現世の底辺で
冥興団の内紛。
総帥メフィスト卿と副将ウィドルを葬ったのはジェルマ・カリオス。見抜いたフィオンは共犯者にでっちあげられ命を狙われる羽目に。
黒河童族の少年アクラの機転によってアジトからの脱出に成功したものの、やがて追い詰められ断崖絶壁から転落した。
◆ ◆ ◆ ◆
ひた、ひた。
雨が樋を伝って地面に落ちる。
「蒸し暑いな…」
不意に打った寝返りが右脇腹の激痛を思い出させた。
「あっ…あがっ」
耳鳴りと偏頭痛が一緒になってグルグルと回る。
「うう、ううん…ん、ん?」
目脂の粘り気に瞼を引っ張られながら視界がゆっくり開いてゆく。
「ここは…?」
白く霞みがかったようにみえる古い民家の一室のようだ。奥には古びた仏壇、その前に座して線香を焚く男児の姿。
「誰だ…何処だ、ここは」
分厚い布団にくるまれ、頭には氷嚢が乗っかっている。身体が妙に重く感じて起き上がるのもままならない。
再び倒れるように床に伏したフィオン。
「ううっ」
気付いた男児が振り返り、駆け寄ってきた。
「あっ、目覚めた。お兄さん、大丈夫? ねえ大丈夫?」
「だ、大丈夫もなにも…」
フィオンはまだ状況を把握できていない。
「何がどうなってる…」
矢継ぎ早に耳元で響く男児の甲高い声。
「よかった、生きてて。川で何してたの、溺れたの? てか誰、どこの人? 動ける? 痛い?」
やっと視界が晴れてきた。
グワングワンと鳴っていた耳鳴りは少しずつ鎮まりつつある。
「ねえ、答えてよ。ねえ」
男児のよく通る声がしっかり聞こえてきた。
「襲われたの? ひどい怪我…ねえ聞こえてる? 聞いてるの?」
質問攻めにしてくる耳元の口からフィオンは遠ざかるようにして顔をしかめた。
「聞いてる、聞いてるよ。まず…誰だ? お前は一体誰なんだ」
「僕のこと?」
つぎはぎだらけの汚れた着物、ただ結わえただけのボサボサの頭髪。
七つか八つか、ナリを見るに貧しい生まれの児だとすぐわかる。
「僕はショウキチっていうんだ。字は…ああ、僕もおっかあも読み書き出来ないんだけどね、どこかのお坊さんがつけてくれたんだ、ショウキチって」
「ショウキチ…か」
くりくりとした丸い目で覗き込む屈託の無い笑顔に、思わずフィオンも張り詰めた緊張の糸を少し緩めたようだった。
「ショウキチ…で、そのショウキチは、何故ここにいるんだ?」
「えっ?」
男児はさらに目をまん丸にして笑う。
「何故、って…だってここはオイラの家なんだもの。ここにいるのが普通だよ」
「そ、そうか」
「てか、兄ちゃんの名前は? 僕が名乗ったんだからさ、兄ちゃんも…」
「あ、ああ…」
心を許しては裏切られる、そんな経験が多すぎたからだろうか。フィオンは名乗るのを一瞬だけ躊躇った。
「ねえどんな名前? 苗字はあるの?」
しかしあまりに無防備で純粋な男児の笑顔に、自身の杞憂がむしろ恥ずかしいと思えた。
「僕はフィオン」
「……?」
「フィオン、だ。僕の名は」
「ひょん?」
「あ、あ…ちょっと発音が難しいのか。いいかい、フ・ィ・オ・ン。だ」
「ひょん。ひょん?」
「…は、ははは。まあ、いいか」
生真面目に発音をなぞるショウキチを見て、思わず笑いがこみ上げた。
「うん、いいよ。僕はヒョン。そう、ヒョンだ」
さらに顔を近づけ、ショウキチは尋ねてくる。
「なんだか立派そうな名前だね…ヒョンはどっかの偉いお坊さんか何かでしょ」
「え、いや、あの…」
「苗字は? 立派な家のひとはみんな苗字があるんでしょ?」
「苗字…姓、家名のことか?」
「うんうん、そう」
興味津々に輝く目に、自分が忘れかけていた何かを見たような気がした。
「いいなあ、お前は無邪気で…ああ、姓はネラリィっていうんだ。まあ現世じゃ聞かないだろうけどな」
「ぬ、ぬ…ぬられ…?」
「ネラリィ・フィオン。ここからはずっと遠いところ、エディスレーから来た、ネラリィ・フィオン。それが僕だ」
ショウキチは満足気に頷いた。
「エ…江戸のはずれから来た、ぬらりいひょん…」
「違う、ぜんぜん違う」
「ぬらりひょん…そう言う名前がお江戸のお坊さんたちの間じゃ流行ってるんだ…」
呆れたようにフィオンが繰り返す。
「違う、フィオン。ネラリィフィオン」
「ぬらり、ひょん」
「だから、何度も言わせるな…」
「ぬ、ぬらり、ひょん」
「お前な・・・」
何度も何度も、舌足らずな口で復唱する姿に、思わずふきだした。
「あはは、まあ、それでいい。僕はヌラリヒョン、だ。ああ、そうだ」
「はは、ヌラリヒョン。ヌラリヒョン兄ちゃん」
笑いあう二人。
「ところで、僕をここに連れて来たのは…」
思い出したように尋ねたフィオンに向かってショウキチが胸を張る。
「僕さ。もう十日も前、この下にある川で流木にひっかかって浮いてたのを見つけたんだ。最初はドザエモンかと思ったけど、よく見たらびっくり、生きてた」
「で、家に連れてきてくれたわけだ…しかし、十日間も眠っていたのか」
「うん、ずっとうなされてた…」
大きくため息をついたフィオン。
「酷い目に遭ってな…一人ぼっちになっちまったよ」
ショウキチは同情するような目で見ている。
「一人ぼっち…まあ僕も似たようなものだ」
「お前も?」
「うん…でも僕には母ちゃんがいる。あっ、そうだ」
慌てて立ち上がったショウキチ。
「もうすぐ帰ってくる時間だ。忘れてた、晩飯作らなきゃっ」
竈に向かう。
「お前が支度するのか。たいしたもんだな」
立ち上がると少し頭がフラフラするが、足腰は思いのほかしっかりしている。
「お袋さんがいるのか」
「うん。シゲって言うんだ、母ちゃん。もうすぐ仕事から帰ってくるよ」
ショウキチは笑いながら振り向いた。
「そうそう。母ちゃんがね、ヌラリヒョン兄ちゃんのことを多分どっかのお坊さんだろうって言ってた。立派な袈裟を抱えてたしね」
「ん?」
雑穀だらけの「かて飯」を炊くショウキチの向こう、梁の間に吊るされた衣紋賭けには綺麗に洗濯された黒いローブが干してあった。
ぐっと胸の中に熱いものがたぎるのを感じた。
「ああ、あれが。親方さまのローブが僕を守ってくれたのか…」
同時に忌まわしい記憶もよみがえた。激しい炎、全身に噛み付く魔犬たち、ジェルマが放った波動に撃ち抜かれ…にわかに襲ってきた頭痛。
思わず頭に手をやり、ハッとした。
「…そうか。だから坊さんだと思われたんだ」
髪の毛はすべて失われていた。頭皮にヒリヒリと火傷のような痛みが走る。
「しかし…」
顎をさすりながら、もう一度ため息。
「髭は多少伸びてるな」
「そうだ」
ショウキチが仏壇を指差した。
「剃刀があるよ。父ちゃんのが供えてあるから使っていいよ。何しろ三年前から置いてあるから錆びてたらごめん」
だが刃はまだ錆びていなかった。むしろ綺麗に毎日砥がれているように思えた。
「三年も前から置いてあるって…使わないのか。父ちゃんは」
「死んじまったんだ。三年前に」
まずいことを訊いたかな、とバツが悪そうに言葉を詰まらせたフィオン。
「病気か何か…」
ショウキチは言葉のトーンを変えることなく淡々と言った。
「いや、モノノケに殺されちゃった」
「……」
「畑からの帰り道、ただ通りすがりにモノノケの姿を見た。それだけの理由で殺されちゃった」
フィオンは顔からスウッと血の気が引いていくのを感じた。
「す、すまない…」
「えっ? そんな、ヌラリヒョンが謝るような話じゃ無いよ」
「あ、いや。その…辛い話をさせたな、と思って」
振り返ったショウキチは変わらぬ笑顔だった。
「ぜんぜん。過去を気にしてたら今を生きられない、ってのが父ちゃんの口癖だったんだ。ま、僕は大きくなったらモノノケ狩りの仕事をしようかなあ、なんて思ってはいるけどね」
「そ、そうか…」
頷きながら、剃刀をそっと仏壇に戻した。
せっせと夕飯の支度をするショウキチの後ろ姿は、歳に似合わず頼もしく思えた。
そっと近づいたフィオン。
「しかし、雑穀だらけじゃないか。白米より多い…あとは大根、か」
「うん、今晩はヌラリヒョンも起きたことだしいつもより多く作ってるんだよ」
そうは言うものの、主食も副菜も決して量が多いわけではない。
「こ、これだけ?」
「そうだけど…どの家もこんなもんさ。あ、坊さんは普段もっとたくさん食べてるの?」
「いや、ああ。うん…けど、こんなメシじゃ力も出ないだろ。もっとほら、シカの肉とかウマとか…」
驚いて振り向くショウキチ。滅相も無い、という表情。
「お坊さんがそんな事いったらダメだよ。獣だって虫けらだって同じ現世に生きる兄弟だ、まえにお坊さんからそう聞いたよ?」
「あ、そ、そう。そうそう…」
空の色がすっかり群青に染まろうとする頃にはすっかり雨は上がっていた。
湿り気を含んだ空気が生ぬるい。
「あれは…?」
向こうの峠から一人、やってくる。
派手な配色だが随分古びた着物、薄汚れた頭巾で顔をすっぽり隠していそいそと歩いてくる。
「女、か」
通りで遊んでいた子供たちが一斉に後ずさり。女から遠ざかりながら石つぶてを投げ始めた。
「寄るな、あっち行けっ」
「汚えなあ。病気がうつっちまう」
「当たった当たった」
抵抗しようとせず、足早に通りすがろうとする女に容赦なく罵声と石が浴びせられる。
「ん?」
出てきた大人たちも似たようなものだ。
「この売女…」
「今日は何人相手してきたんだ? あ?」
すれ違いさまに思いっきり蹴飛ばす者もいる。唾を吐き掛ける者も。
「出て行け淫売め。村の恥さらしだっ」
女は身を小さく屈めながら近づき、そのままショウキチの家へと入っていった。
「あれが…お母さんか」
フィオンは大きくひとつ深呼吸をして、沈みかけの夕陽を眺めた。
(ニンゲンってのは不思議な生き物だ…あらゆる生き物を愛でる一方、モノノケを殺したいと願い、時には同種を甚振って嬉々としている)
「ねえヒョン。ヌラリヒョン。ご飯が出来たよ、おいで」
不意に呼ぶショウキチの声。
「あ、ありがとう…」
雑穀だらけ、少々の根菜と味噌汁。ほとんど味が無いんじゃないか、とさえ思いながらもフィオンの口を衝いて出た言葉。
「う、美味いなあ。うん、美味いよこれ」
無口な親子を前にその言葉よりも、グウと鳴った腹の虫の方が大きく響いた。
「あれ、足りなかったかしら」
申し訳なさそうに顔を覗き込んだショウキチの母・シゲ。
無造作に結い上げた髪の毛にはところどころ土やらべっとりした液体がこびりついている。首筋には幾つかの痣。
「ごめんなさいね…」
貧しい農村で生き抜くため、児を育てるためであろう。如何なる生業なのかおおよそ見当がつく。
「いえ…」
フィオンは精一杯の笑顔を作った。
「ちょっとメシを食うのが久しぶりで、腹がビックリしちゃってるようです。あはは」
口数の少ないままの夕食、片付けが一通り終わるとシゲとショウキチの親子は草履作りを始めた。
黙々と手を動かし続ける二人にフィオンが声を掛ける。
「なんだってそうたくさん作るんです? 草履なんか十分足りてるじゃないですか」
ショウキチが苦々しい顔で答えた。
「ちっ、坊さんは世間知らずだなあ。食うためにゃゼニを稼がにゃならんでしょ。ウチは土地持ちでもないし小さな田畑だけじゃ食っていけないっての」
「食うために、ゼニを…」
「百姓にお布施をくれる人はいないからね。そうだ、ヌラリヒョンもウチで飯を食うからにはゼニを稼いできてもらわなきゃ。身体もよくなったことだし…」
シゲが諌める。
「これっ、ショウキチ。滅多な事を言うもんじゃない、ありがたいお坊さんに働けだなんて」
首を振りながらフィオンは笑った。
「あはは、働きますよ。あなた方には命を救ってもらった恩がある。ゼニってやつのため、しっかり働きましょう」
ショウキチが首を傾げた。
「へえ、坊主が『ゼニのため』なんて言い草かい。変わってるなあ」
「ん? 難しいもんだ、現世ってヤツは」
「ま、悩むのは坊さんの仕事からな」
三人は顔を見合わせた。小さな蝋燭の灯が揺れながら、それぞれの笑顔を照らし出していた。
母子の内職は、辺りを宵闇がすっぽりと包み込むまで続いた。
つづく




