XXXIX.特殊性癖は七歳児には理解が追い付かない。
エーバーハルトがルイーゼに暴力を振るっていたのではなく、ルイーゼがエーバーハルトに暴力を振るっていたのだ、という彼女の主張に、私は混乱していた。
ルイーゼがそう言うように脅されているという可能性も考えられるにせよ、エーバーハルトが女性に暴力を振るうクソ野郎である、という前提でいたのに、それがいとも容易く崩れ去ろうとしているのである。
もし仮に彼女の言う通りであるならば、エーバーハルトはDV夫どころか可哀想な被害者でしかないのだから、これに関しては、はっきりさせねばならない。
「ルイーゼ、それは本当か?そう言うようにエーバーハルトに脅されているのでは?」
「いいえ。これは事実です」
彼女の表情は固い。
信憑性はそれなりに高いと思われた。
「エーバーハルト、本当に君は暴力を振るってないのだな?」
「当然です。何故私がルイーゼに暴力を振るわねばならないのですか。私にはその様な事をする必要性も無ければ、利益もありませんよ。考えれば分かるでしょう?」
それは最初から分かっていたのだが…
だが、そうなると今度は何故ルイーゼが暴力を振るうのか、という新しい疑問が生じてしまうのである。
彼女にだってそうする事による利益も無ければ必要性も無い。
彼女がエーバーハルトを嫌っている理由も説明がつかないし。
現時点では全てが疑問でしかない。
はてな、はてな、はてな、である。
「では、アーデルベルトは何故そう言ったのだ?」
「恐らく、ニコライさんと同様に、アーデルベルトも固定観念に囚われていたせいでしょう。私が暴力を振るうはずがない、ならばエーバーハルトだ、と。そう思い込んでしまっていたが故に、しっかりと見た訳でもないのにエーバーハルトが暴力を振るったと決めつけてしまったのだと思います。そうでしょう、アーデルベルト?」
「その通りだと思います。僕の勘違いで話をややこしくしてしまってすいません…」
つまり、これもまたアーデルベルトが原因か…
この七歳児は本当にもう…どうしようもない奴だな…
しかし、ならば何故ルイーゼはエーバーハルトに何度も暴力を?
嫌いだから蹴った、とかそういう子供染みた理由ではなかろうな?
少なくとも私の知る彼女はその様な事をしないぐらいには大人だし、暴力女でもない。
それは表面的に取り繕っていただけで、本当は…とかそういうパターンでもないだろうし…
「では、ルイーゼが暴力を振るった理由は?」
「え〜っと…それはですね…」
彼女の目がバタフライの如く激しく泳ぐ。
随分と荒波の中を泳いでらっしゃるご様子だ。
「いえ、ルイーゼは言い難いでしょう。私が説明します」
エーバーハルトが、ルイーゼのあまりの狼狽具合に、見てられなくなったのか、彼女の前に進み出る。
「ほう、説明してみ給え」
「一言で言うと、私が彼女にそうするように頼んだからです」
彼はボソッとそんな事を言う。
「ん?自分に暴力を振るえ、と言ったのか?お前が?」
「ええ。そうですとも」
「何故だ?自分をき…ああ、もしや…そういう事か…」
やっと私も理解してきた。
忘れていたよ、この世には色んな人がいるという当たり前の事を。
「君は、蹴られたかったのか」
「はい。お恥ずかしながら、ご名答です」
つまりコイツ…ルイーゼの婚約者のエーバーハルトは蹴られて悦ぶマゾヒストだったのである。
「君はマゾでルイーゼにいじめられたかった。故に彼女にそうお願いした。そして彼女は君を蹴った。それを見てアーデルベルトが勘違いした。それでアーデルベルトから私へ。そういう訳だな?」
「概ねその通りです」
どんなピタゴラスイ◯チだ。
それも、その原因がSMプレイにあるだと?
義憤に駆られて行動してみれば、何と拍子抜けの事実。
私の心配を返せ、と言ってやりたい。
「ニコライさん、勘違いしないで下さいよ!私だって、ノリノリで蹴ってた訳ではありませんからね!?」
「楽しく女王様をしていたのではなく?」
「当たり前です!あまりにエーバーハルトがしつこいから、ちょっとムカついて蹴ってやったら、それでコイツ、調子に乗って…」
つまり、エーバーハルトがしつこく懇願し、ルイーゼが蹴り、それでエーバーハルトが悦び、更に懇願し、という負のスパイラル。
理想的なまでに連鎖的に次の反応を引き起こしていたのだ。
「最初は私も自制出来ていたのですが…次第にルイーゼを見ていると疼くようになってしまいまして…」
「本当に失望ですよ…最初は凄くマトモな人に見えたのに、蓋を開けてみればただのドMだったんですよ?私の最初の頃の恋心を返して欲しいぐらいです。しつこいし、キモいし。私がエーバーハルトを嫌っている理由も分かって下さりますよね?」
うん、分かる。
「エーバーハルト、正直そういう趣味に関して否定はせんが、相手は選べ」
「ルイーゼがある日突然Sに覚醒する、なんて事があるかもしれない、と期待していたのですが」
「ない!絶対に、ぜええええっったいにないです!」
ルイーゼがこれでもかと言わんばかりに必死に身の潔白を証明し、取り敢えず彼女がノリノリで女王様をやっていた訳ではない、ということだけは伝わってきた。
まあ、当たり前と言えば当たり前なのだが。
「成る程、大体状況は掴めた。エーバーハルトの一方的な好意(?)が生んだ結果だったのだな」
「そうです!一方的なものですから!最初のうちは私だってちょっとは良いな、と思ってましたが、それもエーバーハルトが私に踏んでくれ、とか言い出すまでの事。今や、嫌悪感以外に何も彼に対して抱いておりませんので!」
グサッ、グサッとエーバーハルトに容赦ない言葉の暴力が…
そうまではっきり言われると、流石に効くだろう。
…と、思われたが、
「…くっ、流石はルイーゼ…素晴らしい言葉責め…!やはりあなたを手放すのは惜しいっ!あなたには才能があるのに!」
本人はこの調子。
多分、全然効いてない。
「おい、じゃあ、アーデルベルトが言っていたのもやはり嘘か」
「アーデルベルトが一体何を?」
「“エーバーハルトはルイーゼを道具としか見ていない”と」
アーデルベルト曰く、エーバーハルトがルイーゼと結婚したがるのは出世の道具として利用するため、との事だったのだが…
今見ている限りでは、エーバーハルトは随分とルイーゼにお熱の様である。
事前に聞いていた冷酷な彼は何処に行ったのか。
「ああ、それは私の父の事でしょう。確かに、父からすればルイーゼは道具でしかないかもしれませんね。でも、私に関して言えば、ルイーゼの事をこの世界で一番愛し…」
「…エーバーハルト、止めなさい、恥ずかしいから!」
はい、要するにまたアーデルベルトの勘違いだな?
「アーデルベルト、何か言い訳はあるか?」
「無いです!すいませんっ!」
彼は必死に頭を下げる。
この少年、どれだけ勘違いすれば気が済むのだ。
「ニコライさん…私の苦労を分かって下さいましたか…?こんな人と結婚なんて、耐えられるはずないじゃないですかぁ!」
ルイーゼはここぞとばかりに泣きついてくる。
よしよし、と私は彼女の背中を撫でてやり、エーバーハルトはそれを見て私をむむむ、と睨む。
これを見てもまだ諦めないのか、エーバーハルトよ。
どう考えても勝ち目は無いだろうに。
いや、もう、本当にご愁傷様です…
私がもし彼女の立場だったならば、下手すれば逃亡するレベルである。
例えるならば、ナーシャがドMになる様なものだ。
不思議と簡単に想像出来てしまうが、仮にそうなったら、
「兄上、どうか私を踏み躙って下さい!」
とか、そういった発言を毎日され、付き纏われるに違いない。
そして私はシスコンの他にもあらぬ疑いをかけられる事となろう。
うん、無理。
私なら耐えられない。
そういう意味では、ルイーゼは今まで十分頑張ってきたと言える。
そして幾つかある解決策のうち、現状で最も平和的なものは、エーバーハルトに諦めてもらう事である。
だが、そう上手くいくならば、そもそもこれ程までに話はもつれないのだ。
残念ながら、エーバーハルトに諦める気は無さそうだ。
「エーバーハルト、分かっただろう?ルイーゼはお前の事を好きとも何とも思ってない。それどころか、嫌ってすらいる。現状では絶望的だ、諦めろ」
「拒否します。私が諦めるとは、すなわちルイーゼがあなたのものになるという事でしょう?」
え…?
違うよ、違いますよ?
確かに、彼の前で私はルイーゼと良いところまで進展してしまっていたが、それは決してそういうのではない!
私はルイーゼの結婚阻止に協力したいとは思ってはいるが、それはエーバーハルトから彼女を奪い取るためではないのだ。
あくまで、多分、恐らく、probably、純粋な善意から。
別に私は彼からルイーゼを奪い去り、結婚する、などという野望は秘めていない。
助けた後も、大人しくこの国を去るつもりでいるし、ルイーゼを祖国にお持ち帰りする事などちっとも考えてなどいないのだ。
「それは誤解というか…その…」
「誤解?何が誤解なのですか?ルイーゼと行為寸前だったのに?」
もうこれに関しては弁解の余地は無い。
誰がどう見ても私のした事は、他人の婚約者に手を出す、という事に変わりはないのだから。
「まあ、それは良いではないか。ならば、私も彼女を諦めると約束するから、君も諦めろ。な?そうしよう?」
「何故ですか?私がそれに応じる必要性は皆無ですよね?私に何の得も無いじゃないですか」
仰る通りです…
だが、この提案に乗ってくれないと困る。
これ以外には平和的な解決策は無いのだから。
「ならば、こうしましょう」
ルイーゼは私から離れると、私とエーバーハルトの間に立つ。
「エーバーハルトとニコライさんで決闘をするのです」
「決闘…?」
これは、面倒事の予感…
「エーバーハルトが勝ったら私は大人しく抵抗せずに結婚を受け入れましょう。ついでに、結婚後も毎日罵ってあげます」
「ルイーゼ…ほ、本当ですか!?」
エーバーハルトは、ひゃっほいと大喜びである。
「…ただし、ニコライさんが勝ったら、私はニコライさんと結婚します」
が、続くそれを聞いて、エーバーハルトの動きがぴたりと止まる。
ひゃっほいの途中で、銅像の如く。
「ルイーゼ、私は君と結婚するとは一言も…」
勝ったら結婚確定…?
いや、嬉しくない訳ではない。
それどころか願ったり叶ったりである。
だが、それでもそれは困る。
悪くはないと思うが、やはり困る。
私にはもう既に婚約者がいたりだとかヤンデレ妹がいたりだとか、結婚に関して面倒臭い要素がてんこ盛りなのだ。
それらへの対策を講じる事なくいきなり結婚をかけて決闘などと…
だが、私のそんな訴えは誰も聞き入れない。
「くううう…!これぞまさにハイリスクハイリターン!勝てばルイーゼが理想の女王様になってくれる…!だが、負ければあの男のものに…!」
「おい、聞いているか?私は…」
「だが、良いだろう…!その話、乗った!」
「では、決闘は結婚式当日で良いですか?各国からお呼びしたお客様の前で戦う事にしましょう。そうすれば、下手に約束を破れませんから」
「ふふふ…燃えてきますね…!」
「だから、私は結婚など…」
「では、この事は皆にも伝えておきますね」
「プラトークの皇太子よ!運命の日まで、首を洗って待っておくのだな!さらばだ!」
「ちょっと!待てってば!」
私の制止を振り切り、彼は意気揚々と部屋を飛び出して行く。
どうやら、もう手遅れらしい。
「ニコライさん…私のせいで色々と巻き込んでしまってすいません。でも、絶対に勝って下さいね、応援してますから!」
「え…?いや、あの…」
今更断れるはずもなく…
「…まあ、頑張ります…」
ルイーゼの結婚式当日、私はエーバーハルトと決闘をする事になったのであった。
彼女が方々にこの事を言いふらすらしいので、逃げられないだろう。
負ける訳にもいかんし、勝ったとしても、それはそれで不味い。
勝つだけ勝って、結婚はナシにできないものだろうか。
「ニコライさん…結婚式当日は、エーバーハルトのためではなく、あなたのために、花嫁衣装になりますから!」
「お、おお…そうか…」
うん、無理だな…