CXXXV.幼馴染みのすれ違い。
※注釈
・戯れに母を背負て何とやら
正しくは、「たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず」
石川啄木です。
本作中での使い方は、本来の意味からすれば大分間違ってます(笑)
寝室の茶色い木のドアを閉めて、彼が最初に口を開いた。
「もう長くないって…どのくらいなんだ?」
「分からない…でも、元気そうに見えても、おじさん、どんどん弱っていってるの…今日も殆ど何も食べてないし…」
「原因は?」
「それも。何もかも分からないの…分からないから何も出来ない…手の打ち様が無いの…」
俯いた彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
彼の記憶の中の彼女はいつも笑っていた。
だから、こんな泣き顔なんて殆ど見た事がなかった。
昔一回見ただけだ。
──それも彼が泣かせてしまったのが原因だったが。
彼は、父のために泣いてくれる人がいる事が少し嬉しかった。
同時に、もしかしたら父の病状が快方に向かうかもしれない、という一縷の望みもここに潰えたのだった。
淡い期待は、所詮期待に過ぎなかった事を彼は悟った。
「ありがとう。苦労かけたね」
「ううん、私こそごめんね。本当はヨハンの方が泣きたいはずなのに」
「良いんだよ。僕はもうここに来るまでにちょっと泣いちゃったし、残りは葬式までとっとくから」
そう言って彼が微笑むと、彼女は悲しそうな顔で彼を見つめた。
「ねえ、ヨハン」
「ん、何?」
「おじさんが言ってた事、どう思う?」
即座にはどれを指して言っているのか判らなかった。
「どの事?」
「…私が告白された事」
努めて平静を装ってはいるが、内心照れているのであろう事は手に取る様に分かった。
不動の上半身とは対照的に、脚は正直である。もじもじと落ち着きなく動いていた。
先程まで浮かんでいた涙のせいで、何だか彼女の瞳がやけに綺麗に見えた。
「ああ、それか。エイラは可愛いからね。昔からモテてたし」
他の女性相手なら到底口に出来ない様な台詞でも、幼馴染み相手ならばスラスラと口から出てきた。
子供の頃から常にそばにいて、更にこの狭い村の中だ、もう殆ど家族の様なものだと云っても過言ではない。
「それだけ?」
彼女は少し俯いた。
「それだけ」
「嫉妬した?」
俯いた顔を、彼女はそっと上げた。
彼からすれば見下ろす形、彼女からすれば見上げる形になった。
いつの間にか二人は、触れようと思えば直ぐに触れられる距離にまで近づいていた。
「…まあ、ちょっとだけ、ね」
彼の頰が少し赤く染まった。
彼女の頰も同じ様に染まっていく。
父の死が迫っているというのに、彼の中で彼女という存在が大きくなっていくのが分かる。
思い出す、あの記憶。
思い出す、あの想い。
かつて彼はこの目の前の幼馴染を愛していた。
ずっとその事を忘れようとしていた。
思い出してはいけないものとしてずっと心の内に押し込んでいた。
溢れそうになるものを、隠しておかないと耐えられそうになかったから。
廊下は暗く、明かりは彼女の持つランプと窓からの微かな月光だけ。
静かで、彼には外で鳴く虫の音と、心臓の音しか聞こえなかった。
トクトクトクと一定のリズムで鳴る心臓。
だが徐々に速くなっていく。
自分が欲しかったものが、忘れようとしていたものが、それが今彼の中で蘇ろうとしていた。
「ねえ、良い機会だと思うの。結婚するなら今が──」
彼女のその言葉は、ヨハンにとって驚きだった。
思わず口を挟んだ。
「──何をいきなり…それは父さんのために言ってるの?」
「おじさんのためだけにこんな事言わないわよ」
「じゃあ何故──」
彼の言葉を遮る様に、彼女は言葉を捻じ込んだ。
「──私も本当は好きだったから」
「…何が?」
「何って、ヨハンが」
「ヨハン…って僕?」
「そうよ、今ここにいる君の事」
彼は唖然とした。
置いてけぼりになっていた思考が、やっと追いついてくるのに数秒かかった。
「え…いつから…?」
「ヨハンが村を出るずっと前から」
「出る、前…?」
「そう、出る前から」
ならば何故──と、口に出しかけて、すんでのところで踏み止まった。
だが、その疑問は彼の頭の中でどんどん膨らんでいく。
ならば何故──何故、あの時自分はフラれたのか。
村を出る直前、彼は自らの想いの全てを彼女に打ち明けていた。
つまり、異性として好きだ、と。
それを断ったのは他ならぬエイラであり、だからこそ彼女が今更この様な事を言う理由が彼にはさっぱり解らなかった。
「怒ってる?」
「どうして僕が怒る必要が?」
「だって、ヨハンの告白…断ったでしょう…?今更何言い出すんだーって、思ってるのかなぁ〜って」
「戸惑いはしても、怒りはしないよ。そう、戸惑ってはいるけれど…」
「私があの時──断った理由、知りたい?」
彼は反射的に頷いていた。
「──怖かったからよ。ヨハンがお役人になって、帝都で働く事になって、何だか遠くに行ってしまった様な気がして…怖かったの」
「まあ確かに遠くに行きはしたよ?だって、帝都だからね」
ヨハンの言葉に、彼女は小さな溜め息を吐いた。
少し鈍感な彼でも、どうやら呆れられているらしい、という事だけは分かった。
「物理的な距離じゃなくて──いや、まあそれもそうなんだけど──遠い存在になっちゃった、って事ね?」
「ああ、そういう意味か。でも、そうかな?」
「ええ、私が間違いだった。…ヨハンはヨハンのまま。昔から変わらずちょっと間抜けなところとか…」
間抜け…?と反論しそうになるのを堪えて、彼は取り敢えず聞き流す事にした。
「あと、ヨハンをこの村に縛りつけちゃいけない、とも思ったの」
「どうしてエイラと付き合う事が僕を縛りつける事になるのさ?」
「なるのよ」
「そうかな?」
「なるったらなるの!」
少し納得がいかなかったが、エイラがそう言うのならそうなのだろう、と彼は無理矢理自分に言い聞かせた。
「あと、そうね…帝都には若い女の人だっていっぱいいるでしょう?」
「そりゃそうだ、人口密度がこことは比べ物にならないからね。当然だよ」
彼女は今度は盛大に溜め息を吐き、ついでに両手で頭を抱えた。
「そういう事を言ってるんじゃないの…別に帝都の人口密度なんてどうでも良いのよ…要は、新しい出会いが待ってるって事でね…そっちに目移りしちゃうんじゃないかなって思ったのよ…」
「まあ確かに新しい出会いはあったけど…別に目移りする様な事は無かったよ…?あ、一度式典で遠くから見かけた皇女様(?)は綺麗な人だったけどね、うん、それぐらいだね」
あらそうですか…と彼女はその場にへたり込んでしまう。
「馬鹿みたい。私が不安に思ってた事、ぜーんぶお門違いだったなんて。ヨハン相手に一般的な不安を抱く事自体がそもそも間違いだって、今更だけどよく分かったわ」
「いや、むしろ僕の方こそ馬鹿みたいだよ。エイラにフラれて、こう見えて結構落ち込んだんだからね?それなのにフラれた理由がそんなしょうもない事だったなんて…僕の涙を返して欲しいね」
「あら、失恋のショックで泣いたの?」
一転して彼女は、にやりと笑った。
「ショックでその日一日中食べ物が喉を通らなかった…僕が村に中々帰らずにいたのはそれも一因だよ…」
「それはごめんね」
くすくすと愉しげに笑った後、彼女は付け足した。
──まあ、私もあの後落ち込んだんだけどね、と。
「じゃあ、馬鹿げたすれ違いに過ぎなかった訳だ」
「そういう事になる…かな」
彼は、いつの間にか自分も自然と笑顔になっている事に気が付いた。
それは、間違いなく嬉しいからに他ならなかった。
「ねえ…ヨハンは…今はどうなの、かな…?」
「どうって?」
彼がそう言った瞬間、彼女は予想していたかの様に天を仰いだ。
神に祈りを捧げているのか、はたまた彼女の呆れが限界近くにまで達しているのか…恐らくは後者だろう、と彼は思った。
「この会話の流れで察してよ…だから、今でも…えーっと…私の事を…その…」
顔を真っ赤にして、彼女は口籠もる。
天を仰いでいたかと思えば、今度はぺたんと床に張り付いてしまった。
「今でも好きだよ?」
ヨハンもやっと意図を察して、焦りながらもそう述べた。
「…誰が?」
「僕が」
「…誰を?」
「エイラを」
「…」
「僕はエイラが今でも好きで、エイラも実は僕の事が好きだったって知って嬉しかったし、出来ればこれからも一緒にいたいし、僕は遠い存在になんてなっていないし、この村に縛られたって構わないし、他の女の人に目移りなんかしない」
我ながら言い切ったな、と感じられて、彼は後から湧いてきた羞恥心に身悶えしそうになった。
「なら良かった…私も…好きだから」
照れて顔を見せてくれない彼女の格好は、一見土下座の様でロマンチックさの欠片も無かった。
だが、それがむしろ自分達にとっては望ましい様にヨハンには思われた。
「ねえ、いつまで床にへばり付いているつもりだい?ほら、立って」
「…嫌だ。恥ずかしい。まともにヨハンの顔を見られる気がしない…」
「むしろそのポーズの方が恥ずかしいと思うけど…」
えいっと半ば強引に彼女を抱き抱えようとすると、すんなりと持ち上がってしまった。
その軽さに、彼は内心少し驚いた。
戯れに母を背負いて何とやら、だ。
「ほら、やっぱり服も汚れてる…」
「…」
期せずしてお姫様抱っこになってしまった。
互いの目が一瞬合う。
ぷいっと照れ隠しに彼女が横に顔を背ける。
彼はこのまま寝室に駆け込みたい様な気分であった。
理性で何とかそれを抑え込み、彼は愛する人を床に下ろした。
「…」
「…」
その後は、心地好い様なもどかしい様な沈黙が続いた。
彼は彼女を抱きしめたいと思った。
昔からずっと側にあったのに、触れられなかった宝石。愛しいもの。
それが今…
いけない事だと分かっていた。
彼女は所有物などではない。
だが、それでも今だけは自分だけのものにしたくて仕方がなかった。
自分の腕で包んで、それが自分のものであると確認したくて堪らなかった。
彼女もそれを察した。
「別に…良いのよ?」
彼はそっと抱きしめた。
彼にとって、彼女を抱きしめるのはこれが初めてではない。
子供の頃だって何回も同じ事をした。
しかし、今のそれは昔とは全く違うものに彼には感じられた。
何が違うのだろうか?
年齢か。
二人の関係性か。
少なくとも彼には、自分達の関係性は昔からあまり変わらないと感じられていた。
ならば、それは──