CIX.猟犬は何と相対するか。
※注釈
・パッシブソナー
ソナーなどと一口に言っても、そりゃあもう色々ある訳です。繁華街の居酒屋並みに多種多様。
中でも大まかに、パッシブソナーとアクティブソナーの二つに大別されます。
前者は潜水艦系映画とかによく出てくるソナーで、後者はまあ…言ってしまえば魚群探知機と同じ仕組みです。
パッシブソナーは謂わば水中聴診器とでも言うべきもので、周りの音を拾う機械です。
耳を済まし、周囲でガチャガチャと音を立てているヤツを見つけるためのものなんですね。
このソナーの使用に際しては、自分は耳を澄ましているだけですから特に心配する事はありません。問題無くジャンジャン使えちゃいます。
ただし、逆に敵が音を立ててくれていないと発見出来ないという欠点があります。
次に、アクティブソナー。
名前の通り、アクティブなソナーです。
パッシブソナーが聞き耳を立てる引き篭もりなら、アクティブソナーは常時大声で叫んでいる迷惑な輩みたいなものですかね。
仕組みは、レーダーの音波バージョンとでも言いましょうか。
音波を方々に飛ばすと、それが敵に当たると跳ね返ってきます。
それを利用して敵を見つけるんですね。
ただし音波をばら撒くという事は自分で自分の位置を周りに曝け出している様なもの。
その分だけ自らを危険に陥れてしまう事となります。
さて、プラトーク艦のソナーはと言うと、パッシブソナーです。
何故なら、パッシブソナーの方がアクティブソナーよりも仕組み的に単純でお安く、昔からあるから。
しかし水上艦艇は自艦のスクリュー音がうるさ過ぎて、アクティブソナーなら兎も角パッシブソナーは停止時以外の使用は非現実的です。
しかし対潜用のソナーであるにも拘らず、停止しないと使えないというのは実際に対潜水艦戦を行う際には致命的な欠点です。(まあ、幸いプラトーク艦隊は潜水艦相手に戦闘を行った事などないのですが)
潜水艦からすれば、水上艦のスクリュー音なんて喧し過ぎてバレバレです。
ですから、潜水艦はプラトーク艦を見つければ悠々と追っかけてくれる事でしょう。
だってアクティブソナーなんて搭載してないから、安心して近付けますもんね。
そして水上艦がソナーを使おうと停止したら、しめたものです。
停止した的に向けて、チョイと魚雷をぶっ放してやればドカン、ですから。
もし攻撃する事が難しくても、潜水艦側はスクリューを止めて音を出さなければ見つかりっこありません。
もしこのソナーを実用可能だとすれば、それは待ち伏せリスニングぐらい。
いつ来るか分からぬ潜水艦を延々と待ち構えて聞き耳を立て続ける…そんな悲しい用途にしか使えないでしょう。
載せてはいるけど役立たず、それがプラトーク艦のソナーなのでした。
後世に伝えられている程それは悲惨なものではなかった。
何故なら、それはほんの一瞬の出来事だったから。
何故なら、闇は何もかも隠してしまうから。
何故なら、数字は本質を語らないから。
何故なら──死人は何も語らないから。
〜八月五日 ツァーレ海沖にて〜
「陽が沈みます」
マセリンはそう呟いた。
それはフルシチョフに向けられて発せられたセリフであったが、半ば独り言に近いものとしてフルシチョフは無視する事に決めた。
それはマセリンの焦りの篭った一言であった。
陽が沈む──そう、陽が沈むのである。
それ即ち、今に至るまで敵が発見出来ていない事を意味していた。
同時に、これ以後それが更に難しくなってしまうという事をも。
海域突入より数刻、プラトーク艦隊は索敵を続けるも未だ敵影を見ず。
虚しく過ぎ去る時間と共に、沈み行く夕陽。
真上から彼らを照らしていたヴァルト沖の眩しい太陽は今や水平線の向こうに逃げて行く。
昼間とは一変して冷たい風が、デッキに立つ二人の頬を掠める。
不意の突風に帽子を持っていかれそうになって、フルシチョフは右手でそれを押さえた。
「お前が焦ってどうにかなるものでもなかろう。気を揉むだけ損だぞ」
フルシチョフは隣の男をちらり見る。
夕陽で赤く染まったマセリンの顔が、彼には青白い様にさえ見えた。
堪らず口を突いたその言葉は、自分でも励ましになっているんだか何だか分からないものであったが、何も言わないでいたよりかは遥かにマシであろうと思われた。
また、暫しの沈黙が二人の間には存在していた。
ただ海の上の何処か一点を目的も無く見つめるだけのこの瞬間。
今日この日だけで何度となく訪れたものであった。
「おかしい。いよいよおかしい。本当にメーヴェの情報は正しいのか。それが一番の疑問なのです。もうここいら一帯を二巡はしらみ潰しに捜索しているというのに…」
「何故メーヴェが間違っていると?例のコナーとやらが隠れ潜んでいる可能性は考えないのか?夜闇に紛れて我々を襲うつもりなのかもしれない」
それを聞いて、マセリンは嫌みな溜め息を一つ。
「あちらにとって何のメリットもありません。夜闇に紛れて…などと言いますが、その様な事をしなくても我々はあちらにとって脅威たり得ないのですから。我々は今でこそ猟犬の如くヤツを追いかけていますが、勘違いしてはいけません。我々は狩る側ではなく狩られる側なのですから。まさに虎の威を借る狐なのですよ、狩るのは我々ではなくメーヴェです。そしてその事はあちらとて理解していましょう。いや、理解しているはず、とでも言うべきでしょうか。なれば、夜闇に紛れて得をするのは狩られる側たる我々であり、間違ってもコナーではありません。故に、私はメーヴェの情報の信憑性を疑っているのです。もし本当にこの海域に潜んでいるならとっくの昔に仕掛けてきていてもおかしくないのですから」
成る程な、とフルシチョフは心中で頷く。
しかし敢えてもう少し反論してみる。
「だが、メーヴェの情報網はかなりのものらしいぞ?情報確度もそれなりだと思うのだが──やはり敵に何らかの策があって出てこない可能性は捨てきれないのではないか?」
「何れにせよ、ここに潜んでいようが潜んでいまいが何も出来ません。夜間は視認距離がかなり下がります。正直、目視で探すなんて不可能でしょう。かと言って我々の装備するレーダーではあまりにも頼りなくてこちらもほぼほぼ無意味でしょう。元から大型航空機でもないと反応しない様なちゃちい代物です、人間サイズのものなんて見つけられるはずもありません。次に、もし仮に水中に潜んでいた場合ですが…我々の船が搭載するソナーはどれも古めかしいパッシブソナーです。漁船の最新の魚群探知機の方がまだ役に立つのではないかと疑っているくらいですよ。パッシブソナーで人間あるいは人間もどきを探すなんでもう不可能と言って問題無いでしょうよ。以上、結論としては無理難題って訳です。よって、ここは一時引き返し、また何かしら対策を考える他ないと思うのですが?」
「他の策ねぇ…この調子じゃ、明日も似た様な事になりそうだがな…」
「仕方ありません。こうなったら我々だけでなくヴァルトにも覚悟を決めてもらうしかないでしょう。ヴァルト艦は我々よりも遥かに良い索敵用機器を搭載していますから、あちらにもこの海域に足を踏み入れてもらいます。もしそれでも駄目なら、本気でメーヴェの情報を疑った方が良い」
「集結予定海域に向かいましょう。一旦合流すべきです。このまま続けても皆の士気は下がる一方ですよ。見つかりもしない敵を延々と探し続けるなんてそれ程気の滅入る事はありません」
「実際、お前も気が滅入っているしな」
「そうですとも」
収穫無しで戻るなんていまいち格好が付かないなぁ…とも思いつつ、フルシチョフはそんな考えは頭の隅に追いやる。
「良かろう…戻るか」
斯くしてプラトーク艦隊は敵を発見出来ず手持ち無沙汰で引き返す事となったのであった。
✴︎
プラトーク艦隊は集結予定海域に向かう。
これは、敵潜伏予想海域を南西に少し行ったところを予め決めてあった。
本来、集結とは即ちプラトーク艦隊が敵を引き連れてやって来る事を意味していたから、ヴァルト・フォーアツァイトの両国艦隊はここでいつでも動き出せるように待機しておく手筈となっていた。
海域に辿り着く頃には日もすっかり落ち、夜の帳がツァーレの海に下りる。
穏やかな海はまるで湖の湖面の様にさえ見える程で、暗闇のせいもあってここが海上であるという事は潮の香りがしなければきっと分かり得ないだろう。
敵捜索も一時中止となり、先程まで長時間甲板や艦橋で双眼鏡片手に方々を睨んでいたりせっせと働いていた者達も各々思い思いに休憩をとる。
ある者は床に胡座をかいて仲間と歓談し、ある者はパンをスープに浸して顔を綻ばせ、ある者はハンモックに揺られて仮眠を。
ひと時の心休まる瞬間である。
輪形陣を解いたプラトーク艦隊は、艦隊を六つの集団に分けて普段通りの単縦陣を組み直していた。
「敵の襲撃考え難し」として、索敵・周囲警戒よりも相互協働や意思伝達に重きを置き、それぞれの集団は比較的密集して航行する。
暗くて実際には分からないが、昼間に上空からそれを見れば六本の棒が並んで進んでいる様に見えただろう。
ヴァルト・プラトーク艦隊との合流に際しては、照明弾を打ち上げて報せる事となっていた。
これは、両国艦隊に接近を知らせて準備を促すという事以上に、ニィリャベフ級の生存確認の意味合いが大きかった。
プラトーク艦にはニィリャベフとブドゥフスキーの二隻のニィリャベフ級(自称)戦艦が含まれる。
照明弾を積んでいる(というよりも打ち上げる事が可能な)船がプラトーク艦ではこの二隻のみであるため、プラトーク艦隊が到着に際して照明弾を上げればそれはニィリャベフ級が未だ健在である事を示すし、逆に照明弾が上がらなければニィリャベフ級二隻の轟沈または大きな損害を示すという訳である。
無論、プラトーク艦はこの場に防御力ゼロで臨んでいるから、前者の可能性が遥かに高いのだが。
この様な事を行うのには理由があって、それは単純にプラトーク艦隊を指揮する二人──フルシチョフ、マセリン──が共にニィリャベフ級に乗っているからである。
即ち、ニィリャベフ級が一隻も残っていないという事はプラトーク艦隊が頭を失ってしまった事を意味する。
指揮する者が存在するかしないかだけでも大きな違いである。
ヴァルトとプラトークがそれを見極めるための決め事だったのだ。
今回は当然二隻共無事なので、二隻同時に一発ずつ打ち上げる事となる。
それぞれに積まれた照明弾で含有金属が異なり、色も異なる。
色の違う二つの光球が宙に浮かぶのを見れば、二隻と二人の指揮官の無事を確認出来るという寸法だ。
「──A砲塔、左旋回5.5度!A一番仰角60!発射よぉーい!」
「発射用意よぉ〜し!」
ニィリャベフとブドゥフスキーの主砲が一門ずつ宙空に砲口を向けた。
ニィリャベフ艦橋から、チカチカチカとリズミカルに信号点滅三回。「発射用意よし」の合図である。
それを受け、ブドゥフスキーからも同様に信号を返す。これで準備完了だ。
それから暫しの静寂。
そして、それは直ぐに破られた。
「テェッ!」
ドドンッと少しずれて二発分の発射音。
二十秒後、シュボッと小さな音と共に、いつの間にか宙空に二つの光球が上がっていた。
灯りのない暗い海上に於いては、それはまさに双子の太陽とでも呼ぶべきものであった。
燃焼時間は四十秒間。
照明弾はパラシュートによってゆっくりと落下しながら、海域の空を照らし続けた。
ここで、プラトークの軍人達はある事に気付いた。
予定通りなら、既にプラトーク艦隊とヴァルト・フォーアツァイト艦隊間はもう目と鼻の先のはずであった。
そう、“はず”だった。
もう互いに視認出来てもおかしくない──否、視認出来て当然という距離だったのだ。
しかし、見えない。
照明弾は友軍艦隊よりも少し向こうの海上に浮かび、友軍艦を影のシルエットとして双眼鏡のレンズ上に浮かび上がらせるはずであった。
しかし、どのレンズにもその様なものは全く写らない。
そこに存在するのは、他と同じ何もない海面──ただそれのみである。
双眼鏡を覗く全員が全員、背筋に悪寒を感じた。
したくもない嫌な想像を、せずにはいられなかった。
いや、まだ早計だ。
ちょっとしたミスで友軍艦隊は別の場所に待機しているのかもしれない。
そうだ、そうに違いない。
だって、おかしいじゃないか。
何故敵が、我々がわざわざ近付いて行ってやっているのに敢えて後方の友軍艦隊を襲うというのだ?
我々の方が遥かに貧弱であるし、遥かに手頃な相手であるはずだ。
それを何故一々面倒な方を狙う必要があると?
そうだ、あり得ない。
どうせ襲うなら先ず我々からに決まっている。
ああ、おっちょこちょいなヴァルトとフォーアツァイト。
何も目印の無い広い海上だから、きっと迷ってしまったのだ。
そうだ、きっと我々の上げた照明弾を発見して、今頃慌てている頃に違いな──
「──前方遥か先ィィ!!光が見えます!友軍艦隊です!」
ほら、やっぱり。
良かった、要らぬ心配だっ──
皆がホッと胸を撫で下ろしたその瞬間。
前方の光を発見した男は続けざまに叫ぶ。
「おい!違う!あれは──発砲炎です!友軍艦隊が射撃中!友軍艦隊は何者かと交戦中の模様です!」
長い夜が、始まった。