桶狭間~奇跡の裏側~
「勝ったな」
余は勝利を確信した。
先ほど、松平元康が織田の砦を陥落させたという報告があった。
今回の戦で仇敵である織田家は壊滅するだろう。
あのうつけものと一緒に……。
これで念願の上洛への道も開けてくる。
もうすぐ、京の都へ帰れるのだ。
この国のすべてが余のものになる日ももうすぐだ。
思えば長く苦しい道のりだった……。
「兄が急死しなかったら、余はまだ坊さんのままだったかもしれぬな……」
感慨深げにそうつぶやく。
後継者の兄がいたため寺に預けられ、そのまま坊さんになった少年時代……。
その寺で、生涯の友とも出会えた。
太原雪斎という傑物に……。
やつと京の寺で過ごした優雅なひと時は、いまだに忘れられない。
「お館様、なにか?」
近侍がそう問いかけてきた。
「なに、ひとりごとじゃ……」
兄の急死から端を発した、血を血で洗う骨肉の後継者争い。
異母兄とはいえ、兄を自殺にまで追い込んだ。
子どもたちを道具のように使った武田、北条との同盟。
三河の支配と織田との小競り合い。
雪斎とともに戦いに明け暮れる日々だった。
もう雪斎も、この世にはいない。
すべてを投げ打ちついにここまで来たのだ。
「雪斎が生きていればな」
そう余はつぶやく。
またともに、京の都に行きたかった。あの若い時のように。
やつがいてくれたからこそ、いまの今川があるのだ。
「さて、ここで一度、休むとするか。全軍にそう伝えよ」
「はっ」
「織田のうつけももう手はないであろう。この尾張ももうすぐ余のものじゃ」
少しずつ暑くなる梅雨の季節。
今川軍は運命の地“桶狭間”に布陣した。
「お館様、地元のものが祝い酒を持ってきました」
「祝い酒じゃと?」
「はい、戦勝を祝わせてほしいということです」
「気が早いな。フフフ。よし通せ」
民衆というものは強いものになびく。もう織田は終わりだという認識が、農村にまで広まっているのだろう。
勝利への確信を強める。
もうすぐ、“我が世の春”だ。
すべてが余のものとなる。
いままでの、争いのはてに、すべてが報われる瞬間がすぐ、そこまできている。
「よい、頭をあげよ」
「はっ」
サルのような小男が顔をみせた。
「近くの村に住むものでございます。この度は、戦勝誠に喜ばしく……」
「堅苦しいことはよい」
「ありがとうございます。戦勝祝いにわたしが作りました酒を献上しに参りました。どうぞ、お納めください」
荷車には、大量の酒が積まれていた。
「つきましては、今川様がこの地を治めたあかつきには、なにとぞ……」
やっぱりだ。おろかなこいつは勝ち馬に乗ろうとして、余にすり寄ってきたのだろう。
だが、悪い気はしなかった。
「あい、わかった。では、こちらの感状をそちにやろう。あとはわかるな」
「ありがたき幸せ」
男は幸せそうな笑顔を浮かべた。
そこに邪悪な意味が含まれているとは、この時、思いもしなかった……。
村人が場を辞した後、余は酒を飲みはじめる。
“ぐっ”と喉に酒が染みる。
強めの酒だ。だが、これくらいの酒の方が、気分を盛り上げるにはちょうどよかった。
「せっかくの祝い酒だ。みなのものに分けてやれ」
酒はたんまり、あった。
兵たちの士気もあがるだろう。
なぁ、雪斎……。
酒を飲み終えると、雨が降り出した。
「暑さもこれで少しはましになるだろう」
兵たちは酔いつぶれ、裸で踊りだしているものもいる。
本来であれば叱りつけるところだが、今は感傷にひたりたかった。
いまは亡きものを思いながら……。
それははっきりといえば、油断であった。
この地は前線からも離れている。それが、心のすきまだった。
酔いからくる睡魔でウトウトしていると、陣内で異変が起きていた。
怒号が飛び交っている。
「どうした、よっぱらいの喧嘩か?」
近侍に見てくるように命じたが、やつは突然、倒れ込んだ。
近侍の背中には、矢が貫通していた……。
「敵襲だ」
誰かが大きな声で叫んでいる。
“テキシュウ”
その言葉が正しい字に変換されるまでに、時間がかかった。
そして、結論に達する。
「織田の奇襲だ」
護衛の兵士が余の周りを固める。
しかし、酔っているのか、足元がふらついていた。
陣幕の外から、敵兵がなだれをうって次つぎと入ってくる。
すでに囲まれていた。
護衛の兵は、奮戦虚しくひとりひとりと討ち取られていった。
「覚悟」
という声がして、ひとりの兵が余に襲いかかってきた。
敵の一撃を間一髪で受け止め、返す刀でやつの足を切りつけた。
鈍い声をあげて、崩れ落ちる。
「ここで死ぬわけにはいかんのだ」
誰にいうわけでもないが、何度もそうつぶやいた。
いくつもの犠牲のうえで、積み上げたものをここで壊されるわけにはいかなかった。
「陣を立て直せ」
立て直せさえすれば、敗北はありえない。
所詮は奇襲であって、敵は寡兵だ。
わずかに希望が見えはじめたその時……
脇腹に鈍い熱を感じた。
まるで、体が沸騰しているかのような熱さだった。
脇腹をみる。
そこには一本の槍が突き刺さっていた。
血で赤く染まった一本の槍が。
後から激痛が襲いかかる。
痛みを自覚した後、少しずつ力が抜けていった。
力が抜ければ、抜けるほど、痛みは増していく。
何度も声を出そうとした。
でも、それはできなかった。
代わりに口から血があふれる。
いつの間にか余は地面に倒れ込んでいた。
体が雨と泥で汚れていく。
余はここで死ぬために、今まで血を流し続けていたのか。
天は残酷だった。
やつと一緒にみた都には、もう戻れそうもない。
もう一度だけ、あの街並みをみたかった。
この残酷な運命に抗いたかった。
しかし、もう猶予はないようだ。
血を失いすぎたせいか、目がちらつく。
力はどこにも入らなかった。
誰かが、体に覆いかぶさるのを感じる。
これが最期か。
そう確信した。
そして、わかったのだ。
「これが救いなのかもしれない」、と……。