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CXXXVI.見せたいものがある、と父は言った。

 翌朝、普段よりも随分遅くに彼は目覚めた。

 寝ぼけて少しぼーっとした後、彼は今更の様に周囲を見渡した。


 隣で()()が寝ていた形跡があった。

 それが、昨夜起こった事が現実であった事を如実に示していた。

 だが、それでもまだ夢を見ている様な気がした。


 幼馴染の身体は、彼の知っているものとは違っていた。

 昔もあれ程柔らかかっただろうか?

 ──そんな事はなかった。


 もう彼等はとっくに大人になっていた。

 いつまでも変わらないと思っていたものも、知らぬ間に変わっていたのだ。

 父に急かされた形ではあっても、彼は彼女とこうしていられる事が嬉しくて仕方がなかった。


 居間に向かうと、スープの良い匂いが扉越しに彼の鼻腔をくすぐった。

 扉を開けると、それに焼きたてのパンの匂いも加わった。

 朝食は彼女が用意してくれていた。


「あ、食べるかどうかは分からないけど…おじさんにも朝ご飯持って行くね」


「うん、お願い」


 彼女はそう言って行こうとしたが、ふと立ち止まって彼の方を振り向いた。

 笑顔で彼に笑いかけると、また去っていった。


 半ば信じられなかった昨日の出来事が、現実の事だったのだと改めて実感した瞬間だった。


 あの笑顔。今までに何度も見てきたもの、そのものだった。

 変わっていないのだ。やっぱりエイラは彼の知るエイラなのだ。


 彼は彼女の背中を眺めた。

 その背中は、昨晩までは幼馴染みの背中だった。


 だが、今はそれ以上のものとなっていた。

 ──それ以上の()()に。


 彼も全て食べ終えると、父の寝室へと向かった。


「お、ヨハンか。おはよう」


「ああ、おはよう」


 父のベッドの傍に置かれた皿を見ると、やはり少しも減っていなかった。

 スープから(うっす)ら上がる湯気が、少し虚しく見えた。


「──父さん」


「どうした?」


「昨日の話、覚えてる?」


「勿論。まだそこまでボケてないぞ」


 ほら、アレだろ?えーっと、隣村の小麦畑に一夜にしてミステリーサークルが現れたとか何だとかいう話だろ?──などと、ふざける父親に向けて盛大に溜め息を浴びせつつ、彼は気にせず本題に入る事にした。


「あの…僕達──」


「──私達、結婚する事にしたの。良いよね、おじさん?」


 ヨハンの言葉はすかさず放たれたエイラの声に上書きされてしまった。


「…へ?」


 驚いたのは、父親ではなくヨハンであった。


 無論嫌ではない。嫌ではないのだが…昨日の今日で、そこまで言ってしまってしまって良いのか?というちょっとした不安感が彼の心中で鎌首(もた)げた。


 反射的に振り向いた先に立っている彼女は、彼と違って平然としていた。

 何なら、ヨハンの驚き戸惑う様子を見て、愉しんでいる様な節さえ見受けられた。


「早いな!半分冗談だったんだけどなぁ。急かしちまったか…?」


「いや、良いんだよ。お陰で可愛いエイラと結婚出来るんだし」


 ええままよ、と彼も勢いに乗っかり、そう言い切った。


「いやあ、横から見てたら相思相愛のクセになかなかくっ付かないんだもんな、お前ら。もう、見てて呆れるぐらいだったぞ?」


「おじさん、気付いてたの?」


「当ったりめえだろうよ。ガキの頃から毎日見てきたんだぜ、分からん方がどうにかしてるってもんだ」


「そうか…お見通しだったんだね」


 感心した様に頷くと、彼女は(実際にはまだなのであるが)義父をまじまじと見つめた。


「まあ、何にせよ良かった。これで俺も安心して死ねるな」


 普段ならばニタリと不敵に笑いながら言ったであろう台詞なのに、その時ばかりはヨハンの記憶には無い、本当に柔和な笑みであった。

 それがヨハンにとっては不吉に思えた。

 間違いなく父の死は迫っているのだ、とその笑顔は告げていた。

 異様に元気である事が余計にそれを際立たせた。


「多分式を挙げるならどんなに急いでも半月は準備が要る。それまでは生きててよ」


 何て事は無い様に振る舞おう…と努めて言ったその言葉は、ヨハンの本心であった。


「半月か…まあ、死体の参列だけで勘弁してくれよ」


「父さん…」


「冗談だ」


 豪快に笑いながらも、彼の父の目は笑ってなどいなかった。


「──あ、そうだ。実は見せたいものがあってな…」


「見せたいもの?何!?」


 ヨハンは、死に際の遺言を一言たりとも聞き逃すまいとするかの様に必死に食いついた。


「本当はヨハンだけに見せるつもりだったんだが、まあ未来のお嫁さんにも特別に見せてやろうかな」


「どこにあるの?とって来ようか?」


「いや、とって来れる様なもんじゃないんだ。悪いが連れてってくれるか?」


「おじさんも行くの?ダメだよ、安静にしてないと」


 エイラによれば、歩く事自体には何ら支障は無いらしい。

 ただ、歩けるからと云って歩いて良いかと云うとそれはまた別物で、歩けるから歩かせろ、と不満を垂れる病人を彼女が無理矢理寝かせているのが現状なのだそうだ。


「ちょっと運動するだけでも身体にとっては毒になりかねないでしょう?今は絶対安静!ね?」


「そうだよ、ほら、治ってからでも遅くは──」


「──治らねえよ」


「…」


 何か確信がある様な父の言葉に、彼は思わず閉口した。


「それなら誰か呼んで来ようか?みんなで運べば何とか…運べるものなら、だけど」


「駄目だ。本当にお前達にしか見せられないもんなんだ。運べるものではないしな」


「そんなに大切なものなのか?」


「ああ。息子と嫁じゃなきゃ一生誰にも見せる気は無いな」


「そうか、分かったよ。それなら三人で行こう」


 ヨハンが最終的に折れたのは、これが最後になる様な予感がしたからだった。

 最期くらい、息子夫婦と外を散歩するくらいの事は許されて然るべきではなかろうか、と。


「それはどこにあるの?」


「あそこだ」


 彼の父が指差した先は、昔彼が何度も遊びに行った森だった。


「父さん、昔からよくあそこに行ってたもんね。ずっと何してるのか不思議だったんだけど、やっぱり何かあったんだ」


「俺が今まであそこでしてた事、見せてやるよ。行くぞ」


「じゃあエイラ、体を起こしてあげて」


「うん」


「おじさん、体起こすよ」


「おう、頼む」


 彼女が体を起こしてやると、父が自分で立とうとした。


「あ、おんぶするから」


「いや、森までおんぶなんて無理だろ、お前。そんなヒョロい体でよ」


「ヒョロくて悪かったね。それなら二人で支えるから。エイラ、ごめんそっちの方支えてあげて」


「もう支えてるよ」


「それならそのままで。いくよ?」


「「せーの!」」


 何とか彼等は二人で父を立たせる事が出来た。

 父の足下は頼りなく、ふらついていた。

 歩けるのではなかったのか?とヨハンは訝しんだ。


 否、そこで彼は気付いてしまった。

 ほんの少しベッドの上で寝ている間にも、父は歩く事すら怪しくなる程衰弱してしまったのだ、と。


「嬉しいね、息子夫婦に挟まれて歩くなんて」


「昔も何回も僕等に挟まれて歩いてたろ?」


「まあな。でも──あの時は俺がお前達を守る側だった」


 少し父は寂しそうだった。


「…いつまでも守る側じゃないって事さ」


「おじさん、大丈夫?どうせ時間はまだあるんだからゆっくりで良いからね」


「あいよ。全く…老人になった気分だなぁ。五十にもまだなってないんだけどなぁ、七十ぐらいの扱いだな。いや、俺もまだまだ若いからエイラちゃんを愛人にするくらいはイケると思うんだけどなぁ」


「うわ、おじさんそれセクハラよ?」


「ほら父さん、そんな軽口言ってないで。歩くよ」


 数歩歩いたところで立ち止まる。


「お、ちょっと待て。お前達、エイラちゃん家の両親に挨拶は?」


「どうして?」


「おいおい、そりゃないだろ。ああ、バーボンさん悲しむぞ?」


「良いのよ。今はそんな事」


「駄目だって。先にバーボンさんとこ寄るぞ。死ぬ前にちゃんと顔合わせとかんとな。俺が死んだらお世話になるんだから」


「う…ちょっと緊張する…」


 当然彼にとってエイラの両親とは見知った間柄である訳だが、それでも緊張しないなどという事はない。


「まあ、俺もいるし大丈夫だろう。バーボンの旦那さんもお前なら認めてくれるって」


「そうかなぁ…」


「少なくとも雑貨屋のトモ坊よりはマシだと思ってくれるだろ」


「そりゃあね」


 たまたまエイラに最近フラれたせいで引き合いに出される哀れな男である。

 彼を一言で言い表わすと、ちゃらんぽらん。

 彼の家の家業である雑貨屋は、三代目にして廃業の危機だ!…というのが村で流行りの冗談であった。


「ほら、エイラちゃんが急に他の男のとこに行かないように、ご両親にも認めてもらって既成事実作らないとな?」


「別にそんな事しないからね。私はヨハンだけだから」


 どうだ嬉しいだろう、とでも言わんばかりの典型的な、したり顔であった。


「いや、でも去年の、やんちゃ坊主だったロルフの野郎の時なんて満更でもなさそうだったろ?告られた後ちょっと嬉しそうだったろ?」


 その時ヨハンは、聞き捨てならない事を聞いた、と全神経を会話に集中した。


「何で知ってるの!?」


 え、事実なの?…と彼の心中ではモヤモヤ党が議席を好調に伸ばし、与党に躍り出た。


「知らないと思ったか?ちなみにバーボンさんにその事バラしたのも俺だ」


「あーー!酷いよおじさん!あの後大変だったんだからね!」


「ハハハ、もう俺も死ぬからな。今となってはエイラちゃんに嫌われようとも何も怖くないな」


「もう、父さん…逆に最期くらい良い印象残していってくれよ」


「おい、それよか聞いたかヨハン。エイラちゃんは本当はロルフみたいなカッコつけ野郎が好みのタイプなんだからな。お前と真逆だぞ」


「そ、そうか…そうなのか…まあ、ロルフは格好良いからね。格好良いけど、僕から見ればただ気取ってるだけというか…演じてるだけというか…所詮その程度に思えるけどね。アイツの事だ、どうせエイラの事だって、軽い気持ちで告白したに決まってるよ」


 ばればれな負け惜しみに、父親はニマニマとにやついた。

 だが、それに関して敢えて指摘する様な事はしない。

 それがむしろヨハンの父の意地悪な性格を如実に示している。


「お、近所のクセにヤケに時間かかっちまったけど着いたな」


 話題を変える目的もあってか、たまたまタイミング良く到着しただけか、父親はそう言った。


「エイラの家でコレだからなぁ。森までとなると大変だぞ」


 赤子のよちよち歩きと良い勝負だった。


「まあ、大丈夫だ。昼飯はあっちにも用意してあるからな。森で食えばいいさ」


 昼食が用意してある?

 森にそんな場所、あっただろうか?

 …まさか、ボケたのではあるまいな、とヨハンは訝しげに思った。


「父さんも食べる?」


「出来たらな。どうせなら三人で一緒に食いたいしな」


 人間は、運動すれば腹が減るように神がお創りになったのだ。

 麦を育てるために畑仕事をし、畑仕事をすれば腹が減る。

 食べなかった余分な麦は、領主や国家への上納分だ。小作人だと、これに地主も加わる。

 税として納められた麦は、集める側の人間の食い扶持になる他、そこからまた都市の住人、或いは他国に売られ、そうして帝国は少しばかりの金を稼ぐ。

 こうやって帝国は国家運営の資金を得る訳だが、その根源が我々農村民の空腹に因るものであるのならば、何とも面白い話だ。

 むしろ、神はそのために腹が空くようお創りになられたのか。


 ちなみに、帝国が崇める神は、世間で一般的に崇められる、創造主としての神の他にもう一柱存在する。

 よくも「主は唯一絶対にして、主の他に神などいようはずもなく、主の他に神を名乗る存在があるとすればそれは悪魔か邪なるものにして、異教の神も紛いものかその類のものである」と明確に一神教を貫く立場である教会勢力がそれを許容しているものだ…と昔は少々不思議に思っていたが、その理由は至って単純明快であった。

 即ち、帝国が神として崇めるもう一柱の神は、聖典の中に登場する“原始の竜”と同一のものであったからである。

 畢竟、教会はその神を“神”としては認めないものの、“原始の竜”としてはその存在を認めざるを得ず、帝国には神として祀られる竜がいる。


 聖典に曰く、原始の竜は神がお創りになった最初の竜であって、最も偉大な竜である。

 帝国の言い伝えに曰く、その竜は帝国の建国の祖であり、皇帝は竜の子孫である。

 竜は人間よりも遥かに長寿であり、今もどこかに存在しているのだ、と。

 竜は帝国の護り神であるから、帝国の危機に際して現れ、竜の子たる皇帝をお救いになるのだ、と。


 何故その様な事を今ヨハンは想像したのか。

 それは単に、建国の祖の竜は非常に巨大だと伝えられているが、そんな巨大な空きっ腹を満たすにはどれくらいの量の食料が必要であろうか、という事と、竜の血を継いでいるらしい皇帝一族は竜みたいにバカ食いするのだろうか、という馬鹿げた考えが脳をよぎったからである。


 思考を何とか頭から追い払った彼の目には、エイラの家が映っていた。

 その家の横の納屋にはヨハンの馬が繋がれていた。


「あ、おばちゃんに僕の馬預けてたんだった。それもお礼しないとね」


「じゃあ、私呼んで来るね」


「うん」


 彼女が家に駆けて行くと急に静かになった。


 父はずっと彼女の後ろ姿を黙って見つめていた。


「どうしたの?」


「何でもない。大きくなったなぁって思っただけだ」


「エイラが?」


「お前も合わせて二人とも、な」


「何を今更」


「そうだな。今更だな」


 そう言うとまた二人の間に沈黙が訪れたが、すぐにエイラとその母親が出て来たのでそれも束の間だった。

 子供の成長など、親から見ればこれくらいあっという間なのだ。

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