逃走、ふたたび
冥興団の総帥メフィスト卿は武闘派ウィドルの手によって次元球の彼方に消え、そのウィドルもまたジェルマによって成敗され屍を晒していた。
「このままでは組織が内部から崩壊する…」
動揺が広がる中、古参の幹部たちは新総帥としてジェルマを選出した。
「親方さまの遺志を継ぎ、現世の完全支配という悲願を必ずや…」
一方、メフィスト卿の遺品である黒いローブからわずかに漂う異臭にフィオンは気付いていた。
「これは確か…」
かすかな刺激臭を放つ赤い染みにカンテラの光を当ててみた。
染みはツヤツヤと光沢をもつ群青色に変わった。
「波動増強薬だ。一度だけ見せてもらった…ジェルマさんの部屋で」
頭の中で、記憶と思考がぐるぐると回り始めた。
「そうか、以前幻怪衆と戦ったときもウィドルさん独力では次元球を起動するだけの波動は生み出せなかった。だから薬の力で」
納得したように頷くが、すぐに再び首を捻る。
「でも、なんでそんなヤバい薬を持ってたんだ? あれは開発中だったはず、ジェルマさんしか持ってないのに」
ゴクリと唾を飲んだ。
「もしかして…いや、まさか」
青白い顔で親衛隊長モーガの元を訪れた。
「ちょっと、いいですか? どうも腑に落ちなくて」
「おうフィオンか。気にするな、モヤモヤしたままじゃ良くない」
気さくな笑顔で部屋に迎え入れたモーガ。
「まあ座れ。昨日から色々あったから俺もヘトヘトだ、状況整理に頭ん中がいっぱいでな…で、どうしたんだ?」
差し出された茶を飲み干すと、フィオンは小声で疑念を打ち明けた。
「親方とウィドルさんの件なんですが、実は…」
驚いた顔をしつつも、モーガは真剣に話しに耳を傾けた。
「よくぞ教えてくれた。確かに現場を見た者は誰もいないからな…ジェルマさま以外は。その薬品が使われたとしたら、ウィドルさまは冤罪の可能性が」
「まさかとは思うのですが、真の犯人は…いや、どっちみち僕なんか下っ端の出る幕じゃ無い。だからこそこうして相談に」
「わかった。この件、もう一度しっかり調査して然るべき対応をしよう。教えてくれて助かった」
「いえ、親方さまのお導きかと」
「そうかもな。ともあれ今の話は口外無用にしておいてくれ、真犯人に気付かれて先手を打たれては困るからな」
少しばかり気が晴れたフィオン。
「ああ、任せるしかないよな」
床に入ろうとして気付いた。
「あ、これ…」
メフィスト卿のローブを手にしたまま自室に戻ってきてしまっていた。
「よく考えたら大事な証拠品だよな、これ」
あらためてよく見てみると、ローブの表面には冥鉱石の粒子を含む糸が織り成す光沢が美しい。様々な攻撃に対する防御の役割を果たしてきたに違いない。
「親方さまの輝かしい戦歴が刻み込まれているんだなあ」
ゆっくりと表面を撫でてみる。慈しむように。
「これが似合う男になってみたい」
自分しかいない部屋なのに、辺りを見回しながらそっと袖を通してみた。
「ちょっと気恥ずかしいな…で、でも、なんだ、すごいぞ。身体の奥から力が湧いてくる」
ニヤニヤしながら道具入れのなかをまさぐって鏡を探すフィオンは、扉を叩く音で我に返った。
「んっ?」
慌ててローブを脱ぎ、ゆっくりと扉に近づく。
確かにトン、トンと音がする。
「誰です? 何か僕に用ですか?」
返答が無いまま、フィオンはそっと扉を開けて外を覗いた。
「だ、誰?」
怯えたように立っていたのは若い河童族の少年。フィオンよりさらに若いようだ。
「あ、あ…」
「ん、部屋を間違えたか?」
「フィオン、フィオンさんですよね?」
「そうだ、ここは僕の部屋…」
「逃げて、逃げてください。今すぐに、ですっ」
神妙な顔で息を荒げながら、いきなり少年はフィオンの腕を掴んだ。
「な、なんだよお前。逃げろって、何だ一体」
もう一度辺りをキョロキョロ見回した少年はサッと部屋に入ってきた。扉をそっと閉め、肩で息をしながらも小声で告げた。
「黒幕はジェルマ。ヤツが親方さまを殺した」
「な、何言ってる…」
「間違いない。僕が付き人をやってるモーガがジェルマと話してるのを聞いたんです」
「何を、何を聞いたんだ?」
「フィオンさんに気付かれた、って。口封じをしなきゃって言ってるのを聞いたんですっ」
目の前が真っ暗になって、思わずよろけて倒れそうになったフィオン。
「ま、まさか。ウソだろ…」
少年は冷静に首を振る。
「ウソじゃない。これを見て」
手渡されたのは冥興団の名簿、幾人かに黒い斜線が引いてある。
「この字は確かにジェルマさまの…あっ」
フィオンの名、そして斜線。
少年は呟いた。
「消される運命にあるんです、フィオンさん」
「あ、あ…」
呆然とするフィオンの手を少年は引き、部屋から顔をだして辺りをうかがった。
「まずい。もうすぐヤツらが来る」
遠くから近づいてくる喧騒が聞こえる。
「急ぎましょう、とりあえずここに」
少年はフィオンの部屋をぐるりと見回し、大き目の道具箱に目をつけた。
「中へ、さあ早く」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「相手は待っちゃくれませんよ」
箱の蓋を開けて中を指差す少年。
「小さいかもしれませんが、しばしの辛抱です。ここに身を隠して」
「えっ、こんなの無理…」
「大丈夫です、ほら。さあ」
無理やりフィオンを押し込んだ。
「少し待っててください」
大慌てで少年は大八車を持ってきた。フィオンが入った箱を荷台に乗せアジトの出口を目指す。
ガラガラと耳に響く音、激しい振動が相当なスピードで駆け抜けていることを示していた。
「また、か…また逃げる羽目になるのか僕は」
ひたすら身を縮こまらせて息を潜めるフィオン。
衛兵たちが列を成して駆けゆく足音がすぐ隣を通過する。
「あいつらが僕を探して血眼になってるっていうのか」
ドンッという衝撃。速度が鈍った。やがて大八車の車輪は動きを止めた。
「見つかった、のか…」
道具箱の中で身体を捩りながら、フィオンの鼓動が速まってゆく。
大声が聞こえてきた。
「小僧っ、邪魔なんだよ」
「すみませんっ」
少年のか細い声を掻き消すように衛兵の荒々しい声。
「何やってんだこんな非常時にっ」
「あ、あの、古い書物一式を捨てるように言いつけられていましたもんで…しかし非常時って、何ですこの騒ぎは…」
「知らんのか。謀反だぞ、一大事だ」
「謀反…本当ですか? それ」
苛立つような衛兵の声が、身を隠すフィオンの耳を貫いた。
「親方さまが殺された。犯人は二人、ウィドルとフィオンだ。ウィドルはジェルマさまが成敗したが、もう一人、フィオンが逃げ回ってるんだ」
「え、えええっ」
思わず漏れそうになった声。
少年が機転を利かせて衛兵にすがりついた。
「本当ですか謀反なんてっ。それに犯人がまだ逃げてるなんて、僕怖いっ」
「ええいっ離せっ」
「早く、早く犯人を捕まえて下さいようッ」
衛兵は舌打ちしながら、袖にぶら下がる少年を振り払った。
「ええいこのガキっ。判ったから離せっ。こうしてる間にもフィオンが逃げちまうだろうがっ」
「す、すみませんっ」
深々と頭を下げる少年を後に、衛兵は走り去った。
◆ ◆ ◆ ◆
「やっと出られた…さあ、もう大丈夫」
そっと道具箱の蓋が開けられた。
「まったく…俺が謀反の張本人とは」
逃げながら荷台で揺られるうちにフィオンは状況を飲み込み、落ち着きを取り戻していた。
「汚えヤツらだ、悔しくて仕方が無い…けど、今は逃げるしかないよな」
こんな夜にかぎって満月が眩しいほどに明るい。
身体を捩るようにして道具箱から外に出たフィオンは、少年の手をぐっと握った。
「助かったよ」
「いいえ、こんなひどい話を見過ごせなかっただけです」
清々しい顔で微笑む少年に、フィオンは問いかけた。
「お前はこれからどうするんだ? 戻るのか、冥興団に」
「まさか、もしかしたら僕もあなたに手を貸したことがバレてるかも知れないですし」
「よかったら一緒に…」
少年は首を振った。
「いいえ、有り難いお言葉ですが…二人一緒では見つかりやすい。ここは別々に逃げましょう」
「そうだな…僕はあの森に逃げ込む。お前は反対側に…ところで今後のアテはあるのか?」
「あ、ありませんが…河童族は現世にはたくさんいるはずですから、何とかなります」
にっこり笑う少年の肩を、フィオンが抱いた。
すぐにも追っ手がやってくるに違いない。
生きるため、二人は逃げなければならない。
「じゃあ、お互い達者でな」
それぞれ、反対方向の森へ。
ふと振り向いてフィオンが尋ねた。
「お前、名は?」
「アクラです。黒河童族のアクラ」
「いつかまた会おう。そして冥界の復興のため共に戦おう。
力強く頷く姿を満月が照らしていた。
「もちろんです」
森の奥へ、そのさらに奥へ。
フィオンは走った。メフィスト卿が残したローブを懐に丸めて詰め込んだまま。
「親方さま…」
まるで心は今も師と共にある、そんな気がした。
誰かが道を示してくれたわけではない。深い森の中、フィオンはひたすら前へ前へと歩を進めた。
「うっ」
にわかに髪の毛が逆立った。漂ってくる獣の匂いに全身が震えだしそうだ。吐き気を催す腐敗臭。
「ガルムだ…冥界の番犬ガルム」
冥興団でもガルムが飼育されていた。飼い主はジェルマ。一度狙ったらどこまででも追ってくる執拗さに妖怪たちでさえ恐怖するという。
「来る…ガルムが、追ってくる」
つづく




