XLV.いつかの兄の記憶。
※注釈
・大祖国戦争、東部戦線
第2次世界大戦のヨーロッパ東部戦線の事。
前者はロ◯アから見た呼び名。
後者はドイチュラントから見た呼び名。
ロ◯アのお馴染み冬将軍、その後の泥んこ、馬鹿みたいに広い国土による縦深、コミーの十八番である人海戦術、(畑から採れた)コミー特製高火力重装甲戦車、(道端に生えてた)多数の兵士etc.が可哀想なドイツ国防軍…という名の“ただ単にお友達のところにピクニックに来ていただけの人々”に襲い掛かった壮絶な戦いでした。
「Hahaha!ナチ公が三千発の銃弾を持っているなら、五千人の兵士で突撃すれば良いじゃない」
「Hahaha!ナチ公がティーガーとパンツァーファウストを持っているなら、それに耐えられる装甲を戦車に施せば良いじゃない」
「Hahaha!スター◯ングラードが盗られたって?取り返せるまで突撃を繰り返せば良いじゃない」
等の、マリーアントワネットもガクブル必至の発想で戦った◯連…
おそロ◯ア!!
ちゅんちゅんと小鳥がさえずり、そこらで地面をぴょんぴょんと跳ねている。
どんよりと常に灰色の雲が覆い隠していた空は、久方振りの青空。
本来の姿を取り戻したその空には、濁りの無い、真っ白な雲がぷかぷかと浮かんでいる。
長い冬が遂に終わり、プラトークにもやっと春が来た。
雪に覆われていた地面は、本来ならばそれが融けた後には雪解け水によって、大祖国戦争、東部戦線の如く泥沼と化すのだが、ここ、後宮の庭はその様なものとは無縁である。
手入れの行き届いた庭は、まだ冬季のうちから雪かきが徹底され、春に水になる様な雪など微塵も存在しない。
まるで、ここだけに暖かな、一般的な他国に於ける“春”というものが訪れたかの様である。
その庭に、ぽつんと一人。
少女がいた。
雪かきをしてある、とはいえ、それにも限度がある。
土は泥にはなっていないものの、やはり少し湿っている。
故に、触れば多少は土が付くのだが、地面にしゃがんだり膝をついたりしてスカートが汚れるのも気にせず、彼女は黙々と、春の到来に呼応して辛うじて咲いた小さな花々を集めていた。
時刻は午後二時。
日中では最も暖かい時間帯だが、それでもやはりプラトークは寒い。
彼女の格好では明らかに防寒着としての効果は望めず、体感温度はかなり低いはずなのだが、それでも彼女はその様な事を気にする様子も無い。
「花が好きなのか?」
その聴き慣れぬ声に、少女はぴたりと作業の手を止めた。
男の声。
誰だろうか。
純粋に、その様な疑問が湧いた後、遅れて警戒の念が追いついて来る。
父以外の知らない男が入って来る事は滅多に無い。
ハッとして、彼女は勢い良く顔を上げる。
前方には誰もいない。
続けて振り向いた。
…そこには若い男が立っていた。
少なくとも、彼女からは十歳は歳上の様に見えた。
しかし、それは彼女の主観でしかなく、流石にそれは少し大袈裟ではあったが、まだ数えで十にも満たない彼女に対して、その少年はまだまだ幼さが残るものの、大人に片足を突っ込んでいる、と言っても良いぐらいの年齢だった。
つまり、彼もまた同様に子供。
少年であった。
分かりやすく言えば、小学校低学年と中学生ぐらい。
成長の早い、子供にとってはこの数歳の差は非常に大きい。
故に、少女にはその少年が大人の様に感じられたのである。
彼の髪は、綺麗に切り揃えられている。
服装も小綺麗で、少なくとも使用人の類いではないだろう、という事は簡単に分かる。
少女は、身体もそちらに向けると、手元の小さな花をぎゅっと握り、背中の後ろに隠す様に持つ。
生来警戒心が異様に強い性格で、知らない人間には中々気を許さない彼女は、今回も普段同様に威嚇するかの様に、ぐっと少年を睨みつける。
「ははは、別に睨まなくたって良いじゃないか。ちょっと声を掛けただけなのに」
彼は朗らかに笑うと、少女を和ませようと、少しおどけてみせる。
「近寄らないで…!」
彼女は警戒を維持したまま、一歩ずつ、熊に出会った登山客の如く、ゆっくりと後ろに退がる。
「怪しい者じゃないんだってば」
少年は必死にそう弁解するも、少女は耳を貸さない。
「来ないでっ…!」
露骨に嫌そうな顔で、更に早く退がる。
同じ子供相手でも知らない人に話し掛けられても逃げるという原則をきっちり守る、という、このくらいの年齢の少女としては、大した防犯意識だ。
「怪しむのも仕方ない事だけど、話だけでも聞いてくれよ」
しかし、少年もそこで諦めはしない。
少女に速度を合わせ、近付き過ぎてこれ以上警戒されないように気を付けつつも、一定の間合いを維持する。
「来ないで!来るな!」
「おい、転ぶと危ないぞ」
困った顔で、彼は追い掛け続ける。
少女も、背後を見る事無く、すたすたと。
「…あっ!」
が、突然少女は躓き、背中から転びそうになる。
しかし、それは少年にとって、想定の範囲内。
何れそうなるであろうと、少女の危なっかしい様子を見て憶測を立てていた彼は、直ぐ様反応して支える。
「だから言っただろうが…もう逃げられんぞ」
少年は、少女の肩を掴んで離さない。
「う…わっ…!」
当然、力では敵うはずもない少女は、直ぐに抵抗する事を諦める。
「いや、頼む…本当に、少しだけ君と話したいだけなんだ」
「何処かに連れて行くんじゃないの?」
「誘拐犯と間違えられるとは…心外だなぁ。連れてなんか行かないさ」
「お兄さん、どうやってここに入ったの?」
「こっそり忍び込んで来た」
「何処から?」
「企業秘密だ」
「教えてよ」
「駄目」
「ケチ」
「それでも駄目だ。真似して勝手にここを抜け出すつもりだろうから」
少女はぷくーっと膨れ、少年の出方を窺うが、それでもやはり彼は首を横に振る。
彼女は、はぁ…と落胆すると、次の質問を投げ掛ける。
「それじゃあ、あなたは誰?」
「そうだな、こちらから名乗るのが一番だな」
こほんっと、ひとつ咳払いし、彼はぴんっと背筋を伸ばす。
「初めまして、アナスタシア皇女。君の存在は以前からずっと知っていたのだが、中々会わせてもらえぬでな。痺れを切らせてこうして会いに来たのだ。我が名はニコライ・アレクサンドロヴィーチ・ロマナフ。君の…」
そうだ、この人は…
全てがスローモーションになる。
この人は…
心臓の鼓動が聴こえる。
とくん、とくん、と。
この人は、いや、この方は…
…
「兄上!!」
無意識に叫び、がばっと上体を起こす。
そこはもう後宮の庭などではなかった。
プラトークとは全く異なる、窓を開けていたって暖かい空気。
フォーアツァイトの、異国の春。
視界に先ず最初に入って来るのは兄の少し驚いた様な顔。
私は兄に膝枕され、寝ていた様である。
そうか、夢だったか。
「急に叫ぶなよ…心臓が止まるかと…」
「兄上、膝枕して下さっていたのですね!」
嗚呼、我が愛しの兄上!
何とお優しいのか。
目覚めるまでの間、私を膝枕して守って下さっていたとは!
睡眠薬は飲まされてしまったものの、そのために濃厚なキスをする事が出来たし、結果オーライである。
睡眠薬…?
そう、睡眠薬だ。
睡眠薬のせいで眠っていたのか、私は…
「違うぞ。“膝枕をしていた”のではなく、“膝枕をせざるを得なかった”のだ」
「はて?」
「寝ている間、どうしても私を掴んで離さなかったのでな。離れようにも離れられなかったのだよ。私が座れば上に乗ってくるし…本当に寝ているのか怪しんだぐらいだ」
「掴んで離さない…?誰がです?」
「ナーシャ、君が、だ。他にいないだろうが」
わお、それはグッジョブ私!
「まあ、どちらにせよ、膝枕して下さっていたのですよね?」
「途中、どうしても離さないから、仕方なく背負って動いていたぐらいだからな。
これは…衝撃の事実。
「膝枕だけでなく、おんぶまで!?兄上…真ですか?」
「ああ。着替えすら、ナーシャがべったりとへばり付いている状態では一苦労だったし、風呂にも入れんし、ああ、もう、全く…どうやったら眠りながら数十時間も手に力を込め続けられるのだ?!」
「数十時間…?私はどれ程寝ていたのでしょうか」
「…喜べ。丸々二日だ…」
二日?
あの睡眠薬、予想以上に効果があるらしい。
まさか、二日も眠り続ける羽目になるなんて。
「では、二日間も兄上にご迷惑を?」
「ああ。まあ、薬を飲ませたのはこちらだから、文句は言わんが」
よくよく見れば、兄は少しやつれて見える。
寝ている間の事で、覚えは無いが、随分と苦労をかけさせてしまったらしい。
「申し訳ありません…」
「謝らずとも良いがな」
「いいえ、お詫びをせねば気が済みません!是非とも、兄上にかけてしまった迷惑の分、お返しさせて頂きたく!」
「返すって、どうやって?」
分かりきった事なのに、兄はそう尋ねてくる。
そして努めて笑顔で、私はそれに返答する。
「それは勿論、身体で返すのですよ」
「身体…?」
「ええ。私をお好きなように、一晩でも、二晩でも…いえ、朝から晩まで日がな一日互いに愛を育み合うのです!」
「却下だ、却下」
無論、私は本気でそう言っているのだが、兄はいつもの如く冷たくあしらうと、小さく溜め息を吐く。
妹である私に対して、何だか冷たい様に感じられるかもしれないが、それは兄の表面上の態度でしかない。
本当の兄上は、凄くお優しい。
もう、言葉などという陳腐なものでは表現する事など到底不可能な程にお優しい。
しかし、妹である私を甘やかし過ぎてはならない、と泣く泣く厳格な態度を以って私に接して下さっているのである。
嗚呼何と兄上の偉大な事か…!
この世に我が兄上より優れた兄などいるだろうか?
いや、いない!
いようはずもない!
優しく厳しく、私を愛して下さる兄上…
もう兄上の他に何もいらない、とすら思える。
この世の兄上以外の男など、全てモブに過ぎない。
否、モブですらない、ただのオブジェクト!
「まあまあ、そう仰らずに。もしや、私のテクニックが舌のみだとか思ってはおられませんよね?きっと兄上も私のテクニックの数々を味わえば必ずや…」
「陛下!失礼しまーす!」
兄を口説いている最中に、タイミングの悪い事にアリサが今日も能天気にへらへらとした表情を浮かべながら部屋に入って来る。
ドアもばーん、とまるでビッチの緩々の股の如く盛大にオープンし、それを脚で閉めるという暴挙に出る。
まるでメイドとしての態度がなってない。
「陛下ぁ、お飲み物を…あっ!」
こちらに気付いた彼女はぎくっと大袈裟に驚き、片手に持った盆を落としかけ、盆の上の紅茶が少し溢れる。
アリサ…
裏切り者め…
私を裏切っておいて、よくもまあ、ぬけぬけと…
「ででででででで殿下!お目覚めですか!?」
「あらまあ、裏切り者のリサじゃない。こら、何度も言っているでしょう?私の事は“ナーシャちゃん”と呼ぶようにって。私達の仲じゃない、ねえ?」
「陛下ぁ…助けて下さいぃぃ…」
彼女は涙目で、兄に助けを求める。
あろう事か、我が兄上に。
その馴れ馴れしく兄にすがる様、見ていて非常に不愉快である。
「二人とも落ち着け。ナーシャ、脅しは止めなさい。リサから聞いたぞ、彼女への酷い仕打ちを。そういう事は止めなさい」
酷い仕打ち?
はて、何の事やら。
「リサには好待遇で甘やかしこそしても、酷い仕打ちなどした事もありませんよ?」
「家族を人質にとっているだろうが」
兄は少しムッとしてそう指摘する。
「ああ、人質ねぇ…でも、その程度なら当たり前…」
「それが当たり前になっている時点でおかしいのだ」
「左様ですか」
「ああ、今後一切アリサを人質を使って脅す様な真似はするな」
他ならぬ兄上からのお叱り。
甘んじて受けよう。
「はあ…分かりましたよ、もうしません」
私が観念してそう言うと、兄は満足気にうんうん、と頷く。
しかし、やはり兄上は甘い。
今の口約束では、抜け道がいっぱいだ。
「アリサを」「人質を使って」脅さない、とは、アリサ以外なら人質を使って脅しても良い事になるし、アリサにも人質を使った脅し以外ならして良い事になる。
何を隠そう、私が素直に兄の言う事を聞いたのはそれを分かっていて、である。
後、こういう時におねだりすれば兄が頭を撫でてくれるから。
今回も、いつもの様に黙って頭を差し出し、ちらりと上目遣いで兄を見れば、仕方ないなぁ、と少し恥ずかしそうにしながら、わっしわっしと豪快に頭を撫でてくれる。
どんなに他の雌共が足掻こうとも、私と兄上の愛の邪魔などやはり誰にも出来ないのである。
「ナーシャ、腹は空かんか?二日間何も食べていないだろう?」
「確かに…ぺこぺこですね。寝ていたからエネルギーを余り消費していないはずですが、やはり二日は堪えますね」
「よし、ならば何か食べた方が良いな。ナーシャが起きた時のために一応準備はさせているのだ」
「流石兄上、用意が良い!」
流石兄上!
「立てるか?」
「ちょっと、あ…ふらふらします…」
立ち上がった瞬間、くらりと視界が歪む。
ダメ元でお願いしてみようか?
「兄上…歩けないです。おんぶして下さいな」
「おんぶか…でも、ナーシャ重…いや、何でもない。仕方ないな、私の飲ませた薬のせいでもある訳だし、今回だけだぞ?」
一瞬“重い”と言いかけた事以外は評価出来る。
「では、お願いします」
ぴょんっと兄の背中に飛び乗る。
がしっとした大きな背中。
兄の背中。
わざと背に胸を押し付けて兄を誘惑しつつ、私は兄に背負われて食堂へと向かうのだった。