運命が導くもの
冥界の監獄「リジアの楽園」からの脱走を試みた囚人たちは罠に嵌まった。
犠牲を出しながらも咄嗟の機転で王水貯留池の天窓からの脱出に賭ける。
天窓に縄を引っ掛け、あとは上るだけ。
しかし「一緒に逃げる」と約束したウィッツオの行方が判らず戸惑うフィオン。
俊足で知られるゾーフォがウィッツオを探しに走った。
「五十数える間に戻ってくる、それが制限時間だ。もし戻らない時は…」
天窓から垂れる縄に上る仲間たちが揺れないよう、トナッラが縄の端っこをガッチリと握っている。
「どうだ、大丈夫か?」
見上げたトナッラ。先頭切って縄をよじ登るキラエフが答えた。
「ああ問題ない。湿気のせいか手が滑りそうになるが、な」
「お前さんが上り切ったら俺たちを一気に引き上げてもらわなきゃならねえんだ。手が滑った、なんてご免だぜ。王水に落ちたら一瞬で溶けてしまうぞ」
「縁起でも無えこと言うなっての」
見下ろすと緑色の煙が充満する中にブクブクと泡を立てる王水の池。
続いて上るダンマリが「早く行け」とばかりに目で訴える。
その下にはフィオン、ちらちらと扉の方を気にしている。
「まだかな…」
扉の横に待機しているベルシールがフィオンを睨む。
「いいから、お前は気にせず早く上れ」
扉の外からかすかに物音が聞こえ始めた。
「こっちへ向かってるのはウィッツオだけじゃない、衛兵たちもすぐに気付いてここにやって来るぞ」
「あ、はい…」
返事をしながらもフィオンは呪文のように数を唱えていた。
「三十三、三十四…」
閉じた扉の向こうから聞こえる足音に、ウィッツオの無事を思い浮かべながら。
縄を保持するトナッラの顔に汗が滲み始めた。
「これしき…」
「もう少しの辛抱だ、もう三人もぶら下がってるからな…」
気遣うベルシールがその汗の玉を拭いてやろうと手を伸ばした、その時。
「あっ」
バタンという音。
扉が開いた。
「来た」
一同は扉を注視する。
「あっ、ウィッツオ!」
縄に上りながら唱えていた数はもう四十を超えていた。
「間に合った…」
フィオンの頬が緩んだ。
「待ってた、待ってたんだ…あ、ああっ」
すぐに表情は驚きと落胆に変わった。
「ウィッツオっ」
確かにウィッツオはやって来た。扉を開けて入ってきた。
ただし、顔を恐怖に青ざめさせながら。
「逃げて…早く逃げて」
目を真っ赤に腫らしている。
「殺されるわ、みんな殺される…」
ウィッツオの背中には剣が押し当てられていた。背後からゆっくりと姿を見せたのは衛兵長のブレドー。
「さあ。もうお終いだ、お前ら」
「ブレドー…あの爆発の中で生きていたのか」
近寄ろうとするベルシールに向かってブレドーは携えた生首を突き出した。
「言っただろ? 脱獄者は晒し首だ、と」
切り落とされたゾーフォの首だった。
「ゾ、ゾーフォ…」
脱走者たちは言葉を失った。
「あ…」
一人ひとりの顔を睨みつけるブレドー。
「やる、といったら必ずやるんだ俺は」
その後ろから衛兵隊、さらに獄卒マブラスも入ってきた。
「虫けらどもがいい気になりおって…うひひ、さあどうするお前たち」
キラエフ、ダンマリそしてフィオンは縄をよじ登る手を止めた。縄を握って保持するトナッラは身動きが取れないまま。
「ちくしょう…」
ベルシールが身構えた。
だがウィッツオを盾にして近づいてくるブレドーに押されジリジリと後ずさりするより他にない。
ニヤニヤするマブラス。
「お前たちが逃げるなら、この女は死ぬ。お前たちが諦めてその首を差し出すなら女は助けてやろう。いひひ…どうする?」
引き攣った笑いが、静まり返った部屋にこだまする。
「くっ…うう」
顔を見合わせる脱走者たち。
マブラスが高笑いする。
「がははは。そうか、返答なしなら…やれ、ブレドー。そうだ、その女を王水の中に沈めてやろう。脱走に手を貸した者が苦しむ姿を見るがいい」
サディスティックに目を光らせたブレドーがウィッツオの背中にぴったりと付けた剣先をぐいと押し込んだ。
「うっ、うあっ」
否が応でもウィッツオは前へと歩き出す。
「いやっ、嫌あっ」
押し出され、煮え立つ王水の淵へ。目の前に噴出す泡から漂う臭気に顔が歪む。
「う…うああ」
ウィッツオの足がガタガタと震え出した。
「ま、待てっ」
フィオンが叫んだ。
「ウィッツオを助ける、と云うのは本当か? 僕が投降すれば彼女を本当に助けてくれるか?」
ウィッツオの潤んだ瞳をじっと見つめるフィオン。
マブラスが笑う。
「うっひひひっ。面白くなってきた」
フィオンを見上げるウィッツオが言う。
「ウソよ。信じちゃダメ。地図をあなたに渡した時点で私は重罪なの、処刑は逃れられない。私はどうせ殺されるのよ、せめてあなただけでも逃げて…」
「いや、約束したんだ。一緒に逃げよう、と。君を置いて僕だけ逃げるわけにはいかない」
さらに甲高い声で楽しげに笑うマブラス。
「いっひひ、実に美しい愛情だ…しかし、小僧がそう思っても、他の仲間はどうかな? こんなガキの色恋の道連れで死ぬのは…」
「く…ううっ」
まるで永遠に続くと思えるほどに長く、凍りついた時間が過ぎゆく。
沈黙を破ったのはフィオンの行動だった。
「お、おいフィオン。待てっ」
ベルシール、そしてキラエフが叫ぶ中、フィオンはスルスルと縄を降りはじめた。
マブラスがため息をつく。
「ほう。さすがだな、色男。愛に生き、情に死す、か…がっははははっ」
勝ち誇ったような笑い。
それをかき消すように、ウィッツオの叫び声が耳を刺した。
「ダメっ、フィオン。降りてきちゃダメっ。あなたは生き延びて…」
「えっ」
ウィッツオの行動に、誰もが息を呑んだ。
「愛してる…フィオン」
自ら、王水の中に飛び込んだ。
「誰だっていつか死ぬわ。あなたが逃げ延びることが、私が生きた証よ…」
王水がにわかに泡立ち水面が暴れた。
ジュウッという音に続いて激しい煙が噴き上がった。
「やめろおっ」
フィオンは声の限りに叫んだ。
「なぜ、なぜだっ」
濛々と立ち込める煙の中に、ウィッツオの笑顔が時折見え隠れする。
「貴方は愛してくれた。慰み者の奴隷でしかない私を愛してくれた、私の心を救ってくれた」
涙まみれの笑顔が埋もれてゆく。無慈悲に噴き上がる王水の飛沫。
「ウィッツオ、ウィッツオっ」
ひたすら叫び続けるフィオンの真下でウィッツオは、骨一つ髪の毛一本も残さず消えていった。
「ウィッツオっ…」
フィオンが繰り返す叫び声は途切れた。
「うひ、うひひひ」
腹を抱えて笑っているマブラス。
「ああ、面白い見世物だった…さて、そろそろ」
ふと真顔に戻った。
「終わりだ。皆殺しだ」
剣を掲げたブレドー、そして配下の衛兵たちが唸り声を上げて一斉に突進してきた。
「させんぞ」
ベルシールが立ち向かう。縄の三人をチラリと見て。
「お前たちは早く上れ、俺が飛びついたら一気に引き上げてくれよ」
「あ、ああ」
しかし、縄を持つトナッラに衛兵たちが覆いかぶさった。
「ぐ、ぐあっ。ああっ」
あっという間に取り押さえられ、支えを失った縄はぐらりと振れた。
「あわっ、あわわっ」
キラエフとダンマリ、フィオンの三人は王水の真上で振り子のように揺れる縄に必死にしがみつく。
「急げ、急げえっ。だが縄を揺らすなよ」
このまま揺れ続ければ天窓に引っ掛かっているフックが外れそうだ。落ちたらどうなるかはウィッツオが身を以って示した通り。
ベルシールは、衛兵たちにもみくちゃにされているトナッラの元へ急行した。
「待ってろ、今助けてやるっ」
だがその前にブレドーが立ちはだかった。見上げるほどの巨体、オニ族。
「脱走者は許さん、断首だ」
縄の上からキラエフが叫ぶ。
「ベルっ、俺もそっちへ」
フィオンも縄を降りようとしている。
「僕も一緒に戦いますっ」
ベルシールがそれを制した。
「来るなっ。それより早く上って縄が落ちないように支えてろ。第一、お前たちが降りたらウィッツオの死が無駄になる」
目の前に立つブレドーをぐっと睨んだ。
「ああ、こいつを倒して必ずそっちに行くから。待ってろ」
ブレドーの眉がピクリと動いた。
「ほう、俺もナメられたもんだ…お前一人で戦うっていうのか」
「戦えるかどうか、じゃねえ。戦うしか無えんだよ」
ブレドーに向かって突進したベルシール。ブレドーは剣を真っ直ぐに突き出した。
「丸腰のくせに何が出来るっ」
鼻先をかすめた剣先の下に潜り込んだベルシールがブレドーの足を払った。
「ぬっ」
だがそう簡単に倒れるブレドーではなかった。首根っこを掴まれて持ち上げられたベルシール。
「う、ううっ」
「八つ裂きにしてくれる」
ブレドーが渾身の力で剣を振り下ろした。
「ええいっ」
ベルシールは反射的に頭上で両腕を交差させ剣を受けた。ブレドーの血走った目が見開かれた。
「腕ごとぶった斬るっ」
いきなり激しい衝撃、視界がブラックアウトするほどの空間の歪みと飛び散る稲妻。
「何だあっ」
ブレドーが振り下ろした剣はベルシールの手枷に当たっていた。
冥鉱石同士の激しいぶつかり合いが、途方も無い衝撃を生み出していたのだった。
「あ…あっ」
ベルシールは、にわかに軽くなった両腕を見た。
「は…外れた。手枷が外れたっ」
冥鉱石の衝突が生み出す波動のうねりが手枷を砕いていた。
「今だ…今しかないっ」
倒れこんでいるブレドーに駆け寄って覆いかぶさったベルシール。
「はああっ」
身を起こそうとするブレドーの顔面に掌をあてがい、真っ黒に渦巻く波動弾を放った。
「ぐうううがぐあああああっ」
ブレドーの頭は粉々になって吹き飛んだ。
しかし、それと同時に剣を突き出していた。
「う…ぶぐう…」
よろめきながら、膝をガクガクさせて立ち上がったベルシールの胸から背中へ、ブレドーの剣が貫通していた。
「やった…殺ったぞ、ブレドーを…」
口から大量の血を吹き出しながらベルシールは仲間を振り返って微笑んだ。
「さあ、逃げろ。早く…」
バッタリと血溜まりのなかに身を倒したベルシールは、もうピクリとも動かなくなっていた。
「ベ、ベル…っ」
「ベルシールさんっ。お願い、目を開けてっ」
いくら叫べど、彼が息を吹き返すことは無かった。
残されたのはキラエフ、ダンマリ、そしてフィオン。
揺れる縄にぶら下がったまま、悲しみにくれる時間も与えられてはいない。
ブレドーを殺され、顔を真っ赤にして怒るマブラスは部下の衛兵たちに弓矢を構えさせている。
「撃て、撃ち落せ。何としても逃がすな、皆殺しにせよっ」
「さあ、上るぞ。ベルシールの犠牲を無駄にしないため」
三人は目に涙を溜めながら、ひたすら天窓を目指し縄を上る。
つづく




