自由へ向かって
「生き延びてやる…」
フィオンは呟いた。
冥界の監獄「リジアの楽園」からの脱獄計画は見抜かれていた。次々に仲間を失い、残ったのはフィオンとダンマリの二人だけ。
落ちたら最後、骨まで溶かす王水の池の上、頼りなく揺れる縄にぶら下がって天窓を目指す二人。
ほとばしる感情に同期するように、フィオンの全身には黒い波動のオーラが表出していた。
左腕しか使えなくなってしまったダンマリを背負って歯を食いしばりながら、飛び交う矢をかいくぐって縄を上る。
(なあ、フィオン)
ふと背中から聞こえる、いや直接意識に語りかける声がした。
(もう、いいんだぞ…俺を落とせ)
声が出せないダンマリだが、意識を波動に変えて意思の疎通をすることが出来る。
(そうすれば、お前は楽に天窓まで辿り着ける)
ふとふりかえったフィオン、その視線の先でダンマリの目が語っていた。
(構わんから、俺を落とせ)
拒むフィオン。
「いや、二人で生き延びよう。僕は以前、あなたに命を救われた。僕ら二人は、他に身寄りの無い兄弟だ」
戦争の災禍が全てを奪っていった。財産、家族、友人、住む場所…そして自由まで。
行き倒れたフィオンと、身体の一部を失いボロボロになったダンマリは監獄の中で出会った。
お互い新入りの身分。理不尽な暴力と過酷な使役、凄絶な毎日を二人は生き、支えあってきた。
「負けねえぞ」
さらに大きくなった黒いオーラを帯びて、二人は縄を上へ上へと進む。
「撃てっ、撃ち落せ。撃ち殺せっ」
下からはマブラスのヒステリックな声が聞こえてくる。ひっきりなしに耳元で聞こえる風切り音が、撃ち込まれる矢がいかに多いかを知らせている。
「ようしっ、これで逃亡者たちをっ」
マブラスは、櫓に設置してあった外敵撃退用の大砲を持ってこさせていた。
「構わん、屋根ごとぶっ飛ばしてもいい。奴らを絶対に仕留めるんだっ」
照準器の十字が、天窓から垂れる縄にしがみつく二人に重なった。
「殺せ」
マブラスの号令で導火線に火が付いた。
「マズい、急がなくては…」
焦れば焦るほど、滲む汗が手を滑らせる。
「ああっ、ああっ」
天窓まであと少しだというのに。
間違いなく、大砲はこちらに向かって大きな口をあけている。
「来る、来るっ」
フィオンの両腕はすっかり痺れていた。
「うっ、うううっ」
その時、パッと身体が軽くなった。
フィオンの背中にしがみついていたダンマリが全身をバネのように撓らせて飛び上がって天窓の枠に左手を掛けていた。
(さあ、いくぞ)
ダンマリの身体にも黒く強い波動のオーラが漲っていた。
矢が刺さり血の噴き出す左脚をフィオンの身体に絡みつかせたまま、天窓に掛けた左手を支点に振り子のように大きく全身を揺らし、一気に上方に跳ね上げた。
「やった。やったっ」
二人は天窓の穴から屋根の上に出た。
その瞬間、下の方から大きな爆裂音。
(来る…飛べっ)
目も眩むような高さ、しかし見下ろすと北の方にテントが風になびいているのが見える。
彼らが思いっきり飛び上がるのと同時に、発射された大砲の弾丸が屋根を一気に吹き飛ばした。建物に火の手が回る。
「うあっ。あががっ」
二人はテントを破りながら着地した。全身をしこたま強く打ちつけながらもテントのお陰で大きな怪我は無さそうだ。
「しかし、すぐに追っ手が来るぞ…ん、これは?」
フィオンとダンマリ、顔を見合わせてニヤリと笑った。
彼らが飛び込んだのは畜舎。目の前にはイースと呼ばれる冥界の使役用の牛がズラリと並んでいる。しかもテントが破損しイースたちを繋ぎとめる鎖が外れていた。
「こいつは結構走るんだ。僕の家は農家だったから知ってる。親父に乗り方を習ったんだ」
フィオンは馴れた手つきでイースをあやしながらサッとその背に跨った。
それを真似てダンマリもイースの背に。
「行こう」
フィオンはその場に落ちていたムチを拾い、イースの尻をひと叩き。
「さあ、僕らを逃がしてくれよ」
さらにムチをもう一閃。
「はあっ」
フィオンとダンマリ、それぞれを乗せたイースが駆け出した。乾いた砂漠の大地、遠くに監獄の外壁がそびえ立っているのが見える。
「あの壁を越えれば、あの壁さえ越えれば僕らは自由なんだ」
熱い砂が頬を打つ。
まるで命綱であるかのようにムチをしっかりと握り締めるフィオン。右脚の義足の先端をムチ代わりにイースを駆るダンマリ。
いつしか背後から飛んでくる矢も、衛兵たちの声や非常警報も、遠くなっていった。
「なんとか引き離した…しかし」
眼前には巨大な壁。「リジアの楽園」を取り巻く外壁は見上げるほどに高く、そして少々の爆裂弾では打ち砕けないほどに分厚く頑丈な造り。
「この壁の向こうにさえ行けたら…」
二人はイースの背から降り、壁の前に佇んだ。
「叩いたくらいじゃ、もちろんビクともしない…」
フィオンが手渡されていた爆薬はすでに使い果たしていた。振り返れば、追っ手が巻き上げる砂煙が徐々に近づいてくるのが見える。
「どうすれば…」
ダンマリはそっとフィオンの肩に手を置いた。
「えっ」
意識に直接語りかける言葉。
(そのハンマーを取れ、フィオン)
ダンマリはイースの腰にぶら下がった工具袋を指差していた。その中に大きなハンマーが、確かにある。
「おっ、重いっ」
冥鉱石で出来たハンマーはひとりで持ち上げるのが困難なほどに重かった。
「しかし、このハンマーくらいじゃ壁は壊れないよ…」
ダンマリはゆっくりと首を横に振った。
(俺に貸せ)
ハンマーを受け取ったダンマリはそれを左手で軽々と持ち上げた。
「まさかっ」
そして自らの左脚に力いっぱい叩き付けた。
「ええっ」
ダンマリの左脚が折れるのと同時に足枷が粉々に砕け散った。フィオンは驚いて目を剥いた。
「なぜ、なんでそんな事を…もう、左脚がすっかり」
ボロボロになった脚を引き摺るようにしてダンマリは壁際まで進み、その左脚を壁に押し付けた。
「あ、す、すごい…」
ダンマリの左脚は折れながらも、巨大な黒いオーラを放っていた。吸い込まれそうな重力場が発生している。
(見てろ)
全身に力を漲らせる。一気にほとばしる黒い波動が渦を巻き、細かい放電を伴いながら左脚から爆音を伴って発せられた。
「な、なんという」
腹を揺さぶる重低音と共に、ダンマリの左脚が放射した黒い波動は壁に大きな穴を開けた。
驚きに呆然としながらも、衝撃の反動で後ろ向きに倒れたダンマリを抱き起こそうと手を掛けた。
「えっ」
ダンマリの意識が語る。
(逃げろ、さあ逃げるんだフィオン)
「ええ、行きましょう」
(いや、お前一人で行け)
フィオンは首を傾げた。
「何を言ってるんですか、ここまで一緒に来たんだから、さあ」
動こうとしないダンマリ。
(行け、左脚まで壊れた俺は足手まといでしかない。お前一人で行け)
半ば怒るようにフィオンが叫ぶ。
「これからも一緒ですよ、僕たちは兄弟だって誓ったじゃないか」
(いいから、行け。行かないならお前に波動弾を打ち込むぞ)
ダンマリはカッと目を見開いて睨んだ。フィオンはその迫力に押されるようにジリジリと後ずさりした。
「そんな、そんな…」
(お前はまだ若い。もっと強くなれる、大きくなれる。ベルシールが言ってたように、南のエス・イオッソ岬の次元孔に身を隠せ。ひとまずは現世に身を隠すんだ)
涙をこぼしながら、ダンマリに背を向けた。
「行きます…」
フィオンは壁の外へ出た。
そして走った。冥界の荒野をただひたすらに。この自由を手に入れるために払った代償の大きさを思い起こしながら。
ダンマリは座り込んだまま、傍に落ちているハンマーを見下ろした。
(ああ、俺にはまだやることがある)
彼に残った唯一の腕、左腕を振り上げてそのハンマーに強く叩き付けた。
(うっ)
パンっと衝撃音と火花が散ったが、手枷には僅かな傷しか付かない。
(ならば…)
さらに強く。より大きな衝撃に腕の骨が砕ける音がした。しかしまだ手枷は外れない。
大きく息を吸い込み、そしてゆくりと吐いたダンマリは、全体重を浴びせるようにして激しく左腕をハンマーに叩き付けた。
(うがあっ)
ズシンと重い衝撃波が広がると同時に潰れた手首から血が噴き出した。
しかしダンマリはその手首を見てニヤリと笑った。その横には割れた手枷が落ちている。
(これで俺の力を押さえつけるものは無くなった、というわけだ…)
どんどん近づいてくる衛兵たちの群れを見据えながら。
「いたっ、いたぞ。壁のところだ」
「掴まえろ、いや見つけ次第殺せとの命令だ。もう逃がすなよっ」
「よしっ、取り囲めえっ」
何百の衛兵たちがダンマリに向かって武器を構えてやってくる。
(ふう…)
包帯の下、ニヤリと笑ったダンマリは傷だらけの左腕を高く掲げた。
(ザコども…お前らなぞ、片手で十分)
にわかに周囲の空気が渦を巻く。ダンマリの全身から湧き出した黒い波動が一気に左腕に集まった。
ビリビリと激しく放電する黒紫色の波動エネルギー体はみるみるうちに大きくなってゆく。
(ようし)
ダンマリの目が赤く光った。勢い良く左手を振り下ろす。
はち切れんばかりに膨れ上がった黒いエネルギー体は掌から地面に向かって強く叩き付けられた。
(全員、死ね)
キラキラと光る細かな電光が網の目のように、一瞬にして地表を駆け抜けた。
一瞬の空白を置いて、はらわたが捩れるような重く強い低周波。ズシンと地面が大きく揺れた。
「あっ、あああっ」
あちこちに発生した地割れ、そこから噴き上がる黒い波動の噴煙に衛兵たちは右往左往し始めた。
さらに広範囲にわたって地盤が崩壊、巨大な孔がボコボコと生まれ爆風と岩石塊、粉塵が飛び出してくる。
「これは、これは…」
オロオロするしかない衛兵たち。
(安心しろ、すぐ死なせてやる)
追い討ちを掛けるように地表を駆け抜ける衝撃波が衛兵たちを包み、粉々に砕いてゆく。
「これは、何が一体…」
残った衛兵たちも、起こっている状況を理解する間もないままに崩れてうねる地面に呑み込まれていった。
遠くで監獄がゆっくりと溶けるように沈んでゆくのが見える。滲み出してくるマグマが地表を覆い、彼方まで噴煙が空を黒く染めてゆく。
「リジアの楽園」は崩れ落ちた。
揺れの収まらない地面に身体を横たえ、陽炎に揺れる空を見上げながら、ダンマリは穏やかな微笑を浮かべていた。
第一章・終




