな字でデカデカとプラトークとフォーアツァイト両方の文字が書かれている。
「では、読み上げさせて頂きます」
この紙を緊張気味な面持ちでじっと見つめる彼は、この中では私と同年代ぐらいで非常に若い。
席から立ち上がり、彼は周囲を見回す。
そして皆が見守る中、意外にもしっかりとした声で上から順に読み上げる。
「一、ここに、フォーアツァイト帝国とプラトーク帝国の取り決めについて記載するものとする」
「二、この文書は門外不出であり、この取り決めの存在を悟られてはならない」
当たり前だが、秘密外交は秘密だからこそ意味があるのだ。
「三、もし仮に条項第二条が破られた場合、この取り決めは破棄される」
この密約の存在が知れた場合、当初の予定通り連邦に攻め込むなど無謀。
故にこの密約も破棄される事となる。
「四、この取り決めの内容を守る義務を双方は有す。ただし、罰則規定は無い」
何か罰則規定を定めようと我が国側の外交官達も奮闘したが、どうもそればっかりは叶わなかったらしい。
罰則規定が無い、という事はすなわち、その分だけこちらが裏切られる可能性が高まる、という事である。
プラトークとフォーアツァイトを繋ぐものは、いつ失われるかも分からない信用以外の何物でもないのだ。
「五、この取り決めは締結後二年間有効とし、期限が切れる際には再度延長の可否を双方が話し合うものとする」
この条項は今後も仲良くやっていこう、という意味も込められたものである。
両国が手を組む事は互いに利害がぶつからないうちは非常に有益だ。
「六、プラトーク帝国が他国に宣戦布告した際、フォーアツァイト帝国はプラトーク帝国の交戦相手国と領土を接していた場合、それより二十四時間以内にその国に対して軍事的行動を起こす義務を有す」
これは、先に戦端を開く事を嫌ったフォーアツァイト側の要求によって記載された条項。
我々の計画では、フォーアツァイトが先に連邦を攻める、という想定であったが、彼等とて被害は最小にしたい以上、それは嫌がった。
それ故、最終的にプラトークが先に侵攻を開始する可能性もあるぞ、というメッセージの意味も込めて彼等はこの条項を要求したのだ。
「七、同様に、フォーアツァイト帝国が他国に宣戦布告した際、プラトーク帝国はフォーアツァイト帝国の交戦相手国と領土を接していた場合、それより二十四時間以内にその国に対して軍事的行動を起こす義務を有す」
こちらは我々の本命。
私がここにいるのも、全てはこの一文のためである。
「八、双方は条項第六・七条に関係する可能性のある軍事行動を行う際、事前に他方に通告する義務を有す」
準備もある訳だし、これは当たり前。
しかし一方で、これは相手が裏切っていた場合、こちらの奇襲の情報を横流しされる危険を孕んでいる。
「九、この取り決めによって双方が他国と交戦した場合、それによって獲得した領土、賠償金等は事前に定められた規定に則り分配するものとする」
この密約とは別に領土画定等の規定もあるらしい。
以上です、と外交官は一礼すると、静かに席に着いた。
「ニコライ殿、間違い無いかご確認頂きたい」
ヴィルヘルムは、ひょいと紙を私に手渡す。
私はそれを受け取ると、先程読み上げられたものと変わりないか確認する。
「これで問題ありませんね…確かに、確認しました」
「それは良かった。では、内容に何かご不満点は?」
「我が臣下達の努力の結晶です。不満などある訳もありません」
「では、調印を」
私はこういう時のために印を持ち歩いている。
服の裏ポケットから印鑑の入った袋を取り出す。
袋の結び目を解くと、中には銀製の印鑑が。
正式なものなので、子供の手ぐらいには大きい。
「どうぞ」
ベンクェンドルフ伯爵の差し出す朱肉にとんとん、と数回押し当てて、注意深く捺印する。
「では、ヴィルヘルム殿も」
そっと紙をヴィルヘルムに返すと、彼も同様にして印を押す。
少し違うのは、私と違って彼は堂々としていた事だが。
「契約成立だな。では、取り敢えずはこれから宜しくお願いする」
「ええ。良い関係が築ける事を私も望んでおります」
あ、そうだ、と彼は白々しく声を上げる。
「良い関係、と言えば…少し提案があるのだが」
「どの様な?」
「いやいや、大した事ではないのだがな。今、咄嗟に思いついてな」
咄嗟に思いついて、などというのは嘘だろう。
恐らく、最初から懐で温めていたに違いない。
「ほお、お聞かせ願えますか」
警戒しつつ、 次の言葉を促す。
「両国の友好のため、互いに大使を派遣せんかね?」
「大使、と言うと…?」
「互いにチャンネルを開いておいても損はあるまい。互いに人員を派遣し、駐在させるのだよ」
「成る程、それは興味深い…」
現状、必要な時に他国に人を遣る事はあっても、常に自国の人間を置いておく事はない。
しかし、これから両国は密接に繋がる必要がある。
これは願ってもない申し出だ。
この密約が守られるかどうかは全て信用に掛かっている。
少しでも互いに信用を高められるのなら、やらぬ手はない。
「どうかね?人数は問わぬし、誰にするかも不問だ。人質ではないのだし、出来る範囲で好きにしてくれて構わん」
「名案ですね。もし仮にそうするとして…誰を選ぶかが最大の問題ですが」
「私としては、そこの可愛いお嬢さんを置いていってくれれば一番なのだがな」
機嫌良さげに彼はナディアに熱い視線を送る。
ナディアもフォーアツァイトに来てからと言うものの、幼女のクセして随分とモテモテだな。
罪深い女、というヤツである。
「ははは、ご冗談を」
ナディアを置いていくなどとんでもない。
ご冗談でしょう、ファインマンさん。
ナーシャなら喜んで置いていくのだが。
…駄目だろうか?
「あ、それならば私の方から個人的に要望があるのですが」
思い出した、料理人の件。
フォーアツァイトに誰かを招く事になるなら、そのついでに料理人も派遣してもらおう。
「ほう、要望か」
「ええ。非常に個人的な事で恐縮なのですが、ここでの料理を気に入ってしまいまして。もしお許しを頂けるなら、ここの料理人を貸して頂きたく…」
「ああ、そんな事か。もっと凄い事を要求されるものかと思ってしまったぞ。勿論造作も無い。何人か見繕っておこう」
「有り難うございます」
「では、他にも何かあるか?」
「いえ、特には」
「ならば、私から一件。良いかね?」
「構いませんよ」
すっからかんになった紅茶のカップをチンッと弾くと、彼はにたりと口角を上げる。
「個人的な話なのだがね、少し確認しておきたい事があってな」
このニヤニヤした表情…
一体何だろうか…?
「いやあ、そこなるレディーのお耳に入れるのは大変躊躇われる話題で非常に恐縮だが…」
この前置き、嫌な予感しかしない…
「貴殿は、妹の結婚式の日に妹の婿殿と決闘をするそうだな?我が妹を賭けて」
やっぱりその件か。
ルイーゼによって決闘の噂はそれはもう恐ろしく広く皆の知れるところとなった。
フォーアツァイトの一般市民どころか、他国の人々にすら知れ渡っていたって驚きは無い。
況んや、ヴィルヘルムをや。
心の何処かでスルーしてくれるかと期待していた私だが、見事に裏切られた。
「ええ…うん、まあ…そういう事になっていますね…」
ヴィルヘルムとルイーゼは私とナーシャの様に腹違いの兄妹で、尚且つ仲が悪い。
これまでの情報収集では“ヴィルヘルムがルイーゼを嫌っている”との事だったが、彼は一体何を言ってくるつもりだろうか?
「膝の上の可愛いお嬢さんがいるのに、浮気かね?」
ナディアが、うんうんと同調する。
「いえ、そういう事では…」
「略奪愛にでも目覚めたのかね?」
「いえ、そういう訳でも…」
「本気なのか?本当に我が妹を愛しておるのか?」
“愛”などという言葉が、目の前のおっさんから強い語気を含んで吐き出される。
「嫌いではないですが…」
ふむ、と彼は髭をさすって少し考える素振りを見せる。
「勘違いしないで欲しいが、私は反対している訳ではないぞ?政治的に見れば、国内有力貴族に嫁がせようと、他国の皇族に嫁がせようと、大して変わらんからな」
「は、はあ…」
私としては、ここで反対してくれた方が好都合なのだが。
「しかし、それはこの国の利益という点で見た場合、だ。私とて人間だから、どうしても妹には幸せになって欲しいと思ってしまう。まともな男でないと嫁にはやりたくない。ついつい干渉してしまうのだ、すまんな」
幸せになって欲しい?
彼はルイーゼを嫌っているのではなかったか?
アーデルベルト曰く、「ヴィルヘルムはルイーゼを嫌っている」、「ヴィルヘルムはルイーゼの婚約の件について不干渉の姿勢を貫くつもり」との事だったが…?
「妹さん想いなのですね」
取り敢えず、今は話を合わせておく。
「生憎、兄としては力不足だがな。ルイーゼは私を嫌っている様で、心を開いてくれぬし」
ルイーゼが嫌っている?
はて、どういう事だ?
彼は私に嘘を吐いているのだろうか?
しかし、そうならば何故?
もしくは、また例の如くアーデルベルトの勘違いか?
「ルイーゼ殿下は貴殿を嫌っていらっしゃるのですか?」
「嫌っておる、というか…避けられている、というか…何処か余所余所しいのだ。少なくとも、良くは思っていないだろうな」
「そ、そうですか…ヴィルヘルム殿は父親としては立派だと思いますが、やはり子供相手と妹相手では違うのですか?」
「おっ、気になるのかね?」
「まあ、少しは」
「貴殿もそのうち子作りに励み、父親となる身であるからな!気になるのも致し方あるまいな、わははは!」
何だ、このおっさん…
「どうでしょうね…」
「いやいや、決闘とやらに勝ってルイーゼと結婚すれば、半年もしないうちに懐妊間違い無しであろう?一応、ルイーゼは結構良い身体つきをしておるからな。夫婦の営みもヒートアップするに違いない!」
にやにやと…
完全にセクハラ親父のノリである。
「結婚はどちらの男になるにせよ、その日に行うと聞いたぞ?早ければ数ヶ月で父親ではないか、のう?」
正確には、私が勝った場合はその場で私とナーシャの結婚となる。
残念ながら彼の理論だと、私は数ヶ月で妹との子供を作るという事なのだが…
もしナーシャと結婚などする事になれば“半年もしないうちに”などという甘ったれたものではなく、一週間以内に済んでしまいそうだ…
それだけは…それだけは避けねば。
「ははは、からかわないで下さいよ」
ナディアがちょっと機嫌悪くなってきたから!
デリカシーの無いおっさんはコレだから全く…
「結論から言うと、実子と兄妹だから違うのではなく、男との女の違いだな。息子達の扱い方は分かるのだが、妹はさっぱりだ…女心とやらは私にはロゼッタストーンでも無いと無理だな」
「ニコライ殿は兄として妹君と上手くいっているそうだが、何かコツはあるのか?」
コツ…?
あるか、そんなもの?
「強いて言うなれば…優しくする事、ですかね」
「普通だな」
「すいません、よく分からないですね」
だって、私の場合は特殊例過ぎる。
「まあ良いや。私も妹の嫁入り前に少しでも関係改善を図ってみるとするか。よし、解散!解散だ」
これにてお開き。
それにしても、ヴィルヘルムとルイーゼの関係…
謎は深まるばかりである。