迫る死に震えて
「死を、与える」
現世でニンゲン社会の中に安寧を見つけたフィオンの前に立っていたのはジェルマ・カリオスだった。
姦計により冥興団の実権を手にした男。そして真実を知るフィオンを消そうとする男。
「探したぞ、フィオン。ニンゲンたちの中に紛れて生き延びようとうまくやってたつもりだろうが、俺の目はごまかされん」
冷たい笑みを浮かべるジェルマ。その手下たちがジリジリよにじり寄る。
「いひひ、切り裂いて食ってやる…」
「や、やめろ…」
ひきつった顔でフィオンが命乞いをする。
「僕は二度とお前たちに関わることはしない。このまま、この世界でひっそりと…」
微笑んだまま、ジェルマは首を振った。
静かな、しかし力強い声。
「黙って死ね」
ぐるりと取り囲まれたフィオン。その輪はどんどん小さくなる。
「やめろ、やめてくれ…」
「さあ、観念しな」
ジェルマの子分たちが携える武器が高々と振り上げられた。
「う、うおおっ」
フィオンが吼えた。
全身からほとばしる黒い波動が飛び、男たちを吹き飛ばした。
「ほう」
ジェルマはニヤニヤ笑っている。
「腕を上げたか?」
冷たい目線が突き刺さる。
「では、こいつらを振り切れるかな?」
指をパチンと鳴らすと、黒くカールした体毛に覆われた冥界の番犬・ガルムが一斉に飛びかかってきた。
「空腹だからな、生きたままお前を食いちぎるだろう、ふふふ」
真っ赤に目を光らせる猛犬たちが四方に散らばった。ジグザグの軌道で迫ってくる彼らの動きは目で追いきれない。
「は、速いッ」
前かと思えば後ろ、振り向けば上。左を警戒していれば右、群れを為して襲ってくるガルムたちにフィオンは為すすべもない。
「ぐあっ」
鋭い牙が腕をかすめた。ビリビリとした痛みとともに鮮血が噴き出す。
次は脚。左、そして右。
緑色の涎の飛沫を身体中に受けながら、次々に迫るガルムの爪と牙が立てる風切り音の威嚇に震えが止まらない。
「ああ、ああうっ…うう」
あちこちに目を泳がせながら、恐怖に凍り付いてしまったように動きの止まったフィオンは四肢を噛み付かれてその場に倒れ込んだ。
「残念だ…」
ゆっくりと近づいてきたジェルマ。
「お前は才能のある男だが…」
ふう、とため息と一つ。
「ゆえに敵に回ったら厄介だ。そういう芽は摘ませてもらう」
抜いた剣がギラリと光った。フィオンの喉元に切っ先が食い込む。
「お前自身が選んだ道だ」
「うう…」
フィオンは目を閉じた。
瞼の裏に次々と浮かんでは消える、懐かしい顔。
「僕もお終い、か」
両親、姉。監獄の仲間たち。師メフィスト卿。この世界で温もりを教えてくれた人足仲間。
そして、まっさらな心で新たな未来を共に夢見たシゲ、ショウキチ。
「ありがとう、僕は幸せだった…」
叱咤するような声が聞こえる。
「ダメっ。ダメえっ」
シゲだ。この艶やかな張りのある声は、シゲに違いない。
「僕みたいなヤツを本気で愛してくれて…僕は貴女と、一緒に歩いていこうと…でも、もうお終いだ」
声はさらに大きくなる。
「ダメっ。止めて、止めなさいっ」
「んっ?」
耳をつんざくその声に、フィオンは目を開いた。
「シゲ?」
彼女の叫び声が山々にこだましていた。
「止めなさいっ」
振り向くと、シゲが走り寄ってくる。
「来るなと言っただろっ」
その目線は、前を走る幼子の背を追っていた。
「シ…ショウキチっ」
まるで弾かれたパチンコ玉のように、ショウキチが駆け出していた。
「おれの父ちゃんを、いじめるなっ」
その小さな手で、痣だらけの手で、納屋に置いてあった鎌を持ち出し掲げ上げながら、モノノケたちの群れの中に飛び込んできた。
「な。なんなんだこのガキ…」
突然の出来事に一瞬動きを止めたジェルマ。
その懐に、ショウキチが一気にもぐりこんだ。
「お前なんか、お前なんか」
怒りにまかせて鎌を振る。
「おれがやっつけてやるうっ」
小さな突撃兵に虚を衝かれたジェルマは身体を仰け反らせつつ、剣を合わせて防御する。
「ガキめ」
甘く見たのか、油断したのか。剣は甲高い音を立てて飛ばされてしまった。
「ぬっ」
飼い主の危機に動揺したガルムたちの束縛から慌てて逃れたフィオンが叫ぶ。
「やめろショウキチ、お前が敵う相手じゃない」
「いや止めないっ。ぬらりひょんは、俺の父ちゃんだ。だから、もうおれは父ちゃんを失いたくないんだっ」
その目に迷いは無かった。一直線に鎌を振り上げて突き進む。
「クソが」
奥歯を噛み締めるジェルマ。
「いつもは弱虫のくせに、頭に血が上るとなりふり構わなくなる。この手のヤツが俺は一番嫌いなんだ」
両手を広げ、小さな敵を迎え撃つ。
「この世から、消してやる」
取り出したのは次元球。近づいてくるショウキチの前に掲げ、両腕から波動を送りこむと球体は電光を放ちながら黒い渦を巻きはじめた。
「あっ、ああうっ」
一帯の空気が歪む。身体全体をむんずと握り締められたような強烈な重力場が生じた。
すでにショウキチは強い眩暈と頭痛に襲われ、吐き散らしながら意識を失いかけている。
「このままでは、呑み込まれるっ」
フィオンが飛び込んだ。
ショウキチを抱き抱えて次元球に背を向け、ぐいと脚を踏ん張る。
「ぬうう、させんぞ…」
だが次元球の生み出す亜空間の重力はとてつもなく大きい。どんどん引き寄せられてゆく。
「うが、うががあっ」
背中の骨が軋む。バリバリと稲妻が音を立てて全身に突き刺さる。
「お、落ちる」
まるで底なしの奈落に吸い込まれるかのよう。浮遊感に丹田が冷たく凍りつく。視界が黒く、閉じてゆく。
「墜ちる…」
つづく




