一歩前へ
冥界の奴隷・フィオンたちは新たな坑道の掘削と云うさらに過酷な使役を課せられつつ、自由の身になることを夢見ていた。
しかし「リジアの楽園」は、脱走など絶対不可能と言われる堅固な牢獄として知られている。
砂塵舞う中、高温の屋外。口を開くのも億劫だ。
「こんな毎日が続くのか…」
照りつける赤い太陽の下、ただひたすら固い岩盤に鶴嘴を打ち付ける。手を抜こうものなら衛兵のムチが容赦なく飛んでくる。
ジリジリと肌を焼く日差しから逃れられるのは唯一、短い昼休憩の間だけ。
狭い木陰に大勢の奴隷たちが寄り添って寝転ぶ。
「ああ、このままずっと寝ていたい…」
衛兵たちには小さな休憩用の小屋が用意されている。彼らもそこで短い休息をとる。
「ようし…」
衛兵たちの姿が小屋に消えていったのをじっと見ていたフィオンが急に立ち上がった。
「ちょっと散歩に行ってくる」
裸足のまま駆け出した。
制しようとするベルシールが声を絞って叫ぶ。
「おい、やめとけっ。見つかったらヤバいぞ」
しかしフィオンは振り返らず、監視の目を盗んで遠ざかっていった。
向かったのは北棟だった。
「ええと、確か倉庫の近く」
中央管理棟に直結の北棟は約半分を職員の為の施設が占め、残りの監房も主に政治犯が収容されており「リジアの楽園」の中では比較的穏やかな場所。ゆえに警備もさほど堅固ではないようだ。
「えいっ」
低めの塀を越えて中に入ったフィオン。呪文のように小声で唱え続けている。
(北三房、北三房…)
もちろん、見つかったら極刑は免れない。
だがそれを上回る動機があった。
「ここだっ」
古びた木製の扉をそっと開ける。
「えっ、あっ」
不快な臭気とともに、病人や怪我人たちがゴロゴロと寝そべりうごめく光景が目に飛び込んできた。
「こりゃひどいな…」
フィオンが忍び込んだのは北棟・三番房。医務室のようだ。
「この部屋で間違いないはずなんだが…」
当然の如く衛兵たちが飛んできた。
「なんだ、お前。ここへ一体何しに来たっ」
フィオンは咄嗟に腹を押さえてうずくまった。
「ううっ。苦しい、苦しい…」
「だ、大丈夫か。お前…」
衛兵が顔を覗き込む。
「ふむ、どっかで見たな、お前」
もう一人駆けつけた衛兵がフィオンの首根っこを掴んで立たせた。
「ちっ、ひ弱なガキめ。ここはお前のような貧民が来る場所じゃねえんだよ。さっさと外でのたれ死ねっての」
フィオンが追い出されかけたその時、部屋の奥から衛兵を制するような声が聞こえてきた。
「ちょっと、病人を手荒に扱ったらダメじゃない。規則に反するわ」
近づいてきた声の主を見て、フィオンは目を丸めた。
「あっ、やっぱりここが…」
「こっちへ来て」
白い羽織をまとったウィッツオだった。
フィオンの手を引き、部屋の一番奥にある診察室へ。橙色の日が柔らかく差し込む板張りの部屋。
ウィッツオは衛兵を部屋の外に待たせ、扉の窓のカーテンを引いた。
「ウィッツオ…」
話しかけようとするフィオンにサッと近づき、部屋の外にまで聞こえるような大声で言った。
「ああ、もう。これはひどいわ…一体いつからこんな風なの?」
戸惑うフィオン。
「えっ、こんな風って、あの。別に…」
その耳元でウィッツオが呆れた口調で言う。
「バカっ、演技よ。病人のフリしないと怪しいでしょ。察してよ」
「あ、はい…」
ますます大声のウィッツオ。
「ほら、大人しくしてっ。どこが痛いの?」
寝台にフィオンを寝かせ、両手でその顔を包むようにしてじっと目を見つめた。
「来てくれたのね」
ぐっと顔を近づけ、今度はうって変わって小声。
「ありがとう」
そのまま唇を重ねた。
フィオンは何も云わずに受け入れた。ウィッツオの柔らかい肌を伝うように、か細い肩から背へ両手を回して強く抱き寄せた。
少し開いた窓から、生暖かい風がキラキラと光る砂塵を連れて舞い込んで来る。
カーテンが揺れるのは、風のせいだけではない。
「ああ…もう時間ね」
ウィッツオは起き上がり、再びキリリとした表情に。
「昼が終わると見回りが来るわ。その前にあなたは」
慌しく白衣に袖を通しながら急かすようにフィオンを起こした。
「こんな危ないこと、もう二度としちゃダメよ。今日はたまたま当番だったけど、いつも私がここにいるとは限らない。バレたら処刑は間違いないわ」
「もう来るなってこと…?」
フィオンの悲しげな表情を避けるようにクルリと後ろを向いて扉に向かったウィッツオ。
「衛兵、患者がお帰りです。持ち場まで案内を」
衛兵に両腕を抱えられて出てゆくフィオン。
「あ、ちょっと待って」
呼び止めたウィッツオがフィオンの袂に、紙切れで作った小さな包みを渡した。
「ちゃんと飲みなさいよ、このお薬」
「えっ、薬って…」
薬包紙を開こうとするフィオンを制したウィッツオは押し出すようにフィオンを扉の外に出した。
「約束ですからね」
「あ、ありがとう…」
何事もなかったように、昼からも穴掘りが続く。
「今日は特に暑いな、見ろよ。また一人、犠牲者だ」
南棟から駆り出された奴隷の一人が口から泡を噴いて倒れ、痙攣している。
「もう助からねえな」
衛兵たちは男を担架に乗せて北棟の救護室に向かって運ぶ。
フィオンが呟いた。
「あ、北三房に行くんだ…」
ニヤニヤするフィオンを見てトナッラが首を傾げる。
「ん、なんだお前。気味が悪いな」
「あ、いや。北三房は医務室らしいですよ。もっとも職員以外は相手にされないようだけど…」
「ふうん…」
ゾーフォがため息をついて空を見上げた。
「俺たちもいつ死んじまうことやら…さっさと逃げ出さねえとな、こんなとこ」
思いもよらぬ大きな声に衛兵がジロリと睨む。
「今、何て言った?」
肝を冷やす西四十二房の面々を見渡して。
「逃げる、だと?」
衛兵はの顔がほころび、見下すように笑い出した。
「ははは、面白いなお前たち。やってみろ、出来るもんなら俺も連れてってくれ。千年続いた伝説を壊すなんて痛快だ。まあ、間違いなく死ぬだろうがな」
脱走なんか出来るはずも無い。これがリジアの常識。
一日の使役を終えた西四十二房の面々に、倉庫での片付け作業を言い渡された。
「ちくしょう、俺たちだけ追加の仕事かよ」
「嫌われ者なんだからしょうがねえだろ」
「ああ、その通りだ・・・だがな」
ベルシールの目が光った。
「計画を立てるにゃもってこいの時間でもある」
一同は、その疲れ果てたはずの目を再び生き生きとさせた。
「おお、どうやって脱走する?」
ベルシールはみんなの顔を見渡した。
「俺たちはそれぞれ秘められた力を持ってる。キラエフは怪力、ゾーフォは素早い脚、トナッラはレディップ族だから、確か糸を吐き出せるんだったよな。ダンマリは隠しているが…俺は知ってるぞ、強力な波動の力を持ってる」
フィオンとコボルトは顔を見合わせ、項垂れた。
「僕らには、何にも無い…」
「いや」
ベルシールは言う。
「お前らは誰より根性がある。グリーブの時に証明済してみせたじゃないか。いざというとき、それが一番大事なんだ。」
ホッとした表情の二人。
首を傾げて苦い顔をしているのはトナッラ。
「しかし、その能力ってやつだが、この手枷足枷に封じ込めてられてるぜ?」
「だから、まず最初に俺たちがやらなきゃいけないのは、この枷を外すことだ。聞いた話じゃ中央棟のどこかに牢番の詰所があって枷の鍵が一括管理されてるはず」
ゾーフォが頷いた。
「中央棟か。しかしどうやってそこまで行くんだ?」
「衛兵たちの配置を時間帯ごとに調べる。最近人手不足なのは間違いないから、手薄になる場所と時間帯が必ずある」
キラエフが問いかける。
「そこまで上手くいったとしても、どうやって外へ? 気付かれたらあっというまに衛兵が集まってくるに違いない。それを振り切って逃げ出すのは至難の業だ」
「冥鉱石を加工する溶鉱炉には、圧を逃がすための大きな送風口がある。そこを通れば建物の外に脱出できる」
コルボトが首をひねる。
「しかし、高い外壁はどうやって越える?」
「ふふ、そこまで逃げおおせたら大丈夫だ」
ベルシールがちらりとダンマリの顔を見た。
「俺が見たところ、こいつが手枷を外したらあの壁に風穴を開けるくらいの波動をぶちかませるはずさ」
ダンマリはゆっくりと頷いた。
「あとは全体の地図さえあれば。構造がわかりさえすれば…」
「さあ、時間だ。そろそろ部屋に戻れっ」
衛兵の声。何事も無かったように部屋に帰る奴隷たち。
長い一日を終え、床に入ったフィオンは昼間の事を思い出していた。
「ウィッツオ…」
思わず頬が緩む。
「…あっ。そういえば」
思い出したフィオンが、ウィッツオにもらった包み紙を寝床の中でこっそりと開いた。
「薬って言ってたけど…これは」
ゴクリと唾を飲み込んだ。
中に入っていたのは細かい黒い粉。
「爆薬だ」
ツンとハナを刺激するその匂いですぐ判った。
さらに、包み紙の裏には監獄の詳細な内部構造の図面が描かれていた。
「ウィッツオが言ってたな。約束、って」
つづく




