CXXXVIII.父が見せたかったもの。
「さあ、こっちだ。その先を右に行ってくれ」
更に道なりに進む。
「先ずはこれを見せたい。…これが食堂だ。本当はヨハンだけのつもりだったが…」
何か意味深長な台詞を吐いて、父親は息子達を誘導した。
角を曲がると、大きな窓があった。
そこからずらりとテーブルと椅子が並ぶのが見える。
だが、様子がおかしい。
「──あ…」
エイラは立ちすくみ、両の眼を見開いた。
悲鳴を上げそうになったのを辛うじて堪えたのは、彼女の意地が故か。
「ねえ…父さん…何で人が…」
ヨハンは、咄嗟に父に訊ねようとして、やめた。
強張る父親の顔を見て、その先の言葉を躊躇った。
食堂のあちこちに人が倒れていた。血だらけで。
よく見るとこの窓にも所々血が飛び散っている。
赤い。全てが赤く、そしてどす黒い。
死体が、床が、壁が、天井さえも。
あまりの血の量に、床は血の海だ。
大抵の血は固まって黒ずんでいるが、床の血は量が多過ぎるのかまだ渇ききっておらず、まだ赤っぽい。
食事中だったのか、そこかしこに食べ物が死体と一緒にぐちゃぐちゃになってこびり付いている。
死体の状態は綺麗で、全員が苦悶の表情を浮かべているのが分かった。
全体的にまだ新しい。
ここ数日の間にここで何かが起こったのだ。
ヨハンは、かつて一度だけ見た光景を思い出した。
近くの村の一つが盗賊に襲われた時。
その村の家々は焼かれ、男と老人は殺され、娘達は連れ去られた。
駆けつけた軍と共に、臨時に駆り出された近隣の村の男達が、連れ去られた娘達の救出に向かう事になった。その中にヨハンも参加していた。
だが、盗賊のアジトに辿り着いた頃には娘達はみんな猟奇的に殺されていて──血の中に死体が浸っていた。
「おい、ヨハン。絶対にこの扉は開けるなよ。さもないと俺達もああなっちまう」
無意識に扉に手を掛けかけていたヨハンを、父は制止した。
「な…何人死んでる…?ここで何が…」
「この施設に住み込んでたヤツら全員だ。少なくとも500人はいたはずだ。この食堂にぎりぎり全員入りきるかどうか、っていう人数だったはずだからな」
「外傷が無いのに…みんな血だらけで死んでる…」
エイラはもう泣きそうになっていた。
彼女の顔は真っ青で、今にも倒れそうだった。
涙はまだ目に溜まっているだけだが、今にも溢れんばかりだ。
それに、余りのショックにその場にへたりこんでしまった。
「毒ガスだよ。ここで研究してたヤツだ。ちょっとでも吸うと死ぬ間際に身体中から血が噴き出て死ぬ」
「誰が…こんな事を…」
「俺だ」
「え…?」
「俺がこいつらをここに集めて、毒ガスを撒いたんだ。そして外から鍵をかけて閉じ込めた。開けて下さい、開けて下さいってな、泣き叫んでたよ。丁度このガラス越しにな。あのガス、死に至るまでに随分と時間がかかるのが難点でな」
確かにそう言われてみれば、窓際の死体はガラスからずり落ちる様にして倒れている様に見えた。
それに、ガラスに身体を擦り付けたかの様に上下に血が薄く付いている。
つまり、彼等は死ぬまではここでガラスにすがり付いていたのだろう。
もし父の言う通りなら、ここでガラス越しに父に開ける様に頼んで泣き叫んでいたのだ。
だが、彼には父がその様な事をするなんて考えられなかった。
「はは、父さん…そんな冗談…」
「冗談なんかじゃない、俺がやったんだ…ほんの数日前にな…今でも思い出せるよ、ここで見た地獄みたいな光景…」
どんな表情をすれば良いのかきっと本人にも分からないのだろう。
父は空虚な薄笑いを浮かべた。
「おじさん…嘘でしょ…?」
エイラの瞳には、恐怖と混乱と共に怒りにも似たものが浮かんでいた。
「ごめんなエイラちゃん、嘘じゃないんだ…」
彼女は歯噛みし、悔しそうに床を叩いた。
「そんな…!何故…?何故そんな事を…!?」
「こいつらの記憶ごと、消し去る必要があったからだ…ここであった忌々しい研究をな…」
父は遠い目をし、赤黒く燻んだガラスをぼんやりと見つめた。
衰えた老人が病床で昔話を語る様でもあったが、少年が志を語る様な強い決意も随所から感じられた。
「殺す必要があった…?馬鹿な…!そんな事が許される訳が──」
「──ああ、許されない事だ。だが、殺さねばならなかった」
父は一息吐き、覚悟を決めた様に付け加えた。
「例えこの様な事をしようとも、大勢の命を救うためだ。必要な犠牲だった」
「必要な犠牲…?馬鹿な…」
彼は我を忘れていた。
怒りと、悲しみと。
いくつもの感情が混ざって、彼を動かしていた。
いつの間にか彼は父親の首を締めていた。
「ヨハンっ?!」
エイラの声で…ハッとして彼は手を離した。
彼を見つめる父の顔が少し悲しそうに笑った。
「俺も本当はこいつらの最期を見届けた後、死ぬつもりだったんだが…どうにも臆病風に吹かれちまった様でな、俺だけ吸う量が足りなかった様だ。おかげさまで、ゆっくり死ねるって訳だ」
「意味が解らない…何もかも解らない…」
「いずれ分かるさ。だがな──おい、それは……!?」
父は言いかけた何かを留め、急に固まる。
「どうしたの?」
父は一点を凝視していた。
眼球が飛び出すのではないかという程にただ一点を。
その視線の先にあったのは壁に取り付けられたコンソール。
オレンジと赤のランプがチカチカと点滅している。
父はそのままコンソールから目を離さずに、一人で立ち上がった。
さっきまで一人で立てなかったのが嘘みたいに。
ゆっくり、一歩ずつコンソールへと歩いて行く。
ヨハンとエイラはそれを不安げに見守る。
彼等に分かるのは、何かあった、という事だけだ。
一歩。また一歩。
不規則に。しかし着実に距離は狭まってくる。
父は倒れこむようにしてコンソールにすがりつくと、食い入る様にパネルを見つめた。
「あ、あ…ああ…」
声にならない呻き声を発する。
ここでやっとヨハンは父の元へと駆け寄った。
「父さん!どうしたんだ?!」
赤と橙の点滅光が父の顔を一定間隔でカラフルに染める。
影のせいで父の顔が恐ろしく見える。
「不味い…来る…来るぞ…」
「誰が?!」
「軍だ…!誰かが…誰かが救援要請をしやがった!」
「全員…殺したんじゃなかったのか?」
「そのはずだった…生き残りが…誰かが生き残ってやがる…!誰かが助けを呼んだんだ…!」
父の膝がガクガクと震えだす。
肩も激しく上下に揺れ、目を見開いている。
「もし軍が来たら、お前も殺されるかもしれん…いや、秘密を知ってしまった以上、確実に殺される…!ヨハン、逃げるんだ…!しらばっくれたって無駄かもしれん。俺の息子ってだけでお前にまで危害が加わりかねん。下手すりゃ…村人全員皆殺しもあり得る…」
父は、息子の肩を掴むと、嘆願するかの様にそう言った。
呼吸は乱れ、髪はボサボサに掻き乱され、眼球は充血している。
「落ち着いて。どれくらいで救援部隊は来るの?」
「分からん。だが、もう来たっておかしくないぐらいだ…あれから随分時間が経つんだからな…!ああ…今すぐにだって…!」
「…分かった。でも逃げるってどうやって…」
「ここには逃げるのに最適なものがあるんだ。それを使うぞ。エレベーターまで向かってくれ!一番近いのは…来たやつとは違ってこっちだ…!」
ヨハンとエイラはまた父を支えると、最寄りのエレベーターの方へと向かう。
「右だ」
「次は左」
父の指示通りに進むと、降りて来た時とは違うエレベーターが。
「よし、このまま第3格納庫まで向か──クソッ駄目だっ!引き返すぞ!」
「どうしたの?!」
「誰かが降りて来る…!軍の部隊かもしれん…!」
見つかればただでは済まない。
急いで元の道を辿り、別のエレベーターへと向かう。
「クソ…!もう来やがるなんて…!」
「タイミングが良過ぎる…」
ヨハンは、まるで神の手の上で弄ばれている様な気分になった。
「よし、ここを曲がれば──」
父は話を途中で止め、グッと両隣の二人を引っ張る。
「父さん?どうした?」
父親は小声で早口に言った。
「足音がする…!駄目だ、この先も…!囲まれてやがる…!」
すぐさま元の道を辿り、途中の小部屋の中に転がり込む。
「ここだ、ここに一旦隠れるぞ…」
2段ベッドが1つと、小さなデスクが2つ。椅子も2つ。
2人用の部屋の様だ。
デスクの上をよく見ると、白黒の写真が木製の額に入れられて置いてある。
父親らしき男と、母親。
そして母親の腕には1歳ぐらいの赤子が泣きそうな顔で抱かれていた。
写真を撮る際にぐずったのだろうか。
何処となく、両親が前を向きつつも子供の事を気にかけている事が分かる。
もしこれがここで生活していた人のものなら、その人はもう死んでいるんだろうか。
もしそうなら他に置いてあるものから察するに、この部屋を使っていたのは父親の方だろう。
彼が死んだのなら、この母親はどうすれば良いのだろうか。
夫が殺され、子供と2人だけで取り残されるなんて、どんな気持ちだろうか。
この母親は、きっとまだ夫の死を知らないだろう。
知った時、どう思うのだろうか。
殺した人間を恨むのだろうか。
そしてそれは──ヨハンの父親だった。
部屋に入ってすぐ、彼はそんな事を考え始めた。
今更どうしようもない事かもしれないが、彼は父の罪について考えた。
1人の人間がこれ程の人間の未来を奪った。
奪った。命を。
奪った。希望を。
奪った。
「──ヨハン…!」
父に肩を叩かれて、ヨハンは思考の波から現実へと引き戻された。
「な、何?」
「これを」
父が手にしていたのは、リボルバー式の拳銃だった。
弾丸は6発入っている。
弾を飛ばすための火薬の役割を果たす、竜石も既にセットされている。
目の前に銃が。人間が人間を殺すための道具が。
「もしかしてそれ…持って来てたの?」
「まさか。そこに置いてあったんだよ」
どうやらベッドの下に隠してあったらしい。
ヨハンは両手でそっと受け取った。
「でも、銃なんて使った事ないよ」
「大丈夫だ。拳銃なんてのはな、刃物と同じだ。ナイフで刺すのと同じぐらいの距離で、取り敢えず撃てば当たる。だからお前が持っておけ」
「でも…撃てない…」
彼にはまだ覚悟ができていなかった。
当たり前だ。
あれだけの死体を見た後で、人殺しの道具など扱いたい訳がない。
「馬鹿野郎…エイラちゃんを守れるのはお前だけだろうが…!お前がやらなくてどうすんだよ」
ヨハンは父の隣に座るエイラと目が合った。
彼女は何も言わずにヨハンをじっと見つめていた。
今にも泣き出しそうな顔。
不安を隠し切れない顔。
守らなくては。
何よりも大切な人を。
「分かった。エイラに危害が加わるくらいなら…殺してでも…守る」
途切れ気味に紡いだ言葉には、彼の決意が込められていた。
「ああ、守ってやれよ…お前、まだエイラちゃんと昨日一回ヤっただけだろ?それだけで満足なんかじゃないだろう?」
「勿論だ。今晩もしっぽり楽しむ予定なんだからな」
エイラがゴミを見る様な目でこちらをじっと見ているが、この際気にしないでおこう…と思えるだけの余裕はまだあった。
「すまんなエイラちゃん、これが所謂アレだ。新妻いびりってヤツだ」
父はにやりと笑うと、黙るように促した。
その直ぐ後、3人ぐらいと思しき足音が近付いて来た。
「来たぞ…」
3人はそっと息を潜める。
ヨハンは銃の撃鉄を引き、ドアに向かって構える。
連射はきかない。3人同時に相手するのは不可能だ。
しかし彼には銃を構える以外に方法が無かった。
足音がかなり近付いた所でぴたっと止まった。
その場に残るのは不気味な静寂のみ。
「──ねえ、もしかして、ここにいる事に気付かれてる?」
「それはないはずだが…正直分からんがな」
バンッ!
突然大きな音がして、3人は身を強張らせる。
ヨハンは無意識に引き金にかけた指に力を入れる。
他の部屋のドアが勢い良く開けられた音だった様だ。
「クリア!」
男の報告の声が聞こえてくる。
どうやら1つずつ部屋の中を確認しているらしい。
続けて断続的にドアを開ける音が響く。
音は次第に近付いて来ている。
「ここが見つかるのも時間の問題だぞ…」
「打って出る?」
そう言いつつも、ヨハンには分かっていた。
戦闘になればほぼ間違いなく全員死ぬ、と。
このままだと見つかってしまう。
かといって一か八か打って出るとしても、敵は正規軍だ。
拳銃一丁で、武装した軍人3人に敵うとは思えない。
もし仮に運良く勝てたとしても、発砲した時点で他の兵士が駆けつけて来るだろう。
どちらにせよ戦闘するとなるとこちらに勝算は無い。
どうにかして戦闘を回避するしかない。
そんな事をあれこれ考えている間にも、どんどん音は迫って来ていた。
「父さん…?」
父がよろよろと不意に立ち上がる。
「どうやら全員で捜索してるらしいな…それならばチャンスはある」
「おじさん、どういう事?」
「複数人相手は無理だが、敵は1人ずつに分かれて捜索してる様だ。それならば見つからずに済むかもしれん。俺に付いて来い。どうやら奴等は捜索済みの部屋は開けっ放しみたいだから、敵が隣の部屋を捜索してる間に飛び出して、捜索済みの部屋に滑り込もう。上手くいけばやり過ごせるかもな」
平均すると、10秒に1回程度の間隔で聞こえてくるドアの音。
それはつまり、5秒程は部屋の中に視線が行っている証拠。
その5秒で後ろをすり抜けて2つ隣の部屋まで音を立てずに移動?
ドア同士の間隔は1メートル。
いけるだろうか?
ヨハンの疑問も尤もだ。
実際、発案した彼の父にも分からなかったのだから。
「他に案は?」
「無いな」
「分かった…」