いざこざ
戦乱の続く無法地帯、冥界。
家族を皆殺しにされた難民の孤児、フィオン十五歳は奴隷に身を落とした。
獄卒マブラスの慰み者にされ、舎房では新入りとして小間使い。課せられる過酷な使役、冥鉱石の採掘に心身ともに疲弊しきっていた。
「どうだい、新入りさん」
長い一日が終わった。人懐っこく言葉をかけてきたのはコルボト。
「けっこうツラいだろ。労働」
「…」
ツライ、なんてもんじゃない。身体中の筋肉が裂けそうに痛くなるほど働いた。問いに答えようとも口を開くのさえ億劫。
「だよな…俺もひっつかまってここにブチこまれて三ヶ月になるが、最初の数日はマジでやばかった…本気で死のうと思ったよ」
ああ、その通り。あの時家族と一緒に死ねたらどんなに良かったか…などと心の中で頷いくフィオン。
「おおい、小僧っ」
やっと労働を終え舎房に戻ったと思ったら、すぐに牢名主からの呼び出しだ。
「言いつけただろ。風呂までの間、シキハリ(牢番の巡廻の見張り番)してろっての。新入りの仕事だ」
心身ともに休む暇もない。
フィオンは廊下に面した鉄格子の前に立ち、東へ伸びる長い廊下を見張る。
牢内の囚人たちは束の間の自由時間を過ごしている。
札遊戯に興ずるオニ族たちは晩飯を賭けているようだ。奥の便所の仕切りに隠れ、コッソリ持ち込んだ禁制の春画を見ながら何やらゴソゴソしている者も。
(ここにはここの、流儀、生活があるってわけだ)
壁に背を向けて一心不乱に本を読んでいる男は、インテリ風の男。耳の形からおそらくアヴェード族出身だろう。
足を組んで瞑想しているような風に見えるのはエゾン。しかし実際は首を垂れ、ウグネット族自慢の長い鼻からかすかにいびきを立てながらうたた寝の最中。
トナッラの指示で床や壁の掃除をしているのはコルボトともう一人、隻腕隻脚の男。全身を包帯でぐるぐる巻きにした妙な風体で、それぞれ一本ずつの手と足で器用に掃除をこなしている。「ダンマリ」と呼ばれていた男だ。
牢名主のオニ族、ガルスは持ち込んだ大きなベッドの上に寝そべって取り巻きたちと酒宴を始めた。
{いい身分だな…そういえば労働時間もあいつを見なかった」
首を傾げるフィオン。
背後から囁く声。
「若えの。あいつにゃ逆らっちゃいけねえぞ。ガルスってのは娑婆でも知れた極道だ、千を超える手下がいるって噂もある」
ひどく年老いた奴隷囚人は、長い耳をピクピクさせて周囲の気配に気遣いながらフィオンに話しかけた。
「労働時間もあいつは別枠、守衛室で昼寝と酒盛りだ。獄卒のマブラスだってガルスのやることにゃ目をつぶってる。娑婆にいるガルスの手下が定期的にマブラス好みの若い綺麗なオトコを拉致して献上してるって言うからな…」
「うっ…」
「お前さんも見たところ美少年だが…ああ、これ以上は言うまい。うひひひ」
思い出したくも無い記憶がよみがえる。フィオンはそれを振り払うかのように首を数度振り、その老奴隷に尋ねた。
「しかし、なんでまたそんな力のあるヤツがこんな牢獄に?」
「ガルス一派はオニ族の王、シュテインを裏切って飛び出した奴らだ。執念深いシュテインから未だに狙われてるんだよ」
「この牢獄に身を隠してる、というわけか」
「そうさ、察しがいいな坊や。エルターブ卿にとってもシュテインが治める自治区は目の上のたんこぶ。反目のガルスに恩を売っておいて損は無いと考えてるらしい」
「どこもかしこも、力がすべて、か…」
「そうだよ、今さら何いってんだい。さ、ほら。背筋を伸ばしな、衛兵が来たよ」
「あ、あっ。ええと、ズー。ズズー」
「もっと大きくっ」
「ズズーーっ。ズズズーうっ」
舎房内は一斉に静まり返った。
衛兵が鉄格子の向こうから中を覗き込む頃には、何事も無かったように皆おとなしく座ってニコニコ笑顔を作って待っていた。
「風呂の時間だ」
鎖で繋がれ北棟の浴場へ。
久しぶりの風呂だと喜んだものの実際は、お湯とは名ばかりの冷たい水に浸かり各人五杯までと決められた桶の水で身体を流すだけだった。
「ほら、見ろ。あいつだ、あの長髪」
こっそりコルボトが耳打ちした。
「あいつエルターブ卿の実の兄らしいぜ。もともと公国の実権を握ってたらしいが、クーデターで追い落とされてあのザマだ。じきに首を跳ねられるって噂さ」
「実の兄を…」
「ふっ、生き抜くためにゃ兄弟だって売る。それが冥界の流儀ってもんよ」
短い入浴を終えた部屋に戻った囚人たちは夕飯を待つ。
ガルスの取り巻きが当番表を覗き込む。
「ええと、きょうのお体拭きは…ダンマリ、だ。おいダンマリをここへっ」
隻腕隻脚、全身を包帯にくるんだ男がヨタヨタとガルスの目の前に連れてこられた。その特異な容姿につい目が奪われるフィオン。コボルトが囁いた。
「あいつも入ってまだ日が浅い。あの身体…可哀想に。何があったか知らんが」
「ダンマリ、さんか…」
「いや、本名じゃねえよ。知りようが無え。あいつは口がきけねえからダンマリ。火傷がひどくて全身の包帯も皮膚に貼り付いちまってるらしい。あんな状態でここの暮らしは…ああ、死んだ方がマシってやつかもな」
ガルスがダンマリを見下ろす。
「初めてだな、俺様のお世話は」
ダンマリは小さく頷いた。ガルスがふてぶてしく顔を近付ける。
「いいか、その布で俺様の全身を拭くんだよ。隅々まで、キレイにな。ほら、返事はどうした…ああ、口がきけねえんだったなお前、がははは」
ダンマリは渡された布を、残っている方の左手に握りせっせとガルスの身体を拭き始めた。
「もっとほら力を入れろ、ダンマリ。あん、片手じゃしょうがねえか、がははは」
布を握る手が震えている。疲れのためか、怒りのためか。
ガルスは腰巻を外して裸になると、大股を広げてダンマリの目の前に広げた。
「ほら、ここもちゃんと拭け。ああ、そうだ。ここは手じゃなく、口で…ああ、お前にゃ口が無えか。仕方ねえな、その頬で綺麗に拭いてもらおうか」
ふんぞり返るガルスの股に顔を埋めるダンマリの姿を目の当たりにして、フィオンはにわかに頭痛に襲われた。
「あの時…あの時みたいだ…」
難民だったフィオンの一家が襲われたとき。
「姉さんも、同じことを…ああいう風に賊に嬲り者にされ、そのあと…」
自分以外の家族が惨殺される様子を、その一部始終を、砂に隠れて身動きも出来ぬままに見ていたあの時がフラッシュバックした。
「や、やめてくれえっ」
気付くとフィオンはガルスに向かって飛び込んで体当たりしていた。
「な、何しやがるっ。てめえっ」
すぐさま手下たちに取り押さえられた。ガルスの拳の激しい一撃がフィオンの下っ腹に食いこむ。
「ぐううっ」
「俺様に立てつこうってのかっ」
ガルスはフィオンの首に手を回した。ギリギリと締め上げる。
「うぐっ、ふぐうぐっ」
息が出来ない。
その時、鉄格子の向こうからの大きな声がした。
「こらこら、牢内で喧嘩とはご法度だぞ」
剣を携えた衛兵が中に入ってきた。
「ちっ、上に報告だな、こりゃ」
すかさずガルスの子分が衛兵にサッと近づき、袂に包み紙をそっと差し込んだ。
「まあ、ちょっとした遊戯です。お気になさらず…」
「ん? 遊戯でこのような騒動を…」
ガルスが子分に目配せをすると、また一つ包み紙が衛兵の袂の中に吸い込まれた。
「ううむ、まあ。今回は目をつぶるとするか…だが次は許さんぞ」
「ええ、承知しておりますよ。衛兵どの」
ガルスがニヤリと笑った。
「お宅だって、面倒な事には巻き込まれたくないはずだ…」
「そ、そりゃ、そうだ…」
気迫に押されてやや後ずさりする衛兵。
「しかし牢内で飛んだ(=喧嘩)ヤツは部屋替えが原則。明日からお前たちは別の舎房に…」
「いえいえ、それには及びませんよ衛兵さん。だってこりゃ遊戯ですから。こっちでしっかりカタつけますんで」
ガルスがギロリとフィオンとダンマリを睨み付けた。
衛兵は眉間に皺を寄せ、ガルスに耳打ちした。
「気持ちはわかるがここはこらえてくれ。明日、公国の役人たちの視察がある。面倒は避けねばならん、くれぐれも…」
ふう、と大きくため息をついたガルス。
「わかった、わかった。まだ日も浅い新入りのしたこと…今のところは腹に納めてやろう。今のところは、な」
「頼むぞ、せめて俺がここの持ち番でいる間は…」
「チッ」
舌打ちするガルスの前を横切って、牢内に入ってきた衛兵たち。
「さあ、晩飯だ。さっさと並べ、鎖を繋ぐぞ。いつも通りに整列しろ」
食事の席順は入牢の古いほうから、と決まっている。
ダンマリはそっと、自分の夕食分を隣のフィオンに差し出した。
「ん?」
口がきけないはずのダンマリから、まるで直接頭の中に響くように、話しかけられたような気がした。
(さっきのお礼だ…食ってくれ)
怪訝そうに首を傾げるフィオン。
「ダ、ダンマリさん…何かいいました?」
ぐるぐる巻きの包帯の奥で、ほんの少しだけダンマリが笑顔をみせた。
つづく