XXXV.妹の魔の手から逃れられる、なんて私の考えが甘かった。
※注釈
・後ろ回し蹴り
普通の回し蹴りは有名ですが、こちらはあまり知られていませんね。
回し蹴り、後ろ回し蹴り、回し蹴り…と上手くいけば格闘ゲームの如くコンボを叩き込めるので筆者の大好きな蹴りの一つです。
ただ、後ろを向く分隙も大きいのであまり実践するのはおススメ出来ません。
実際に筆者もコレのせいで苦い思いをした経験が…
・テノヒラクルー、手の平モーター
手の平の回転が捗ります。
・赤紙
国からのお呼び出しに使われる紙。
地獄への片道切符。
しかし、もう既に投げられるものなど彼女の近くには無い。
それこそ、テーブルぐらいしか…
嘘だろう…?
彼女は片手で軽々とテーブルを持ち上げ、アルファチームへとぶんっと投げる。
「殿下、お気を確かに!」
「駄目だ、全員…うわあああ!」
彼女が持ち上げてから投げるまでの一瞬にメイド達が言えたのはそれだけだった。
凄まじい音を立ててテーブルは、根こそぎアルファチームを吹き飛ばす。
アルファチーム、壊滅。
「怯むな!進め!」
「殿下、お止め下さい!」
皆が必死に叫ぶが、そんなものは彼女には聴こえていない。
「兄上…兄上は何処…?兄上…兄上…!」
彼女は恨めし気にこちらを見る。
「兄上を何処に隠したの…?私の…私のぉっ…!」
「不味い!サイクロンを構えっ…ぐはっ!」
四班の班長がまともに殿下の突撃を喰らい、その場に崩れる。
恐るべき速度。
そして威力。
あの華奢な身体からどうやってそれ程のパワーを?
自ら近付いて来たアナスタシア皇女めがけて残った皆が一斉に網を投げる。
しかし彼女は地面を滑る様にして優雅に回避。
再びこちらに接近し、ひらりひらりとこちらのサイクロンによる突きを避けつつ、一人ずつ倒していく。
もう既にベータチームの先頭だった三班に立っている者はおらず、四班も数人を残して皆倒れている。
そして我々五班も新入り三名がやられた。
現状では我々が最大の戦力。
こうなれば我々だけでもやるしかない。
「行くぞ!多少なら殿下を攻撃する事も辞さない!私に付いて来い!」
班長の少し震えた号令と同時に、我々はその背を追う。
そして殿下はこちらを向き、冷たい目で我々を見据える。
「兄上…兄上に会わせて…?」
そう言い終わるかどうかという瞬間、ばちんっと回し蹴りが飛んで来る。
先頭の班長がそれをサイクロンで受け止め、副班長がそれを後ろから支える。
長年パートナーとして組んできた彼女達の連携には目を見張るものがある。
しかし、それでも彼女達の表情から察するに、かなり厳しい戦いとなりそうだ。
班長はぐっと歯を食いしばって何とかその蹴りに耐えている。
「ぐっ…!なんと重い蹴りだ…」
「流石は殿下、お強うございます。ただ、乞い願わくば、我々メイドにそれを向けないで頂きたいのですが?」
「兄上は…?何処にいらっしゃるか知らぬか…?」
アナスタシア皇女は苦しそうな表情を向ける。
その間も足には力を込めたままだ。
「殿下、陛下は数日前に旅立たれたばかりではございませんか」
「何処に…?私を置いて何処に…?」
「療養地でしょう?」
「違う…!兄上は忌々しいあの女と…!」
「な、何を仰っておられるのです?」
「兄上…兄上に会いたい…」
彼女は右足を地面に降ろし、そこからくるんと回ると後ろ回し蹴りをする。
視界の外からの突然の蹴りに、班長は対応出来ない。
班長は脇にまともにその蹴りを受け、横へと吹き飛ぶ。
「うぅ…殿下、お止め下さいっ!」
副班長の悲痛な叫びも無意味な雑音に過ぎない。
彼女も後ろ回し蹴りからの連続した回し蹴りを喰らい、班長の上に折り重なる様にして倒れる。
「撤退するぞ!一度退く!」
そう言って残った五班の古参がバックステップで距離を取ろうとするが、手遅れだった。
皇女は落ちていた副班長のサイクロンを拾うと同時に槍投げの要領で投げ付ける。
そしてもう一人の古参が背を向けて逃げようとしたところに、ぴょんっと跳び上がって上から肘打ち。
五班の古参はこれで全滅。
五班にはもう新入り三人しか残っていない。
しかしそこに三人の四班のメイド達が駆け付けて来る。
「Eグループからのひよっ子共だな!?お前達では敵わん、逃げろ!早く!」
「こうなったら仕方が無い!衛兵を呼んで来い!走れ!」
促されるままに必死で駆け出す。
遠く、遠くへ。
この部屋から出て、右折し、真っ直ぐ行けばきっと衛兵がいる。
そこまで行って、助けを呼ぶんだ…
背後から悲鳴が上がっても気にはしない。
私が今すべき事は救援を呼ぶ、ただそれだけ。
入って来た方の扉の前にはオリガ様が立っていた。
一瞬でメイド達が倒れていく光景に茫然として。
彼女の足下にはリーダーが倒れている。
彼女を庇って流れ弾にでも当たったのだろうか?
助けを呼ばねばならないが、彼女を置いて行く訳にはいかない。
「伯爵夫人!お逃げ下さい!」
一介のメイドのくせに、私は夢中でそんな事を叫んでいた。
しかし、彼女の反応は予想だにしなかったものだった。
「あなた達はそのまま行きなさい!ここは私が食い止める!妹の後始末は姉の仕事だからね!」
無茶だ…!
こんな凶悪な皇女を止めるなんて、無…理…?
いや、しかし彼女はアナスタシア皇女の姉。
もしかしたら…?
姉ならば或いは…
いつの間にか、後ろから付いて来ているはずの同じ新入り二人の足音もぴたりと止んでしまった。
もしかして、もう私と彼女しかいないのか?
ならば、有り難く囮になって頂こうではないか。
あなたの犠牲は無駄にはしません!
「必ずや、助けを呼んで来ます!」
「頼んだわ!」
彼女を通り過ぎ、廊下に出る。
出入り口で彼女が粘ってくれれば、追い付かれる前に助けを呼べるかもしれない。
非常に癪だが、衛兵ならば殿下も止められる…はずだ。
脚がもつれてよろめきながらも、何とか走って行く。
残念ながら、私の走る速さは非常に遅いが…
あの勇敢なオリガ様の奮闘のお陰で、助かるかもしれない。
あの、高貴な身であるにも関わらず、自らの犠牲を顧みないお方。
君子斯くあるべし、という偉大なお方。
美しくも強く、優しさを秘めたお方。
彼女のためにも、私は走らねばならない。
例え牛歩の如く鈍くとも、私は走らねばならないのだ。
「うわあああああああああ!!!!」
そこに、叫び声上げながら後ろから近付いて来る何か。
もしや、オリガ様はもう突破されてしまったのか…?
嗚呼、申し訳ありませんオリガ様。
私はあなたとの約束を果たせそうにありません。
私はここであの獣の餌食となってしまう…
足が遅くてごめんなさい。
新入りでごめんなさい。
もし生まれ変わるなら、サバンナのチーターになりたいな…
今度は追われる側ではなく、追う側になりたいの…
「メイドちゃん!ごめん、やっぱり無理だった!」
へ?
振り向くと、後ろから走って来たのはアナスタシア皇女ではなく、オリガ様…?
あと、メイドちゃん、とは私の事で良いのだろうか?
「ど、どういう事ですか?」
「メイドちゃん、後ろ!後ろ見て!」
「後ろ…ですか?…後ろぉ!」
彼女の後ろには猛ダッシュして来る殿下のお姿。
私、やっぱり追われる側だった!
「そう、妹引き連れて来ちゃった!」
そんな…
どうせなら逆方向に逃げるとかして下さいよ…!
「わ、わ!追い付かれてしまいますぅ!」
「うん、そうだね!じゃ、お先に失礼!」
「ちょ、え!?」
お先に…失礼…!?
え、私を見捨てるんですか!?
さっき折角あなたの事を心の底から尊敬してたのに!
テノヒラクルー!?
あなたの手の平モーターか何かですか!?
「見捨てないで…!」
「ごめん、無理!メイドちゃんの犠牲は忘れないよ…!」
忘れても良いから助けて!
そうこうしているうちにも殿下は背後からずんずん距離を詰めていく。
駄目だ、私の余命は残り十秒足らず…
短い人生だった…
故郷の弟達、仕送り出来ないお姉ちゃんを許して下さい。
悪いのは私です。
全面的に私の足が遅いせいです。
決してオリガ様は悪くありません。
何故なら、私が勝手に勘違いしただけなのですから。
迫る足音。
覚悟を決めよう。
タイタニックのラストシーンの如く、美しく最期には散るのだ。
どうせならばオリガ様のため、少しでも時間稼ぎするために立ち向かってやる!
くるんっと後ろを振り向き、走って来る殿下にぶつかっていく。
相対速度は凄まじい。
彼女とて無事では済むまい!
「おりゃああああ!」
自分でも可愛らしいなぁ、と思う様な声を上げ、右肩を突き出して突進。
いや、ホント、私の声って可愛いんです。
正面からの突撃など無謀。
しかしアメフト選手に出来るなら、私にだってできる可能性が無い訳ではないかもしれないじゃない!
「メイドちゃん、ナイスガッツ!」
え?オリガ様…?
背後からそんな声が聴こえた様な気がした。
気のせいか。
幻聴か。
きっと気のせいだ。
彼女はもう既に逃げたのだから。
走馬灯、これがそうか。
殿下の動きがスローモーションに見える。
無駄だ、私の脳よ。
どんなに過去の記憶を探ろうとも、この状況を解決する手段など…
…本当にオリガ様!?
彼女は私の横を通り過ぎて、殿下の方へと向かう。
彼女の突き出す右手には何かが握られている。
布?
「ナーシャ、ほら、コーリャの使用済みパンツよ!これでも嗅いでなさい!」
使用済み…パンツ…?
刹那、その使用済みパンツ(仮)がアナスタシア皇女の鼻にクリーンヒット。
そして時間が止まったかの様に、誰も動かない。
…
数秒の沈黙を破ったのは、殿下だった。
「兄上の…匂い…間違いない…兄上の匂いだわ!」
彼女はその場で膝をつくと、オリガ様からそれをひったくって、廊下の上をごろごろと転がりながら嬉しそうにくんかくんかと匂いを嗅ぎ始める。
「よし、無力化完了っと!メイドちゃん、囮にしちゃって悪いね」
「お人が悪い…死ぬかと思いました…」
「ははは、大袈裟だなぁ。半殺しぐらいにしかならないよ」
それだけでも十分だと思うのですが…?
「いやあ、こんな事もあろうかと弟の使用済みパンツを回収して保管しておいたのよねぇ〜」
弟って…
陛下…正確には次期皇帝確実の皇太子のニコライ様では…?
つくづく恐ろしい、姉ってのは…
「さて、ナーシャ。多少は正気を取り戻した?」
「姉上、失礼な!私は元から正気でした!」
いやいや、あれの何処が正気なのか、具体的に教えて欲しい…
「ナーシャ、朗報よ」
「何ですか?手短かにお願いします。私は兄上の残り香を堪能するのに忙しいので」
「ふふふ、なら、そんなものではなく、本物を存分にくんかくんかしたくない?」
「本物の兄上をくんかくんか!?」
「そうよ。もう私達では手が付けられそうにないから…」
オリガ様が取り出したのは何かの書類。
内容はよく分からないが、多分大事なものだろう。
「まさか…!」
「うん、あなたもフォーアツァイトに行く事を許可します!」
ひゃっほーい、とパンツ片手にアナスタシア皇女は跳び上がる。
「その紙、見せて下さい!」
「はいはい、どうぞどうぞ」
奪い去る様にして書類を受け取ると、彼女は熱心に文字を追う。
「姉上…!これ、もう今直ぐにでも出発出来るではありませんか!!」
「そうよ、これ以上ここにいられちゃ堪ったもんじゃないもの。あなたが望むのなら、今日でも問題無いわよ。まあ、私がお留守番するから存分にコーリャを襲いに追いかけたら?勿論フォーアツァイト側の許可も得たわ」
「姉上、この借りは何れ必ず返しますっ!取り敢えず一言!有り難うございます!!」
「う、うん。まあ、ここで暴れられるのも困るからなんだけど…喜んでくれたならそれはそれで良いけどね」
「では、姉上!行って参ります!」
彼女はまるで軍隊の行進の如くずんずんと歩いて行く。
「わ、わ!ストップ、ストップ!」
しかし、それをオリガ様が制止する。
「何ですか?」
「メイドはどうするの?旅のお供に数人連れて行かないと。そこまでは用意出来てないわよ」
「なら、そこに突っ立っている彼女で宜しいのでは?」
そうして彼女が指差すのは勿論、私だ。
「私ですか…?」
「他に誰がいるの?ちょっとイライラしちゃって、普段から側に侍らせているメイド達には八つ当たりしちゃったし、あなたが丁度ここにいるのも何かの縁だと思うの」
冗談じゃない…!
いきなり殿下お付きの侍女など、大出世なのは間違い無い。
だが、仕える相手はあの殿下…!
命がいくつあっても足りない!
それに、ちょっとイライラしちゃって、だって?
あれがちょっとなのなら、マックスはどれ程なのか。
「私はまだ新入りでして…殿下のご期待には応えられそうにないというか…」
「あら、ならば尚更好都合ね」
「え?」
「つまり、私好みに教育出来る、という事でしょう?」
「で、殿下…?な、な、何を…」
助けて!っとオリガ様を見るが、彼女はにこにことしながら頑張れ、とこちらに手を振るのみ。
これは、赤紙が来る様なものではございませんか…?
「さあ、あなたの名前は?」
「えっと…アリサです」
「じゃあ、呼び名はリサね。これから長い付き合いになるのだから。宜しく、リサ」
長い付き合い…?
そんなもの、ご遠慮頂きたいのですが…!?
「宜しくお願いします…殿下」
「ああ、殿下はいただけないわね。私達、これから二人で旅をするのに。謂わばパートナーなのよ?」
「なら、アナスタシア様…?」
「それもダメ」
ふむぅ…他に呼び名は…
「じゃあねぇ…ナーシャちゃん、にしましょう」
「そ、そんな!その様な無礼な呼び方…!」
「良いのよ、だってこれからあなたは私の腹心の部下になるのだから。最近、エレーナも兄上寄りになってきて、何か対策を講じたいところだったのよ。私の意のままに動く人形さんが欲しかったのよ」
人形さん?
私が?
「でも、リサも私の言いなりは嫌でしょう?だから、私もある程度はあなたの望みを叶えてあげる。そのためにも、私とあなたの関係を周りに手っ取り早く知らせてあげる必要があるの。例えば、親しげに呼び合ったりしてね。分かった?」
「理屈としては分かりますが…」
「なら、契約成立ね!善は急げ、よ!では、早速一時間後に出発するから準備して来てね!」
にこりと彼女は微笑んでみせる。
嗚呼…嫌な予感しかしない…
こうして、妹と新入りメイドはフォーアツァイトに向かう事となったのだった。