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CXXXIV.近くも遠い故郷。

約一年前に書いたままファイルの奥底に眠っていた第九章…遂に投稿です(泣)

 彼は馬を駆っていた。

 舗装されていない乾いて固まった土の街道を、前を走る馬車を次々と抜き、颯爽と過ぎて行く。

 馬は全速力で風を切って走る。


 時刻は十二時を少し過ぎようかというところ。

 爽やかな風が草木を撫でるように優しく揺らし、天高く昇った陽が世界の(あまね)く全てを輝かせる。


 しかし、街道の和やかな昼時の雰囲気とは対照的に、彼の表情は固かった。

 小さな雲が所々浮かぶ広く深い青の空にも関わらず、彼には不安が重くのしかかっていた。

 道端の雑草の明るい黄色の小さな花とは異なり、彼の見つめる先は真っ暗だった。


 彼がその報せを受けたのはつい先刻の事だった。

 普段の様に職場で仕事に専念していたところに急ぎの使いが駆け込んで来たのだった。

 その使いは彼に、父が危篤だという事だけを伝えた。


 それ故、彼はこの様に馬を駆って故郷へと向かっているのである。


 彼の故郷はフォーアツァイト帝国の農村部であったが、だからと云って辺境でもない。

 帝国の中心部に近く、そこまで帝都から離れている訳でもない。


 しかし、それでも帝都からは馬を限界まで走らせても丸一日はかかる。

 実際、あの使いも二日はかからずとも、かなりの時間をかけて帝都まで到着した様だから、彼が父の顔を見る頃には父の危篤後三日は経つ計算となる。


 ──果たして三日も待ってくれるであろうか。


 その様な考えが彼の脳裏にふと浮かぶ度に、彼はその事を考えないように必死に前を向いた。


 しかし、振り払っても振り払ってもその不安は何度も蘇るのだった。


 彼を掠める様に飛ぶ可愛らしい小鳥達でさえ、彼を慰める事は出来なかった。


 父に最後に会ったのは三年程前の事だった。

 別に父と仲が悪い訳でもなかったが、最近の彼にとっては故郷の父に会う事よりも仕事の方が優先順位が高かったのだ。


 それ故、ずっと父と会う事なく、そして父を思い出す暇も無かった。

 三年もの間、彼の生活や思考から父という存在は消え去っていたのだ。


 しかし決して彼は父を愛していない訳ではなかった。

 それどころか彼にとって父とは、この世で最も尊敬すべき人物だった。


 母は彼が幼い頃に亡くなり、それからずっと父が一人で彼を育ててきた。

 母がいなくとも彼が立派に育ったのは、父の教育の賜物だった。


 そして、父は故郷の英雄だった。

 帝国の役人だった彼の父は、昔は荒地で人が住めない土地だった故郷を一から開墾し、村を作ったのだ。


 彼の父は故郷の英雄だった。

 賊の侵攻に率先して立ち向かったのは父だった。


 故郷を守るべく住人を率いて先頭で戦ったのだった。


 父はその時に右目を失った。


 彼の父は故郷の英雄だった。

 飢饉が村を襲った時、私財をいとも簡単に売り払い、皆を救ったのは父だった。


 家具が全て運び出され、空っぽになった家を前に息子に笑いかけたのは彼の父だった。


 昨日まで住んでいた家が自分達のものでなくなった時、息子に笑いかけたのは彼の父だった。


 今思い出すと、何と自然な笑顔だったのだろうか。

 泣きそうになる幼かった彼を前に、父は笑ったのだった。


 家の代わりに商人から手に入れた穀物は人々に配るとすぐに尽きてしまった。

 しかし父は言った。これで少しは保つだろう、と。


 そして飢饉が過ぎ、誰一人として死ななかった。


 ──彼の父は故郷の英雄だった。


 緩やかなカーブしかないはずの街道が涙でグニャグニャに捻じ曲がって行く。

 思い出せば思い出す程に街道は彼の邪魔をするのだ。


 彼の握る手綱が濡れた。

 しかしそれは涙だけではなかった。


 雨だ。


 雨を煩わしく思ってか、彼の馬が短く鳴いた。

 だが彼の心境は違い、これを好意的に捉えていた。


 もう既にずぶ濡れの心を洗ってくれる、そんな気がしたからかもしれない。



 ✳︎



 帝都と周縁部とを繋ぐ関所を越える頃、もう太陽は雲に隠れ、小降りの雨がパラパラと降ってきていた。

 彼の頰を撫でる様に、水が一筋流れて行く。


 しかしそれはいつまでも一筋という訳ではない。

 ある時には二つに、ある時は三つに、分かれていくのだ。


 だが離れ離れになってしまった水を哀れむ必要は無い。

 いずれそれらは巡り会い、一つになって、最後には雫となって落ちていくのだから。


 彼の故郷がある、遠くの山の方も灰色の雲で空が覆われているのが見えた。

 彼の故郷も雨なのだろう。


 次第に雨は強くなっていったが、彼は気にならなかった。

 雨が最も激しく降る頃にはもう既に彼は何もかも考える事を止めていたのだ。


 ただ、口に入ってきた水が少し塩味だった事、それのみが彼の覚えている事だった。



 ✳︎



 故郷に着く頃には、丁度雨が止んで、雲の隙間から赤く染まった空が覗いていた。

 その頃には彼の愛馬もこれ以上走れない程に疲弊していた。


 水溜りに夕陽が反射して、周りのどこもかしこもが紅色に見える。


 しかし不安と安堵と疲労で、彼にそれを楽しむ余裕など勿論無かった。


 村の少し手前で、彼の到着を待っていたと思しき村人達が数人立っている。

 彼を見つけると、彼の到着を知らせるため、一人が村の中へと駆けて行く。


 彼は、きっと酷い顔をしているだろう、と思いながら馬上から転げる様にして降りた。


「おばちゃん、父は?」


 村人達の中に見知った顔見つけ、彼は尋ねた。


 彼女は彼の友人の母親だった。

 子供の頃はよく遊びに行ったものだ。


「今は大丈夫だけど正直もう長くはないと思う。早く行ってあげて。エイラが看てるからね」


「うん。ありがとう」


 そのまま馬は彼女に託し、彼は家へと走っていった。


 村の中でも騎乗して構わなかったが、流石にこれ以上は馬が可哀想だったし、ここまで来れば走った方が早かった。

 家は丁度村の中心部にあって、村の入り口からは道を真っ直ぐに行くだけである。


 彼の家は決して立派という訳ではなかったが、彼と彼の父の二人が住むためだけには広過ぎる程だった。

 家の周りは芝生の生えた庭で囲まれているし、村の他の家とは違って、低い木製の──子供でも簡単に壊せる程度のものではあるが──柵を備えていた。

 それに、二階建てだった。

 この村で二階建ての建物は彼の家以外には無く、それ故に彼の家は非常に目立つ。

 村の中でも建物が密集している訳でもないので、村の中からならどこからでも彼の家は見る事が出来た。


 彼がまだあの家に住んでいた頃でも、広過ぎて使っていない部屋がいくつもあった。

 そして今は彼すら住んでいない。


 つまり、彼の父、ただ一人。


 父は広過ぎる家の中で何を思ったのだろうか、と彼は後悔の滲む思いで走った。


 今彼に出来る事はそれのみだった。


 道はぬかるんでいて、たまに足を取られる。

 水溜りも無視して走ったので、ズボンは泥水が跳ねて汚れてしまっていた。


 村は三年前と何も変わっていない。


 変わったのは、父だけ。


 彼の父はまだ年老いてもいなかったし、何か持病を抱えていた訳でもなかった。

 少なくとも三年前は全く問題がある様に彼には見えなかった。


 だから、まさか父が倒れるなんて彼には予想もつかなかったのだ。



 ✳︎



 幸い、履いていたブーツが元々何色だったか分からなくなるまでには彼は家に辿り着けた。


 村は案外規模が大きく、家までそれなりに距離があったのだ。

 馬に乗るには大袈裟だが、歩くには遠い──そんな距離である。


 夕陽もかなり沈んできて、夜の帳が下りようとしていた。


 それに伴って家々にも灯りが一つ、また一つと灯っていく。


 彼の家は、父の寝室だけが明るかった。

 そこに父がいるのだろうか。


 低い柵に囲まれた芝生の庭を抜け、玄関の扉の前まで彼は進んで行った。

 芝生は最近まできちんと手入れされていた様で、美しく生え揃っている。


 彼は世話をしてくれているエイラを呼んで開けてもらおうかと思ったが、ドアに手をかけるとすんなり開いた。


 確かに、戸締まりする必要性など無いものな、と彼はふと思った。


 家に入ると、懐かしい匂いがする。

 やはり家にはそれぞれに匂いがあるのだ。


 彼の家のそれは、父が好んで育てていた果物の甘い香りに似ていた。

 いや、もしくはそれ自体かもしれない。


 この匂いというものは、そこにいる時には全く感じられないのに、少しの間他で過ごすだけで感じられる様になる。

 だから、この家をずっと離れない彼の父には、この匂いが感じられないのだ。


 身近なもの程、失うまでその大切さに気付けない。

 いや、失った瞬間すら分からないのかもしれない。


 家を出る時、誰も自分がその匂いを失った事には気付かない。

 家をずっと離れていて、ある日帰る。それでやっと気づくのだ、自分の失っていたものに。


 でもそれはもう遅いかもしれない。

 その時には家は自分のものでなくなってしまっているかもしれない。

 自分のものであったとしても、そこには何かが足りないかもしれない。


 そして、もしその後一度も家に帰らなかったとすれば──きっとその人は気付かないのだろう。

 自分が失ってしまったものさえ。


 ただ、それは悪い事ではない様に彼には思えた。

 きっとそれは、人々を失ったものの悲しみから救うためのものなのだ。

 忘却とはそういうものなのだ、と。


 暗い玄関を抜け、そのまま寝室に向かうと、父とエイラが待っていた。

 彼の父はやはりベッドで寝ていたが、案外元気そうで少し彼は安堵した。


 しかし、傍に立つエイラの表情はどことなく暗かった。

 やはり父は長くないのだろう、と彼は悟った。


「父さん、来たよ」


 ここで、自分のブーツのせいで床が汚れてしまった事に気付き、少し拭いて上がれば良かった、と彼は少し後悔した。


「おお、来たか。予想以上に早かったな」


 そう言って父はニヤッと笑った。


「随分急いで来たからね。父さん、体は大丈夫なの?」


「倒れた時はもう駄目かと思ったが、まだ死んではいないな。エイラちゃんのお陰で美味い飯も食えるしな」


「それなら良かった。あ、エイラ、面倒かけさせて悪いな」


「別に良いのよ。おじさんのためなんだから」


 彼女も笑ったが、やはりどことなく暗い笑顔だった。

 彼女がぎゅっと両手を握り締めているのが分かった。


「へへへ、おじさんのためだってさ。いやぁ、いい子じゃないか。なあ、ヨハン」


「何を今更…知ってるよ」


「そうだったな。いつもお前のやらかした事の後始末はエイラちゃんがしてたよな」


「そんな事は…あったね」


「だろ?でもそんなガキだったお前達ももう立派な大人だな。ヨハン、恋人の一人や二人や三人ぐらい勿論いるよな?」


 いやいや、三人ってそりゃあ浮気でしょう?


「三人どころか一人もいないよ。仕事で忙しくてそれどころじゃないからね」


「そうだよなぁ〜。うちのヨハン君は三年も実家に帰らなかったもんなぁ、忙しくて」


 口角を上げに上げて、父は更にニンマリと笑みを浮かべる。


「わ、悪かったってば」


「で、お前がそんな風に忙しくやってるうちにエイラちゃんはモテモテだぜ?なあ、この前だって雑貨屋んとこの息子、ほらトモ坊に告られてたもんな?大勢の目の前で」


「もう、おじさんやめてってば」


 エイラが少し顔を赤らめる。


 セクハラオヤジめ…最近は帝都だと、そんな事やったら即訴えられるんだぞ…?


「それだけじゃないんだぞ?お前が帝都に行ってからの五年程で何回そんな事あったか分からんぞ?」


「父さん、何が言いたいんだよ…」


 まあ、大体何を言わんとしているかは予想出来た。


「父親として息子に警告してるだけだ。早くしないと他所の男に盗られるぞ、ってな。可愛い幼馴染みが奪われるなんて嫌だろ?」


「おじさんってば!」


 遂に、エイラの手が出た。

 手元にあった温かいおしぼりを、父の顔面に向けて思いっ切り投げた。

 正確には、寸前に恐るべき速さで躱されたので、おしぼりは空を斬り、壁にべちょんと張り付いた。

 …危篤とは一体何だったのか…


「ああ、すまんすまん。お節介だったな」


「うんお節介だね。…元気過ぎだろ」


「元気だろ?でもな、やっぱ俺ももう長くはないらしい。息子が結婚したのを見届けてから死にたい、とか思ってしまってな…」


「父さん…」


「出来れば孫も…」


 …孫は無理だろ。


「もっと言えば曽孫も…」


 …曽孫はもっと無理だろ。


「──という事で、どうせなら今晩辺り、エイラちゃんとチョメチョメして種仕込んじゃえヨォ、YOU!」


「──さっさとくたばれ…」


 割と本気っぽい冷たい声が背後から聴こえてきたが、彼は気にしない事にした。


「あ、悪い悪い!気にすんな、今のは!それより、エイラちゃんもヨハンも飯食ってないだろ?俺の事はいいから食ってこいよ、な?」


「じゃあそうするよ。エイラ、ごめん何か作れる?」


「ああ、急いで来たもんね。何か作るね」


 彼等は部屋を出た。

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