CXXX.ニーゼルレーゲンの市。
※注釈
・規模の経済性
「規模の経済」とか「規模の利益」とも言うそうな。いや、寧ろそっちが主流っぽい。
生産に於いて、その規模が大きくなればなる程生産物ひとつひとつの生産コストが下がる事を指します。
極端な例を挙げると、各家庭で各々必要な分の靴下を編むよりも工場で全部一気に作った方が効率が良く安上がりだよね、という事。
もっと卑近な例ならば、本州でじゃがいもを細々と育てる農家と北海道の広大な土地のじゃがいも農家を比べる様なものです。
本来的には生産分野だけに適用出来る言葉ですが、個人商店と総合スーパー…といった風に他の分野にも通じる原理です。
「これはまた…随分と栄えておるものだな…」
今日何度目とも知れぬ台詞を口にして、私は溜め息混じりに辺りを見回した。
丁度朝食と昼食の中間に当たる時間帯──市場が最も賑わう時間帯である。
今朝水揚げされたばかりの海産物や朝収穫されたばかりの農産物、肉に家畜に煌びやかな宝飾品や貴金属。
様々なものが至る所で競りにかけられ、そこかしこで元気な声が張り上げられる。
そしてその様な光景が延々とどこまでも広がっているのだから呆気に取られる他ない。
これがヴァルト王国の誇る観光スポットが一つ、「ニーゼルレーゲンの市」らしい。
たかだか市場如きが観光スポット扱いなのか、と侮り半分にここを訪れた私は出鼻を挫かれる事と相成った。
祖国のショボくて貧相でそのくせ数日に一度しか開かれない定期市と比べた私が間違っていた。
規模も活気も比べ物にならない。
商業国家として世界中のありとあらゆる品が集い、人口密度も高く、経済力があるヴァルトと、せいぜいメーヴェに農産物を輸出して小金稼ぎをするぐらいの、首都ですら人がまばらで、経済力とは何ぞやというレベルのプラトークでは歴然とした差があったのだ。
「一体ヴァルトとプラトークで何が違って、何がこの差を生んでいるのであろうか…」
こうもまざまざと差を見せつけられれば最早観光どころではなくなってしまう。
一応一国の頂点に踏ん反り返る身としては、思案せずにはいられない。
ナーシャとしても私の気持ちは痛い程解ってしまう様で、デート中に何やら物憂げに考え込む私に対する非難よりも同情が勝ってしまったのか、ちょっと遣る瀬無い顔でこちらを窺ってくる。
折角仕事を放り出し、(後ろから距離を取って見張られてはいるにしても)二人きりでデート(仮)に興じてみたものの、一つ目のスポットからして雲行きが怪しい。
フォーアツァイトでも確かに格差を目の当たりにしたが、あちらはまだ頑張れば埋められぬ事も無い差であった。
フォーアツァイト帝国は本質的に農業を基盤とした経済で成り立っており、プラトーク帝国と構造としては同じだからである。
しかしことヴァルトの繁栄に至っては、ちょっとやそっとで追いつける気がしない。
これに追いつこうなどという発想自体が烏滸がましいものだというのは分かってはいても。
「やはり気候か…?気候なのか…?」
妹は少々うんざりした様子で答える。
「それは違うかと。商人は利に敏いものです。気候など関係なく富のある所に商人は集います。我が国の商業が盛んでないのは、単に富が無いからに過ぎません」
「だが、富が無いから商人が集まらない。商人が集まらないから富が発生しない。富が無いから商人が集まらない…これでは堂々巡りではないか」
「私達が生まれた頃には既にそうだったのですから致し方ありません」
「どうにかならんのか?」
ナーシャは口元に薄く笑いを浮かべた。
「方法はあります。簡単な話です、国家が市場に介入すれば良いのです。放っておいてもいつまでも富が生まれないのなら、国家自ら富を生み出す他ありません。具体的には、民間への投資や国家主導の産業育成などですね。言うだけなら簡単ですが」
「投資したいのは山々だが、そのための資金が無い」
「ええ、最後の頼みだった代々の積み重ねも全て軍に投資してしまいましたから。経済ではなく軍事にそれを投資したのは他ならぬ兄上です、今更後悔などしてもらっては困ります」
まあ今更後に引けないのは自明である。
「無論、自国に十分な財力が無くとも選択肢はまだありますが」
少々皮肉の混じった笑みと共にそう言われれば、誰だってその言葉の裏に込められた意味は分かる。
「他国の手を借りる、か…」
他国の資本を取り入れれば手っ取り早く自国産業を成長させられる。
但し、少量ならば薬になっても飲み過ぎれば劇薬となり得るが。
メーヴェや連邦は特にこの手段を好み、産業を発展させる手伝いをするふりをして近付き、気が付いたら借金まみれにしてしまう。
借金の返済が不可能となれば弱味につけ込み重要な港等を租借或いは割譲にまで漕ぎ着け、そのうち政治に口を出し始め、あわよくば保護国化。そこまで来ればしめたもので、最後には植民地化でワンツーフィニッシュだ。
「連邦に勝つ事が出来たなら土地と一緒に賠償金も講話でふんだくれる。その後自力で産業を振興すれば良い。やはり軍事分野になけなしの資金を注ぎ込んだのは正解だったはずだ。上手くいけば軍事・経済共に増し増し、富国強兵が成るのだからな」
これぞ一石二鳥、良い事尽くめだ、と言うのは少々ペテンかもしれない。
その分リスクも跳ね上がるのであるから。
兵は国の大事、存亡の道、軽んずべからず。
せずに済むなら本来しない方が良いに決まっているのだ、戦争など。
さて、来るかも知れぬ未来のため、私はこの巨大な市場の視察を開始する。
そう、視察だ。ナーシャにはデートという名目で付き合っているが、あくまで視察だ。
観光客向けにぼったくりプライスで販売されている、貝の鉄板焼きとか謎の白身魚のスープとかどこぞのフルーツとかを食し、ついでに妖しく光る宝石類を皇族パワーで買い漁るのもあくまで市場調査ってヤツだ。うん。
悪目立ちしないように、羽振りの良い商家の跡取りとお嬢さんぐらいの身なりに留めている私とナーシャだが、持ち歩く金額はその程度のものではない。
店丸々一つ買い取っても十分余りある額であるから、気兼ねなく気になったものは片っ端から買い漁る。
貧乏国家の皇族でも、皇太子と皇女ともなればそれぐらいは当たり前である。
寧ろフォーアツァイトでは非常に慎ましかったというだけの話だ。
「そのショーケースの中のもの、全部頂戴」
「ああ…これも良いわね…じゃあここからここまで全部買うわ」
…と、大人買いどころかセレブ買いをそこらで繰り広げる妹のせいで、流石に注目を浴び始める。
あのお嬢ちゃん凄いぞ…と野次馬がぐるりと我々を囲んで見物し始め、上客を見つけた物売り達が自分の売り物を買わせようと続々集まってくる。
するとどこからともなく現れた二十人ばかりの男達(どうせ副メイド長が手配した者だろう)がそんな人々を私とナーシャに近付けまいと威嚇する。
金遣いが荒い妹のせいで大騒ぎだ。
「おい、目立ち過ぎだぞ…!もう少し控え目に買えんのか?!」
「しかし兄上、これだけ安いと買わない方が損というものではありませんか」
プラトークでこういった高級品を買おうと思えば、御用商人を通して手に入れる事となる。
そうなると必然的にマージンを大量に取られ、ぼったくりプライスでのお買い物となってしまう。
更にプラトークでは高級品の需要そのものが少ないので品も少なく、どうしても高くなってしまうのだ。
謂わば、規模の経済性の流通バージョンである。
「我々から見れば安くとも、庶民から見れば高価なのだ。平穏無事にデートを終わらせたいなら目立たぬが吉だぞ」
「それもそうですね…兄上との折角の貴重な時間を邪魔されては困りますものね」
まあ、納得してくれたならそれで良し。
「頃合いですね。──では、この混乱に乗じて逃げてしまいましょうか」
…ん?
長いスカートを苦にする事もなく、私の反応を待つ事もなく、彼女は私をひょいと持ち上げると横向きに抱える。
…お姫様抱っこである。
突然の事に周囲の皆が呆気に取られている間に彼女は包囲網の一角を体当たりで文字通り吹き飛ばすと、高笑いを上げながら人混みを抜けていく。
「ははははははははは!!!このまま振り切ってしまいましょうか、兄上!」
妹にお姫様抱っこをされてしまった哀しみに悶える私を気にかける事もなく彼女は追っ手をどんどん引き離していく。
今更彼らが我に帰ったところでもう遅い。
みるみるうちに市場の出入り口にあたる、ちょっとした広場にまで辿り着く。
「…え?!皇太子殿下──じゃない、皇女殿下…!どちらに行かれるのです?!」
そこにも副メイド長が用意した数人の男達が待機していた。
どうやら休憩中だった様子であるが、全速力で駆けてくるナーシャと妹にお姫様抱っこされる私という組み合わせから何が非常事態が起こったと考えたらしい。
彼らはまるで主君の元に馳せ参じる騎士の様な様相で──いや、実際にヴァルト王国の兵士か何かなのだろうが──こちらに駆け寄ってくる。
我々を疑うどころか案じる無垢な目である。
原因がナーシャの蛮行にあるとは思いもしていないのだろう。
…心が痛む。
「何かあったのですか!?もしや皇太子殿下がお怪我を?!」
まあ、私が妹にお姫様抱っこされてやって来るなどそれぐらいの理由しか思い浮かばないだろう。
「いえ、兄上は大事無いわ。それよりも、凶賊が突然襲いかかってきて今市場の中は大混乱よ」
「賊ですか…?検問所を複数設置して危険人物を入れないようにしていたのですが…紛れ込んでいましたか…」
どうやらここにいる数人の男達は休憩をしていたのではなく検問のためにここにいたらしい。
よくよく見れば広場と外とを繋ぐゲートにも別の男達が数人立っていて、縄が張ってある。
外側にできている長蛇の列を見るに、我々が驚いたあの賑やかな市場の活気もまだまだ本来の姿ではなかったのかもしれない。
本来ならばもっと人が多かったのかと思うと衝撃どころか呆れのレベルに達してしまう。
「ここにいるのは何人?」
「十二人です」
「では十人を市場の応援に向かわせなさい、今直ぐに。残りの二人は私の護衛よ」
男はそれを聞いて少し不満顔になる。
「しかし…それでは御二方の護衛があまりにも少な過ぎます…」
「いや、少ない方が良いの。その方が人混みに紛れて逃げやすいから。それより気を付けて、賊の中にはあなた達の仲間のふりをしている輩もいるから──ほら、来た!」
ナーシャがそう言って顎でしゃくってみせたのは、勿論ながら賊などではなく追いかけてきた護衛達である。
ナーシャの俊足に翻弄されて、やっとこさ追いついてきたらしい哀れな男達だ。
「彼らが賊なのですか?!確か、彼らも我々と同じ護衛任務に就く兵士のはずですが…!?」
うん、そりゃあそうなるだろう。
「だから今、“仲間のふりをしている”と言ったの。あいつら、裏切り者よ」
言うまでもなく、彼らは裏切り者どころか働き者である。
「そういう事なら分かりました…御二方はお早くお逃げ下さい。ここは我々が食い止めますので…!」
善良な兵士を平気で騙し、これまた二名の兵士を連れてナーシャは市場から出て行く。
後ろから、ここは通さんぞ!とか裏切り者め!とか恥を知れ!とか誤解だ!とか色々な叫び声が聴こえてくるが、そちらは気にしない事にしよう。