死の影に追われ
冥興団クーデターの黒幕はジェルマ・カリオスだった。
新兵器・次元球を用いて総帥メフィスト卿を葬ったうえ、実質ナンバーツーのウィドル・ラミアニに罪を着せ殺害、何食わぬ顔で新総帥の椅子に座った。
真実に気付いてしまったフィオンが疑念を打ち明け相談した相手は、あろうことかジェルマの腹心、黒河童族のモーガだった。気付けば事件の共犯者に仕立て上げられ追われる身になっていた。
「逃げて、逃げてください」
フィオンと同じくジェルマの陰謀に気付いた若き河童族アクラが逃亡の手引きをした。
「こんなひどい話、許せない」
二人はアジトを脱出することに成功したが、やがて追っ手が来る。
「悔しい…悔しいけれど、今は逃げるしか無いんだ」
親代わりであった師・メフィスト卿の唯一の遺品である黒のローブを抱きしめながらフィオンは夜半の森へ逃げ込んだ。追っ手をくらますため、河童族アクラとは森の入り口で別れた。
鬱蒼とした木々が風にざわつく音は、まるで亡き師が語りかけているように感じられた。
「親方さま…」
先のことを考える余裕など無い。ひたすら走った。
「また逃亡生活か…もう諦めようか」
心が折れそうになる度、風のざわめきがフィオンの背中を押す。
(生きろ。お前の才能を死なせてはならない。数多くの冥界の民たちのために…)
追っ手の怒号から遠ざかるように、満月の光が差し込む森の中をがむしゃらに走った。
◆ ◆ ◆ ◆
「うっ」
突如、例えようの無い寒気に襲われた。
総毛立った肌にピリピリとした緊張感をともなう痺れが走った。
「この匂い…」
漂ってきた腐敗臭に、全身が震え出す。
「覚えがある。この匂い、獣の匂い…」
吸い込まれるような記憶のフラッシュバックに眩暈がする。
浮かんでは消える記憶の断片はモノクロで、まるで正しく再生されることを拒んでいるかのよう。
「あの時と同じ」
フィオンが幼い頃に暮らした冥界の美しい村エディスレーは、戦火に焼かれた。
生き残った者たちは難民となり、食料を求めて各地を彷徨った。
「恐ろしい難民狩り…」
放浪する難民たちはあまりに無防備で、山賊や敗残兵たちの略奪の的となった。
中でも最も恐れられたのが、新興武装勢力だったエルターブ公国の親衛隊、通称ドルモン部隊。彼らが難民狩りの際に連れ立ったのが、嗅覚に優れた冥界の猛犬・ガルムだった。
「あの時と同じ匂いがする…」
難民が何処に逃げようとも必ず嗅ぎつけ、執拗に追い回す冥界の番犬。
ドルモン部隊は捕えた難民たちを、男手は奴隷に、女は慰み者に、そして老人や負傷者はガルムのエサにした。
フィオンの家族も例外ではなかった。
「うっ、ううぷっ」
重い鉛のような何かが腹の中をのた打ち回り、思わず嘔吐した。
「二度と思い出さないようにしてたのに…」
足の力が抜けたように、走るのを止めて座り込んだ。
再び風が頬をさする。語りかけるかのように。
(諦めるな。辛くとも苦しくとも無様であろうとも、生き続けるんだ。いつかお前の力が冥界を救う時が来る)
「親方さま…」
奥歯をぐっと噛み締め、立ち上がった。
「ええ、貴方の遺志。僕が継ぐ」
ゆっくりと歩み始めた。
「親方さまっ」
「ほう?」
目の前でガサガサッと音。
満月を背に、一人の男のシルエットが浮かび上がる。
「死んだヤツと話して何の意味がある?」
ジェルマだ。
「敗者どうしが慰めあい、か?」
勝ち誇ったように笑いながら立ちはだかる横にはズラリと並んだ手下たち、そして番犬ガルムの群れ。
「残念だ…非常に残念だ。俺は貴様の実力を高く買っていた。いずれは右腕に、と思っていたが…」
苦々しい顔を横に振る。
「そのクソ真面目な気性が仇になったな」
ジリジリとにじり寄ってくる。足を震わせながらフィオンは後ずさりする。
「何故…どうして親方さまを」
「メフィストのやり方では勝てぬ。あれが上にいる間は冥興団は死に体だ」
「しかし親方さまは名将と言われた…」
「否、あいつは大戦における敗北の将だ。だいたい、時代が違うんだよ。昔ながらの義理や情も、じっくり戦略を練るなんてやり方も今じゃ通用せん」
ジェルマの顔から笑みが消えた。懐からゆっくりと取り出したのは次元球。
「知識、化学、情報。そして即時行動、だ。カビが生えたような昔気質の戦争ごっこじゃ勝てねえんだよ」
宙に放り投げられた次元球が電光を帯びてにわかに光りだした。
「う、ううっ」
強い重力がフィオンを縛りつけようとする。
「マズイっ…うううっ、うああああっ」
咄嗟に両手を突き出し、腹の底から響く唸り声と共に黒い波動弾を撃ち出した。
「やるな」
波動は次元球を直撃、亜空間を起動する直前にはじき飛ばした。生い茂った森の下草の中に転がっていった次元球をジェルマの手下が追いかける。
「今のうちにッ」
背を向けて逃げようとするフィオンにガルムの群れが襲い掛かる。
「ひ、ひいいっ」
幼い頃に観た残虐な記憶が心を凍らせる。
足がすくみそうになった時、風のざわめきが力を奮い立たせるように訴えかけてきた。
(今のお前なら、ガルムなど敵じゃない)
考えるより先に手が動いていた。
腰に差したムチを取り、振り向きざまに大きく虚空に円を描くと、飛びかかってきたガルムたちは次々その軌道上で身体を引き裂かれて落ちた。
「生きる、生きるんだ」
足が攣りそうになりながら、満月を背に走る。吸い込む冷たい風が胸に染み込み、肩で息するだけでは足らず顎をパクパクさせながらも走る。
「追え」
背後からはこわばった表情のままのジェルマが来る。
「逃げてやる、生きてやる」
歯を食いしばって走るフィオン。
「あッ、ああッ」
しかし、その足が止まった。
「そんな…」
目の前は切り立った崖。
「す、進めないッ」
覗き込むと、山間の渓流が小さく小さく見える。吹き上げる風が凍りつくほど冷たく感じられた。
足がザワつくのは疲労のせいだけではない、身が震えるほどの断崖。
「橋…橋を探そうっ」
振り向いたフィオンの前には、ジェルマが立っていた。
「お前のようなガキを逃がすほど俺は甘くないし、間抜けじゃない」
「あっ、あっ、あっ…」
満月を受けて、ガルムの逆立った毛が淡く光って揺れていた。その一本一本がくっきり見えるほどに猛犬たちの群れは近づいて来ていた。
「ぎゃあっ」
血に飢えた牙がフィオンの全身あちこちに突き立てられた。
「ぐう、ぐうっ」
鼻が捩れそうなほどの獣の臭いに、やがて血の匂いが混じってゆく。
身動きも出来ないまま叫んだ。
「助けて、助けてえっ」
(誰も助けてはくれない。己を助けるのは己の力のみ。自分を信じよ)
血に染まった視界の向こう、満月が囁いたように感じた。
「生きる、生きるうッ」
フィオンは全身に波動を漲らせた。ブルブルと震える肌ににわかに浮き上がる黒いオーラが激しく渦を巻く。
「ガ、ガウッ…ガウッ」
腕や足の肉を引きちぎろうと牙を立てていたガルムたちが、そのオーラの激しさにひるんだ。
「チッ、悪あがきしやがって。ガキが」
ジェルマの目が光った。素早く突き出したその両手から、激しい稲妻が飛び出した。
「ぎゃああッ」
フィオンの全身を包み込んだ稲妻がバチバチと音を立てる。
皮が、肉が、内臓まで引き裂かれるような衝撃。目を開いても、真っ黒な幕が張ったようで何も見えない。手足も痺れて動かせない。
「あ、あ、あがあ」
灼けるような激痛が脳天から爪先までを貫いた。噛み付いていたガルムまでが次々に焼かれて黒焦げになってゆく。
「痛い、痛いよ」
自身の皮膚が融けてゆくのがわかる。
「ダメ、か…」
衝撃で身体を宙に浮かせたフィオンは、電光に痙攣しながら真っ黒な煙に包まれ、奈落の底の如き深い谷へと真っ逆さま。
「もう、お終いだ…」
空に浮かんだ美しい満月を虚しく見上げながら、ボロ雑巾のようになった身体は加速度を増して落下してゆく。
下からの風圧が増す。優しい満月が閉じてゆく。もう何も見えなくなった。何も聞こえない、何も感じない。
谷底に、地鳴りのような激しい衝撃音がこだました。
つづく




