CXXVIII.夜間飛行と。
高度が上がりきって水平飛行に移行したのは離陸後ほんの直ぐの事であった。
メイストームの上昇性能が高いから、という訳ではなく、ただ単に然程高くは上がらなかったからである。
ネイロー飛行場から同じ様にやって来る味方航空部隊との合流が目的だ。
大体、誘導役のフェアリーが混ざっているからそう何も考えずに上昇すれば良いというものでもない。
この高度では多少方向感覚を失っても直ぐに姿勢を立て直せば墜落なんてそうそう有り得ないだろうし、そもそもこの暗闇の中でドッグファイトをする予定も無い。
しかし、その油断が命取りとなるのも知っていた。
真昼間に十分に高度を取っていてドッグファイトをしていた訳でもないのに墜落した例を俺は聞いた事がある。
万に一つもその様な事が起こらぬよう、フェアリーとは離れないようにすべきだ。
ただ、同僚達は高空にまで上がれないのが不満らしい。
メイストームのエンジンは水冷式であり、読んで字の如く水を使って冷却する。
航空エンジンは小型ではあるものの、陸上車両などとは比較にならない程高馬力が求められ、尚且つそれを常に維持し続けなければならない。
それだけでは飽き足らず、空戦に於いては急停止しようと思えば直ぐに止まり、動かそうと思えば直ぐに再度動き、更には急激な高度の変化による凄まじいGに耐え得る丈夫さ、気圧変化などなどを加味して…と設計者泣かせの様々な要求を同時に満たさねばならない。
…が、勿論全てを満たす事など不可能であり、必然的にそれぞれの想定される環境に応じて特化していく事となる。
メイストームのエンジンの場合は、本機が基本的に高空での飛行を主とする事から高空に於いて最もその真価を発揮するよう設計されている。
逆に言えば、低空でのその性能は下手すれば本来の半分程度にまで下がってしまうのだ。
いや、それだけならば嫌がる理由にはならない。
最も重要な点は──このエンジンの最も恐ろしい点は──低空での飛行が続くと冷却が追いつかなくなって熱が溜まり、最悪の場合エンジンがオーバーヒートして強制停止する事である。
航空機にとって“エンジンの強制停止”が何を示すかは最早言うまでもないであろう。
そして、その状態に至るまでにはその時の気温とか速度とか種々の要素が複雑に絡み合うため具体的にどのくらいでそうなるのかが誰にも分からない。
そんな危険なエンジンを堂々と採用している事自体が驚きだが、航空エンジンというのはどいつもこいつもそれに近い代物だというから仕方がない。
元々無茶な要求を満たすには大抵安全性が犠牲になってしまうものなのだ。
…パイロット達はせいぜいその性質を理解して正しく安全に使うしかないのである。
にも拘らず、上はそんな下の人間の気も知らないで平気で低空を飛び続けるよう命令してきたりする。
それではパイロット達が不満を抱くのも当然というものであろう。
特に今回は明確な合流地点が定められている訳でもなく、あちらもこちらもこの暗闇の中で互いの位置を探し出して何とか合流せねばならない。
これは言葉で言うよりも遥かに難しい事で、ただフェアリーに搭載されている航空レーダーのみを頼りにそれを成さなければならないのである。
周囲の状況確認の大半を目視に頼る航空機にとって、夜闇に包まれる事は即ち盲目になる事に相違無く、役に立つのはフェアリーに搭載された小型で貧弱なレーダーのみ。
しかし頼みの綱たるレーダーがそもそも頼りなく味方編隊を発見する事は困難たる事必至。
加えて合流に手間取れば凶悪なエンジンが比喩抜きで文字通り“火を吐く”。
戦闘以外の面でこうも頭を抱えねばならぬとくれば誰もが嫌気が差してくる。
そして誰かが文句を吐けば、つられて誰かがぶつくさ不満を垂れ始めるという負のスパイラル。
出撃早々、我が隊の士気はだだ下がりである。
こうなったのも全ては機密保持だとか言って出撃後になってようやく詳細を伝えてくる上の連中が悪い。…せめて事前に心の準備ぐらいさせてくれれば違うものを。
《中隊各機へ、二機ずつに分かれて散開せよ。…このままでは埒が開かん。僚機と決して離れぬように》
フェアリーと決して離れないようにしよう、とたった今決心したばかりであるというのにその直後に真逆の命令。つくづく嫌になる。
しかし悲しい哉、軍人にはyesしか存在しないのである。
「…ラジャー」
《ああそれと、少しだけなら高度を上げる事も許可する。ただし雲の上にまでは上がるなよ?》
《《《ヒャッハー!!》》》
さっきまでのお通夜モードが嘘の様に無線は賑わい、皆こぞってぐんぐんと上昇していく。
散開するのも高度を上げるのも全ては味方さんのレーダーに引っかかりやすくするためなのだが、コイツらがそんな事を本当に理解しているかは疑わしい。
陸と海にそれぞれの気質がある様に、俺達防衛空軍にも一定の気質がある。
ただし、三軍の中で空軍のそれが最も阿呆なのは間違いない。
よく「重力で頭がやられるから阿呆なのだ」とか言われるが、それは誤っている。
何故ならパイロット以外の連中も揃って阿呆だからである。QED。
そして俺も当然その阿呆の一員なので、心ウキウキ急上昇を開始する。
「何か見えるか?!」
僚機に無線を飛ばす。
《お前の後頭部なら見えてるが?試しに数発撃ってみようか?》
──要は何も見えないのだな。
距離的に、もし見えたとしても豆粒──否、埃程度の大きさであろう。
日中明るくても発見困難なそれを、夜間に月明かりだけで見つけられるのかと云うと当然無理だ。
まあ、味方がやってくる予定の方向が分かっているだけまだ随分とマシだとも言えようが。
フェアリーを中心に円状に広がっているので、フェアリーからあまり離れ過ぎると他の機との連絡が取れなくなる。
だから少なくともフェアリーの無線の有効範囲内には収まっている必要があるのだが、そうなると大して拡がれない。
フェアリーの夜間戦闘機タイプは他の機種と比べれば圧倒的に高性能な無線機器を積んでいるが、所詮は戦闘機用の小型のものに過ぎず、大型機のものに比べれば劣るし地上で使われる固定式のものとは比べるべくもない。
地上の機動力の無い歩兵すら無線の有効範囲の短さにはぶつくさ文句を言っているぐらいだから、況んや空の戦闘機をや。
高い機動力を有し、尚且つ小型である軽戦闘機にとって互いに無線の有効範囲内に留まれというのは汽車の満員三等客車に放り込まれるのにも等しい窮屈さだ。
メーヴェの人口密度は島国という事もあって比較的高い部類に入る。
されどもそれを実感出来るのは都市の中だけで、それ以外の場所では逆にスカスカだ。
人口の大半は都市に集中し、その他は昔ながらの百年前と大して変わらぬ耕作地帯が一面に広がっている。
そしてメーヴェの都市というのは基本沿岸部に存在する。どれも重要な港を中心に発展したものだからだ。
そういう意味で、メーヴェの北東部というのは最も都会である。
ツァーレを挟んだ向かいには大陸主要各国が揃い、それらの国々との貿易で賑わう主要な貿易港が並び、戦略上重要な軍港も過半数がここに集中、首都だって北東部に位置する。
この国の経済は北東部だけで殆ど回っている様なものだ。
だから、地上を見下ろせばまだ沿岸都市群の端っこどころか郊外ですらないのにぽつぽつと灯りが随所に見受けられる。
…自分達の軍人としての責務を再認識させられる瞬間である。
世の人々が星を綺麗だと褒め称えるのは確かにその通りではあるのだが、俺は今見ている上空からの眺めの方がよっぽど綺麗だと思う。
星々はただ瞬くだけで、そこに物語は無い。
しかし地上の灯火はそれぞれがひとつひとつの生活の明かりであって、人の営みが存在する証左であって、家庭であって、物語である。
それを思えばこちらの方が好い。
そしてそれらを守らねば、と責任に燃える。
長らくメーヴェの関与する戦争は王立海軍と植民地軍(防衛陸軍の中の一軍として数えられているが実際には殆ど別組織である)によってのみ行われ、本土の陸・空軍は戦闘経験を有していない。
空軍発足以来、我が国の軍事・地理的優位性が故に最初にして最大の関門たる王立海軍を突破する者は終ぞや現れず、今まで軍は戦闘を経験せぬまま今回の作戦に従事する事となってしまった。
つまり本件はこの国の歴史上久方ぶりの“攻められる”経験である。
──そうして暫く飛び続けるも、結局合流予定の隊を発見する事は叶わなかった。
✳︎
友軍部隊が現れなかった理由が判明したのはそのまた少し後。
合流失敗を上に報告するため、通信基地付近を掠る様に飛んでいた時であった。
航空機が上層部と連絡を取り合うには、当然有線ではなく無線を使う。
そのため、メーヴェ各地には一定の間隔で軍事用の通信基地が設置されている。
各基地にはオペレーターが常在しており、通信基地間は優先で繋がっている。
それを通す事で司令部と意思疎通が可能となる訳だ。
まあ長らく軍事用に使われる事は無く、民間人にも開放されてからは本来の用途としては専らマスコミ等の民間航空機用、大半は電話・電信の基地局として用いられ、ひょっとすると訓練以外のまともな軍事的目的のための利用は今回が初めての可能性すらある。
…いや、確実にそうだろう。
そんな通信基地伝てに各航空部隊に伝達されているとある上層部からの命令があった。
これにより、取り敢えず“何か”があったらしい、という事だけは分かった。
即ち…
《防衛空軍作戦司令部より各隊へ、作戦中止、作戦中止。爆撃機部隊は軍事用民間用問わず速やかに最寄りの飛行場に向かい、別命あるまで待機せよ。戦闘機隊は各自RTB。出身基地に帰投し、そこで上の指示を仰げ。場合によっては構成各機が散りぢりになったとしても、何よりも迅速な移動を優先せよ》
少なくとも、良いニュースの結果こうなったのではない事は明らかであった。
《各機聞こえたか?命令通り、我が隊はこれより帰投する》
《海軍の連中は結局どうなるんだ…?》
《それよりも原因は何だ…?何が起こった?》
《どうせそのうち分かる事だ、考えるだけ無駄だろう。それよりも、急いだ方が良さそうだ…かなり切迫していそうだったからな…》
結局俺達は戦闘どころかちょっと真っ直ぐ飛んだだけでRTBする事となったのだった。
この事態の原因が明らかになるのは、まだ暫く後の事である。
中途半端ですが、これにてやっとこさ本章は終了です!
…ツァーレ海編、長かった…11か月、ほぼほぼ1年かかりましたね…
あの長かったフォーアツァイト編ですら7か月でしたから、もう恐ろしい限りです…
そこまでかけてもまだ中途半端な状態という…ひえぇぇ…
ツァーレは中途半端に暫く放置し、次話か次々話より新章スタートです。
新章は久し振りの主人公視点です。