線が交わるとき
冥興団クーデターを画策したとの濡れ衣を着せられジェルマたちに追い詰められたフィオンは断崖絶壁から転落した。
瀕死の彼を介抱したのはショウキチという男児。母シゲと二人の極貧生活を送るその家の居候としての生活が始まった。
「ヌラリヒョン」と呼ばれながら橋の建設の人足として日銭を稼ぐ生活は、生まれて初めて味わう安息の日々。
「ようし、今日はここまで」
棟梁の高らかな声。
亀尾島川の橋架けも作業は大詰めに差し掛かっている。
「あと一週間もしたら完成だな。うひひ、無事作業が終わったら特別に氷代が出るらしいぜ」
「待ち遠しいな。あと少し踏ん張ろうぜ」
人足たちのにこやかな笑顔が夕陽に照らされて輝いている。
フィオンだけは、少し物憂げに空を見上げていた。
「橋の仕事が終わったら…どうしよう。いつまでも居候というわけにもいかないし」
黄昏の帰り道は、少しばかり重い足取り。
「ひとりぼっちは、もうイヤだもんな…」
目の前に広がる田んぼを眺める。青々と伸びた稲がそよそよと揺れ、橙色から群青色へと連なる宵へのグラデーションが静かに広がってゆく。
稲穂の間を縫うように駆け回る子供たちの声がする。
「元気なもんだ、いいなあ。僕もあのくらいの年頃には…ん?」
何か様子がおかしい。
近づくにつれ、それは確信となっていった。
「あ、あれは」
遊んでいるにしては、子供たちの声が妙に殺気立っている。
「死ねっ」
「お前なんかが生きてるとジャマなんだようっ」
五、六人の童が一人を取り囲んでいる。
「いじめっ子、か…?」
その非道ぶりは、通常のイジメを超えているように思えた。
「泣けば許してもらえるとでも思ってるのか?」
被害者は殴られ、石をぶつけられ、しまいには頭を踏みつけられ田の泥の中に顔を埋めている。
「うひひ、見ろこのザマ」
苦しそうにもがく姿を見下ろしてあざ笑う「いじめっ子」たちの表情の中に、ニンゲンの狂気が垣間見えた。
「へえ、まだ生きてるぜこいつ」
ボロ雑巾のように引き上げられた被害者の、泥をたっぷり飲み込んだ哀れな顔を見てフィオンは鳥肌が立った。
「シ、ショウキチっ」
慌てて駆け寄る。いじめっ子たちは慌てて離散した。
「あいつ。ショウキチのとこに居候してる坊主」
「ああ、後家狙いの色狂いの、な」
「やいクソ坊主っ、お前も鳥屋でくたばっちまえ」
悪口雑言罵りながら散り散りに去ってゆくいじめっ子たち。
ぐったりとしたショウキチが残された。
「大丈夫か、おいっ」
「ぐ、ぐうう」
鼻は折られているのかぐにゃりと曲がっている。よっぽどしつこく殴られたのか、両目もほとんど開かないほどに腫れている。
「グオエッ、オオオグェッ」
泡交じりの泥を、胃から大量に吐き出した。
「くそっ、悔しいよ。悔しいよ…」
うわ言のように繰り返すショウキチを背負ったフィオンは家路を急いだ。
シゲはすでに帰宅し夕食の準備をしていた。
「見てくれ、おシゲさん。こんなひどいことってあるか、ショウキチが、こんな…」
「あ、あっ」
その無様な姿を見たシゲは、泥も拭わぬままに抱きついた。
「あんた…またか、またかい。可哀相に」
フィオンは眉をひそめた。
「えっ。また、って…初めてじゃ無いのか、こんな仕打ち」
シゲは奥歯を噛み締めながら頷いた。
「仕方ないんです…」
「ちっくしょう、僕が懲らしめて…」
勢いよく飛び出そうとしたフィオンを止めたのはショウキチだった。
「やめて、ヌラリヒョン。お願い。あいつらの親父を怒らせたら僕らは生きていけないんだ…」
首を捻るフィオン。
「は? どういうことだ。一体どういう…」
「やめてっ」
シゲの甲高い声が響いた。
「お願いやめてっ。あたしが悪いの。全部あたしが…ごめんねショウキチ。あたしがこんなばっかりに」
「あっ、いや違う。悪いのはあのガキたちだろ。おシゲさんは悪くない」
「いえ、私が…いやもう誰が悪いとか悪くないとか、なんでもいいんです。仕方の無いことなんです」
泥まみれのショウキチを抱きながら崩れ落ちるように、シゲは座り込んだ。
「我らのような卑しい者は、これで当然なんです。生かしてもらっているだけ幸せと思わないといけない…ごめんねショウキチ。母さんが悪い、母さんが全部悪い…」
フィオンはただ、拳を握り締めた。唇を噛み締めながら、泥だらけの哀れな幼児をすみずみまで丁寧に拭き上げた。
床に横たわったショウキチの、やっと開く目からは涙が流れて止まらない。
「悔しいよ…僕に力があれば。力さえあれば…父さんがいてくれたら、こんなことには」
「……」
息を呑んだフィオン。
「父さん…」
モノノケが無残に殺したという父親。この児が父を失ったのは、もしかしたら自分のせいかも知れないという考えが頭をよぎり、フィオンは胸が締め付けられた。
(僕が、僕たちが殺したニンゲンたちの一人が、ショウキチのお父さんだったのかも…)
まるで何事も起きなかったかのように、いつもの如く夜の帳は静かに、穏やかに降りてゆく。
ショウキチもギラギラしていた目をやがて閉じ、深い眠りに就いた。
「まだ熱が…」
せっせと水枕を取り替えるフィオンにシゲが声を掛けた。
「そ、そんなにしていただかなくっても」
「いえ、僕はショウキチに助けてもらった恩がある。あの時は逆に、僕がこの子に」
穏やかに笑うシゲ。
「恩だなんて。人として当たり前のことをしたまでです」
「じゃあ僕だって、人として…あっ、あ、あの。うん、当然の事を。ええ、ヒトとして」
「ありがとうございます…こんな卑しい私共に」
深々と頭を下げるシゲの、少し赤らんだ頬が行燈の灯りに照らされた。はだけた着物の奥、胸のふくらみは透き通るような薄桃色。
「あ、いえ…」
ゴクリと唾を飲み込みながらフィオンは、思い出したように尋ねた。
「し、しかし。何故ショウキチはあんな目に遭わなきゃならないんです? あんないい子はいないじゃないですか」
「そ、それは…あ、あの」
しばしの沈黙が流れた。
「はは、ええ。いいんです、言いたくないことは言わないに限る。ええ、僕も別に詮索したいわけでは…」
笑顔を作るフィオン。
シゲは寂しげな微笑を浮かべながら語りだした。
「情けない話ですから、お聞きになりたくないかと…ええ。話しましょう。夫が死んでから私たちは路頭に迷いました、ちっぽけな農村の名も無き民の宿命です」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「土地も無ければ日銭を稼ぐ術も無い、内職だけではとても…そんな折です。夫の喪も明けぬままに庄屋の又蔵が私に言うんです。妾になれ、と」
目を閉じながら聞き入るフィオン。
脳裏には忘れかけていた忌々しい自身の記憶が呼び覚まされていた。弱者を権力で踏みにじる獄卒マブラスや、その妾ウィッツオのことを。
「断れなかったんです」
シゲの声が震え出した。
「断ったら飢え死にしかない…だから、はいと言わざるを得なかったんです。でも、その夜」
黴だらけの畳の上に、ポタリポタリとおちた涙の雫が染みを作る。
「何人もの村の男たちがやってきて…」
フィオンが手をやるシゲの肩はブルブルと震えていた。
「役人に訴え出たところで、彼らも又蔵にカネで買われていて…死のうと思っても、私にはショウキチがいる。食うため生きるため、それから毎日又蔵のところへ。ショウキチをイジメているのは又蔵の息子とその取り巻きなんです」
震える声は、次第に嗚咽に変わっていった。
「やがて新しい妾がやってくると私は捨てられた。そして又蔵の言いなりに、毎日町へ出て客を取らされて…どんなイヤでも、断ったら死ぬしかない…」
「…もう何も言わないで」
フィオンがそっと抱き寄せると、シゲは突き放そうとした。
「醜いわたしを。そうやって憐れんで。憐れみでわたしを、この汚れたわたしを…」
フィオンの目にも涙が浮かんでいた。
「違う、おシゲさん。汚れとかキレイとか、そんなのは誰にも決められることじゃない。ただ今を生きる、それでいい。ニンゲンとは、いや生き物とは、皆そういうもの」
シゲの身体からゆっくりと力が抜けていった。
「ヒョンさん」
「誰もが汚れている。だから一人じゃ誰も生きられない…」
すきま風が行燈の灯を消していった。
暗闇が作る静寂の中で二人は、ゆっくり重なり合った。
つづく




