XV.はい、妹は元気です。
※注釈
・最大多数の最大幸福
昔、ベンサムとかいうおっさんがおりました。
ベンサムは言いました、「どれくらい幸福かって、頑張れば分かるんじゃね?」と。
これが功利主義の始まりです。
功利主義とは、「苦痛こそが悪であり、快楽こそが正義である!」みたいな考え方。
最大多数の最大幸福とは、ベンサムの言葉であり、幸福の絶対量が最終的に最大になるようにしよう、という事。
噛み砕いて言うと、みんなが出来る限り幸せになれるようにしよう、という意味。
ただし、ベンサムの理論は幸福の質だとかをあまり考慮していないので、ミル君が後に「おじさん、それは違うよ」と修正を入れました。
「総司令官より入電です」
軍服姿の通信士の女性が、小さなメモ書きを手渡してくる。
見ると、その紙にはびっしりと小さな文字が並んでいた。
「有り難う。仕事を続けてくれ」
「はっ」
彼女は私に向けて敬礼すると、再びヘッドホンを着け、何も聞き漏らすまいと再び無線に集中し始める。
大変結構。
私はそれを見て頷くと、紙切れを手に隣の部屋に向かう。
扉を開けると、二人の可憐な少女が渋面で椅子に腰掛けている。
折角の可愛さが台無しになるぐらいに、その眉間には皺が寄っている。
「殿下、朗報です。援軍は既に帝都郊外にて集結済み。こちらに向かっているとの事です」
姿勢を正すと、出来る限り平坦に、淡々と連絡事項を告げる。
「ほう、それは良いな。ヴィートゲンシュテインの奴、中々に手際が良いではないか」
彼女はにやりと一瞬だけ笑うが、直ぐに元の表情に戻る。
「だが、勝算はあるのか?援軍も我々と同様に敵と装備の質が全く違うのだろう?」
「ええ、その通りなのですが、どうやら何か策がある様です」
「策?」
「何をするつもりかは分かりませんが…援軍の指揮をしているのは総司令官ではなく…陛下だとの事です…」
陛下、という言葉を口にした瞬間、彼女は血相を変えて立ち上がる。
「兄上!?何故兄上が?!」
「わっ…!」
不甲斐なくも、この様な少女相手に驚いてしまった。
しかし、仕方あるまい。
この少女は、ただの皇女などという生易しいものではないのである。
帝国を裏から操っている、言わば影の実力者。
この少女の機嫌一つで私の首は勿論の事、家族から親戚に至るまで思うがままだ。
そんな人物相手に平気でいろ、という方が土台無理な話である。
「分かりません。しかし、総司令官は援軍の中にはいらっしゃらない様です。代わりに陛下が指揮を執っていらっしゃるのは、何か策と関係があるのやもしれません」
「兄上が…兄上が私を助けに来て下さった…!」
彼女は嬉しそうに微笑むと、跳ねる様にして私の方に近付いて来る。
「チェーホフ少将!」
「は、はい?」
「どう思う?」
「何が、ですか…?」
彼女は喜びを隠し切れない様子で、くっくっくと笑い、私の腹を軽くパンチする。
可愛らしい行為だが、それでも少しヒヤリとしてしまった自分がいる…
「兄上が私を自ら助けに来て下さっているのだぞ?これが愛というものなのだろうな!」
「えーと…」
少し違う気がするが、彼女の機嫌を損ねて得をする事もあるまい。
「そうですね…自ら危険を省みずに軍を率いていらっしゃるとは、陛下の殿下に対する深い愛情が分かりますな」
「そうだろうとも!嗚呼、今の私はまるでお伽話の姫の様ではないか!我が最愛の兄上が来て下さるのだから!」
「ええ…」
ちらりともう一人の少女の方を見ると、彼女も苦笑いしながらこちらを見ている。
きっと普段からこの姫君に振り回されて苦労しているのだろう。
私と目が合うと、ご愁傷様です、とばかりにぺこりと頭を下げる。
確か、彼女は侍医だったか。
まだ若いのにしっかりしている。
聞き及ぶ所によると、皇太子殿下──いや、今は陛下だった──の愛人だとの噂もある。
案外、陛下は妹ではなくこの美しい愛人の少女のために軍を率いて来たのかもな、とさえ思う。
勿論そんな事は口にしないが。
「少将、宮殿の守りは大丈夫なのか?折角兄上が向かって来て下さっているのにその到着前に陥落など、笑えぬぞ」
冗談めかしてそう言いつつも、これは脅しである。
彼女の目は笑っていなかった。
背中にすうっと冷たいものを感じる。
「抜かりありません。何故か敵は本格的に攻撃してこないのです。今のところ、小規模な攻撃ばかりでこちらは多少の怪我人が出た程度です」
「それは不可解だな…敵は何を考えているのだろう…」
どう考えても、普通ならば援軍が来るまでに宮殿を攻め落とそうとするはずだ。
しかし、敵はそうしない。
わざと油断させる作戦か?
否、その様な事をする必要性が敵側には全く無い。
あちらの優勢なのだから、その様な奇策を講じずとも勝てる。
こちら側の援軍が迫る中…何故だ?
「小官にもさっぱりです。しかし…もしかしたら、敵は何かを待っているのかもしれません」
「何か、とは?」
「敵も同様に自軍の増援を待っている、とか。或いは…ここを攻撃したのは別の目的のためなのかもしれません」
前者の可能性は低そうである。
ならば、後者か?
「別の目的だと?具体的には?」
「例えば、政治的効果を狙ったものとか…ですかね。“宮殿が襲われた”という事実を、帝国が弱っている事の証拠だと捉える者もいるでしょうから」
「これは更なる反乱を呼ぶための見世物だと?」
「あくまでその様な可能性もある、というだけの話ですが」
ふむ、と彼女は考え込むと、何やらブツブツと呟き始める。
「少将…もし仮に政治的な目的だとして…」
彼女はそう言いながら私の腕を掴む。
「私の兄上に逆らう不届き者は何処のどいつだ?」
大の男でも怯み上がりそうな目。
先程までの上機嫌な態度が嘘だったかの様に、その目には殺意が宿っていた。
兄に逆らう者は容赦しない、と。
「わ、私からは何とも…」
「そうか」
彼女は、それでもまだ手を離さない。
「ところで、少将」
またもやころり、と穏やかな表情に変わる。
「はい…?」
「ずっと気になっていたのだが、その可愛らしいものは何だ?そういう趣味なのか?」
彼女が言っているのは、私が今腕にはめているカラフルな毛糸のブレスレットの事だろう。
「わたしには丁度殿下と同じぐらいの娘がおりまして。昨年の誕生日に娘からプレゼントされたのです」
「ご息女の手作りか?」
「ええ。お恥ずかしながら」
彼女はそうかそうか、と頷くと、急にまた険しい表情になる。
随分とお忙しい事だ。
「可愛いのか?客観的に見て」
「え!?何を…?」
「娘の容姿だ。どうなのだ?」
「まあ、妻に似て…可愛いかと…」
この様な事を口にするのは気恥ずかしいが、思うままにそう言う。
それを聞き、彼女はぐぐぐ、と私の腕を握る手に力を入れつつ、
「間違えても、兄上に縁談を持ち込んだりするなよ?」
と、脅してくる。
「いえ、滅相もありません!」
「良い返事だ。流石は少将なだけはある、物分かりが良いな。私とてこれ以上犠牲者を増やしたくはないからな。今の言葉、絶対だぞ?」
満足気にそう言い残し、彼女は高笑いをしながら部屋を出て行く。
もしかしたら陛下が未だに婚約すらしていないのも妹のせいなのかもしれないな、と思ったが、もしかしたらどころか確実だな、と思いましたよ、ええ。
✳︎
「ご報告致します!」
軍人が大声を張り上げながら、こちらに駆けて来る。
「全歩兵部隊、展開完了。周囲の市街地に中隊ごとに散らばらせております」
うむ、と尊大に頷くと、私は椅子から立ち上がって遠くを見遣る。
「敵に動きは?」
「ありません。どうやら宮殿に関してもろくに攻撃を仕掛けていなかった様です」
「つまり…我々を誘い出す事こそが敵の狙いか…」
「その可能性は高いかと。宮殿を言わば人質にして我々を罠に誘い込むのが敵の真の目的でしょう」
やはり、状況から推測するに敵は宮殿などには興味が無い。
故に攻撃しない…いや、出来ないのだ。
大体、私をただ殺すのが目的ならば宮殿ごと大砲で吹っ飛ばせば良いのだ。
しかし敵はそれをせずにわざわざ私が外出するのを待っていた。
そして宮殿を襲撃するかの様に見せかけて、我々を誘き寄せた。
まさか私自ら兵を率いているとは敵も予想だにしていないだろうが。
つまり、彼等が罠にかけたいのは私ではない。
彼等は私を殺そうなどとは全く思っていない。
殺すどころか、出来る限り穏便に事を運ぼうとしている。
ならば、敵の真の目的は何か。
…軍だ。
軍をここで再起不能にさせるのが彼等の目的。
つまり、戦争反対派の連中の仕業だろうと推測される。
「反戦主義者が戦を仕掛けてくるとは…滑稽だな」
「反戦主義者…ですか…?非戦派の仕業なのですか?」
「敵の狙いは帝国を転覆させる、だとかそういう類いの物騒なものではない。軍を壊滅させる事だ」
まあ、軍を壊滅させるのも十分物騒だが。
「装備が揃わぬ今のうちに我々に痛手を与え、戦争を止めさせようと?」
「そういう事だ。平和主義とやらは実に素晴らしいな。平和のために我々を皆殺しにするつもりなのだろうよ。いや、誤解があったな…反戦主義者である事と平和主義者である事はまた別だからな。イコールとは言えんな、ネアリーイコールだ」
「ならば、我々も奴等の脳内のお花畑を焼き払い、現実に置換してやらねばなりませんな」
「そうだな。現実の厳しさを教えてやらねばならないな。ただ、奴等の真の目的が分かった以上、少し問題がある」
そう、作戦の根本に関わる問題が。
「敵との本格的衝突は避けられない可能性が高い。時間稼ぎのために奴等に嫌がらせをする予定だったが、それは敵の主目的が宮殿の占領だという前提での作戦だ。敵の主目的が我々の殲滅である可能性が高い以上、一撃離脱などさせてくれそうにもないな」
「馬とワイバーンが上手くやってくれれば敵の混乱に乗じて逃げる事も出来るかもしれませんが」
「伏兵はどうしても避けようがないな…市街地に歩兵を配置しておかないと、騎兵と翼騎兵が退路を断たれてしまうからな」
「一つだけ、策があります。敵が本当に陛下を攻撃するつもりがないならば、ですが」
彼は、少し俯き気味にそう告げる。
その様子から、彼が何を言いたいのかは分かる。
「私を囮にするのだな?」
「はい。陛下の存在を敵に知らしめ、攻撃を阻止するのです。陛下に流れ弾でも当たれば一大事ですから、敵は攻撃を躊躇うでしょうね。本当に陛下に危害を加えない方針ならば」
「では、もしそんな事はお構い無しに攻撃を仕掛けてきたら?」
「申し訳ありません、陛下のお命は保証致しかねます」
一か八かではないか。
上手くいけばこちらは一兵も失わずに済むが、逆に最悪の場合、私は死ぬ、と。
とんでもない話だが、ここで兵を失い過ぎると戦争の計画は頓挫する。
リスクを避けるか、それとも計画を優先するか…
…いや、答えはとっくに決まっている。
やるしかないのだ。
「我が命の一つや二つ、敵にくれてやろう。どうせ私が死のうとも悲しむのはほんの数人だ。婚約でもしていれば話は別なのだが、残念ながら婚約どころか縁談すら来ないからな」
彼はびしっと敬礼をし、私に尊敬の念のこもった目を向けてくる。
多分、キャ〜!陛下カッコイイ!!とか思ってるのだろう。
他人から尊敬されるのは気分が良いな。
「攻撃はいつ敢行なさるおつもりで?敵の目的が宮殿ではない以上、無理に攻撃する必要性も無いと思いますが?」
「勿論、無意味に攻撃を仕掛けたくはない。あくまで時間稼ぎに徹するのは変わらぬ。ぎりぎりまで攻撃はせんよ」
「ぎりぎり、とは?」
「宮殿が陥落するか、敵が痺れを切らせてこちらに攻撃してくるかどうかの瀬戸際までだ。敵が催促のために宮殿を攻撃し始めても、我々は傍観する。守備隊には悪いがな。なあに、難しい事ではない。一種の駆け引きだ」
「確かにそれだと最大限の時間が稼げますが…恨まれますぞ?」
私はにっと笑って彼の肩を叩く。
「見殺しにする様なものだからな、それは覚悟の上だ。特に妹から盛大にお叱りを受けるだろうなぁ。それでも仕方あるまい、最大多数の最大幸福ってヤツだ」
✳︎
無事騎兵と翼騎兵も配置完了。
敵に作戦を悟られないように、馬やワイバーンに括り付けてある爆薬も布で覆って隠蔽済みだ。
敵の射程範囲内より少し外周をぐるりと円状に囲む様に並ぶ。
そしてその外側の市街地には歩兵。
ただし作戦は修正し、当初は分散していたものの、今は全員一箇所に集っている。
宮殿の周りは広場になっているため、ちょっとした平原の様な地形。
多少のオブジェクト(主に銅像だとか)を除けば、遮蔽物は無い。
残念ながら、中遠距離戦闘では分が悪い我々にとっては不利な地形と言えるだろう。
何せこちらはサーベル、相手は銃だ。
近付かねば我々は攻撃すら出来ないのである。
どれだけの馬とワイバーンが生きて敵の元へと辿り着けるのだろうか。
市街地の住民達は灯りも漏らさない様に家の中に閉じ籠り、辺りはほぼ真っ暗だ。
月と篝火、兵の持つ松明、そして宮殿の窓から漏れる灯りのみが光源で、敵の姿は何とか確認出来る程度だ。
時刻は午後八時。
陸のマーメイド作戦開始より半日が過ぎようとしていた。
残り半日時間稼ぎ出来さえすれば、ヴィートゲンシュテインが砲艦数隻を運んで来るはずなのだが…
それまで戦闘せずに膠着状態、とはいかない様だ。
流石に敵は我慢の限界らしく、宮殿に嫌がらせの様にチクチクと攻撃を再開。
それを見てもこちらが動かないのを見て、徐々に攻撃の手を強めていく。
宮殿からは、黙って見てないでさっさと助けてくれ、と何度も攻撃要請が入るが、それも全て無視。
この戦いに勝利しようがしまいが、私は無事ではいられないだろう。
だって、先程遂に我が妹から私に宛てた直接のメッセージが送られてきたのだが、大変お怒りのご様子だった。
私が攻撃されていると言うのに兄上は助けて下さらないのですね、という内容に始まり、終いには、後で覚えていやがれ、というのに近いニュアンスのものにまで発展していた。
何だか、いっそこのまま敵に宮殿を焼き払って頂いた方が自分にとっては良いのではないか、とすら思える程の怒りっぷり。
死ぬ気で言い訳しないと本当に死にかねない。
いや、死にはしないか。
…うん、監禁だな。
絶対監禁されるな。
対外的には死んだ事にされて、飼育されちゃうね。
それだけは避けたい。
何としても、華麗に敵を倒してご機嫌取りしたいものだが。
「ヴィートゲンシュテインにも手伝わせて、作戦の説明及び弁明をしなければな…」
「陛下もご苦労なさってますね…」
ご愁傷様です、と伝令兵は可哀想なものでも見る様な目で私を見つめ、敬礼すると、その場を去って行く。
一応今の時点でも、敵に勝つためだから仕方無いんだ、と言い訳をあちらに送っているのだが…全く納得して頂けない。
気分は最悪。
このまま南の島にでも逃亡したいぐらいだ。
これ以上は宮殿が…と言うよりも妹の堪忍袋が限界か。
私は拡声器片手に椅子から立ち上がると、周囲に命令を出す。
「騎兵と翼騎兵にそろそろ攻撃だと伝えろ。妹曰く、もう宮殿は限界らしいからな」
「残念ながら、それは無理です」
「何故だ?」
「手段がありませんので…事前に決めてあったのは、赤が攻撃開始、青が退却の二つだけですから。攻撃準備、などという命令は出来ません」
赤?青?何の事だ?
「何を言っているのだ?普通に無線なり何なりで伝えれば良いだろう?」
「いえ、残念ながら…我が軍の無線機はそこにあるものだけです…」
「は?」
そこに転がっている、時代遅れのおんぼろの事を言っているのか?
これのみ、だと?
「ならばどうやって今まで各隊とコンタクトを取っていたのだ?おい、嘘だろ?!無線機すら…?」
「信じられないかもしれませんが、我が軍は狼煙で連絡を取り合っています」
狼煙…?
もしや、赤とか青とか言ってたのって…狼煙の事か…?
「狼煙、とは…新型無線機の隠喩か何かかね?」
もう既に分かってはいたが、諦め切れずにそう尋ねる。
「いえ、ただの狼煙です。正真正銘ただの狼煙です」
「おいおい…今が何時代か知ってるか…?紀元前でも何でもないのだぞ?狼煙だなんてそんな…黄河文明の賜物を…」
信号弾ぐらいならば想定していたのだが…
まさかそれよりも酷いとは。
「存じております。それでも、狼煙なのです。ですから、我々から命令出来るのは攻撃か退却の二種類のみです」
「ああ、もう分かった…!ならば攻撃だ!」
「了解です。直ぐに狼煙を上げます」
命令を受け、赤い煙が空高く上がる。
ぼんやり光っており、夜間でもよく見える。
遂に、戦闘が始まろうとしていた。