XXX.私の秘密と彼女の秘密。
※注釈
・グート
gut。
英語にすると、good。
つまり、そういう事。
「ルイーゼさん、あの…今から手を繋ぐ必要って無いですよね?着いてからでも良いのでは?」
「もー、何回言ったら分かるんです?さん付けとか以ての外ですよ!呼び捨てでお願いします!」
「いや、そこまでやらなくても」
「幼女を甘く見てはいけませんよ。これくらいしないと騙されてくれませんから」
そう言って彼女は私の手を引き、ずんずんと歩いて行く。
「ほら、ちゃんと呼んで下さい」
「ルイーゼ…」
「もう一回!」
「ルイーゼ」
満足気に彼女は頷く。
「さて、計画をもう一度確認しましょう。ヴィートゲンシュテインさんはどうするか、覚えてますね?」
「ええ。まるで付き合って三年目のカップルの如く、振る舞えば良いのでしょう?」
「そうです!私の存在がまるで当たり前かの様な態度をとって下さい。後は私が何とかしますから」
非常に心配だが…他に良い案も無いし、彼女の提案に乗る他に手段は無い。
ならば一か八か、彼女に賭けるしかあるまい。
「あ、それと、敬語もいけませんね。今のままでは、付き合いたての中学生カップル以上に余所余所しく見えてしまいますよ。はい、敬語も止める!分かりましたか?」
「え…あ…分かった」
「うん、グートです!」
彼女はぽんぽんと私の背中を叩く。
この数時間で分かった事だが、彼女は想像以上に快活だ。
ソフィア医師に雰囲気が似ているものだから、彼女も大人しいものだとばかり思っていた。
しかし、蓋を開けてみれば、この活発さ。
「さあ、次はどちらですか?」
「ここを右だ。ほら、あそこ」
遂にナディアとソフィア医師の待つ部屋に到着。
ルイーゼにはナディアの事は教えたが、ソフィア医師の事はまだ話していない。
大丈夫だろうか…?
「いよいよ本番ですよ。心の準備は?」
「問題無い」
緊張などしていない。
ただ、少し心配なだけだ。
こんこん、とノックをして、ドアノブに手を伸ばす。
ガチャリ。
「ナディ──」
ナディアの名を呼びながら、数センチ程扉を開けたその刹那。
目にも留まらぬ速さで横腹にドロップキックがかまされる。
「…アぁぁあ!」
ジャストミート!
私は横にぽーんと吹っ飛び、すかさずルイーゼが私を支え、何とか転倒は免れる。
足を攣った時並みの痛みが走るが、それを堪えて、前方に立つ彼女を見る。
犯人は勿論、ナディアだ。
「な、何を…!?」
「へーか、これはアイノムチなの!おとなしく、くらっててね!とりゃあっ!!」
もう一度彼女は助走からのドロップキック。
しかし、それは跳び込み前にルイーゼによって防がれる。
「な、なんですか、このひと!?ナディアのじゃまをしないで!」
「ふふふ、そうはいきませんよ!もうドロップキックは私が封じました!」
はなせ!とナディアが暴れるが、ルイーゼには敵わない。
完全に押さえつけられている。
そこに、遅ればせながらソフィア医師とエレーナ副メイド長が駆け付ける。
「陛下、帰って来るなりいきなりどうしたのですか?」
「いや、ナディアが襲い掛かってきたのだ!」
副メイド長はやれやれと溜め息を一つして、ルイーゼからナディアをひょいっと奪う。
そしてちょいちょいと何やら怪しげな事をする。
すると何とまあ、釣りたてのマグロの如く暴れていたナディアが急に大人しくなる。
流石、副メイド長。
鮮やかな手捌き(?)だ。
ルイーゼもそれを見て感心している。
「メイドさん…す、凄いですね…!」
いえいえ、と彼女は何て事無い風に応じると、ナディアを膝の上に載せて椅子に座る。
多少扱いは雑だが、彼女なりにナディアを可愛がってはいる様で、彼女は結構ナディアの遊び相手になる事も多い。
故に、ナディアの扱いに関しては彼女の右に出る者はいない。
これくらいならばお手の物だろう。
対ナディアだけでなく、ナーシャ相手でも無類の強さを発揮する事から、彼女の秘めた力には恐ろしいものがある。
絶対に敵に回してはいけない人物ランキング、余裕のナンバーワンだ。
そしてここからがソフィア医師の出番。
「ナディア、いきなり襲ったりしては駄目でしょう?」
最近医者としての仕事が殆ど無いため、ナディアの教育係みたいな扱いになってきた彼女だが、本人もその役割をかなり気に入っているらしく、しっかり職務を果たしてくれる。
こういう時にナディアを叱るのはソフィア医師の役目だ。
「だって…」
「分かりますよ、ナディアの気持ちは。私だって陛下にドロップキックしたいですとも。でも、本当にしてはいけませんよ?」
「へーかがうらぎりものの、おんなたらしでも?」
「そうです。どんなに陛下が女たらしでも、暴力はいけません」
何だか、この会話はぐさっとくるなあ…
「ヴィートゲンシュテインさん…」
ソフィア医師が長々と説教をしているうちに、ルイーゼがこそこそと私に小声で話し掛けてくる。
「は、はい」
「あの…あの女の子ですか、知り合いの子って」
「そうです。あの子です」
「あの子…プラトーク皇太子の婚約者ですよね?」
「あ…えーっと…その…」
もうここら辺が潮時か。
「すいません…嘘を吐いていました。私はプラトーク皇太子のニコライで、ヴィートゲンシュテインではありません」
「やっと本当の事を言ってくれましたね。実は、最初から気付いてたんです」
「え?」
彼女はウインクすると私の肩を小突く。
「ところで、そちらの女性は?」
「申し遅れました。私、ホーエンツォリルン…いえ、堅苦しいのは止めておきましょう。簡単に言えば、現皇帝の妹のルイーゼです。どうぞ宜しく」
え…?ホーエンツォリルン家…?
唖然。
彼女が…まさか…
確かに、高貴な身であろうとは思っていた。
しかし、まさかヴィルヘルムの妹だと…!?
もし彼女がからかっているのでも何でもないのなら…
私はずっとフォーアツァイトの要人といた事となる。
「フォーアツァイトの、えらいひと?」
「いえ、別にそこまで偉くはないですよ」
彼女はそう言うと、まだ幾つかドーナツの入っている紙袋をナディアに手渡す。
「少し食べちゃいましたけど、甘いお菓子です。良かったら食べてね」
餌付け完了。
ナディアはにこにことしながらお礼を言って、直ぐにぱくぱくと食べ始める。
おいしいおいしい、とご満悦の様子だ。
ナディアは少々食い意地を張っているところがあるので、今までに食べた事がない美味しいお菓子によって、一気にぐーんとルイーゼに対する評価が上がったはずだ。
掴みとしては最高だろう。
「喜んでもらえたなら良かった。ニコライさんからプラトークには無いと伺ったものですから」
彼女はナディアと仲良くなろうとお喋りをし始め、
「陛下?どうしたのですか?」
未だに茫然としていた私に、ソフィア医師が声を掛けてくる。
「いや、何でもない」
「そうですか?」
「ああ、大丈夫」
ルイーゼには一杯食わされたな。
アーデルベルトといい、ホーエンツォリルン家の人々には負けっぱなしだ。
アーデルベルトにも未だに仕返し出来ていないし。
「そうだ、もし良かったら明日一緒にお出掛けしませんか?」
「え、いいの?」
「ええ。私もよくお忍びで街に出歩くんです。アーデルベルトも誘って、皆さんで行けばきっと楽しいですよ。是非とも私に案内させて下さい」
「いくいく!」
ルイーゼとナディアの方は、勝手にそんな話を進めている。
「へーか、いいでしょう?いこうよ、おねがい!」
ナディアは私に許可を求めてくる。
勿論、ルイーゼの提案とくれば、断る訳にはいかない。
「分かった、分かった。心配しなくても許可するから安心しろ」
私のその一言で、いやっほーい!とナディアは大喜び。
まあ、ナディアも喜んでくれた事だし、明日は付き合ってやるのも良いだろう。
「では、ルイーゼさん。宜しくお願いします」
「ふふふ、ニコライさんったら。呼び捨てで構わないと言ってるじゃないですか」
いや、ホーエンツォリルン家の人間と分かった以上、流石にそれはちょっと…
「ルイーゼさん、そんな失礼な事は…」
「呼び捨てで。ほら、良いから良いから」
「でも…」
「ニコライさん?呼び捨てでお願いしますね」
はあ…
何故そこまでこだわるかなぁ…
「分かりましたよ…ルイーゼ…」
「うん、グート、グート!」
まあ、流石にもう敬語に関しては譲れないが。
「では、また明日。もう遅いですし、私はそろそろお暇しますね」
「あ、じゃあ送って行きます」
「ルイーゼ、バイバイ!」
「陛下、送るのは結構ですが、寄り道せずに早く帰って来て下さいね」
「ああ」
彼女と一緒に部屋を出る。
何だか廊下も部屋に入る前とは違った風に見える気がする。
「驚きましたか?」
「ええ、当然」
「ビックリ度はどれくらいでしたか?」
「百点満点で、百二十ですね」
それは驚かせ甲斐がありますね、と彼女は落ち着いた雰囲気からはちょっと意外な程に悪戯っぽく笑う。
「まさか、こういう事だったとは…成る程、上手い作戦ですね」
「ふふ、そうでしょう?ニコライさんをちょっと騙す結果になってしまいましたが、お互い様ですからそれは許して下さいね」
「“ナディアの前でイチャイチャして怒っていた事を忘れさせる”なんて策、上手くいくとは思えなかったのですが、ルイーゼさんがやけに自信満々だったので、不思議だったのです。本当は、あなたの地位を活かしてナディアに注目させる作戦だったのですね」
「その通りです。でも、ぎりぎりまで私の正体は内緒にしておくつもりだったので、本当の作戦は黙っておく事になってしまったのです。後、呼び捨てでお願いしますね」
「え?ナディアの前でなくとも?」
「そうです。あの子の前以外でも」
「何故?」
「そう呼んで欲しいからですよ」
えっ?と私が反応すると、又もや彼女は笑う。
「特に意味は無いですよ?変に期待しないで下さいね?」
「わ、分かってますよ!」
お見通しか…
「それに、ルイーゼ…はもう結婚してらっしゃるし、流石に対象外ですよ」
「そんな事言いましたっけ?」
「言いましたよ、親が決めた相手と結婚したって」
「あら、それは勘違いですよ。私はまだ未婚ですから」
「へ…?」
もう何回“へ?”と間抜けな声を漏らした事か…
しかしそれでも私は又もや呆気にとられてしまうのだった。
「婚約者がいる、とは言いましたが、まだ結婚してはいません」
「そうなんですか?」
「はい、そうなんです」
まさかの、彼女はまだ結婚していなかったという…
まあ、婚約しているなら結婚しているも同然だが。
「ですから、先程は期待するなと言ってしまいましたが、ニコライさんも頑張れば私を今の婚約者から奪い取れるかもしれませんよ?何とも都合の良い事に、今の私は婚約相手に不満を抱いている事ですし」
そうからかいつつも、彼女は本当に私がそうする事を望んでいる様にさえ見えた。
いや…それは少し自意識過剰か。
「ははは、からかわないで下さいよ」
「もし本気だとしたら?」
「私を試しているのですか?」
「そうかもしれませんね」
そして沈黙。
二人とも黙ってしまう。
私が何か切り出すべきなのだろうか?
「本当に実行するかどうかは置いておいて…」
彼女は、はっとした様に私を見る。
「…私の中ではそれも悪くないな、なんて考えている自分がいます。でも、一方で、きっとそんな勇気は出ないだろうし、その婚約者よりも私の方がマシだという保証が出来ずにいます」
「臆病なんですね」
「ええ、本当に」
…
「すいません、困らせちゃって」
「いえ、構いませんよ」
「何だか、あなたを見ていると、つい困らせてしまう様な事を言ってしまいたくなるんです」
「私が憎いから、ではないのでしょう?」
「勿論です。でも、何故でしょうね、こんな気持ちになるのは」
「さあ、何故でしょう」
「もしかしたら、心の何処かであなたに甘えてしまっているのかもしれません。ニコライさんなら困らせても良い、ニコライさんなら許してくれる、って」
「もしそうならば嬉しい事ですよ。それだけ私を信用してくれているのでしょう?」
「はは、どうでしょうか…よく分かりませんね」
「まあ、そういうものです。案外、自分の事なのに自分でも分からない事って多いですから」
「そうですね。あ、ここまでで良いです」
ここから先は、客である私が入る事は出来ない様だ。
「そうですか、ではまた明日」
「ええ、また明日。明日はあのドーナツの屋台にも案内しますから、楽しみにしていて下さいね」
「ほお、それは期待せずにはいられないですね」
「もっと凄いものもいっぱいあるんですから!」
「なら、せいぜい楽しみで眠れなくならないように気を付けておくとしましょう」
「ごめんなさい、それはちょっと無理かも」
「何故です?」
彼女はぐっと私の服を掴むと、私の口にキスをする。
「え……??」
私は何も言えずに、立ち竦む事しか出来ない。
「今のキスは…忘れて下さい。これのせいで眠れなくなったら大変ですから」
彼女はそれだけ言うと、去って行く。
ふわりと柔らかいキス。
短いし、簡単なものだったが、異常な程に唇に感触が残り続けていた。
今夜は、眠れそうにない。