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CXLVIII.カリギュラの足音。

※注釈

・カリギュラの足音

軍靴の足音。しかしそれはあまりにも小さ過ぎて。

「お母さん…」


 少女が泣きそうな顔で母親のスカートの裾をぐっと握りしめていた。

 まだ小さなその手では、ほんの少ししか掴めない。


 しかし、それは母親を驚かす程に力強かった。


 少女は少し色の落ちた淡い青のワンピースに、厚手の紺のカーディガンを羽織っていた。

 まだ外套を着るには早いが、夏も終わったばかりだというのに空気はぴりりと冷たい。

 比較的高緯度に位置する連邦北部は、寒冷な気候なのだ。世間的にはその様なイメージを持たれてはいないが、連邦北部の冬はフォーアツァイトと変わらぬ程厳しい。


 少女は背中には小さな鞄を背負っている。

 元々はシンプルな革製の鞄で、地味な色合いだったのだが、彼女のために、と母によってピンクの布が表面に縫い込まれ、可愛らしいアップリケやリボンが飾られ、今は幼い女の子にも相応しい代物となっている。


 忙しそうにしていた母親は手を止め、足元に立ってこちらを見つめる娘を見た。


 見上げるその小さな瞳には薄っすらと涙が滲み、キラキラと小さな宝石を輝かせていた。

 彼女がもう少し大きければ、大勢の男どもを恋という名の病の床に叩き落とせたであろう程に、その様子は誰にとっても美しい。

 美しい、などという幼女には似合わない言葉を以って表現しなければならない程に。


「どうしたの?」


 優しく応え、母親は娘と目線を同じ高さにするために、その場にしゃがみこんだ。

 母親には娘が言おうとする事が大体予測出来ていたが、敢えてそんな事は表に出さない。


 母親は娘とは違って黒髪だが、顔は非常に似ていた。


 柔らかに微笑みかけ、その小さなブロンドの髪を撫でた。

 細く、繊細で、生糸の様なその髪が光を反射して黄金に輝く。

 それと共に、少女は目を閉じ、瞼から涙が零れ落ちた。


 少女は母親に抱きつくと、スカートにべちゃりと涙やら鼻水やらを付ける。

 あらあら、と母親は少し苦笑いするが、しっかりと娘を抱きしめ返した。

 すると今度は首元に少女が色々と付けてベトベトにしてくるが、母親は気にも掛けない。


「どうしたの?寂しくなっちゃった?」


 母親は娘の背中をさすり、もう一度訊ねた。

 娘はぐすっぐすっと今にも泣き出しそうな顔で、母親を見上げる。


 その様子があまりにも可愛らしくて、母親は少し笑いそうになったが、何とか堪える。

 いくら大人からすれば愛らしい少女の様子であろうとも、本人は真面目なのだから笑ってはいけない、と。


「あのね、ルナがいないの…」


 ルナとは、この幼い少女が大切にしていた人形の事である。

 母親が娘のために余った布やフェルト、毛糸で作っただけのものだが、少女にとっては何よりも大事なものだった。

 ルナは彼女の友であり、宝物でもあった。

 少女のいる所には常にルナがいたのだった。

 流石に風呂にまで一緒に入ろうとした時は止めたが。


 母親の日々の修繕によって辛うじてまだその形を維持してはいるものの、既に薄汚れ、擦り切れ、未だに原形をとどめているのが不思議なぐらいボロボロな代物だった。

 母親も流石に見兼ねて何度も棄てようかどうか迷ったのだが、そうすると娘が悲しむ事は火を見るより明らかであるため、渋々ながらその人形を捨てずにいた。


 そんなルナちゃんだったが、少女にとってはやはり何物にも代えがたいものなのだろう。

 少女にとっての人形の価値とは、それと過ごしてきた時間そのものなのだった。


「まあ、お家に置いて来ちゃったのね。困ったわね」


 実際に母親にとって、とても困った事態だ。

 彼女は何を優先すべきかは理解していたが、それでも取りに戻ってあげたかった。


「うん…お家に取りに戻っても良い?」


 母親はこの少女の小さな望みを叶えてやりたかった。

 彼女の家庭は決して裕福ではなく、今までも我慢させなければならない事が多かった。

 幼いながら周りの子供と自分を比べて、羨ましく思う事もあっただろう。


 だからこそ、こんな些細な望みぐらい、叶えてやりたいと思った。

 これ程までにこの幼い少女に我慢を強いているというのに、まだこれ以上のそれを強制するのか、と。

 この幼い少女から、唯一の宝物にして唯一の友人である存在すら奪うのか、と。


 しかし、いくら母親が自分にそう尋ねようとも、それはどうしようもない事なのだった。

 どんなにこの愛らしい少女に苦痛を強いようとも、それ以上の苦痛が迫る今、そちらを避けねばならない。


「ごめんね。お父さんが待ってくれているからね。ルナはまた戻って来た時にしようね」


 それ故に、優しく言い聞かせる様にして少女をなだめるが、少女はそれを聞いて頰を膨らませる。


「イヤ!ルナと一緒じゃないとダメなの!」


「ルナにはお家でお留守番していてもらおうね?大丈夫、きっとまた直ぐに会えるから。ね?」


 まだ駄々をこねる娘を抱き上げると立ち上がり、母親はあやす様にトントンと軽く背中を叩き、高く掲げる。

 少女は駄々をこねる事は歳相応にあるが、聞き分けは良い方だ。

 我慢に慣れている、というのは本来なら良くない事なのだろうが、現にそう育ってしまっているのだ。


「ルナならきっと待ってくれるよ。その時は、ただいま、って言ってあげようね。さあ、行こう」


「う〜ん…」


「お父さんが待ちかねてるよ。ほら、早く会いに行こう!」


 母親が無理に明るい声色でそう語り掛けると、少女は渋々といった様子で頷いた。


 ──ああ、本当に聞き分けが良い。良過ぎる。

 その様に心中で嘆きながらも、母親にとってそれは都合の良い事でもあるという矛盾。

 彼女がいくらか皮肉を言いたくなるのはこういう時だった。


 母親は娘を降ろすと、手を繋ぐ。


 小さな小さな手。

 …でも、少し前まではもっと小さかった。

 確実にこの子は大きくなりつつあるのだ。

 大人の歩幅に合わせてちょこちょこと必死に小走りする様子が可愛らしい。

 この子もいつかは自分の様に母親となって、子供と手を繋ぐのだろうか。


 そう思うと複雑だった。

 いずれその時は来るのであろう。

 自分とてそうだったのだから。


 子供が生まれてからというものの、彼女には時間が一瞬で過ぎ去っていく様に思われた。

 嬉しくもあるが、まだこのままでいて欲しい様な気さえする。

 幸せなこの時間が崩れて欲しくない。

 母親の今の最大の願いはそれのみだった。

 願わくば時間よ止まれ、永遠なれ、と唱えたい程にただそれのみだったのだ。

 つまり、貧しくとも彼女は今、幸せだったのである。



 ✳︎



 しばらく歩くと、少女と母親は、少し古めかしい建物に辿り着いた。


 元々美しい色をしていたであろう外壁は、同じ様な鍛冶場が並ぶこの一画でも特に黒くくすんでいる。

 複数伸びる高い煙突からはもくもくと黒煙が上っていって、灰色の曇り空へと溶けていく。


 ここは少女の父の働く鍛冶場であった。

 彼はここでしがない鍛治職人として働いているのである。


 少女はわざと白い息を吐き出して遊んでいたが、やっと目的地に着いた事に気付いたらしく、ご機嫌でぶんぶんと繋いだ手を振り回している。


「ここにお父さんがいるの?」


 もうとっくに機嫌を直していた彼女は楽しそうに尋ねた。

 もうルナの事は頭の隅に追いやられている様だ。

 初めて見る父親の職場に興奮しているらしい。


「そうよ。ここで待ってくれているのよ」


 少女はピョンピョンと跳びはねた。


「お父さんはここで何してるの?」


「兵隊さんのために剣を作ってるのよ」


 しばらく跳びはねた後、少女は満足したのか、はあはあと荒い息も気に留めず笑顔を振り撒く。


「剣って何?」


 幼い少女の純な質問に、母親はどきりとした。

 何と答えるのが正しいのだろうか。


「お母さんも包丁を持ってるでしょう?」


「うん」


「それよりもちょっと長いのが剣なのよ」


 何とか誤魔化せた。

 父親が人殺しの道具を作っている事など、無垢な娘に教えたくはなかったのだ。


「兵隊さんは食いしん坊さんなんだねぇ。だから大きいのを使うんだね」


 少女は料理に使うものだと勘違いしたらしい。

 母親も敢えて訂正はしなかった。


 二人はボロボロになったドアの前に立ち、ノッカーで木製のドアを叩く。

 余り激しく叩くとドアが壊れそうで、少し弱めに叩いたのだが、思った以上に大きな音が鳴った。


 しばらく待っても返事は無い。

 中に誰かがいるであろう事は確かなのだが。


 その後も中から返事は無かったので、恐る恐るドアを開けて中に入る。


 中は、少し汗ばむぐらいに暖かかった。

 窓が少ないのか、昼にも関わらず薄暗く、奥の方で火がチロチロと燃えているのが見えた。

 チロチロ、とは言っても実際には数千度の炉なので、非常に高温だ。

 この鍛冶場の暑さもそれが原因だろう。


 入り口から奥の部屋に行くまでの廊下の左右には、いくつもの刃物が飾ってあった。

 刺突剣が中心だが、反りのある剣もちらほらと散見された。


「わあ…大きいね」


 初めて剣を見た彼女には、物珍しく見えるらしい。

 不思議そうに刀身を見つめている。

 これでどうやってお野菜を切るのかな、などという可愛らしい事でも考えているのだろうか。


 奥の部屋にまで辿り着くと、そこには二人の男が立っていた。

 一人は若いブロンドの髪の男で、もう一人は中年の腹がぽっこり膨らんだ男だ。


「お、来たな。俺ももう準備は出来ている」


 若い男はそう言うと、背負ったリュックと腰に差した剣を、体を捻って見せた。


「お父さん!」


 若い男は、少女の父親であり、その少女の母親の夫でもあった。

 少女は笑顔で父親に飛びつく。


「おお、元気だなぁ」


 父は苦笑いしながら娘を受け止める。

 少女は父親のズボンに顔面から突っ込んだ後、顔をグリグリと埋める。

 綺麗に整えられていた前髪がぐしゃぐしゃになるが、彼女は気にしない。

 ちょっと苦い顔をしたのはそれを後で直す羽目になる母親のみだ。


 それを見て少女の父親の隣に立っていた中年の男が笑う。


「ははは、本当に元気だな。お前と違って明るい子だな」


 父親は更に苦笑いする。


「ほんと、誰に似たんでしょうね。元気過ぎて大変ですよ」


 中年の男はくくく、と笑い返す。

 今にもぽんぽこと腹を叩き出しそうな勢いだ。


「夫がいつもお世話になってます。今日も準備を手伝っていただいた様で…」


 頭を下げようとするのを見て、男は必死に手を振る。


「いやいやいや、どうって事ないさ!なに、丁度暇してた所だったからな。暇潰しに手伝ってただけさ」


「それでも有り難うございます。本当に助かりました」


「親父さん、妻の言う通りだよ。ありがとう」


「なあに、良いって!そんな事は言われちゃあ照れるじゃねえか!」


 男は照れ隠しに鼻の下をゴシゴシとこすった。


「お父さん、これからみんなで旅行に行くんでしょ?おじさんも行くの?」


 少女はふと気になり、そんな事を尋ねる。

 ほんの一瞬、場の空気が凍りつく。


 だが、直ぐに父親は何事も無かったかの様に取り繕う。


「いや、おじさんは行かないよ」


 少女の目には、そう答える父は少し哀しそうに見えた。

 父親が少女を抱き上げた。


「さあ、時間は無いからね。もうそろそろ行こうか」


「嬢ちゃん、旅行楽しんで来なよ」


 男が笑って手を振る。


「うん、バイバイおじさん」


 少女も父の腕の中からにこりと笑って手を振り返した。


「じゃあ、先に外に出とくよ」


 父親がドアを開け、外に出た。

 そして急にしんと静かになる。

 賑やかな雰囲気も、直ぐに掻き消えてしまい、今は陰鬱な空気が漂うのみだ。


「嬢ちゃんがいないだけで急に静かになるなぁ」


「そうですね」


 母親はそう短く答えた。


「本当に…申し訳ありません…」


「ん?」


 彼女は深々と頭を下げた。


「私達が逃げるために色々と良くして下さって…」


「っはは!何を今更。ここはもう危険だから逃げなきゃならん。でも誰かが一人残らにゃならん。そうなればここの長である俺が残るのは当然だ。気にすんなよ」


「その…本当にそれは絶対なんですか?もうルールなんて守っている場合ではないのでは?武器を取れる者は皆残れ、だなんて…無茶な命令ですよ。そんなもの誰も守りはしません」


「国が決めた事だ。俺はそれを破る気はない。それに死ぬならここで死にたいんだ。もう近くまで帝国軍が迫っているらしいが、俺はそれを貫くつもりだ。南の方はまだ安全だ。あの嬢ちゃんのためにもあんたらが逃げな」


「…」


 2人は黙りこくった。

 パチパチと炉で火が跳ねる音以外は、何も聴こえない。


「実はな、俺の娘はマタンに住んでるんだよ」


 不意にそう男は語った。


「!?」


 彼女はぐっと次の言葉を堪えた。

 ここは口を挟むべきではない、と。


「妻は、娘の出産の時に死んだ。随分と昔の話だがな。今ではそれ程ではないが昔はまだ出産で亡くなる人も多かったからな。俺の妻もその一人だった。出産後、急に容態が悪化してな…ぽっくり逝っちまった」


 彼女は黙って相槌を打った。


「残されたのは俺と生まれたばかりの赤ん坊ただ一人。ずっと妻と二人でやっていくものとばかり思ってたのに、突然妻は消え、代わりにその子が現れたんだ。ずっと妻と一緒だと思っていた。ずっとその幸せが続くと思っていた。ずっと…だ。妻の分まで、絶対に娘を立派に育てよう、と俺は決心した。だから今まで必死に育ててきたんだ。俺は不器用だから、いっぱい喧嘩もした。母親がいない事でいっぱい苦労もかけた。それでも自分に出来るだけの愛情を注いだつもりだ。それで、娘は一年前に結婚した」


 彼は、何かを思い出すかの様に小さく笑った。


「お父さん、結婚するねって、男を連れて来た時…ああ、俺の役目はもう終わったんだなぁと思った。連れて来た男は、真面目な青年だった。こいつになら任せても良いなと思える様な。それで、娘夫婦は今マタンで幸せに暮らしてる。マタンで…」


 いつの間にか男の声は震えていた。

 眉間に皺が寄り、顔色は蒼白だ。


「マタンは…確か、北部の方の…森の側の綺麗な所ですよね」


「ああ。北部だ」


 彼女はもうそれ以上何も言うまい、と誓った。


 マタンはかなり初期に帝国の侵攻があった地域だった。

 帝国は住民を見境い無く虐殺して進んでいるらしく、マタンの住民が無事だとは思えなかった。

 彼の娘夫婦は殺された可能性が高い。


 でも、それでも彼は信じるべきだろう。娘が生きているという薄い望みに賭けて。

 しかし、目の前の男はそれが出来ずにいた。

 人生の全てだった娘の死を確信し、絶望以外に何も残っていないのだ。


「あなたは俺みたいになってはいけないよ。今ある幸せを逃してはいけない。幸せなんて、一瞬で消え去ってしまうんだ」


「分かりました…では…」


「おう。気を付けてな」


 無理に明るく振る舞った彼の声は(かす)れていた。


 ──ああ、彼は死ぬのだろう。

 彼女はそう思った。

 彼は死ぬと。

 ただそう思ったのだった。

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