CLII.飛鳥
「ねえ、お母さん。あれ見て」
「なあに?」
幼い少女が空を指差すのを見て、彼女もつられて空を見上げた。
しかし娘が指差す先には何も無い。
建物によって四角くくり抜かれたキャンバスに、ただ灰色に濁った空が広がっているだけである。
「何も無いよ?」
「でも、鳥さんがいっぱい飛んでるよ」
もう一度目を凝らしてみるが、やはり何も飛んでなどいなかった。
「う〜ん…お母さんには見えないなぁ。どんな鳥さんだった?」
「遠いから分かんない」
だ、そうだ。
何かの見間違いだろう。
「そうねぇ…それは残念ね」
さあ行きましょ、と娘の手を引き、母親はまた歩き出した。
今の彼女に出来る事は、夫が無事にまた戻って来る事を祈り、少しでも遠くへと歩く事だけなのである。
途轍もない無力感と遣る瀬無さが彼女を襲った。
彼女は娘を不安がらせないため、必死に涙を堪えて明るく振る舞っていた。
だが、事あるごとに夫の事を思い出してしまって、度々涙が溢れそうになるのだ。
それで、彼女は娘と会話したり、他の事を考えて気を紛らわすのだった。
すると、常に湧き上がる疑問があった。
何故プラトーク帝国はこの様な事を?
何故?
何故?
全く気にもしていなかった隣国が、近代的な軍隊など持っていなかったはずの隣国が、脅威になどなり得ないはずだった隣国が…
何故だ?
何故攻めて来た?
何故なのか?
余りにも唐突過ぎるのである。
普通、戦争というのは事前にその前兆というか、何かしらの理由があって起きるものである。
しかし連邦と北帝国間の関係は数十年間殆ど変わっていない。
互いに攻める理由も無ければ、攻められる理由も無いのである。
唯一の要因として思い浮かぶのは、新しいプラトーク皇帝の事であった。
最近、先代皇帝が崩御し、皇太子が皇帝に即位したらしいが…原因はそれだろうか?
もしそうであるならば、何故彼は連邦に侵攻しようと思い至ったのだろう?数十年の安寧秩序を投げ捨ててまで?
いや、もう一つある。メーヴェが自由国に宣戦布告した事。
だがそれも…それ以後何の動きも無かったではないか。
彼女がその様な事をぼんやり考えていると、突如辺りが騒がしくなってくる。
「あれ、何だと思う…?」
「れ、連邦の航空隊だろ?ま、まさか…プラトークの爆撃機のはずがねえよ…」
「そうだそうだ、プラトークの田舎者共があんだけの爆撃機編隊をここまで送り込める訳がないんだ」
「じゃあどうしてあっちの方向から来るんだ?北帝国の方角じゃねえか」
「馬鹿か!プラトークの連中と戦ってきて今まさに帰投する最中の連邦航空隊だろ!無敵のシヤンに敵う戦闘機なんかいないんだ!特に、プラトークなんぞにはな!」
皆空の向こうをじっと見つめ、口々に何か言い争っている様だ。
母親は、そのうちの一人に事情を聞く事にした。
「すみません、どうかしたのですか?」
さっきまで喚いていた男は、突然話し掛けられてハッとする。
「あ、ああ…どうもこうもねえよ、あっちの空を見てみな」
彼が指す方向は、先程少女が示した方向とそっくりそのまま同じだった。
促されるままにそちらを見ると、遥か向こうの空に黒っぽい点が無数に見えた。
「あ、何か飛んでますね」
「だろ?あれが連邦のものなのか、あるいは帝国の野郎共のものなのか議論してたのさ」
「誰も分からないんですか?」
「遠過ぎて分からねえんだ。だから、みんなどうすりゃ良いのか分からず困ってんのさ」
そういう事だったらしい。
やはり少女の言っていた事は本当だったのか。
「お母さん」
少女は何かを言おうとして、母親のスカートを引っ張る。
「ん?何?」
「銀色だよ」
「何が?」
「あれ、鳥さんじゃなくて飛行機なんでしょ?銀色だよ」
それを聞いていた周りの大人達も反応する。
「嬢ちゃん、見えるのか?」
「うん」
彼等は黙って顔を見合わせると、頷き合い、次々に質問を投げ掛ける。
今は子供の言葉にでも縋りたい気分らしい。
「何機ぐらいだ?」
「んーっと…五十…?」
「大きさは?」
「分からない…」
こうして質問攻めの結果、彼等は一つの結論に辿り着く。
「このチビ助の言ってる事が間違いないなら…ありゃあプラトークの飛行機だぜ…!」
少女の証言を元にすれば、どの連邦の航空機とも違う代物なのである。
「どうする?」
「決まってんだろ、他の奴等にも知らせるんだ!おい、行くぞ!」
こうして、男達はばらばらに散って行き、各々が敵機の来襲を報せる事となった。
「空襲警報ーーっ!!爆撃機が来るぞぉぉ!」
「そんな馬車、乗り捨てちまえ!お空からはさぞかし目立って見えるだろうなぁ、良い的になるだけだぞ!逃げろ、早く!!」
すると半信半疑だった他の人々も覚悟を決めたのか、一目散に逃げ出す。
大きな荷物を運んでいた人々もそれはその場に放置して、ただひたすらにその場から離れる事に専念する。
「嬢ちゃん、教えてくれてありがとな!お礼にコレ、貸してやるよ」
男が母娘に貸したのは、彼が乗っていた自転車だった。
「自転車なら徒歩よりは随分マシだぜ。小回りも効くしな」
「良いんですか?」
「良いんだ、良いんだ。それにあげるとは言ってねえぜ、貸すんだからな。ちゃんと返せよ」
母親は男に礼を言うと、後ろに娘を乗せ、自転車を漕ぎ始める。
「しっかり掴まっててね」
「お尻痛い…ガンガンする」
「ごめんね、我慢してね」
娘を慰めつつ、彼女はひたすらに漕いだ。
どこに行けば良いのやらさっぱり分からなかったが、兎も角その場から離れようと漕いだ。
すると、遥か遠くの方から爆発音が響いてくる。
「爆撃音か?!」
「いや、違うぞ…いくらプラトークの阿呆共でも、わざわざあんな所に落とさねえよ。恐らくプラトークの地上部隊だ!」
「爆撃機だけじゃなく地上部隊も直ぐそこまで来てるってか!クソッ!」
何かを罵倒しながら、彼等は走り出す。
そして今度は馬に乗った軍人が一人駆けて来る。
「市民諸君!!このまま真っ直ぐ進め!この道を進めば、その先には連邦軍の一個大隊が展開中だ!少なくともそこまで辿り着ければ多少は安全だ、急げ!」
「おい、軍人さんよ、制空権ってのはどうしたんだよ!?何故プラトークの爆撃機がここまで来てるんだ!?」
「私にも分からん!だからさっさと走れ!それと君、大隊と合流したら是非とも君も武器を取って戦ってくれ給え!」
そして今度は一つや二つではなく、何百何千と爆発音が轟く。
同時に、人々が悲鳴を上げる。
「どこに向けて撃ってるんだ?!」
「ずっと後ろの方だ…きっと徴兵された奴等を狙ってるんだ!こっちじゃない、今のところはな!」
それを聞いて、母親は夫の事をまた思い出していた。
その砲撃が自分の夫の上へと降り注ぐ様を想像して、身震いがする。
「お母さん、どうしたの?寒いの?」
その様子を心配して、すかさず娘が声を掛ける。
「い、いや…何でもないのよ」
「ねえ、逃げるって何?飛行機から逃げるの?どうして?」
「さあ、どうしてだろうね」
「じゃあ、この音は?」
「花火か何かかしら」
こんな誤魔化しがいつまで続くのか、と思いつつ母親にはそうするしかなかった。
現在は、幼い少女が知るには余りにも過酷過ぎたのだ。
そうこうしているうちにも、黒っぽい点にしか見えなかったプラトークの航空機がはっきりと見えるようになってくる。
かなり距離が縮んできた様だ。
何のつもりなのか、プラトークの爆撃機編隊は一向に爆撃を開始しようとしない。
「爆撃する気が無いのか…?それとも…」
…こちらを狙っているのか?