CXIV.国家百年の計。
※注釈
・戦場に霧
ここでは「戦場の霧」の事を指します。
戦場の霧とは、戦略シミュレーションゲームで索敵範囲外が暗くなってたり霧の様に真っ白で表現されていたりして見えないようになっているアレの事です。
転じて、実際のリアル戦場に於ける種々の不確実性をも意味します。
戦場に於いて計画というものは如何なるものでも狂いが生じます。
その狂いを生むものを戦場の霧と呼ぶ訳です。
「あー、あー…このマイク邪魔だな。ま、別に要らぬか」
折角用意したマイクをぽいっと捨てると、女王は集まった数十人の高級将校やそれに準ずる連中──無論、この私を含む──の前に立った。
甲板に突如現れた数十脚の椅子とホワイトボードは私が知らぬうちに女王が用意させていたらしい。
何と周到かつ狡猾な手口なのだろうか、と感心してしまう。
本日は海風様が大層お元気なご様子で、ざっぱーん、と時折大きな波が船体にぶつかってきては波飛沫の先っぽ辺りをミストの如く私のズボンの裾の辺りにぶち撒けていく。
我が艦隊の旗艦マクドナルドは一応区分としては重巡洋艦という事でそれなりに大きな船体を有しているが、それでも巨大戦艦でもあるまいし濡れる時は濡れるのだ。
一番腹が立つのは、女王だけが濡れていない事であろうか。
上手い具合に水のかからない場所に立っているのだ。
いくつもある椅子のうち真ん中の一番前の椅子に半ば無理矢理座らされた私は、脚を組んで腕を組んで──とお世辞にも行儀が良いとは言えぬ姿勢でどかっと座っている。
側から見ればとんだ無礼者に見えてしまうのであろうが不服の意を示すためである、致し方無かろう。
「すまぬな、諸君。ご多忙の中ご出席頂き誠に感謝申し上げる。ではこれよりメーヴェ王立海軍を統べる者としてこの私が──そう、この私が!皆に向け今後の予定変更についてご提案申し上げる。…はい、拍手」
ぱちぱちぱちぱち、とまばらな拍手が彼女に向けられる。
一部彼女の熱心なファンと思しき数名がそれはもうこれでもかと言わんばかりに盛大なエールを送ってはいたが。
最早アイドルの親衛隊か何かの様な様相を呈している彼らは、何とまあよくよく見ればどれもメーヴェではなく他国の人間であった。
パスタにオデッサにカスティーリャの好い歳こいたお偉方のおっさんども数名がヒューヒューやんややんやの大喝采である。
もうこれを見苦しいと言わずして何と言うか。
衝撃的なのは、いつの間にか他国の海軍の高級将校が女王を崇める親衛隊となっている事。
仮にも他国の軍の一翼を担う者達がメーヴェの女王にデレデレ鼻の下を伸ばしているこの現状は何だ。
呆れるというより恐怖を感じる。
振り向いていた顔を正面に戻してやれば、女王がしたり顔でこちらをニタニタと見ている。
どうだ私の腕前は、と言わんばかりの表情である。
恐怖だ。
恐怖である。
改めて考えてみても、女王のこの謎の人望というか人心掌握というか…この能力は異常だ。
自国の人間相手であればまだしも、他国の人間相手にこうも容易く侵食するところを実演されては恐怖せずにはいられない。
──勘違いを招かぬよう予め言っておくが、私が恐怖しているのは女王自身に対してではなく女王のこの能力が今後引き起こすであろう諸問題に関してである。
女王を懼れるのではない、女王が引き起こすと予測される問題を恐れるのである。
私は今確信した。
彼女の存在が、メーヴェという一つの国家を危うくするであろう、と。
メーヴェという国の政治形態は立憲王政。
但し国王の権限は大きく失われており、政治的主権は国民にある(という事になっている)し、実際の政治は議会と内閣が執り行う。
軍は先見の明があったのか、早い段階から空軍が陸軍より独立し、陸・海・空の三つが存在している。
このうち防衛陸軍・防衛空軍は国家そのものに所属し、王立海軍だけは国王に所属しているが、これは創設経緯によるもので、元々存在していた王や諸侯の私兵を廃して生まれたのが陸軍であるのに対して海軍は古来から王所有だったものをそのままの形で現在に至るまで存続させているからである。
故に、メーヴェの国王は軍事に関しては海軍に対しての権限しか持たない。
但し、この海軍に対する権限も近年はほぼ無きに等しいものとなっていて、国王は「追認」という無意味な作業を後から書類越しに事務的に行うだけのものとなっていた。
これらを纏めるならば、メーヴェの国王はお飾り以外の何物でもないという事になる。
実際、メーヴェの国王は内外的にもお飾りという認識であった。
しかし、だ。
これらは全て「エリザベスを除く」という但し書きを付けねばなるまい。
国王は政治的権限を持たない。但し、エリザベスを除く。
国王は軍事的権限を海軍に限っては擁するが、行使しない。但し、エリザベスを除く。
何故か。
それはエリザベス女王なる人物が国民の絶大な支持を集めているからである。
ここに於ける“国民”とは広義での国民であり、即ち議員をも含み得る。
“支持”と表現しては少々言葉足らずかもしれない。
それは最早“崇拝”に近いものだからである。
一般に、個人崇拝は民主主義を破壊するというが、それならばメーヴェの民主主義は既にずたずたに破壊されている。
全ての権限を国王へ。
…彼女がそう唱えればそれを止められる者はメーヴェには何人たりとも存在しないのだから。
民主政に於いて最強の国家意志たる民意には抗え得ぬし、未だ君主政を採る国家が多いこの世界に於いて、それは尚更正当化され得る。
そうならないのは偏に女王がそれを主張しないから、という単純な理由に違いないのだ。
だが、それが女王の政治的野心の存在を否定するかと問われれば、それも否定せざるを得まい。
否、それ以前に…いつでも彼女が国家を動かせるというこの現状が危険である。
彼女の意思の何如に関わらず、それは近代的民主主義に対する脅威であり、民主主義という概念が歴史的に脅かされてきた脅威だ。
民の崇める人物が政を司るうちは、それが実際には僭主政なのだとしてもある意味で民主主義と言えなくもない。
だが、その状態が続くのは春の夜の夢の如き一瞬であり、その後に遺されるのは次世代への迷惑なツケである。
私はそれを直ぐ目の前で見ている。
国家を滅ぼす諸悪の根源を。
それはパンドラの箱の様なものなのかもしれない。
開けぬうちにはそれは何ら害を及ぼさない。
しかし、パンドラの箱は開く。それこそが最大の問題なのである。
つまり、パンドラの箱が実際に開けられる事があるかという事は問題とはならず、それが存在する事自体がリスクを厭う人間にとっては脅威なのだ。
考えてもみて欲しい、撃たないからといって銃口を向けられて不快に思わぬ人間があろうか?
撃たれはしないのかもしれない。しかし、引き金は引かれ得る。
実際には引き金は引かれないのかもしれない。しかし、撃鉄は上がっている。
撃鉄が打たれる事はないのかもしれない。しかし、弾丸は込められている。
ならば、それを恐怖せずにいられようか。
私が言いたいのはこういう事である。
このまま女王を放置しておけばメーヴェという国は誤った方向に進みかねない。
仮定の話ではあるが、彼女がそうしようと思えば勝手に他国と戦争を始められるし、勝手に戦争は始まってしまう。
彼女がそうしようと思えば。そう実際に行動すれば。本来誰も為そうとはしない馬鹿げた事が現実となりかねない。
もし仮に彼女が私の思う以上に良識を備えた人間で、終ぞや禍の火の粉が民に降りかかる事はなかったとしても、やはり不安は消えぬ。
国王は彼女だけではない。彼女の後にも控えている。
人間、元から無いものが無いならば諦めもつくが、元々あったものが無くなるのは納得のいかぬものなのである。
要は、エリザベスの代で肥大化した国王の権限を次代の王は継ごうと、それを当然だと考えるだろう。
だが、果たして彼はエリザベスの様な人望を得られるのか?
何れにせよ、それが更なる混乱を招こう事は予想するに難くない。
そして私はここにその片鱗を見た。
だから、私は恐怖した。
故に、こう告げるのである。
「どうぞ、お好きになさって下さい。説明がしたいならばすれば宜しい。但し──」
但し、の後は言葉にはしなかった。
だが、心中では強くそれは言葉として結実していた。
──但し、全てが終わったら、私はメーヴェから去りましょう。
もうメーヴェとは関わり合いになりたくない。
否、この女王とは。
「但し、何だ?」
彼女は問う。
「失礼、何でもありません」
「そうか、ではよく聴いておけよ」
恐らく、もう彼女に逆らう事の出来る者などこの艦隊には存在しないのだ。
✳︎
「私は既存の計画を見て作戦の成否を憂いておる。端的に言えば、あまりにも余裕が無いのだ。普通、作戦計画というのはある程度の失敗を考慮して副案を用意しておくものだ。戦場に霧は付き物であり、ある程度の作戦変更はあって然るべきだ。だが、本作戦にはそれが存在しない」
彼女はホワイトボードをバンッと叩き、何やら図らしきものを描いていく。
絵心の無さと壊滅的な字の汚さが露呈するも、彼女は気にする素振りも無い。
まあ少なくともこれがツァーレを表しているのだという事は辛うじて解る。
「見てくれ、これを。我らが海を大雑把に表せばこんな感じだな。赤いのが敵、青が味方だ。これは現行の作戦を表したものなのだが…どう思われるか。我がメーヴェ王立海軍を主力と位置付け、そこにオデッサ・カスティーリャ・パスタの参加三カ国の船を加えて本隊とする。ヴァルト・フォーアツァイト・プラトークの三カ国艦隊は囮として敵を誘引、本隊の元へと敵を連れて来る事が仕事だ。本隊たるメーヴェ艦隊の接敵後は本土付近まで更に奥深く敵を誘い込み、メーヴェ防衛空軍の援護を受けつつ本格的戦闘に移り、敵を撃破せしめる…これこそが元々の作戦であった。そして現在は、我々別働隊がオデッサ・カスティーリャ・パスタと無事合流し、これから本隊の元にまで向かおうか、という段階だ。元々の作戦通りならばこれから本隊の元へと向かうはずだったのだが、ここで少し問題がある。このままだと作戦が破綻しかねんのだ」
そこを詳しくお聞かせ願えませんでしょうか、と誰かが言うと女王は嬉しそうに頷く。
「勿論だとも。今述べた通り、本作戦は囮艦隊が敵を誘導し、その後本隊にバトンタッチ。そして本隊が味方の航空機の足が届く場所にまで敵をご招待するというものだ。バトンリレーだ、オガナ君。そなたとて昔一度は経験したろう?」
突然私に話を振られる。
「ええ、まあ」
この世界にもあるんだな、リレー。
…と、ちょっとどうでも良い感想を抱く。
「では君が仮に最終走者だとしよう。想像し給え、君は走ってくるチームメイトを今か今かと待ちわびているのだぞ。だが、ここで少しトラブルが生じた。何が起こったと思う?」
「前の走者が転んだ、とか?」
「んー…それだと面白くないな。じゃあ、前の走者の握力が強過ぎてバトンが粉々に砕け散ったという設定にしよう」
いやいや、どんな設定だ。
誰もボケろとは言っていないぞ。
「困るだろう?渡されるべきバトンが壊れてしまっては。受け取るべきものが受け取れぬというのは何とも悲しいものだ。違うか?」
「はあ…そうかもしれませんね」
私は首を傾げて曖昧な返事をしたものの、彼女が言わんとする事がもうこの時点で大体想像出来てしまった。
単純な話だ。
「これが本作戦に於いても言える。この悲しい出来事を未然に防ぐべく、私はこの様に提案しておるのだ。つまり──」
彼女はそこで言葉を一旦切る。
そして、私の瞳をまじまじと見つめる。
まるで全て見透かされているかの様な不思議な気分になる。
「──現行の作戦ではヴァルト・フォーアツァイト・プラトーク艦隊は全滅する可能性が高い。それを防ぐのだ」