現世のフィオン
ひた、ひたと樋をつたって雨粒が地面の石に落ちる。
すっかり濡れた着衣がぴったりと肌にくっつくが、むしろ涼しさに心地よく思えた。
「蒸し暑いったらねえな。あと半月もすりゃこの長雨なんぞまるで無かったことのように失せちまうぞ。夏ってやつが来る」
「ナツ…? なんだろそりゃ、生き物ですかい?」
「はは。お前、だいぶこっちの言葉を覚えたが『夏』は初耳か。季節だよ、春夏秋冬ってのは。今は春と夏の間の『梅雨』。この世界にゃ季節ってもんがある。まあそのうち判るさ、フィオンにも」
現世。
リジアの監獄を脱出したフィオンは、この世界に身を寄せていた。
「雨。嫌いじゃないですよ。冥界じゃ干からびちまうほどの砂漠にいましたから…」
「ほう。シオニ砂漠か…それともジョリアスか?」
「クローヴィルです」
「そいつぁタフだなお前さん。どうりで見所ある」
フィオンとともに馬の世話をするのは冥界トウム族、セジル・ソームスいう男。雨が褐色の肌を余計艶やかに見せる。
戦乱で荒廃した冥界を逃れて来た者たちの一部は、周囲から隔絶されたこの山間で共同生活をしていた。
フィオンは草履の手入れ、セジルは馬の世話を言いつけられていた。
それぞれひと仕事終えると、椅子代わりの切り株に腰掛けて一休み。
眼下に見える集落を眺めるセジル。
「俺も最初はおっかなびっくりだったが、現世は馴れりゃ案外いいとこだ」
頷くフィオン。
「平和だったころの冥界みたいですね」
「そうだなあ…だがニンゲンとかいう種族が邪魔だ。現世を支配してる連中だ」
「あちこちに棲み付いてますね…」
「繁殖力だけが取り得だからな。さっさと滅ぼしてやりてえよ…ん?」
セジルの耳がピクリと動いた。
「噂をすれば何とやら、だ」
トウム族は耳と目鼻が利く。
ニヤリと笑ったセジルが山道を降りてゆく。後に続くフィオン。
「どうしたんです?」
セジルが木々の間を指差した。
「見ろ。ニンゲンが二匹、いや三匹だ…リョウシって呼ばれてる連中で、猪狩りの帰りに違いねえ。えへへ、ちょうどいい。今日の晩飯はアレだ」
細い山道を歩く猟師たちはフィオンには砂粒ほどの大きさに見えた。
「さすが、目がいいですね…けどニンゲンが晩飯?」
セジルは滅相もないという顔。
「あんなの匂いがキツくて食えるかっての。オニ族か屍鬼でも無きゃあんなのは食わねえよ。目当ては猪、さあ待ち伏せといこうか…」
微かに聞こえる足音と匂いを頼りに先回り。
切り立った崖の上から見下ろす。猪狩りの三人は何も知らずにやって来る。
「さあて」
勢いよく飛び降りたセジルは、人間たちの前に立ちはだかった。
「よお、ニンゲン」
慌てふためく猪狩りの三人。
「ひいっ、化け物…」
一人は走って逃げ出した。
もう一人は携行する火縄銃に火薬と弾丸を装填しようとするが焦って手元がおぼつかない。火縄に点火しようにも雨が邪魔をする。
三人目は、匕首を取り出し身構えた。
「失せろ、このモノノケめっ」
だが全くセジルの動きが見えていないようだ。
闇雲に切っ先を突き出してみせるが、見当外れも甚だしい。
フィオンには人間たちの動きがやたら緩慢に思えた。
「こいつら…ウスノロだな」
セジルは人間たちを手玉に取る。
「ははは、こっちだ」
鬼ごっこのように逃げ回りながら、サッと一人の猟師の背後に回り込んだ。
「ひ、ひいいっ」
猟師は顔を引き攣らせた。セジルはその首に腕を回し軽くひねった。
「ぐあ・・・」
ゴキン、という音とともに、男の首はあらぬ方向へ。そのまま血の泡をブクブクと垂れ流しながら息絶えた。
「こ、こんちくしょうっ」
もう一人がやっと火縄銃を構えた。
「モノノケめ、撃ち殺してやるっ」
引き金を引き、火縄が火皿に落ちて爆薬に点火。湿った空気を切り裂いてシュッと弾丸が飛んだ。
「まるでお遊びだな…」
フィオンが苦笑した。
セジルはひょいと首を傾けて弾丸を避け、次の瞬間には猟師の目の前に立っていた。
「さあ、どうする?」
呆気にとられた猟師はその場に土下座した。
「お願いだ、助けてくれっ」
額をぬかるみに擦り付け、泥まみれの顔で泣きながら懇願する。
「命だけは、命だけは…」
「あは、あははは」
セジルは笑いながら猟師の男を見下ろした。
「お前らが狩った猪も、そうやって泣いてたんだろうなあ」
セジルはひょいと足を上げ、命乞いをする男の頭めがけてそっと下ろした。
「ぐはっ」
グシャッという鈍い音とともに男の頭はぺしゃんこに潰れた。
雨水にぬかるんだ地面は、赤黒く染まっていった。
もう一人、逃げていく人間の男をフィオンは指差した。
「ねえセジルさん。あいつ…いいの?」
「構わんさ」
走り去る男を笑って眺めるセジル。
「俺たちゃ現世じゃ『モノノケ』と呼ばれる得体の知れない生き物として恐れられてる。親方さまが言うには、その恐怖心をどんどん煽れ、と」
「恐怖を煽る?」
「あの男は俺のことを、感じた恐怖を、周りのニンゲンたちに言いふらす。そうやって広まる恐怖こそ、ニンゲンたちを支配するのには都合がいい」
セジルとフィオンは猟師たちが残した大きな猪を担ぎ、人里離れた山の中腹にあるアジトめざして帰路についた。
「それにしても、セジルさん。ニンゲンってのは妙に動作の遅い生き物ですね」
「話にならんカスみたいな生き物だぜ。親方さまが言うには冥界とは重力ってやつが違うらしい。俺もよく判らんが、あとは何だっけ…時間の流れとか、空気の密度とか成分とか」
「難しいんですね。そのうち親方さまに教えてもらおう」
「理屈なんか知っても役に立たんだろ。とにかく色々違うせいでニンゲンたちはめっぽう弱い。数と知恵だけで生き延びてる種族さ」
「帰りやしたぜ」
「おう、遅かったじゃねえか」
二人をアジトで出迎えたのは小柄な男。
冥界アヴェード族出身、ガッシリとした体格で目つきも鋭い。
「ほう、ずいぶんな土産を抱えてるじゃねえか。イノシシってヤツだな、丁度いい」
セジルが尋ねる。
「丁度いい、って?」
「さっき伝令が来てな」
「伝令って。本部からですかい?」
「そうだ。親方さまがこっちに向かってらっしゃる。もてなしに丁度いい。さっそく準備にかかろうじゃないか。そうだ、報告書を忘れずに書いておいてくれ」
この男、デズイール・フォクロイ。
このアジトを切り盛りするアヴェード族。
頭脳明晰で実戦経験も豊富な元冥界帝国兵。大戦時にはミコウス・ベルシールと同じ部隊に属していたよしみでフィオンの身柄を引き受けていた。
「セジルは酒を用意しておいてくれ。親方さまはドブロクじゃなくて葡萄酒がお好みだ、間違えるなよ」
「へいっ。じゃあ盃は…」
「二番の蔵にしまってあるヤツを使えばいい。場所は判るか?」
「ええ、大丈夫っす」
フィオンが現世に来てから約三ヶ月。だいぶ馴れたし言葉もずいぶん覚えたが、まだまだ知らないことだらけ。
「しかし、冥界よりはずっと快適ですね」
資源不足、多発する災害、大戦の爪あとが尾を引く冥界では未だに無法者が跋扈し略奪や内戦が絶えない。
デズイールがフィオンの肩を叩いた。
「俺も、滅び行く冥界には興味も未練もない。資源と富にあふれた現世を俺たちのモノにしようじゃねえか」
フィオンが「希望」と言えるようなものを心に抱いたのは何時以来のことだろう。
「はいっ。僕も早くこの世界に馴れ、皆の力になりたいと思ってます」
「だが、な…」
デズイールは少し、苦い顔をした。
「厄介なことに、現世にゃ幻怪の生き残りも潜んでる…ヤツらは手強い。いずれ俺たちとヤツらは現世の支配をめぐって全面的に争うことになるだろうな」
フィオンは頷いた。
「僕も早く戦力の一員として認められるように…」
「ははは、お前は筋がいい。ベルシールが見込んだのも解るぜ。まあ焦らず修行すりゃいずれ幻怪を倒せるようになる」
「ありがとうございます…」
フィオンの脳裏には幼少時代の忌まわしい記憶がよみがえっていた。
「幻怪…やつらが冥界をめちゃめちゃにしたんだ。僕らの世界を壊したんだ、幻怪が」
つづく




