ぬくもり、ふたたび
牢名主ガルスに嫌われ、合法的な殺戮競技グリーブに出場させられたフィオンたちは生き延びた。しかしますます風当たりは強くなる。
「さあ、今日も働けいっ」
衛兵たちの声が洞穴内のあちこちから響いてくる。冥鉱石の採掘は重労働。
「ったく…こんなキツイんじゃ身体がいくつあっても足りねえ」
毎日誰かが倒れ死んでゆく。そして欠員を補充するように何処からか新たな奴隷が連れてこられる。
「ウチにはなかなか来ないな、新入り」
入牢して二か月になろうとしているフィオンは未だに舎房の一番格下。
同じく新入りの同僚、コルボトもボヤく。
「仕方ねえよ。俺たちゃガルスにすっかり嫌われちまってるんだ。このまま永遠に新入り扱いなのかも…」
丸一日続く採掘作業が終われば入浴時間。五人ずつ鎖に繋がれ、ぬるい湯に腰まで浸かる。
「あ、やっぱりいなくなった」
いつも見かける政治犯舎房の長髪の男が見えない。
「例の、エルターブ卿の兄さんのことなら、今日処刑されたそうだ…首を跳ねられて」
「噂どおりか」
「実兄といえど容赦ねえな。門前にゃ見せしめに首が吊るされてるそうだ」
入浴が終わり、囚人たちは各自の部屋へ。新入りは夕飯までの自由時間も無くいまま部屋の掃除から配膳、小間使いに走り回ることになる。
ため息をつくフィオン。
「今日も便所掃除か…」
しかし、この日は違った。
数名の衛兵が舎房まえにやって来て大声を上げた。
「西四十二房、五千八百三十七番。いるか、返事をしろ」
「ん?」
仲間内では愛称で呼び合う囚人たちだが、公式には囚人番号が割り当てられている。
「五千八百三十七…あ、あっ」
呼ばれたのはフィオンだった。
「は、はい…」
連行されてゆくフィオンを横目に、ガルスと取り巻きはニヤニヤ笑っている。
「うひひ、呼ばれやがったな。またマブラスさまのオモチャだ…」
収容所「リジアの楽園」を独裁的に支配している獄卒・マブラスは男色を好む。
若い囚人が定期的に呼び出され嬲り者にされるのは周知の事実。フィオンも入牢当日にいきなり受けた屈辱は忘れようとしても忘れられない。
「また、またなのか…」
マブラスに逆らっては生きていけない。
「生きるため…か」
フィオンは唇を噛む。
「しかしこんな生活なら、生きている必要なんてあるのか?」
「うっひひひ」
連行されたのは中央管理棟、地下の一室。椅子に掛けた獄卒マブラスの卑しい笑い声が響く。その周りには鎖につながれた美女たちが並んでいる。
「おい少年、俺の飼い犬の一人がお前のことを気に入ったようだ」
マブラスは手に持ったムチの先端を、取り巻く女の一人の顔に押し当てた。
「だろ、ウィッツオ。さあ、前へ出ろ」
その女は怯えた顔で首を横に振る。
「い、いえ…違いますマブラスさま。決してそのような」
「あん?」
マブラスの顔から笑顔が消えた。
「前へ出ろといってるんだ、このメスがっ」
ウィッツオと呼ばれる女はマブラスの大声にビクっと身体を震わせておずおずと前に出た。
「わたしは、ただ…」
マブラスがムチを振り上げた。
「お前がこのガキに色目使うのを俺はちゃんと見たんだ」
振り下ろされたムチがウィッツオの背中に絡みつき、囚人服を破いた。
「ほう…」
垂れる涎を舌なめずりしながらマブラスが再び笑みを漏らした。
「そうだ、ウィッツオ。今すぐこのガキと交われ。俺の目の前で」
「えっ、そ、そんな…」
顔を青くしたウィッツオに容赦なくムチが飛ぶ。
「ひああっ」
衣服は完全に剥がされた。マブラスの目配せで衛兵たちがウィッツオの手足を掴んで床に押さえつけた。
「うっ、うぐっ…」
嗚咽しようとするウィッツオの口は布で縛られ、閉じられた。
「ほら坊ちゃん、ヤってみろ。さあ」
今度はフィオンにムチが飛んだ。全身に電撃のような痛みが走る中、フィオンは衛兵たちに両腕を掴まれ、あっという間に服を脱がされた。
「あうっ、ううっ」
背中に押し付けられたひんやりとした感触は間違いない、剣先。
「マブラスさまの仰せだ。さあガキ、早くヤってみせろ」
「でも僕は…」
戸惑うフィオンに向かってマブラスがムチを下ろす。
「早くやれっ。やれといったらやれ。やって見せろ」
選択の余地は無い。フィオンは恐怖に押されるがまま、床に横たえ涙を流すウィッツオに覆いかぶさった。
「ううっ。うううっ」
ウィッツオの泣き顔、耳元に響く閉ざされた嗚咽だけが心に焼きついた。恐怖の下では感覚も感情もどこか遠くに去っていたように思われた。
「ううあっ。ああっ」
いつしかフィオンも泣いていた。
すっかり忘れていた「ぬくもり」というものにすがるような思いからだろうか。周囲の声など何も聞こえないかのようにフィオンは強くウィッツオを抱きしめ、いや、ウィッツオにしがみついていた。
「ほらガキ、終わったならどけっての。早く」
ずっとこのままでいたい。フィオンはひたすらウィッツオに抱きついていた。
「調子に乗るなっ、くそガキっ」
マブラスのムチの強烈な一撃がフィオンの儚い甘美の時を打ち砕いた。
「あっ、ああっ」
我に返ったフィオンの背には、マブラスの肌が押し付けられていた。
「いひひ坊ちゃん、今度が俺さまが楽しむ番だ」
衣服を脱いだマブラスがフィオンの背中から乗っかってくる。
「いやだ、いやだあっ」
両手両足はすでに衛兵たちによって取り押さえられていた。
「ああ、あああ」
滲んでゆく視界の端っこには、ぐったりとしながら身体を痙攣させるウィッツオが半ば気を失いながら衛兵たちによって部屋の隅に追いやられる姿。
ムチが刻んだ背中の傷にマブラスの口からダラダラと垂れ落ちた涎が滲みる。
「痛い。痛い…」
次第にフィオンの目は焦点を失いヒクヒクと動くだけになった。身体を貫く痛みのペースが早まり、やがて動きを止めた。
「……」
使い古された雑巾のように、フィオンはその場に放置された。その目の前に、上等な肉が投げ与えられた。
「さあ坊ちゃん。今日のご褒美だ、食え」
遠ざかってゆくマブラス、そして衛兵たちの笑い声。
「くそっ、あいつら…」
取り残された地下室で歯軋りをしながらも、フィオンは与えられた肉に手を伸ばした。
「くそっ、くそうっ」
これだけの辱めを受けながらも、この施しに抗えない己の欲深さに再び涙が込み上げてくる。
「やっぱり生きたい、生きていたいんだ、僕は…」
その時、ふと目が合った。
「あっ、貴女…さっきは、その。あの…」
部屋の隅で両脚を抱えて座り込んだままじっとフィオンを見ている―いや、ただ呆然としているだけなのかもしれない―ウィッツオ。
目を逸らすように、フィオンは頭を下げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
ウィッツオは表情を失ったまま、人形のように首を横に振るだけ。
フィオンは近づいた。床に頭を擦り付ける。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい…」
「いいえ、いいのよ」
聞き取れないほどの小さな声でウィッツオが反応した。フィオンはさらに近づいた。
「僕のせいでこんな酷い目に…」
「誰のせいでもない」
ウィッツオは虚空を見上げるように言った。
「この監獄の、いや戦争のせい。生かされるままがいいのか、死んだほうがいいのか、今や誰もが悩んでるわ…」
「でも…」
フィオンは首を捻った。
「君たちはマブラスのお気に入りじゃないですか。普段は上等な服に豪華な食事、その辺の市民よりずっといい暮らしを…」
「そう見えてるんでしょうね、上辺は…でもね、私たちも単なる奴隷、いやそれ以下の飼い犬よ。飽きたら殺される。そんな女を何十人と見てきた」
「可哀相に…」
フィオンはウィッツオの目が潤むのを見て、また涙をこぼした。
「ねえ。これ、食べます?」
与えられた肉を拾い上げ、フィオンはウィッツオに差し出した。
「これ本当に上等な肉ですよ、食べたらちょっとは元気になるかもしれないです」
ぶっきらぼうに差し出された肉の塊を目の前にして、ウィッツオは不意に笑みを浮かべた。
「あなた、いい子ね」
「えっ」
フィオンは戸惑った。「いい」って何だろう。何のことだったんだろう。逆に「悪い」って何だっただろう…ありきたりの価値基準さえ監獄の生活を続ける中で忘れ去っていたのかもしれない。
「ところで、あの…」
恐る恐る、フィオンは尋ねた。
「いつからここに?」
「十四の時からだから…もう五年になる。ちょっと北にあるグレスノウって町の学生だったの」
「えっ、僕はエディスレーにいたんだ。すぐ近くじゃないですか」
「エディスレーって、川沿いの…あなたも焼け出されたってわけね。私もよ。公国は私と家族を戦火から保護する、と言ってここへ連れてきた。けれど…」
ウィッツオの顔が曇った。フィオンは笑顔を作った。
「それ以上は、いいよ。訊きたいわけじゃない」
ウィッツオも笑った。
すこし間を置いて、二人は同時に声を上げて泣いた。
「あなたの名前は?」
「フィオン。僕は十五だ。焼け出されてからしばらく…二か月前までは家族で放浪してた。難民ってやつだ、そして…」
今度はウィッツオが話を遮った。
「ええ、それ以上はいいのよ」
ウィッツオは大きくため息をついた。
「学生やってた頃の私の専攻は植物。特に作物や農業を勉強してたの。世界が荒廃して争いが絶えなくなったのは皆貧しいからだ、って思ったの。だからわたしが勉強していい作物を作って、もっと食料が行き渡れば…って」
「そうなんだ…僕は薬師になりたかったんだ。人助けをしたいって思ってね。戦争のおかげで怪我や病に苦しんでる大勢のひとを見たから」
「あら、顔に似合わず立派な志ね」
ニッコリ笑うウィッツオ。
フィオンは少し口を尖らせた。
「顔に似合わず、は余計です」
「あ、ああごめんなさい。ふふ、でもね、ちょっと偶然だなって」
「偶然?」
ウィッツオは優しげな表情を見せた。
「あたしは今、この監獄の中で病人や怪我人を世話する仕事をしてるの。北棟の三番房にある医務室で」
「すごいじゃないか、皆を助ける仕事だ」
「人手不足の仕事を手伝わされてるだけよ。本来はマブラスの妾、ただあの男の欲望を満たすための玩具に過ぎない」
咳き込むように涙を流す。
「もう、死んでしまいたい…」
フィオンはウィッツオの肩に手を置いた。
「そんなこと言わないで」
ウィッツオはその手を掴み、フィオンにもたれかかるように身を委ねた。
「諦めるクセがついちゃったのかのかな、私。昔は夢を見てた。ここから逃げ出そう、なんて」
「夢とは限らないさ。いつかここから逃げ出せる日が来るかもしれない、そう信じようよ」
ウォッツオは首を横に振る
「無理よ。警備がどれだけ厳しいか知らないでしょ。今まで千年以上、ここから逃げ出せた者はいないのよ」
「いや、君を見てたら何でも出来るような気がするよ」
ニッコリ笑うフィオン。ウィッツオも微笑みを返した。
「嬉しいこと言うのね、ウソでも少し心が楽になった…ええ、そうね。あなたが逃げる時には私も連れて行ってちょうだい」
「もちろんだ。約束する」
「約束ね」
二人は身体を寄せ合っていた。誰かに強いられたわけではない、互いの意志で。自分たちは奴隷でもモノでもない、そう言わんばかりに
「チッ。虫けらどもが慰め合い、か」
食事を終えて戻ってきた衛兵たちは二人に唾を吐きかけ、まるで家畜を扱うように立ち上がらせた。
「さあ、部屋に戻れブタども。就眠時間だ」
ウィッツオが別れを惜しむように手を伸ばした。強く握ったその手は柔らかく、温かかった。
つづく




