グリーブ
冥界の戦災孤児・フィオンは、二千年にわたって恐怖の象徴として存在し続けている監獄「リジアの楽園」の奴隷囚人となった。
獄卒に弄ばれ、牢名主にこき使われながら過酷な労働使役に服する毎日は、恐怖と暴力によって統制されていた。
「もう三週間…ん、もうちょっと経つか」
フィオンは未だ「サラ」と呼ばれる新入りの身分。フィオンが投獄されてから二人の新入りがこの舎房に来たがいずれも一週間ともたずに死んでしまった。
便所掃除もすっかり板に付いてしまったようだ。この悪臭に馴れることは永遠にないだろうが。
「一体いつになったら…」
「いつ、って。いつか解放されるとでも思ってるのかフィオン。もしや希望なんてやつを持ってるんじゃねえだろうな」
隣に並んで便所掃除しているのは同じく新入りのコルボト。ふう、とため息をつく。
「バカ、希望があるから絶望するのさ」
「間違いない…」
隣の舎房から叫び声が聞こえる。
「いやだ、いやだっ」
甲高い声が耳にこびりつく。コルボトは苦い顔をしながら呟いた。
「また、だ。あの声は人間族。まだガキだな…」
「僕だけじゃないんだ、若い囚人」
「ああ、大勢いる。お前さんより若いのも多いぞ。若いやつは男でも女でもだいたい月に一回、マブラスに呼び出されてオモチャにされるんだ。可哀相に…まあその分美味いメシを食わせてもらえるって話だが」
身体の芯から寒気を感じてブルッと震えたフィオンを横目に、コルボトが呟く。
「まあ俺にゃ関係の無いことだろうが…お前はそのうちまた呼び出されるんだろうな、可哀相に」
フィオンは思わず嘔吐した。便所の悪臭のせいではない。黄土色の胃液が飛び散り、便所の悪臭に加えてすっぱい匂いが撒き散らされた。
コルボトが舌打ちする。
「おいおい、何やってんだ坊や。しっかりしろって。まだまだヤワだな…」
「集合せよ、ただちに集合せよっ」
突然、館内の鐘が一斉に鳴り、中央管理棟から直結する拡声管から大きな声。
「看守の指示に従え。閣下直々のご視察である。一同にご高話があらせられるとのこと、東運動場に直ちに集合せよ。隊列を乱すものは処刑する、看守に従え、看守に従え」
にわかに慌しくなった。
「なんだ、なんだ」
「おい早く服を着ろ」
「掃除は後でいい、早く整列っ」
「閣下が直々に、だって?」
「ああ、面倒くせえなあ」
「いいじゃねえか、話が長引きゃちょっとでも使役の時間が短くなる」
方眼紙のように綺麗に整列した囚人たちを前に、真紅のマントを翻して指令台に颯爽と乗り、張りのある声を響かせたのはクラド・エルターブ卿。
リジアの楽園を含む冥界南方の大きな公国を支配する男だ。
「日々の労働、ご苦労である。諸君らの働きは全て公国の未来、ひいてはこの冥界全体の未来のための重要かつ崇高な任務と心得るべし」
立派な髭が風に揺れている。
「今は戦乱の時代。諸君に大変な労苦を強いていることは承知しているが、ここで手を抜いては他国の侵略を許し我が領土は混迷の中に死地となろう」
奴隷囚人三千人超、管理役およびスタッフあわせて五千人を超えるリジアの住人たちを前にエルターブ卿が声を張り上げる。
「冥界十王と呼ばれる諸侯がしのぎを削る今こそ正念場。我が公国が冥界統一を成し遂げ、皆の願いである平和をもたらすことをここに約束する。その暁には公国に多大なる貢献をしてくれた諸君に上級市民の地位を与えるつもりだ」
(調子のいいこと言いやがる…)
誰もが思えど、誰もが口にすることなど出来ない。苦い表情のまま演説を聞き入る。
フィオンだけは笑みを浮かべていた。
(いいな…平和な世界。上級市民か、自由になれるんだな。早くそんな日が来ないかな…)
「おいっ、ヘラヘラしてると懲罰に遭うぞ、フィオン」
コルボトの言葉に我に返った。
「公国直属の公安もやって来て目を光らせてる、連帯懲罰はごめんだぞ。ちゃんと指令台の方を見てろっての」
台の上のエルターブ卿は一呼吸おいて、再び声を張り上げた。
「そして今年も開催する。戦意高揚と諸君の娯楽のため、グリーブの大会を」
「おおっ」
一同から歓声が上がった。
首を傾げるフィオン。
「グリーブ? 大会?」
後ろから、コルボトがそっと教えた。
「毎年の恒例行事、グリーブってのは球技の一種さ。それぞれの軍は六名、棘だらけの鉄球を相手の陣地の箱に入れる競技だ」
「へえ。簡単な規則だな」
「ここの連中に難しい規則なんか理解できるわけねえだろ。規則は単純な分、試合は激しいぞ。何でもありだからな、途中で相手を殴ろうが殺そうが規則に抵触しない」
「ええっ。殺す…って」
「試合場のあちこちに武器が置いてある。置いてある武器なら刃物だろうが何だろうが自由に使っていいんだ。手枷足枷は外してもらえないから異能は使えないがな」
「ちょ、ちょっと待って。そりゃ球技でもなけりゃ競技でもない、単なる殺し合いじゃないか」
「そう。起源は戦闘民と呼ばれた古代ヘウア族の祭り」
「残酷だな…」
「しかし観る側は楽しいぜ、こっそり賭博も開催されるからゼニ儲けにもなる。それにな、組は舎房ごとに編成されるんだがが、優勝した舎房は向こう二ヶ月は夕飯の量が倍になる。去年はウチの舎房も出場して二位だったそうだ。もし今年優勝なんてことになったら…」
「メシが二倍!でも、出場する方は過酷だ…」
「まあな、だが考えようによっちゃそうとも言い切れん。グリーブで活躍したのを見込まれて戦士となって監獄を出られたヤツも多い。晴れて自由の身、奴隷生活におさらばできるってわけだ」
エルターブ卿は右手を突き上げた。
「開催は一ヵ月後。楽しみにしておるぞ諸君。公国の未来に、バンザイっ」
一同、右手を上げて叫ぶ。
「公国、バンザイっ」
フィオン、そしてコルボトも周りを真似て両手を挙げながら叫んだ。
「バンザイっ」
「ばんざあいっ」
囚人たちはその後の鉱石堀りの使役の最中もグリーブの話題で持ちきりだ。もちろん衛兵に見つからないように小声で。
「またあれが観れるかと思うと、ちったあ元気になる」
「お前さんは去年ずいぶん儲けたらしいじゃねえか」
「今年はどうかなあ、東棟のドウグン族なんか大穴だと思うな。やたら俊足な新入りがいるってウワサだ」
「足が速いだけじゃとても勝てっこない、去年の面子が揃ってる獣人族の西二十七房が本命、間違いねえ」
「北の二十房だっけ、あの人間族の集団連携は侮れないんだが…去年活躍した連中は公国兵として取り立てられたそうだぞ。もっとも、全員戦死しちまったらしいがな」
過酷な使役を終えた囚人たちはそれぞれの部屋へ帰っていった。
新入りフィオンがふたたび便所掃除をしていると、ふと牢名主ガルスが舎房の面々に向かって話し始めた。
「聞いたな、皆。グリーブだ、今年も。がははは」
やけに機嫌がいい。
「そりゃそうだろ」
コルボトが言う。もちろん小声で。
「去年しこたま賭けで儲けたんだからな。なんたって胴元はあいつだ。複数の軍に賭けて、しかも八百長してたっていうから…」
ガルスは取り巻きの一人にメモ書きを持ってこさせて、仰々しく読み上げた。
「ええと、今年も我が舎房、西四十二房からグリーブの大会に出場する。面子は…まず、トナッラ。お前だ」
トナッラはレディップ族と怪人族のハーフ。四つの目をもち手先が器用、頭も切れ、新人教育係でもある。
「了解しました、ガルスさま」
うやうやしく頭を垂れたトナッラ。
ガルスは満足気に次の名を叫んだ。
「そして、ベルシール。去年に引き続きお前にこの大役を任せよう、うひひ」
物陰で静かに本を読みふけっていた男がスッと立ち上がった。端正な顔立ちの奥で憂いのある目が光る。
「ああ、ベルシール、今年もか…」
呟くコルボトにフィオンが尋ねた。
「へえ、彼、いつも本読んでる人だ」
「ああ、ベルシールはアヴェード族の出身だ。あちこち国を渡り歩く傭兵だったらしいが、遂にとっ捕まってここに来たそうだ」
「あのひと、去年も…」
「そうさ。去年はひどかったらしいぞ。ベルシール以外は皆死んだっていうぜ」
「そ、そんなに苛烈なんだ…グリーブ」
「殺し合いだからなあ。そしてベルシールはガルスに嫌われてる。あの態度みりゃ想像つくだろ。んでもって、試合を装って殺そうと…あっ、喋りすぎた」
「えっ、ひどいなあ…でも、ガルスは賭博の胴元なんでしょ、そんなのマズイでしょ…」
「これだからガキは…。そうさ、何でもアリなんだよ、ここは。試合にゃ八百長もある、掛け率をいじる、とか…ほら。ちっ、いちいち全部言わせるな」
「しかしベルシールさん、よく生き残ってますね、その後も」
「ああ、何かガルスにゃ魂胆があるに違いねえんだ。普通ならとっくに…」
ベルシールは軽く睨むようにガルスを一瞥、小さく頷いて再び座し読書にふけった。
「さあて、次は…」
ガルスが嬉々として読み上げた名は、ゾーフォ。
一同の視線が、部屋の片隅で寝転がるエヌスティク族の男に集まった。
「あいつがゾーフォ。小柄だが屈強なヤツだ。使役じゃ相当量の魔鉱石を掘り上げて何度も褒美もらってるらしいぜ。独りでいるのが好きなようで、誰も詳しいことは知らんが、な」
「ゾーフォさんもガルスと不仲なの?」
「さあ、あんまり昵懇とは思えねえな」
「あと、三人か…」
ガルスが次々名を読み上げる。
「四人目の面子は、キラエフ」
壁に身をもたれて爪の手入れをする男に注目が集まった。大柄なオニ族。
「ねえ、コルボトさん。あの…キラエフさんは、オニ族ってことはガルスの子分?」
「いや違う。オニ族にもいろいろあるらしいからな。キラエフはシュテイン一派つまりガルスとは反目だ。牢内じゃ今んとこ表立って対立しちゃいねえがな」
「五人目…」
ガルスがニヤリと笑った。
「エゾン。ウグネット族のエゾン、いるかっ?」
「ええっ」
自分でも驚いた様子のエゾン。例によって転寝していた目を一生懸命にこする。
「あっし、あっしが?」
「そうだ。しっかり頼むぞ、エゾン」
「ああ、は、はい…」
コルボトはチッ、と舌打ちした。
「ガルスめ…また何か仕組んでやがるかもな」
フィオンが尋ねる。
「仕組む…何を?」
「うむ、あんなお人よしのノンビリ屋のエゾンにグリーブが務まるとは思えねえ…エゾンはベルシールと仲がいいってこともあるから…これはもしかすると」
「な、なんだい一体」
「いつまでも察しが悪いヤツだなフィオンは。いいか、今呼ばれた連中はトナッラ以外はガルスと反目の連中だ」
「確かに…しかし何故自分と仲の悪い人たちを大事な試合に?」
「ガルスはこの舎房の勝敗なんてハナから気にしてねえ。賭けの収入が最優先さ。グリーブ賭博でガッポリ稼いだ隠し資金があるからこそ、獄卒黙認の王様暮らしが出来るんだ」
「そうか…ガルスは胴元だから、配当や予想を操作できるってわけだ。自分が賭けた舎房が勝つように誘導したり…」
「ご名答。そしてグリーブの試合は残虐な無法地帯。誰が死のうと当たり前」
「目障りな連中を合法的に殺しちまおう、ってことか」
「おいおいフィオン、声がでかいぞ。こんな会話を聞かれたらタダじゃ済まん」
「さあ、最後の一人は…」
楽しそうにガルスが名を読み上げた。
「フィオン」
「えっ」
フィオンは頭が真っ白に。
(なんだ、今僕呼ばれたか? 便所掃除? いや、もしかしてさっきのヤバい話を聞かれた?)
「ほら、来いよフィオン、お前だ」
ガルスが満面の笑みで手招いている。吸い込まれるようにフラフラと近づいた。
「今年のグリーブ、栄えある面子の一人に任命する。しっかり頼むぞ、フィオン」
ガルスはサッと手を差し出した。
「あ、あの…えっ、僕…」
じっと見据える目に誘導されるように、ガルスの差し出した手を握った。
「は、はいっ。頑張ります」
「マジかよ」
コルボトはボヤいた。
「あり得ねえ」
ガルスが最後にもう一回ずつ、グリーブ出場選手の名を読み上げた。
「トナッラ、ベルシール、ゾーフォ、キラエフ、エゾン、フィオン。期待してるぞ。もちろん俺はお前らに賭けるからな、俺に損させないでくれ」
ガルスはさらに付け加えた。
「この六名は雑用から外れていいぞ。自由時間は試合の練習、作戦会議に充てるがいい」
「マジかよ」
コルボトは再びボヤいた。
「新入りの雑用係が、一人減るってわけか、ちくしょう」
つづく