CXXXIX.逃亡者達の逃避行。
「他に案は?」
「無いな」
「分かった…」
ヨハンとエイラは父と肩を並べてドアの前に立った。
1秒、2秒、3秒、4秒、5秒、6秒…
ヨハンは心の中で秒を読む。
…7秒、8秒…バンッ!
まだだ。まだ隣ではない。
…9秒、10秒、11秒、12秒、13秒、「クリア!」、 14秒、15秒、16秒、17…バンッ!
「今だ…!」
音を立てないように慎重に、かつ素早くドアを開けて3人は狭い廊下に飛び出す。
やけに明るい白色の電灯が床を照らしている。
瞬時に右を見ると、隣の部屋に入っていこうとする男の背中がちらりと覗いている。
タイミングは絶妙。
そちらにクルリと進路を変えて、走る。
少し先には開いたドア。
滑り込め…!
息は止めていた。
緊張から逃れようとのたうち回る心臓が身体中に血液を解き放ち、脈動する。
昔誰かが言った…「緊張こそ最大の娯楽」と。
ヨハンは己が恐怖に怯えながらも、別の感情を抱いている事に気付きかけていた。
何だろうか、この気持ち…胸の奥より…心の底から湧き出るこの感情は…?
場違いな感情。
──興奮…?
いや、違う。それはそんな生半可な言葉で表すのもおこがましい様な…
かつては誰もが持っていた様な…
普段はあたかも存在しないかの様に振る舞っているくせに…
ある日突然現れて…
それは高揚…?
この感情は…
この感情は…
ある日突然現れて…
この感情は…
懐かしい様な…
ほのかに温かい様な…
それでいて何だか哀しい様な…
誰もが持っていた…いや、今も持っている…
ある日突然現れて…
この感情は…
それは全てを…
全てを…
全てを嘲笑う様な…
ゆっくりと獲物を追い詰める蛇の様に…
その感情は…
…自分は今愉しんでいるのか…?
この感情は…愛…?
それは全てを優しく包み込む様に…
それは全てを優しく包み込み…全てを溶かして…
捕食する様に…
ああ、愛だ。
生きとし生ける者に対する愛。
愛。そして哀れみだ。
吹けば飛ぶ様な全ての命に…
乾いたアスファルトの隙間から顔を出した雑草の様な…
雑草の咲かせた小さな白い花の様な…
全ての命に対する哀れみ。
この感情は…
何故?
何故僕はこの様な事を考えている?
哀れみ?
何故?
何故哀れむ?
何故僕に哀れむ権利がある?
僕は何様なんだ?
何故…
エイラ?
ヨハンはハッと我に帰った。
手先は細かく震え、額からは汗が滲み出ていた。
目の前には心配する父とエイラ。
いつの間にか彼は部屋の中で床にへたり込んでいた。
ドアからは死角になる位置だ。
無事移動出来たらしい。
「え?どうしたの、2人とも?」
2人のただならぬ表情にヨハンは困惑した。
「どうしたの、じゃないわよ。さっきから死んだ様な目で黙ってるし、こっちが心配になってくるでしょ?」
「ああ、ごめん。少し考え事をしてたんだ」
考え事?
そう言いつつも彼は混乱していた。
あれを考え事などという言葉で表しても良いものかと。
あれはそんなものじゃない。
もっと得体の知れない何か。
抗う事の出来ない何か。
ふと、むくれるエイラの横に彼が視線をやると、父が険しい顔をしていた。
「父さん?」
「ああ、いや…何でもない。ヨハンもきっと緊張し過ぎていただけさ。このチキン野郎め。はははは」
そう乾いた笑い声を上げる。
ヨハンには分かった。父が無理をして笑っている事が。
しかし彼は何も言わなかった。
「よし、何とか上手く敵を撒いたし、当初の予定通り第3格納庫に向かうぞ」
「うん…」
部屋を出て、周囲を確認する。
さっきまでの出来事が嘘の様に静かだ。
敵はもう他の場所を捜索しに移動した様だ。
居住区画はかなり広い。
かなりの数の追っ手がいるとしても滅多な事が無い限り鉢合わせはすまい。
彼等と遭遇するとすれば、今ヨハン達がいる様なエレベーター付近といった特定の場所のみだ。
エレベーターはさっきの男達が乗って来たままの状態で、そこに吊られていた。
父はエレベーターの上のパネルを見て歓喜する。
「よし…!不幸中の幸いだな。これを見てみな。第3格納庫にはエレベーターは止まってねえな。
運が良けりゃあまだ誰もいないかもしれねえぜ」
確かにパネルを見てみると、居住区画や第1格納庫のランプは多数点灯しているが、第3格納庫のランプは点灯していない。
楽観的かもしれないが、もしかしたら誰もいないかもしれない。
ヨハンが横目でチラリと覗き見ると、エイラの浮かれた様な顔が見えた。
ヨハンも堪らず笑みが漏れた。
「ああ、運が良ければ、だけどね」
3人がエレベーターに乗り、行き先を設定すると、エレベーターはゆっくりと下り始めた。
さっきまでいた居住区画のキューブが頭上へと昇っていく。
そしてそれと共に灰色の地面、要するに第1格納庫が迫って来る。
自然に緊張が高まる。
もし第1格納庫で敵が待ち伏せしていた場合、確実に詰みだからだ。
現在、敵は居住区画と第1格納庫に集中していると思われ、この先でエレベーターを停止させられる可能性は十分にあった。
ある意味ではここが最大の鬼門でもある。
先程の様に戦闘を回避する事は出来ない。
ガラス越しに様子を見ると、見える範囲だけでも、かなりの兵がいた。
そしてこちらから見えるという事は、あちらからも見えているという事を意味する。
戦闘の覚悟は出来ていた。
近付く地面。
ヨハンはドアの方を向いて拳銃を構えた。
…
しかし、何も起こらなかった。
敵はエレベーターに見向きもせずに遠くの方をのんびり歩いているだけ。
エレベーターの近くには誰1人としていない。
勿論こちらに気付いて走って来る者もいるが、どれも遠い。
ここまで辿り着くだけで数分はかかるだろう。
何分この基地は馬鹿げている程に広いのだ。
格納庫に関して言えば、先程の居住区画の数倍の床面積。
端から端まで移動しようと思えば、走っても10分以上かかるだろう。
その後すぐにエレベーターは何事も無く地面の中へと潜って行く。
第1格納庫を無事に突破した。
想定していた出来事は起こらなかった。何一つ。
「へ…?」
ヨハンはつい間抜けな声を上げてしまう。
そしてその場にヘナヘナと崩れこむ。
「ははは!いやあ、奴等の警戒がガバガバで良かったなあ!」
「拍子抜けしちゃったね…」
エイラが労う様にポンとヨハンの肩に手を置く。
あとは第2格納庫を通過すれば、目的地の第3格納庫だ。
順調だ。怖いくらいに。
ヨハンは罠の可能性すら考えたが、それは無いだろう。
そもそも、罠だとか策略だとかいうものは、正面からぶつかると負けるからこそ仕掛けるものだ。
力で負ける分を補うのがこういった小手先のテクニックなのだ。
しかし、現在、どう考えても帝国軍の方が優位に立っている。
故に罠など張るはずがない。その必要性が皆無だ。
こうしてこれぐらいは罠などではなく、ただ単に自分達が帝国軍を出し抜いただけだとヨハンは結論付けた。
帝国軍もヨハン達の存在はほぼ考慮していなかったのかもしれない。
それもそうだろう。
まともな感覚の持ち主なら、とっくにこんな所からトンズラしているだろうから。
まさか犯人が息子と嫁を連れて戻って来ているなど思うはずがない。
それ故のこの穴だらけの警戒だろう。
驚く程に穴だらけの。
しかし、先程数人に見つかってしまった。
ゆっくりしている暇は無い。
見つかってしまった以上、敵は必死で追いかけてくるだろうから。
その後、無事に第2格納庫も通り過ぎた。
大量の航空機が並んでいた第1格納庫とは違い、第2格納庫は陸上兵器を中心に置いてあった。
主に戦車。次いで装甲車、自走砲といった具合だ。
他国と比べれば大した事はないものの、ちゃんと真面目に軍事技術の研究をしていた様だ。
ここには見たところ兵の姿は無かった。
この分だと第3格納庫も期待出来そうだ。
運良く戦闘もせずに脱出出来るかもしれない。
第2格納庫は天井が低く、狭かった。
それは、第1格納庫が帝国の虎の子による砲撃でできた穴を利用しているのに対して、第2格納庫以降は従来通りに手作業で穴を掘って造ったからだ。
勿論ダイナマイトといった爆薬を使うものの、やはり限界というものがある。
ヨハンの父曰く、元々は第1格納庫と居住区画しか予定されていなかったが、軍の近代化が進まない現状に危機感を覚えた上層部による、計画の変更によって増設されたらしい。
「ねえ、それなら第3格納庫には何があるの?」
「すぐに分かるさ。着くまでのお楽しみってところだな」
勿体ぶって隠しているのではない事を、ヨハンはすぐに感じ取った。
父の目がいつものおどけた時のものとは違っていたからだ。
それはこれから訪れるであろうものをひたすら拒否する冷たい目だった。
まるで目的地に辿り着く事を拒みながら歩く死刑囚の様な。
諦めと哀しみのほんのり込もった冷たい目。
しかし、その意味を考える間も無く、暗い土の中を降りて行くと、しばらくして不意に明るくなってきた。
足元からほのかに明かりが漏れてきていた。
第3格納庫だ。